ニホン人の起源はat WHIS
ニホン人の起源は - 暇つぶし2ch1:世界@名無史さん
21/06/23 21:41:49.96 0.net
ニホンダラス

17:世界@名無史さん
23/01/31 01:38:14.09 0.net
一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できる。
「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、 
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、 
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」
このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されている。
従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのである。
日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はない。
よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説のある学説に値する。
筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土している。
潤地頭給遺跡、唐津中原遺跡、東小田峯遺跡の硯(BC100)
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊レキ 延光四年五」(125年)、 
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数(1~2世紀)
これらの客観的歴史事実を鑑みれば、いかに半島起源説が民族願望に根ざした愚説であるかが充分に理解できるはずだ。

18:世界@名無史さん
23/01/31 01:39:18.42 0.net
千葉の恥!反日ガイジの千葉ザイヌ↓
   彡川川川三三三ミ~  プウゥ~ン
   川|川/  \|~ ポワ~ン    ________
  ∥|∥ ◎---◎|~        /
  川川∥    3  ヽ~      < 日本はムムンコリアン
  川川   ∴)д(∴)~       \________
  川川      ~ /~ カタカタカタ
  川川∥    ~ /∥ _____
 川川川川___/∥  |  | ̄ ̄\ \
   /       \__|  |    | ̄ ̄|
  /  \安倍命_     |  |    |__|
  | \      |つ   |__|__/ /
  / 倭ベンキ氏ね | ̄ ̄ ̄ ̄|  〔 ̄ ̄〕

19:世界@名無史さん
23/01/31 01:44:05.24 0.net
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓 六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は漢城を強奪、百済の蓋鹵を殺害。 百済一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の兵5百人を付けて帰国させ「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺され、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に献上し、倭は北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮はこの地名由来)。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、取りつき難いものですが、真の悟りを導くものです。 今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、斉明天皇は豊璋に5千の兵と軍船170艘を「添わせ」帰国させるも、百済二度目の滅亡。
以後、百済王族唯一の生き残りである善光は百済コニキシとして「孕み腹(喘ぐTENGA)」の提供に従事し続けた。


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