07/07/29 03:42:57 FeUc6gbB
>>260
>今では地獄以上の苦しみの果てにコンクリート詰めされて意に反して殺されて
しまったり,ある日突然交通事故や脳幹出血で死んでしまうことが日常化
している現実がある以上,そうしたことで人の認識がそんなに劇的に変わる
と考えること自体あまりに牧歌的だ。
すごいな。そんな凄い事件が君の中では日常化してるんだね。コンクリート詰めみたいなやつが。
確かに、ニュースで聞くような話ではある。
が、ほとんどの人は自分のこととして捉えてない。
身内や身近な人がそういう死に方をすることが「一般化」してることなど、断じてない。
そう考えると、多くの人には少なくとも「日常化」してるとは言えないはずだと思うのだが。
君は上記のような凄惨で壮絶な死を身近で、しかも、珍しいとは思わなくなるほどしょっちゅう経験しているということなのかな?
また、死に方の残虐度と、人生への認識を変えることとの間にそんなに関係あるのかな?
残虐な殺され方をすることを宣告されたら、胃癌で死ぬことを宣告される場合よりも、
より劇的に人生への認識が変わるというのかな?分からないな。
「残虐なことをされることへの恐怖」は、胃癌よりも恐怖を感じるかもしれない。
でもそれはあくまで「恐怖」であって、今までの人生云々とはちょっと方向が違う気がする。
どんな死でも、死は死。誰のでもない、自分の死なわけで。
自分の死と向かい合うときには、当然、自分の人生と向かい合うことになる。
「これまでの人生」を思うとき、死に方の残虐性云々が関係あるのか?
「ある日突然交通事故や脳幹出血で死んでしまうこと」は確かに日常化してると思うが、
突然死のことをここで例に出す意図が全く分からない。
「死を宣告された男が、その後どう生きていくのか」を話の筋にしたわけで、
突然死云々は完全に筋違いというか…。
突然死に事前の宣告はあり得ないし、
「人生への認識の劇的な変化」を話題にしているときに、突然死のことを入れられても意味がないというか、
何故?って感じがする。
そもそも突然死することを日々考えながら、みんな生きているのかな?
可能性を感じたり考えることがあったり、
テレビの健康番組を見て自分の食生活なんかを省みることはあるにせよ。