09/01/25 22:30:39 0
もともと被害者が現れることで、国全体が厳罰化したというような話は他ではあまり聞き
ません。欧米は、もともと厳しかったというのもあるのかもしれませんが、関係修復的司
法などと称して、むしろ関係が修復されたのだから刑は軽くしてくれ、というようなコン
テクストの方で出てくるのではないでしょうか(?)。新自由主義の影響での厳罰化を食い
止めるような理論でもあったはずなのです。しかし、この国ではそうではなく、新自由主
義的なものの台頭もあったのかもしれませんが、00年代、被害者のために急速に厳罰化し
たということになる。
被害者参加についていえば、無罪主張がしにくくなるというようなことは予測されるでし
ょう。反省の成功・失敗(!)によって、量刑が左右されるとなると、全く反省なしとい
うことではまずいことになる。無罪型では、被告の反省(やってませんが、反省します)
というのはいいにくいだろうけど、有罪型では、反省ゲームみたいになってしまう。一方
はいいたいようにいい、他方はひたすらかしこまるという…。ほとんど時代劇。これでは、
ファシズムから別の形のファシズムに移行したに過ぎない。しかし、時代劇なんかでも、
紋所が出てきても、それで引くということは決してなく、結局チャンバラになるわけで、
実際には、反省とはそういうもの。紋所というは建前で、本音ではない。
良いようにいうことも、できなくはないかもしれない。対話によって、反省が進み、社会
復帰の理解が得られるとか(…)。しかし、日本の刑事司法に、対話という言葉ほど縁遠い
ものはないわけで、録音すると刑事との対話が損なわれるなどというのは、ナンセンスで
あろう。対話と圧力というような言い方が空虚なのは、圧力以前の対話がないからである。
社会復帰といっても、反省のために刑務所暮らしをしたところで、受け入れ先などないわ
けであって。うまく行く例があったとしても、内在的にはファッショを抱えている以上、
支持するわけにはいかない。
それにしても、反省って一体、なんなんでしょうね。
監視と処罰では、パノプティコンが出てきても、別の内面をインストールするというのは、
もはや出来ず、非行者という別のカテゴリーのものとして、監獄を中心とする世界におい
て、彼らが機能していくさまが描かれているわけですが。