15/02/18 08:28:53.77 k3sC4R790
>>1
目的地は明だよ。当時は「唐入り(からいり)」つまり「明制圧計画」と呼ばれていて、朝鮮は通過地点の扱い。
事実、朝鮮に中立と道の提供を要求したが、朝鮮側が撥ね付けてきている。
さて、日本征服を諦めたスペインと、北方騎馬民族(かつての金、後の清)が明をうかがいはじめた当時の国際情勢を秀吉ら日本の首脳陣も知っていた。
そうはさせじと、弱体化し始めた明に先んじて入ろうとしたのが「唐入り」の大きな流れだ。
秀吉政権は軍事で国を統一した英雄タイプのトップ。
チンギスハンやナポレオンやアレキサンダー大王などと同じで、国内を維持するために新しい外征先が必要だという世界史の法則に従っている。
古今東西、世界史の常識で見れば特に疑問も起きない行動だよ、大枠はね。
信長が生きていたら、明ではなく、恐らく東南アジアに展開したのではないか?
(信長死後、九州の大名らが東南アジアのスペイン占領地を攻めとる計画を立て実行直前までいった時代だ)
ちなみに、スペインが中国を狙って以降、イギリスのアヘン戦争はもちろんのこと、
アメリカが自分にだけ都合の良い三原則押し付けながらしゃしゃり出てくる→第2次世界大戦まで、
世界史は各国の「唐入り」をめぐるうねりが大きな潮流となり、日本人もその荒波からは自由ではありえず、悲劇を迎えるわけだ。
秀吉の唐入りから現代にいたる世界史は、わかりやすすぎるほど繋がっているのだが、なぜか日教組がわかりにくくしているね。