08/10/25 23:13:18
▼「特定の種類の虚構作品に接触している者は総体的外見が気持ち悪い」は、「総体的外見が気持ち悪くない者は特定の種類の虚構作品に接触していない」と言い換えることができる。
(気持ち悪いかどうかの判断を最大多数派の間主観に委ねるとしても、1人でも「総体的外見が気持ち悪くなく、かつ特定の種類の虚構作品に接触している者がいれ」ば反証されたことになる。)
<!--最終的論争点は「気持ち悪い」という判断がいかにして正しくなるかということである。(認識論と存在論の両方にかかわる問題)-->
▲「総体的外見が気持ち悪い者は特定の種類の虚構作品に接触する」は、「特定の種類の虚構作品に接触しない者は総体的外見が気持ち悪くない」と言い換えることができる。
(気持ち悪いかどうかの判断を最大多数派の間主観に委ねるとしても、1人でも「特定の種類の虚構作品に接触しておらず、かつ総体的外見が気持ち悪い者がいれ」ば反証されたことになる。)
○↑で総体的外見云々の部分をコミュニケーション能力云々に置き換えても同じことが言える。
●「(外見的特徴による)オタクは相手に優れた容姿であることを要求する傾向にあるが、これは自らの容姿を否定することに憤ることと矛盾している」という指摘に対して(1):
オタクの外見に対する攻撃は社会的脈絡において「も」なされているのに対し、オタクが相手に優れた容姿を要求するのは性的脈絡においてである。
(ここではまた、容姿の判断規準を共有していない可能性があることも指摘しておく。これについては、<2次元の絵>や<フィギュア⊂「2次元的」物体>を選好する点を想起せよ。)
●「(外見的特徴による)オタクは相手に優れた容姿であることを要求する傾向にあるが、これは自らの容姿を否定することに憤ることと矛盾している」という指摘に対して(2):
オタクによる性的脈絡における容姿判断に付随する否定が弱い否定である(1つ上の記述からも分かるように、オタクの外見に対して攻撃している者もまた、性的脈絡において対象を「選択しない」という弱い否定を行っている)のに対し、
オタクの外見に対する攻撃は強い否定である。