09/06/29 19:15:06
>>3
隊長に勧めたのは革張りが所々剥げている簡素な椅子だった。
次に用意したのはとり合えず温度だけはある味気のないお茶。
俺は貧乏を恥じる気はない。無意味な笑顔も作らない主義だ。
だが俺の精一杯の持て成しに、
涙の痕の残る顔を笑顔で綻ばせる無防備な隊長を見ていると
どうしてか胸が締め付けられ心が揺れてしまう。
隊長は自分のそう言う魅力に丸っきり気が付いてない。
鈍感な女っていうのは厄介なもんだぜ全く。
機会があったらいつか言ってやろう。
機会がなければ一生口に出すことはないだろうが。
俺の心の動揺を知ってか知らずか
隊長はいつもの調子を取り戻したかのように急に饒舌になった。
女とは不思議な生きものだと思う。
「こんな夜更けにおしかけてすまない」
(おしかけ?…おしかけだと?…家出ではないのか?)
「い、いや別に。何か事情があるんだろ。
話す気になるまで保留にしてやってもいいが、誘拐犯にされるのだけはご免だからな」
血相を変えた伯爵家の従者たちが凄い剣幕で今にもここに飛び込んでくる悪夢が一瞬俺を襲った。
身震いする俺に隊長は上官顔で諭す。
「それはないから安心しろ」
俺の安堵の溜息を見守る隊長の蒼い瞳にはそこはかとない憂いが宿っていて
やはり何か複雑な事情が隠れていることを匂わせている。
「で、いつまでだ?
居候は構わないが、俺の家にはメイドもいなければ有能な執事も黒い髪の色男も…」
そう言い掛けて言葉を噤んだ。
隊長の顔色が見る見る変わっていったからだ。
俺は皮肉ったことを激しく後悔した。
彼女の傍にアンドレがいない。
そのことだけでも何か重大な出来事が身に起きたこと察するのは容易なことだ。
「悪かった」
迂闊さにひと言だけ侘びを入れると同時に俺は自分自身に誓いを立てた。
今は何も聞くまい。質すまい。
おしかけて来た麗人に不快な思いは与えたくない。
しかし、万が一、何かが起こって上官と部下の垣根が取り払われるようなことが起こったら
そのときはどうなるんだ?
俺は男だぞ?
いくら強いと言ってもこの人はやはり考えの甘い貴族のお嬢様なのだろうか。
そのときだった。
隊長からするいい香りが窓から流れ込む夜風に乗って俺の鼻腔に届けられた。
心は俺たちに近いのに、やはり高貴な生まれの人なのだとその香りは物語っている。
それは甘く危険な香りのように俺の本能を刺激した。