08/04/23 17:04:17
>>473 言っている事が解らない。と言うよりはむしろ>>471言い切っているけど、、。
何で>>473のレスを書き出したのか? 、、、まぁいいや、、、。、、あぁ、そうか、、。
現実的に自由を制限し落ち着きによって
運命の意識を整理して本当の意味での育成により回復を図る現実と分別と配慮の共同の営みだからである。
(つまり、正規の運命から逸れた悪を意味するが、融通によって必要とされる範囲での悪。)
ゆきず待ったときは、人間誰しも立ち止まって先ず落ち着くところからはじめるし、純粋に一から
出発するのがもっとも純粋に進歩の成果を意識しやすいと言える。
このために必要な範囲での医療施設や福祉が整っている環境の社会体制の融通までは許されると言ってよい。
精神医療行為における治療の状況は現実の営みであり運命の営みであってはならない。運命の限界に病気と障害が
由来する以上は、、。
回復後の復帰の時点で本来の運命の営みがはじめて起こりうると言う問題であり、治療と通常の運命の営み混同してはならない。
治療は危機状態あるいは病気、破綻の運命の営みである、又は障害の運命の営み。
復帰は、通常の運命の営みの出発と考えるべきであると判断される。
しかし、人間の全体(=集合)の運命そのものとして精神医療そのものが押し通される事がありえてはらないと言わなければならない。
治療を必要とする個人全体の運命に精神医療が現実に介入することになる事があっても
人間の全体の運命そのものが精神医療の社会全体への介入に左右されるようなことがあってはならない問題であり、
人間の全体の運命が精神医療の制約を求めると言う事態は例外的危機状態の集合的境遇と言う自覚のもとに
初めて成立しうると言う事を弁えなければならない。