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レヴィジオンⅢの批判的考察①行為概念の学説史的意義
>定型説からは、規範論としての定型の中で、つまり構成要件論の中で行為を扱うということで、あまり行為の存在構造ちいうことを云われなかったのです。
・それまで規範論であった福田が目的的行為論に乗り換えた事実を無視している。
・団藤が「目的的行為論は、従来の客体的ともいうべき自然主義的行為理論に対して、主体的な行為理論をの樹立を意図している点で、わたくしと
志向をおなじくするものといえよう」と積極的に評価している点を無視している。(もっとも、団藤は目的的行為論は「行為論としては成功していない」とするが)
>ヴェルツェルは「過失は現実的目的性を持っていないので、目的的行為ではないという説明をするわけです。そして戦後、弟子のニーゼに
わざとさせた(自分が急に言うのは奇妙ですから)と思うのですが、これは存在論ではないという批判をさせるのですね。潜在性などという
ものは現実にはないものだから、そんなことを持ち出せば存在論とは矛盾するではないかと言わせたわけです。
・「弟子のニーゼにわざとさせた」という部分は歴史的事実に反する。
>Tatというのは当然犯罪結果を含んでいますので、ヘーゲル学派の行為概念は
責任能力者しか行為はできないというテーゼはなんとなく主観主義的にみえる
のですが、結果も明らかに含んでいるのです。
・TatもHandlunguもVerhaltenも英語でいえばactであり、ドイツの学者も厳密
に使い分けているわけではない。
>井田は、おそらく正犯概念のところでは統一的正犯ということを言うと思いますが・・・
・井田は一言もそんなことは言っていない。井田は、行為支配説である。
ただ、「日本の実務は、機能的には統一的正犯概念をとっていると評価される」と述べるだけ。
>社会的行為論の末裔が客観的帰属論です。
・説明不足。