09/04/22 21:40:28
>>246
「妃」が確実にあった最後は嵯峨天皇のとき。当時、妃は皇后に次ぐ高い地位だった。
一方、「女御」が最初にはじまったのは桓武朝だが、当時、位は大層低かった。
源氏物語で扱うように、女御が大臣など高貴な家柄の姫から選ばれるようになったのは妃が廃絶した後の時代。
それに、藤壺が立后するとき、東宮母である弘き殿女御が心外なことだと思ったとあり、
藤壺立后後の紅葉賀で藤壺が弘き殿の上位に座ることを弘き殿が心苦しく思うというシーンがあるから、
藤壺立后以前は藤壺と弘き殿の間に上下関係はなかった、むしろ、
東宮を産んでいる弘き殿のほうが格上であったとみられることなどから、
(桐壷帝は、東宮が即位すればあなたは中宮よりも格上の皇太后になられるのだから、
と弘き殿をなぐさめている)
藤壺が女御よりも明らかに格上である妃であった可能性はないと思われる。
史実でも尊子内親王も冷泉天皇の皇女でありながら
関白頼忠の息女女御藤原遵子に中宮の座を奪われてしまっており、
こちらも尊子内親王が妃であった可能性は低い。