07/03/04 02:14:49 bCLoHUwM
この映画を見て思ったことは幾つかある。
宮崎高畑コンビが兼ねてから主張してきた自然に対する恐れというか
崇拝概念というか、それを元にする自然と文明の対比。
勿論そのメッセージは狸たちの行動や主張、自然に対する描き方からも
明らかではある。
ただそれだけではないメタファーのようなものを、この映画から感じ取ったのは
物語が終盤に入って「キツネと狸の化かし合い」から、狸たちが都会で
行動し始めてからのことだった。
そのメタファーのようなものというのは、要するに単純にいって都市文化に対する農村文化
であり、あるいは都市に対する地方であり、また農村及び地方からの人々が、実は東京
という産業、経済、文化、政治における日本の中枢を担う大都会を構成するひとびとだ
ったのだ、という皮肉めいた高畑のメッセージではなかったのか。
言うまでもなく狸は農民の、あるいは地方の人々を擬した存在であり、物語中の
大都会東京は、現実に我々の世界に存在する東京その都市に他ならない。
そして大都会で生活する「人間たち」は、まるで狸たちとは異なる生命体であるか
のように仕事に、日々に追われている。勿論、「人間」とは、地方の人々から見た
「東京人」を擬した存在である筈だ。
狸たちは、物語の終盤で、ついには地方を捨て、都市で生活することを決意する。
キツネたちは既に都市文化に馴染んでおり、彼等は彼等の理屈で、都市で生き抜く
すべを心得た。併し狸たちは、重要なことを知っていた。
「変身できない狸はどうするんですか?」
狸の全てが、変身出来るわけではない。変身できない狸が都市の「人間達」の間で
生活していくことが出来るのか。恐らく適応出来ずに死んでいく、その道しかあるまい。
変身できる狸にしても、物語中で示されたようにのように、「何時変身がとけるか解らない」。
都会には、多くのひとびとがいて、彼等は彼等なりのルーツや理由があって、そこで働いている。
多くの人々が、毎日定形化された、規定化された生活を送っている。併し、そのなかの多くは
実はもともとは、狸であった筈だ。そもそも変身していることすら忘れてしまった多くの狸たちが
そこにいるのではないか。
そういった都市に住み着いた狸たちへの皮肉-「疲れたら、故郷に帰っても良いんだよ」という応援も込めて-
それが高畑が、実は描いていた、意図していたこの物語の意味ではなかっただろうか。