09/07/14 11:26:43
■百済の現実
民族は高句麗の遺民集團が支配階級を形成し夫余系統でありその後の歴史の過程で、
日本(倭)人との婚姻も繰り返された。
中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、
並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。
(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。
さらに、広開土王碑でも倭について、百済■■新羅を破り以って臣民と為す
(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があり
百済が辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっており
主従関係が存在しており、
倭の重臣と百済との間で家臣上下に関わる席順の取り合いのエピソードも残されている。
また王族については。百済の王族は倭によってその婚姻が決められており
中国ーツングース系と倭人との混血が繰り返された。基本的に百済王の后が倭人の中から選ばれ、
その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として扱った。
【歴史】 好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致・・・
旧陸軍が改変したとする説が成立しないことが確定的 [04/14]
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>>好太王碑には、「391年以来、倭が海を渡って、百済や新羅を破り、臣民とした」とする記述がある。