06/11/30 19:01:45 oBWkTg5j
「なぁ、金くれよ」鏡の前で支度をしているあたしに、和哉がお金をせびってきた。
「先週も渡したよ」あたしは鏡に映った和哉に向かってぶっきらぼうに言った。
「俺も色々と物入りなんだよね。頼むよ、少しでいいからさ」媚びた口調が癇に障る。
「ヤだね!自分は一円も稼がないくせに!」今度は向き直ってきっぱり言った。
「そんなに怒ることはねーだろ、じゃあちょっとだけ借りるってことで」
相変わらずニヤついてる和哉に、あたしは声を荒げた。
「しつこいよ、やれだの貸せだの!ダメなものは―」
「わかったよ!畜生!」
和哉は最後まで聞かず、乱暴にドアを閉めて部屋から出て行った。
あたしはため息をついた。いつからあんなになっちゃったんだろ。前はとても
優しかったのに…。
三年勤めた会社を辞めた後、和哉は次から次と転職しては一、二週間ほどで辞めてくる。
そして「俺はこんなチマチマした仕事じゃなく、もっとデカイことをやるんだ。
今は充電中だ」と、仕事を探すのさえやめた。近頃は喧嘩も絶えないし、いっそのこと…。
時計は五時を過ぎていた。もう仕事に行かなきゃ。あたしはタクシーを呼んだ。
車窓に映る街並みをぼうっと見ながら、頭はまだ和哉のことを考えていた。
いけない…、こんなことじゃお客さんを満足させられない。あたしは日課の舌先を動かす
練習で気を紛らせた。運転手がミラー越しにちらちら見ていた。
楽屋に弟子のとん太が入ってきた。
「師匠、そろそろ出番です。今日も勉強させてもらいます」
「うむ。…とん太、お前は親御さんを大切にしろよ」
とん太はきょとんとした顔で、「はぁ…」とだけ言った。
「ったく、あんなどら息子、いっそのこと勘当しちまいたいね」
繰り言はここまで。今は芸に集中だ。あたしはそう踏ん切りをつけると、しゃんと
立ち上がり出囃子の鳴る高座へと向かった。今日の演目は、あたしの十八番『子別れ』だ。