09/01/05 14:10:41 m129Tpfi0
>>569
男は、歪んだ本箱のやうな棚から、黄いろくべとついた新聞包みを出して鮭の切身を出すと、やかんをおろして鉄棒の渡しへ乗せた。
香ばしい匂ひがした。
「さア、その腰掛へかけて、ゆつくり弁当をつかつたらどうだね……」
りよは立つて、リュックから弁当箱の風呂敷包みを出して、腰をかけた。
「何の商売も楽ぢやアねえな、静岡の茶つて云ふのは、百匁いくら位するンだい?」
男は手で鮭をひつくり返した。
「売りは百二三十円つてとこなンですけど、屑も出ますし、高くしちやア仲々売れませンしね……」
「さうさなア、年寄りでもゐる家なら買ふだらうが、若いもンの家ぢやあ、仲々骨だらう」
りよは弁当を開いた。まつくろい麦飯に、頬差しの焼いたのが二尾と、味噌漬がはいつてゐる。
「何かえ、お前さんの家はどこだえ?」
「下谷の稲荷町なンですけどね、まだ東京へ来ましたばかりで、西も東も判らないンです」
「ほう、間借りでもしてるンかい?」
「いゝえ、一寸、身をよせてるところなンです……」
男は汚れた毛糸の袋から、大きいアルマイトの弁当箱を出して蓋をとつた。薯飯がぎしつと押しつぶれる程詰めこんであつた。
蓋の上に、焼けた鮭を手でつかんで入れると、またやかんをかけて、小さい木裂(こつぱ)を七輪につつこんだ。
りよは、弁当の食べさしを腰掛に置いて、リュックから商売物の茶袋を引き出して、鼻紙に少し取りわけると、
「これ、やかんに入れてかまひませんか?」
と、尋ねた。男は恐縮したやうに手を振つて、
「高いものをいゝのかね」
と、にこつと笑つた。大きい皓い歯が若々しく見えた。りよはやかんの蓋をつまみあげて、茶をさつと湯気の中へ放つた。
URLリンク(www.aozora.gr.jp)