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新聞雑誌でアニメ・漫画特集が載ったら集まるスレ - 暇つぶし2ch86:名無しさん名無しさん
09/04/30 20:06:37
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読売新聞 2009年4月29日(水)朝刊
【マンガ50年】「王者」の伝説(2) 怒れる編集長 「弱小」返上 (>>83の続き)

 「王者(チャンピオン)」の名前を掲げながら、「週刊少年チャンピオン」は1969年の創刊当時、少年マンガ誌の中で圧倒的に“弱者”だった。
 「週刊少年サンデー」の小学館、「週刊少年マガジン」の講談社に比べ、出版元の秋田書店はマンガ専門の弱小出版社。
「サンデー」8代目編集長の井上敬三(73)は、
「うちや講談社のような大手の雑誌には、科学やスポーツの読み物もあったが、秋田さんの誌面はほとんどマンガ。完全に見下していた」と語る。
 だが、井上が「サンデー」編集長になって4か月後の72年4月、「チャンピオン」2代目編集長に、「まんが王」編集長だった38歳の壁村耐三が就任する。
当時の部数39万部を、6年後には250万部以上にまで押し上げた“伝説”の編集者だ。
 岡山県出身。秋田書店創業者と同郷のよしみで入社、トイレ掃除から雑用まで何でもこなし、エリート育ちとは対極にあった壁村は、思い切った策を連発した。
 まず、ほとんどの連載を1話完結・読み切り形式にした。副編集長として壁村に仕えた神永悦也編集局長(65)が言う。
「いつ、どこから読んでも楽しめるスピード感で、読者をグッと引きつけた。画期的でした」
 次に壁村がもくろんだのは、巨匠・手塚治虫の“再生”だった。70年代前半の手塚は自身のアニメ会社・虫プロの倒産で多大な借金を背負った上、
マンガ家としても時代から取り残されつつあった。
「原稿料が高いわりに人気が出ない」と、雑誌の連載もほとんどなく、ヒーローものテレビ企画にも手を出していた。
 壁村は手塚から、「医者が主人公のマンガを描きたい」と持ちかけられた。
当時、手塚のマネジャーだった松谷孝征・手塚プロ社長(64)は
「医者が主人公の少年マンガなんて当時はなく、人気の面で不安はあった」という。だが壁村は、「面白い」と決断した。(後略)
(敬称略、つづく)(市原尚士)

紙面画像 URLリンク(gedo.newsplus.jp)


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