09/01/05 14:17:13 m129Tpfi0
>>572
勘次がついて居(ゐ)る間に(娘の)おつぎは枯粗朶(かれそだ)を折つて火鉢(ひばち)へ火を起した。
勘次は火箸(ひばし)を渡して鰯(いわし)を三つばかり乘せた。
鰯の油がぢりぢりと垂(た)れて青い焔(ほのほ)が立つた。鰯の臭(にほひ)が薄い煙と共に室内に滿ちた。
さうしてその臭が(女房の)お品(しな)の食慾を促した。
お品は俯伏(うつぶ)したなりで煙臭(けぶりくさ)くなつた鰯を喰(た)べた。
「どうした鹽辛(しよつぱ)かあ有(あ)んめえ」
「有繋(まさか)佳味(うめ)えな」
「此(これ)でもこゝらの商人(あきんど)は持つちや來(き)ねえぞ」 勘次は一心(いつしん)に見ながらいつた。
お品は二匹へ手をつけて箸を置きながら懷(ふところ)で眠つて居る(息子の)與吉(よきち)を覗(のぞ)いて
「起きて居たら大騷(おほさわ)ぎだんべ」 といつた。
「いまつとたべろな」勘次はいつた。
「澤山(たくさん)だよ、おつうげもやつてくろうな」
「俺(おれ)も飯(めし)でも食はうかえ」 勘次は風呂敷包(ふろしきづゝみ)から辨當(べんたう)の殘(のこり)を出して
冷たい儘(まゝ)ぷすぷすと噛(かぢ)つた。
「おうつ、お茶は冷めたくなつたつけかな」 お品はいつた。
「要(えら)ねえぞ仕事に出りや毎日(まえんち)かうだ」 勘次は梅干を少しづゝ嘗(な)め減らした。
辨當が盡(つ)きてから勘次は鰯をおつぎへ挾(はさ)んでやつた。さうして自分でも一口たべた。
「此りや佳味(うめ)えこたあ佳味えが餘(あんま)りあまくつて俺がにや胸が惡くなるやうだな」
勘次は冷めた湯を幾杯か傾(かたぶ)けた。
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