春秋戦国時代 4at WHIS
春秋戦国時代 4 - 暇つぶし2ch2:世界@名無史さん
21/01/31 11:18:32.10 0.net
春秋時代における、中原情勢推移の一例
B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年  鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月 鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月 衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月 �が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年   宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋 宋が長葛を占領
B.C.716年7月 宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春  斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月 宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。
↑こんな調子で、延々と何百年もつづく。
フクザツすぎて、頭に入るわけがない。
近代ヨーロッパのほうが、まだマシだ。

3:世界@名無史さん
21/01/31 11:38:41.76 0.net
春秋時代のまとめ
紀元前1046年、商王朝を滅ぼした周王朝は、王族や功臣に土地を与えて自治や世襲を許可する「封建制」を採用しました(西周)。
紀元前771年に異民族の侵略によって第12代・幽王(ゆうおう)が殺害され、西周はいったん滅びます。
しかし翌年、鄭の武公を中心とする有力諸侯によって新たに擁立された平王(へいおう)が洛邑に遷都し、周王朝を再興しました(東周)。
やがて諸侯は、王朝を補佐する「覇者」と呼ばれる立場を争い、各地で戦争を起こすようになりました。
当初は鄭を初めとする河南省の都市国家による争いでしたが、やがて東西南北の各地に大国が台頭します。
「春秋の五覇」と呼ばれる斉の桓公(かんこう)、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭(こうりょ)、越王勾践(えつおうこうせん)です。
紀元前546年、宋国の仲介で北の大国・晋と南の大国・楚が休戦協定を結ぶことで、一時平和が訪れました。
紀元前453年、大国・晋が韓・魏・趙の3国に分裂して、春秋時代は終わりました。

4:世界@名無史さん
21/01/31 11:47:10.08 0.net
戦国時代の概要
戦国時代になると、かつてのように「覇者」が中心となって周王朝を支えるといったことはもはやなくなり、
戦乱で勝ち残った「戦国七雄」と呼ばれる「秦、燕、斉、楚、趙、魏、韓」がそれぞれ「王」を称して天下を争うようになりました。
当初は河南省の魏が主導的な立場にいましたが、やがて西の秦、南の楚、東の斉といった超大国が台頭しました。
紀元前247年、始皇帝と呼ばれることになる�政(えいせい)が王に即位すると、秦はついに統一に向けて動き出します。
紀元前221年、最後に残っていた斉を滅ぼし、諸侯はすべて秦の元に統一、ここに長く続いた分裂の時代は終焉を迎えました。

5:世界@名無史さん
21/01/31 11:48:24.34 0.net
>>3-4 はコピペに見えるけど、スレ立て人による「まとめ」ですので(笑)

6:世界@名無史さん
21/01/31 14:48:00.10 0.net
楚は中原に勢力を拡張し、その文物を積極的に受け入れようとしたが、
周室を推戴しようという考えはまったくもたなかった

7:世界@名無史さん
21/01/31 23:06:26.79 0.net
>>4
衛「始皇帝が全て統一?」

8:世界@名無史さん
21/02/01 15:25:00.75 0.net
まあ、始皇帝が即位した時点でほぼ勝負はついてたわな
コピペした文を加工したものだが、改良の余地がまだまだある

9:田単
21/02/03 08:13:53.63 0.net
>>1乙です
そういや宮城谷氏がまたこの時代で小説書いてますね
今、この時代をテーマに描く人はこの人しかいませんねえ
北方氏には書いて欲しくないですしw

10:世界@名無史さん
21/02/03 09:41:53.88 0.net
「キングダム」の漫画が大ヒットしたが、小説にブームは及んでないか

11:世界@名無史さん
21/02/03 14:37:18.21 0.net
春秋戦国時代、水利灌漑施設も発展したが、諸侯の国の間に築かれた堤防はみな、
自国に水害が及ばないようにするためのものだったから、洪水はしばしば隣国に
流れ込んで大災害をもたらした
そのために、治水事業の統一管理の必要が痛感されていた
やはり中国はいつかは統一される運命にあったのだと思う

12:世界@名無史さん
21/02/03 14:51:03.44 0.net
漢代ともなれば、食生活に塩は書かせないし、鉄製農具なしでは農耕生活も考えられない
全国的な商業ネットワークが必要だった
匈奴の脅威に対抗するためにも、中原諸国同士で争ってる場合じゃなかった

13:世界@名無史さん
21/02/03 14:51:44.80 0.net
やはり、それだけ必要になったから統一の機運が高まるわけで

14:世界@名無史さん
21/02/03 17:27:22.31 0.net
>>12
中国みたいな広大な大陸国家では、塩は嗜好品じゃなくて必需品では?
普段から肉食ってる貴族はともかく、植物食メインの庶民は塩食わないと死ぬぞ

15:世界@名無史さん
21/02/03 18:08:49.24 0.net
各地域の経済は互いに依存しあう度合いが強まっていた
ところが各国の都市が用いる貨幣は非常に複雑であり、
各国の度量衡もそれぞれ違っていた
また各国は国境に関所を設け、出入国する商人に税をかけて抑制していた
やっぱり統一したほうが効率がいいよな

16:世界@名無史さん
21/02/03 18:27:02.63 0.net
大商人の李斯が邯鄲で秦の王子の1人をバックアップして秦王につけたことが統一のきっかけとも言えるんだよな
(その王の子が後の始皇帝)

17:世界@名無史さん
21/02/03 18:32:59.11 0.net
中国の庶民食といえば腊肉(塩漬け豚肉)
これを作るのには大量の塩が必要でありそれゆえ塩は漢武帝の頃から国家の専売とされた
稲作だけ伝わった日本が特殊なだけで中国韓国や東南アジアでは稲作と養豚はほぼツーセットで広まっている

18:世界@名無史さん
21/02/03 18:57:19.53 0.net
李斯ではなく呂不韋だね

19:世界@名無史さん
21/02/03 18:59:28.65 0.net
桑原隲蔵の『中国人間に於ける食人肉の風習』を読むと子路はやっぱりただの文の表現ではなく実際に食べられたんだろうね悲しい

20:世界@名無史さん
21/02/03 19:17:31.40 0.net
>>18
すまん、今気づいて訂正に来たわ
その前にすでに指摘されてた

21:世界@名無史さん
21/02/03 22:20:51.33 0.net
中国の国土は広大だが、塩の産地は沿海部といくつかの内陸地に限られている
このため歴代の王朝は、塩の生産と販売を統制して、生産費の何十倍もの価格で
人民に売りつけ、それを重要な財政基盤としていた

22:世界@名無史さん
21/02/04 06:13:21.68 0.net
>>19
孔子は肉くえなくなったほどだからね
有名どころでは彭越が劉邦に塩漬け肉にされ、諸侯にふるまわれた
彭越は人を見る目がないわ
呂雉を頼るとは
子路にしろ、自らの言葉が災いをもたらした

23:世界@名無史さん
21/02/04 06:48:31.68 0.net
商とか周の時代の人は、どうやって塩分を補給してたんだろうな
まあ、「商の都から来る人が、商人の語源になりました」っていうくらいだから、商王朝も塩の流通ネットワークの中心にいたんだろうけどな
中国が本当の意味でバラバラになりにくい大きな要因の1つだろう

24:世界@名無史さん
21/02/04 06:55:18.71 0.net
漢代になると、塩に加えて鉄が必需品に加わった
乾燥化が進む硬い黄土高原の大地で農耕を続けていくには、鉄製農具が不可欠だった

25:世界@名無史さん
21/02/04 09:07:10.11 0.net
山西省南部には太古から有名な塩池があるが、戦国時代に倚頓という男がここで
製塩業を営んで巨万の富を築いた
また趙の都、邯鄲の郭縦という男は、当時のトップ産業である製鉄業を始めたところ、
大当たりに当たってたちまち王者に等しい財産を築いたという
おそらく農具を大量に鋳造したのだろう

26:世界@名無史さん
21/02/04 12:13:56.10 0.net
>>24
鉄の普及が始まったのは戦国時代初頭か春秋時代末だろ
戦国時代後半ぐらいから必需品になってると思うけど

27:世界@名無史さん
21/02/04 12:33:59.93 0.net
武器は青銅だったが、農具は鉄製
武器より先に農具で鉄が普及したのが中国文明の特徴

28:世界@名無史さん
21/02/04 14:25:48.19 0.net
黄土高原の土は、地下に立派な住居を造れるほどカチンコチンに硬い。
毛沢東も習近平も、そんな地下住居で暮らしたことがある
それくらい硬い黄土を耕作する農民も大変だ。
後の時代になるほど華北の乾燥化が進んで農耕に適さない地となり、食糧の供給を南部に依存するようになった
ただし、黄土は雨が降ると脆い

29:世界@名無史さん
21/02/04 14:51:03.82 0.net
華北の開発は漢代において、ほぼ限界に達したと考えられる

30:世界@名無史さん
21/02/04 15:07:39.63 0.net
>>27
脆くて武器に使いにくい鉄が主流だったから、武器としても利用できる新しい鉄の普及は遅かったのではなかったか

31:世界@名無史さん
21/02/04 18:25:21.79 0.net
>>16
> 大商人の李斯が邯鄲で秦の王子の1人をバックアップして秦王につけたことが統一のきっかけとも言えるんだよな
> (その王の子が後の始皇帝)
『奇貨居くべし』の商人は 李斯ではなく呂不韋

32:世界@名無史さん
21/02/04 19:47:41.02 0.net
鉄製武器の登場は西ヨーロッパではドーリア人侵入以降の古代暗黒時代(紀元前12世紀)頃だから
一方中国は前漢代に入ってからなので1000年遅れ
逆にヨーロッパでは鉄製農具の普及は中世農業革命以降だが中国では紀元前6世紀の春秋時代なので
1500年ほど進んでいる

33:世界@名無史さん
21/02/04 20:36:22.74 0.net
>>30
中近東や西洋の鉄は鍛造だったが、中国の鉄は鋳物だった
脆いので武器には向かない

34:世界@名無史さん
21/02/04 20:42:26.39 0.net
そんな武器に向かない鋳物に何の利点があるのかというと、型に流し込んで同じモノをたくさん作るのに適している
だから、漢の農民はみんな国営企業から供給された同じ農具を使ってた。
社会主義国の集団農場みたいだった

35:世界@名無史さん
21/02/04 22:27:46.05 0.net
漢代の耕地面積は約3780万ヘクタールで、2000年前に、日本の耕地面積の約七倍に
達していたらしい
またその収穫量は約30億石、目方に換算すると約3300万トンとされる

36:世界@名無史さん
21/02/05 08:05:56.14 0.net
高炉で鋼を量産して武器用は鍛打で脱炭

37:世界@名無史さん
21/02/05 10:50:26.79 0.net
漢の武帝は、匈奴と戦うための戦費をまかなうため、塩・鉄・酒を国家専売にした

38:世界@名無史さん
21/02/05 12:07:02.35 0.net
漢の対匈奴作戦は、徹底的な物量作戦であり、人海戦術だった
しかも国内から匈奴討伐の前進基地まで兵糧一石を送るには60石以上の食糧を
必要としたという
また国境線に配置した数十万の兵士の食糧を支給するために、中央の食糧倉庫が
空になったこともあったという

39:世界@名無史さん
21/02/15 12:46:06.01 0.net
靖郭君田嬰はかなりの屑

40:世界@名無史さん
21/02/17 03:28:30.29 0.net
晋が趙魏韓と三分さえしてなければ、秦の中華統一なんてできなかったとおもう
にしても、魏と韓の国境線のすごいこと、渦巻き巻いてるし
こんな国境線が、歴史でほかにも存在するとはとても思えない
どうしてああなった

41:世界@名無史さん
21/02/17 13:11:41.25 0.net
韓が鄭を、魏が衛を滅ぼしたからじゃね

42:世界@名無史さん
21/02/17 17:16:38.34 0.net
衛は滅ぼしてない

43:世界@名無史さん
21/02/17 17:31:42.86 0.net
>>40
春秋時代の三晋は所有する奉邑が晋国内にバラバラと点在してる
特に韓は当初は黄河以北の韓原にあった拠を州、平陽、新鄭と移り変わって
徐々に黄河の南岸へと拠点を大きく変えてる
それに晋公室から下賜された邑とは別に時代が下るに淘汰されてった
祁氏や羊舌氏や知氏等の旧領を他の貴族と共に分け取りしてった経緯もある
韓が黄河の南北に跨って瓢箪の様な国土になってったのはそういう事情も
あるんだろう

44:世界@名無史さん
21/02/18 14:39:14.98 0.net
晋内部に三晋ってのが出来て、それが一般化してしまった時点で避けられない命運だったな
斉→田氏斉みたいに国ごと変わった方がマシだったのかもしれん

45:世界@名無史さん
21/02/19 01:27:20.06 0.net
そもそも晋が一つの国であった、というのが割と幻想な気もする
戦国時代ですら都市国家連合としての性質を非常に色濃く残してた三晋諸都市が
春秋時代に国として一つにまとまれて居たのかは相当割り引いて考える必要がある
それに晋の覇権の端緒となった晋の文公やその先代献公も
同じ史記の情報同士で矛盾とも思える状況がいくつかあるもんで
司馬遷の時代には既にそういう話として伝わってたのかもしれないが
晋という国は史書に示される歴史的な事件が結構怪しい可能性があるね

46:世界@名無史さん
21/02/19 03:33:23.97 0.net
桓叔家による乗っ取りから献公の公族討滅で晋侯に権力が集中した
だからこそ文公が即位までにあれだけごたついても覇者になれた
六卿の時代になると新しく所領を得た卿達はその土地からバックアップを受けるために色々と特権を認めることになる
斉の陳氏がやってたみたいに小さい升で取って大きい升で与えるなんてこともやってたかもしれない
そうして都市が潤うとやがては領主を凌ぐ力を持つようになる
周王の持っていた権力が一都市にまで降りてくるってのはすごく面白いことだけど国としてはどんどんバラバラになっていくね

47:世界@名無史さん
21/02/19 08:19:51.00 0.net
そもそも、文字が諸国に普及して文書行政がおこなわれるようになったのは春秋時代末か戦国時代ごろなんだろ
なら、税額をきっちり決めるとかもできなかったのでは
その時代の統治なんて、冊封体制と大差ないような気がする

48:世界@名無史さん
21/02/19 09:32:45.78 0.net
>>45
春秋時代の晋は貴族とりわけ卿位にある氏族は時代が下るほどもう半独立の諸侯に
近い存在っぽいね
貴族の所有する邑って各々の宰領で経営してるもんだけど、後期に度々みかける
晋内部の貴族間の闘争なんかもう君主の介入無しで殆ど私闘に近いし
これは晋に限らんといえば限らんのだけど
戦国時代になると三晋地域の諸都市は経済的に発展した独立性の強い都市が多くて
各都市の経済活動や兵器・貨幣の製造なんかも国が一元的に管理しきれていなかった
なんていうのは書籍ではみかけるね

49:世界@名無史さん
21/02/19 09:33:12.46 0.net
>>46
gdgdしても覇者になれたのは騎兵戦力の優位があると思われる
恵公と文公の母は狄の有力氏族の族長の娘姉妹だったし
献公の愛人になった驪姫とその弟は戎の出身
献公の代での結婚政策は周辺に存在する遊牧系民族の取り込みを示唆してる
文公が狄に亡命中に赤狄の娘を娶ったというのも、この遊牧系との結託だよね
晋の覇権の正体ってのは遊牧民達による中原への浸透の側面が相当ある

50:世界@名無史さん
21/02/19 09:54:54.98 0.net
晋は献侯の辺りから史実に出てきて宮崎市貞は遊牧系が唐叔の家系図に繋げたんじゃないかって言ってる

51:世界@名無史さん
21/02/19 12:14:03.14 0.net
>>47 のつづき
冊封でないなら、寄親寄子制みたいなのとか、与力制みたいなのかも
いずれにせよ、春秋時代の時点では諸侯は領内の諸貴族に対して強い支配力を持ったことなど最初から無かったのではないかと
徐々に独立色を強めたのではなくて、最初からあの程度と思う

52:世界@名無史さん
21/02/19 15:41:48.90 0.net
>>50
その論は他の家も西周時代の情報がかなり欠損気味なこと考えると乱暴な気もする
特に封建から建国初期の晋なんて周王室の影みたいなもんだから西周崩壊で周に残された記録がかなり吹っ飛んだろうし
武公による本家乗っ取りで晋側も色々失ったろうし
怪しくはあるけど証拠がない感じ

53:世界@名無史さん
21/02/20 18:02:55.20 0.net
>>51
あるいは惣領制みたいな族的結合がメインだったとか

54:世界@名無史さん
21/02/21 15:07:02.81 0.net
それを前提に考えると商鞅の政策って部族制を盛大に解体するものだったし
秦が戦国時代に強国化するのもよくわかるな

55:世界@名無史さん
21/02/22 08:59:15.73 0.net
秦が相対的に強国化した理由は、よくわかるような、よくわからないような
一般的に族連合的な支配体制は他邦でも似たような時期に解体、専制的な体制に移行していったとされるので決定的な要因とは言い切れない

56:世界@名無史さん
21/02/22 12:17:11.48 0.net
少し文明かが遅れてたことで中原の先進思想家による改革が徹底できた、中央集権化の度合いが少し高めだったってとこでは?
あと、主要な係争地から離れた空白地帯の蜀を制圧してから躍進したっぽい

57:世界@名無史さん
21/02/23 04:42:05.61 0.net
西辺にあり係争地から離れている
確かに地政学的にそもそも優位だったということがまず考えられる
秦は春秋から強国で、また周という関中から出て成功した先例もあるのだから
秦の主な交戦国である魏(特に大梁進出後)が
常に二正面、三正面に備えなければいけない立地であったのと対照的

58:世界@名無史さん
21/02/23 07:53:13.05 0.net
>>55
晋はより分裂して分権化した状態が固定化しちゃったし
楚は呉起の改革が無かった事にされたと言う点を考えると
史記の史観では秦の集権体制と他国の分権体制の比較になってると思うけど

59:世界@名無史さん
21/02/23 20:04:28.71 0.net
仰る通り秦と楚の明暗は一に懐王、二に変法くらいの勢いで大体説明されてるけど
他の五雄についてはそれほど明確な解説はないからなー
強い君主の驕りや名臣の進退等の一般論が主で、呉起による集権化の否定に相当する決定的な描写がない

60:世界@名無史さん
21/02/23 20:28:15.90 0.net
そもそも、中央に周王室があり、その周囲を斉楚秦晋の東南西北4大国が取り巻いているという状況が、いかにも中国人好みの「五行説」にハマりすぎている
本当にこんな体制だったのか、なんか怪しい

61:世界@名無史さん
21/02/23 20:30:59.64 0.net
あと一歩で、智氏が晋を乗っ取って、田氏斉みたいになるところだったのにな
趙襄子の外交力で局面をひっくり返された

62:世界@名無史さん
21/02/23 20:32:02.99 0.net
>>60
いやそもそも秦楚は夷狄扱いだったし一次史料に出てくる諸侯を疑うのか?

63:世界@名無史さん
21/02/24 01:56:19.86 0.net
周代や春秋時代の一次史料なんて存在しないだろ
編纂物は二次史料だし

64:世界@名無史さん
21/02/24 02:42:39.45 0.net
金石文はこの時代の歴史研究の重要史料

65:世界@名無史さん
21/02/24 09:21:04.18 0.net
楚とかいう他の戦国六国を足し合わせたレベルの広大な領域を征服、統合した超大国
戦国楚は、「呉起殺さなかったら天下取ってた」「無能」とか言われるけど
呉起改革の過大評価、楚の政治体制の過小評価な気がしてならない

66:世界@名無史さん
21/02/24 12:12:04.61 0.net
面積は広いけど、国力は知れてるんだよな。人口密度が低い
あと、もとの中心地域だった荊州あたりと、呉越の旧領と、二ヶ所の中心地域を持つようになってからは国論統一できなかったのではないか。末期には荊州を取られて中心がひとつになったから国力結集できただろうけどさ

67:世界@名無史さん
21/02/24 13:50:53.30 0.net
密度は低いが兵力は秦に次ぐほど大きいだろう楚って
春秋時代から体制が殆ど変化してなかったって意味では随一っぽいけど

68:世界@名無史さん
21/02/24 14:17:02.64 0.net
この時代の長江下流は、広大な湿地帯で亜熱帯のジャングル
全身に刺青した土人たちの世界

69:世界@名無史さん
21/02/24 15:01:25.63 0.net
越は滅亡してから3つに分裂して自治してたから楚はほとんど支配してなかったんだろう
戦国に入ってからは奢侈に溺れてドロドロに腐敗した貴族政治で見る影もない

70:世界@名無史さん
21/02/24 19:59:39.93 0.net
越地は懐王代に入ってから攻め潰して併合の流れっぽいし実際は戦力に入ってないだろうね
東方に戦力を割かねばならんしむしろマイナスっぽい
戦国楚の遠心力が強そうな地勢で集権強行するといずれ爆散して暴君扱いされる未来しか見えない
近世の神聖ローマ皇帝が強権で全国的な支配実現するぐらい無理そう(暴論)

71:世界@名無史さん
21/02/24 20:12:05.40 0.net
懐王の頃だと荊州あたりはなくなって旧呉が中心じゃなかったか
つまり東遷後では?

72:世界@名無史さん
21/02/24 22:07:54.84 0.net
この時代は象は普通にいたんだよね

73:世界@名無史さん
21/02/24 22:23:49.38 0.net
象形文字だしね

74:世界@名無史さん
21/02/25 00:39:59.10 0.net
>>71
懐王期はまだ越を攻略中なので旧呉が中心はちょっと無理があるかと、東方(淮水流域)ならわかるけど
荊州北部を失陥するのは懐王の最末期で中部南部は次代の頃襄王期まで保持している、つまり東漸前

75:世界@名無史さん
21/02/25 06:54:28.40 0.net
この時代は、長江下流はまだジャングルで、楚といったら淮水なんだよな
楚の首都も、「西楚の覇王」といってた頃の項羽の都もこのあたりにあった

76:世界@名無史さん
21/02/25 08:58:23.24 0.net
春秋戦国の楚が開拓していったフロンティアが秦末楚漢の楚という感じですね
北東に基盤を構築した懐王期以前の楚
秦に敗れるも東に移って持ち堪えた頃襄王とその後継者たち
東漸後の楚を率いて強勢を誇った春申君
彼らの努力が巡り巡って秦を倒したと言えなくもないかもしれない

77:世界@名無史さん
21/02/25 19:06:30.51 0.net
劉邦の評価が低すぎる
叩き上げの歴戦の軍人で勝利をおさめて皇帝にまでなれたのになぜか無能大徳で成り上がったことに
春秋戦国時代にも匹敵する人物はいないでしょうに

78:世界@名無史さん
21/02/25 22:01:59.88 0.net
低すぎるというか極端って感じかな
まあ実像がわかり難くキャラ化しちゃってる古代人の評価が極端化するのはしゃーないと思うけど

79:世界@名無史さん
21/03/13 07:07:12.29 0.net
武帝のほうが英雄っぽい扱いになってるな

80:世界@名無史さん
21/03/13 12:45:53.23 0.net
>>55
>>59
あまり言われないけど国家予算のかなりの割合を賄賂に使ったことだって説も
実際に数十兆円の賄賂で諸国の重臣を買収すればね
日本ではばれて捕まるの怖し、はした金の賄賂は受け取らないことが多いけど
ちょっとしたことをやってくれるなら一億円あげると言われたらやる奴は多いだろう

81:世界@名無史さん
21/03/13 12:47:57.48 0.net
>>33
>>34
ちゃんとしたものは少ししか作れないし値段も異常に高くなってしまう
本物の豆腐が売れず、安い豆腐が流通しているように
一部の名犬が欲しい人しか高い犬は買ってくれないように

82:世界@名無史さん
21/03/13 12:50:02.91 0.net
>>60
斉も殷側だった説もあるし
殷の主力が東の人方を攻めるために主力がいない時に
味方のはずの周が騙し討ちで攻撃して本国を落としただけだからね
その力も他の諸侯より圧倒的に上ではないしね

83:世界@名無史さん
21/03/13 19:21:54.30 0.net
そりゃ生まれながら高貴な身分の武帝と文字も禄に理解できない高祖では比較すること自体、意味がない
なりふり構わず自分が助かろうとするし、他人が赤面するような、みっともない事を言ったりしたり当たり前
匈奴に臣下の礼でおめおめ生き残ろうとするのも納得
こんな些細な事を人物評価に加えるのが、適切かどうかは分からない

84:世界@名無史さん
21/03/13 19:22:51.12 0.net

すまん スレチ

85:世界@名無史さん
21/03/14 14:20:44.86 0.net
越の繁栄の基盤は通商だったらしい
越は水上交通に長けていたので、東南部の山間地域に産する物産を、
黄河流域に搬出することで勢力拡大した
その通商ルートを確保するために、長江の下流域にあった呉と争い、
臥薪嘗胆・呉越同舟などの成句を残すほどの宿敵関係にあった

86:世界@名無史さん
21/03/19 05:51:20.92 0.net
呉は、独身税みたいな税を独身者の親に課してたと言うのはほんと?

87:世界@名無史さん
21/03/21 17:09:28.12 0.net
>>86
何で読んだの?

88:世界@名無史さん
21/03/21 17:20:45.56 0.net
>>85
そうなんだろうなあ
当時の浙江省は、マングローブの生い茂る亜熱帯の湿原で農業どころじゃなかったはず
山間部の産品を主力に、水運で繁栄していたというのは納得できる

89:世界@名無史さん
21/03/21 18:30:56.57 0.net
呉越同舟の呉らしい。
孫子の孫武がいた呉だね。

90:s
21/03/21 19:52:27.72 0.net
南方民族全体の総称にも「越」族という呼称を使うが、
越国が支配していたから越族という呼称が生まれたのか、
越族が建国したから越国という国名になったのかどっちなんだろう

91:世界@名無史さん
21/03/21 19:56:22.09 0.net
後者じゃね
古代は南蛮だったんじゃないかな

92:世界@名無史さん
21/03/21 20:06:20.66 0.net
でも越って単一民族でもないし単一部族でもない、たくさんの部族の集まりだろ
百越とか言われるように。

93:世界@名無史さん
21/03/21 20:42:50.05 0.net
人種的にはインドシナ系がルーツなのかな

94:世界@名無史さん
21/03/21 21:40:19.10 0.net
>>90
当時の記録で越としか読んでいないし
越族でも越国でもあるんじゃないというより
国と言えるようなのがインジョウからみたいだし
越も呉もwoみたいな発音でぶっちゃけ同族に近いらしい

95:世界@名無史さん
21/03/23 14:55:00.65 0.net
漢の宮廷では、「越人が互いに攻撃しあうのは彼らの常であり、またしばしば
寝返りをする」といわれていた

96:世界@名無史さん
21/03/23 15:07:56.48 0.net
>>88
何を主食にしてたんだろ?
ヤムイモタロイモ甘くないバナナとかだろうか?

97:世界@名無史さん
21/03/25 11:16:38.47 0.net
>>96
その辺は推測するしかないでしょうなあ
おそらく、「南洋の土人」みたいな人たちだっただろう

98:世界@名無史さん
21/03/25 18:46:15.71 0.net
越では、夏の暑熱の時節には、嘔吐や下痢、霍乱の病気が続出したとか
林の中にはマムシや猛獣が多い

99:世界@名無史さん
21/03/25 21:17:49.00 0.net
Do you have poison?
Yes I ハブ

100:世界@名無史さん
21/03/26 04:24:30.74 0.net
>>96
米かな?

101:世界@名無史さん
21/03/26 07:36:50.83 0.net
稲作はすでに行われていたはずだが、主流ではなかったんじゃないか?
普通に熱帯のジャングルのイメージで良いのでは

102:世界@名無史さん
21/03/26 10:29:43.57 0.net
史料の記録が乏しすぎる

103:世界@名無史さん
21/03/26 14:46:49.65 0.net
黍なんかは主食だった様だな

104:世界@名無史さん
21/03/26 18:38:11.11 0.net
司馬遷は『史記』で、江南について、
「稲を飯にし、魚を羹にする。……果物屋や瓜類、魚介類は商人をまたずとも
十分自足している」
と書いている

105:世界@名無史さん
21/03/28 07:49:03.75 0.net
ということはやはり、コメが主食だった?

106:世界@名無史さん
21/03/28 11:02:55.01 0.net
俺はオコメよりオメコのほうが・・・

107:世界@名無史さん
21/03/29 22:36:23.39 0.net
>>68
>全身に刺青した土人たちの世界
全身に入れ墨したぐらいで土人なら我が国の推古天皇や聖徳太子も土人だな
隋書倭国伝
男女多黥臂、點面文身
男女の多くは腕から顔、身体にいたるまで入れ墨を施している。

108:世界@名無史さん
21/03/30 04:36:06.22 0.net
>>107
古代だと中国の南部、日本、東南アジアにかけて皆そうだ

109:世界@名無史さん
21/03/30 18:18:10.03 0.net
>>105
当たり前じゃん
江南で稲作始まったの10000年前だし

110:世界@名無史さん
21/03/30 18:20:11.94 0.net
戦国時代に入ると鉄製の武器が普及し、歩兵戦が中心となり、
次いで騎馬戦が導入され、犠牲者の数が格段に増えたな
秦と趙が戦った長平の戦役では、降伏した趙の兵卒40万人が
一挙に穴埋めにされ、総勢45万人が殺された

111:世界@名無史さん
21/03/30 18:23:29.94 0.net
>>110
都市国家的な国民皆兵を領域国家のスケールでやらかしてる感じの数字だな

112:世界@名無史さん
21/03/30 19:04:31.22 0.net
>>110
秦軍の武器は青銅製ではないか?

113:世界@名無史さん
21/03/30 19:25:35.10 0.net
武器は後漢辺りまで青銅製のが多いくらいだったはずだよな
むしろ鉄器の普及は武器よりは農具に金属器が使えるようになったことで
耕作や開墾が楽になった事に恩恵があったはず

114:世界@名無史さん
21/03/30 19:28:25.34 0.net
騎馬の導入で追撃戦とか包囲戦が格段にしやすくなったんだろうね

115:世界@名無史さん
21/03/30 19:40:08.27 0.net
>>109
でも、初期の稲作は面積あたりの収穫量が桁違いに低かったんだぞ
現代の水田より、何十分の一ほどとされている

116:世界@名無史さん
21/03/30 22:05:28.95 0.net
>>115
生産量を増やすには1つは土地を掘り起こす農具特に鉄器の普及(おそらく祭具や武器より普及は後年)
もう一つが地味を豊かにする肥料‥豆類の普及と人なり家畜なりの出すものを効率よく集めること
豆は家畜特に馬の飼育に必要不可欠だし調味料としても保存食としても重要な食物
この辺も急速に整備されたのかな?

117:世界@名無史さん
21/03/30 22:31:15.01 0.net
>>116
各種遺跡の発掘で出土した花粉から森林が消失して平地が広がった事がわかってるから
肥料とか使わないで開拓、植民を繰り返して効率悪く生産量を増やしてったんだと思われ
肥料に関する記述って古代の文献だと全然見た事ないんだよな

118:世界@名無史さん
21/03/30 23:56:31.81 0.net
初期の水田は湿田、沼地のかたちそのままで田地の形状すら整備できてない
てか、おそらくは整備する必要を感じてなかったと思われる。依存度が低かったから片手間ぐらいだった、とかだろうかね?
栽培に向いた性質、収穫しやすい性質、収穫量の多くなる性質などを選別して品種改良するより前だし、
どれほど収穫が低かったかは測定困難ではないかと

119:世界@名無史さん
21/03/31 08:46:51.54 0.net
>>113
全然違うよオマエ無知過ぎる
前漢軍は鉄器

120:世界@名無史さん
21/03/31 11:12:01.84 0.net
>>119
漢代でも遺跡から出て来る武器は鉄器よりは青銅器のが多めの模様
俺も教科書的に漢代は鉄器やろwwwと思ってたから結構びっくりした

121:世界@名無史さん
21/03/31 11:18:59.13 0.net
面白いのが鋼鉄製すらも既に戦国時代には登場していたってことだな
なのに銅と錫をいい具合で混ぜないと耐久性に問題の出ちゃう青銅もかなり後まで武器になってる

122:世界@名無史さん
21/03/31 11:40:04.84 0.net
自分はよく国立博物館に行くけど、「漢の文化」っていったら真っ先に連想するのは青銅器だな

123:世界@名無史さん
21/03/31 11:41:11.94 0.net
鋳鉄は、型に流し込んで同じモノを大量生産するのに向いている
だから、漢代には農具として普及した

124:世界@名無史さん
21/03/31 12:11:25.11 0.net
青銅器の方が作るのは大変そうに思うが、鉄器は加熱が大変なのかな?

125:世界@名無史さん
21/03/31 12:25:11.76 0.net
>>124
青銅は、ずっと低い温度で溶かせる

126:世界@名無史さん
21/03/31 12:28:40.67 0.net
古代人にとって、鉄を溶かすほどの高温にするのは簡単なことではなく、大量には作れない
中国は人口が多いから、型に流し込んで同じモノを大量に作ることが好まれたようだ
それが、青銅や鋳鉄が多用された理由かもしれない

127:世界@名無史さん
21/03/31 12:31:47.38 0.net
ヒッタイトでは鍛造した鍛鉄が主流
古代中国では鋳物の鋳鉄が主流だった

128:世界@名無史さん
21/03/31 13:20:20.34 0.net
>>127
墓の副葬品なんかだと鍛造の鋼鉄が出土してるから
量産品は鋳鉄、一品物とかは鍛鉄みたいな使い分けがあったっぽい

129:世界@名無史さん
21/03/31 14:05:59.38 0.net
>>120
全然違うよオマエ無知過ぎる
前漢遺跡から出る武器の大半は鉄器
2000年前だと鉄器の残存はかなり厳しい条件にも拘らず鉄器
前漢の青銅剣は儀礼用以外に全く使われて無い

130:世界@名無史さん
21/03/31 14:09:10.27 0.net
>>128
鍛造は前漢末期に普及した
それと無関係に鍛鉄は腐食が進み難く鋳鉄は腐食が早い

131:世界@名無史さん
21/04/02 06:41:55.53 0.net
古代中国っていうと、巨大な青銅器の甕が真っ先に思い浮かぶ
なんで、あんなにデカいんだろうな?

132:世界@名無史さん
21/04/02 09:26:15.81 0.net
日本列島では、銅鐸がやたら巨大化したよな

133:世界@名無史さん
21/04/02 09:45:07.57 0.net
やっぱり、祭祀用なんだろうな

134:世界@名無史さん
21/04/03 13:25:47.17 0.net
権威の象徴はデカければデカい程有意義だしね

135:世界@名無史さん
21/04/04 05:20:39.54 0.net
呉や越とか治水できてないだろあの当時は、
稲作有っても 原始的な陸稲とかだろうな
春秋戦国時代に書かれた儒教の書物 《周礼(しゅらい)》では、
この時代の 五穀は 麻・黍(しょ)・稷(しょく)・麦・豆とあるが、
だいたいが 中原の方で 寒冷・冷涼な大陸性気候の作物が書かれてる。
しかしながら、書物ではなく、
遺跡とかの 稲のプラントオパールの分布は
縄文時代 (約1万2,000年前~2,500年前)には 日本(九州とか)に伝わっていて、
稲作の歴史は 『実は 日本から大陸側に伝わったのではないか?』と言う説もある。
日本の方が 稲のプラントオパールの分布は古い
URLリンク(inoues.net)
呉や越の稲作は 河川付近の限定的な作付の可能性が高いと思う

136:世界@名無史さん
21/04/04 05:43:13.19 0.net
呉や越の地方に近い、
タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる ミャオ族が、
山岳地帯に住んで トウモロコシや陸稲を栽培している、
ミャオ族は 古くは 河川や湖畔の近くに住んでいたが
ある時期から土地を追われて 山奥の山岳地帯に放浪した民と言われている。
呉や越の亡国の民ではないかと思う。

137:世界@名無史さん
21/04/04 08:32:48.84 0.net
土器も稲も、日本の遺跡のほうが大陸より古いんだよな
古墳も半島より日本のほうが古くて、圧倒的に規模がデカい

138:世界@名無史さん
21/04/04 08:49:11.57 0.net
>>135
IQ70くらいしか無さそう病院で診断して貰え

139:世界@名無史さん
21/04/04 09:19:01.98 0.net
そもそも根本的な問題として、稲は熱帯性の作物なんだよな
寒くて雨が降らない朝鮮から、暑くて雨が多い日本に「稲作が伝わりました」というのは論理的におかしい
しかも、水稲耕作の遺跡は、朝鮮より日本のほうが古い

140:世界@名無史さん
21/04/04 09:21:08.76 0.net
同じ熱帯性である唐辛子は、東南アジア→日本→朝鮮と伝播している

141:世界@名無史さん
21/04/04 10:05:03.18 0.net
水田遺跡は韓国のオクキョン遺跡のほうが日本最古の板付遺跡より古いけどな
また農具も半島南部と日本は共通しているが江南とは共通していない

142:世界@名無史さん
21/04/04 10:20:26.58 0.net
>>135
起源的には陸稲より水稲栽培のほうが古い
原始的な陸稲栽培なんてものは存在しない

143:世界@名無史さん
21/04/04 10:37:21.50 0.net
古代で、半島→日本、日本→半島と新技術・新製品などが伝わる時間は、せいぜい1年くらい?

144:世界@名無史さん
21/04/04 11:35:03.51 0.net
>>139
違うよ
温帯~亜熱帯気候の作物
農具も長江下流域の物と日本の物わ共通

145:世界@名無史さん
21/04/04 11:57:35.53 0.net
>>139
朝鮮半島の南部なら水稲はできるんだろう

146:世界@名無史さん
21/04/04 12:01:01.44 0.net
朝鮮半島南部で
北アジアの農耕文化と江南の稲作文化が合体して
それが日本に渡来したみたいな感じ?

147:世界@名無史さん
21/04/04 12:20:54.07 0.net
かつては朝鮮北部→朝鮮南部→九州北部と考えられていたけど
現在では朝鮮北部より朝鮮南部と九州北部の農耕文化のほうが早く成立したことが明らかとなりこの説は否定されている
現在では蔚山広域市のオクキョンにある日忽然と水稲文化をもつ集団が現れ
九州北部へと次いで半島北西部へと水稲をもたらしたことになる
この集団がどこから来たのか現在でもはっきりとしたことは分かっていない

148:世界@名無史さん
21/04/04 12:40:29.38 0.net
船使って移動してるなら朝鮮半島の南にいきなり到着してもおかしくはないからな
朝鮮には陸路で伝わったと決めつけるのはよくないよ

149:世界@名無史さん
21/04/04 12:49:46.58 0.net
海路沿いに中国から来たのなら普通は半島南西のはずだろ?
ところがオクキョン遺跡は半島南東部の蔚山にある
そこから九州北部の板付遺跡や半島南西部のオクキョン遺跡へと波及している

150:世界@名無史さん
21/04/04 12:51:58.39 0.net
×半島南西部のオクキョン遺跡→半島北西部の松菊里遺跡

151:世界@名無史さん
21/04/04 13:11:33.27 0.net
半島南部は、倭国の領土だったと言う説もあるし、倭国の5世紀前半の高句麗攻めも広開土王碑に残っているから、我々が思う以上に半島と倭国との往き来は頻繁にあったんじゃないの?

152:世界@名無史さん
21/04/04 13:20:50.81 0.net
>>151
説というか三国志魏書東夷伝で半島北部の帯方郡
半島中部の三韓(馬韓弁韓辰韓)
その南に倭人の国あって国境を接してる
というモロな記述があって半島南部は倭人の直接的な支配領域だったことが書いてある
所謂任那日本府の存在なんかもあるから唐が半島に進出するまで
半島は倭人の勢力圏だったことが推定される
岡田英弘は帯方郡の設置理由そのものが倭人との交易であり
倭人が漢や魏に直接出向いた時は、その帯方郡が機能していないため
これまで取引していた倭人が直接朝廷に出向いただけだ、という説を提唱していたな

153:世界@名無史さん
21/04/04 13:38:45.90 0.net
今でも、人口的には日本は1億2333万人(2021年1月)で、韓国5130万人(2021年)、北朝鮮2588万人(2021年)合わせての、1.56倍なので、昔から倭国は大国だと思われていたのだろうな。

154:世界@名無史さん
21/04/04 15:11:55.46 0.net
そりゃそうだ
魚と米が取れるのが、古代においては豊かな地
倭国は中国江南とならぶ東アジアで最良のエリアだ

155:世界@名無史さん
21/04/04 18:45:36.45 0.net
倭人が繁殖して縄文人の人口をあっという間に追い抜いた
古墳時代には倭人のほうがずっと優勢だったようだ

156:世界@名無史さん
21/04/04 19:03:38.20 0.net
>>155
DNAから倭人は縄文人の子孫だってちゃんとわかってるよ
ただ半島や大陸経由で渡来系が2000年間持続的に入り込んだ結果
縄文人と現代人の遺伝子にある程度差異はあるけどね

157:世界@名無史さん
21/04/04 19:07:24.81 0.net
縄文人の直系子孫は
蝦夷、アイヌ、国栖、
クマソ、隼人あたりだな
日本人は渡来系にすこし縄文系をブレンドしている

158:世界@名無史さん
21/04/04 19:13:23.41 0.net
>>157
アイヌはオホーツク系の民族に縄文人が征服された存在
蝦夷は謎、九州の諸民族は縄文系に東南アジアからの南方系が混ざってる
グレートジャーニーの吹き溜まりは伊達じゃない

159:世界@名無史さん
21/04/04 20:04:42.20 0.net
>>154
面積あたりの生育重量という意味では漁業の生産力は畜産より一桁以上低いぞ
海洋国ならともかく内陸河川での漁獲は、山林よりはましだが耕地に及ばない
ただ、移動しやすいことで広範囲から資源を集める余地があるだけ

160:世界@名無史さん
21/04/04 21:14:02.20 0.net
アイヌは、北海道の先住民族ではないみたいだね。
サハリンアイヌがオホーツク倭人を追い出して、北海道を乗っ取ったらしいけど、先住民族の定義が難解なのかな。

161:世界@名無史さん
21/04/04 21:17:10.55 0.net
東南アジアからの南方系?
台湾から南に行ってわざわざ日本に来たんか?

162:世界@名無史さん
21/04/04 23:32:58.44 0.net
ポリネシアのほうからも来てるけど=東南アジアから来てないとはならないでしょ

163:世界@名無史さん
21/04/05 10:08:36.57 0.net
南島諸語の比較言語研究によると台湾高地種族の言語が一番古い。そこから南下して東はポリネシア、イースター島まで、南はニュージーランドまで、西はアフリカのマダガスカルまではるばる拡散した。それを思えば、沖縄や日本本土なんてほんのご近所にすぎない。

164:世界@名無史さん
21/04/07 23:31:37.89 0.net
海に出て、海流に乗れば割りとすぐに着く

165:世界@名無史さん
21/04/08 01:00:44.48 0.net
女禍の伝説とか海洋民族の話に近いのかな?
そちらでは女性が動物と結婚して産まれた男児と結婚して子孫繁栄する事が多いんだっけ
いつ頃から伏儀っていう兄にして夫が現れて場合によっては女禍を三皇から除外(単なる伏儀の妹にして嫁)って扱いになったんだろ?

166:世界@名無史さん
21/04/14 17:58:35.56 0.net
【春秋時代】
前771年 周の幽王、殺害される
前770年 周の平王、洛邑へ遷都
前651年 斉の桓公、会盟して覇者となる
前639年 宋の襄公、会盟して覇者となる
前632年 晋の文公、会盟して覇者となる
前624年 秦の穆公、晋を破る
前546年 宋の仲介で楚・晋の停戦協定
前506年 呉が楚の都を陥落
前496年 越王勾践が即位、呉を攻撃
前494年 呉が越を破る
前482年 呉王夫差、会盟して覇者となる
前479年 孔子が死去
前473年 呉王夫差が自害、呉滅亡
前465年 越王勾践が死去
前451年 晋が分裂し、韓魏趙が独立
前426年 周王朝が東西に分裂
前403年 韓魏趙が諸侯となる

167:世界@名無史さん
21/04/14 18:08:02.63 0.net
【戦国時代】
前388年 斉の田和がクーデター
前376年 晋が滅亡
前341年 斉の孫ピンが、馬陵で魏のホウ涓を倒す。
前333年 蘇秦が「合従策」に成功する
前318年 楚燕趙魏韓が函谷関で秦に敗北
前316年 秦が蜀を滅ぼす。
前311年 張儀が「連衡策」に成功する
前284年 燕の楽毅の連合軍が斉に侵攻
前278年 秦の白起が楚の都を陥落させる
前270年 趙の趙奢が閼与で秦魏を撃破
前264年 秦が西周を滅ぼす
前260年 秦の白起が長平で趙に圧勝
前259年 秦王・始皇帝生まれる
前255年 秦が東周を滅ぼす
前247年 魏の信陵君の連合軍が秦を撃破
前241年 楚の春申君の連合軍が秦に敗退
前238年 秦の宰相・呂不韋が失脚
前233年 李斯が韓非を暗殺
前227年 燕による秦王暗殺未遂
前226年 燕の都が陥落
前225年 秦が魏を滅ぼす。
前223年 秦の王翦が楚を滅ぼす
前222年 秦が燕を滅ぼす。
前221年 秦が斉を滅ぼし、天下統一

168:世界@名無史さん
21/04/14 18:21:58.34 0.net
きちっとしている!

169:世界@名無史さん
21/04/14 18:39:19.99 0.net
呉と越は海浜に近く、魚介や塩の利益があるうえに、農業にも適しており、
中原の進歩した生産技術が伝わると、たちまち繁栄を迎えたのだとか

170:世界@名無史さん
21/04/14 19:15:46.23 0.net
>>167
衛「あの…」

171:山野野衾
21/04/14 21:28:15.82 0.net
『太平広記』を読んでいたら面白い話があったので、ここでいいものか迷ったのですが抄訳を。
唐の時代、見鬼を能くする英禅師という僧侶がいたが、ある時寺主の慧蘭禅師に言った。
「秦の荘襄王と従者二百人余りが飢えて晩餐を求めておりますので、ご用意を願います。」
やがて時間になると荘襄王と貴賤様々な従者が現れたが、食べ方ががっついていた。
荘襄王「八十年ぶりの食事です。生前はまだ仏法がないのでたいした功徳を積めず、囚人の解放
や鰥寡孤独への施与ぐらいしか功徳がなかったので福徳が薄く、罪を贖い切れていないのです。」
これで四十年はもつと言い、荘襄王は周囲の人間を示して言った。
荘襄王「この者が陳軫です。虚偽の罪に苦しんでおります。そしてこの二人が白起と王翦で、殺人
が多過ぎた罪で苦しんでおり、未だ解放されておりません。」
英禅師「なぜもっと生者に食を要求されぬのか。」
荘襄王「私も貴人であり、濫りに祟りをなすような真似は致しかねます。」
去り際に言った。
荘襄王「城門の外に弟子の墓があります。呂不韋の墓とされていますが、誤りです。」
英禅師「あれは赤眉の乱であばかれたそうじゃが。」
荘襄王「賊が荒らしたのは上っ面。深部に財宝があるので差し上げましょう。」
英禅師「いや、わしは出家じゃ。それには及ばぬ。」

172:山野野衾
21/04/14 21:31:16.04 0.net
荘襄王は礼を言って去ったということですが、後世のイメージを察して楽しめました。
流石に始皇帝では罪が重過ぎると思われたものでしょうか。
『太平広記』には、他に歴史上の人物同士が数世紀を隔てて出会うような話があります。
過去の歴史好きにとっては夢の展開であったことでしょう。

173:世界@名無史さん
21/04/15 07:33:34.71 0.net
遊牧民が北部中国の辺境地帯にもちこんだ物資は、まず第一に家畜だった
馬の獲得は辺境都市を都市国家に成長させ、都市国家の中から殷、周、秦などの
王朝が出て、他の都市とその周辺の農耕地帯を支配下に入れた
これが北部中国に統一国家が、南部よりも早く出現した理由
南部は辺境がなく、都市が育たず、馬が手に入らないために、
北部の軍事力に対抗するすべがなかった

174:世界@名無史さん
21/04/15 21:28:47.93 0.net
>>167

わかりやすい

175:世界@名無史さん
21/04/16 12:47:42.66 0.net
家畜は農耕社会の方が先なんですが

176:世界@名無史さん
21/04/19 16:44:04.55 0.net
馬が辺境を国家にするって論理がよくわからんな
別に馬が都市の必要条件ってわけじゃあるまいし

177:世界@名無史さん
21/04/20 00:25:22.47 0.net
馬肉美味いからなあ
「ちょっと国家でも作ったろか」という気も起こるやろ

178:世界@名無史さん
21/04/20 01:56:41.75 0.net
>>171
物知り荘襄王カワイイ
なぜ活動期間が陳軫や白起と被る昭襄王ではなく荘襄王なのか?
1.昭襄王と混同or誤字(先秦あるある)
2.困窮してそう(妻子の境遇から連想)
3.呂不韋って言いたかった
4.即位時に親族、重臣を手厚く遇し、罪人を赦したから
5.まともな秦王は荘襄王くらいという認識だった
理由があるとすればこの辺りか…

179:世界@名無史さん
21/04/20 21:30:39.03 0.net
>>176
移動手段を得てはじめて広い土地を支配できるということでは

180:世界@名無史さん
21/04/20 21:35:41.83 0.net
移動の早い遅いよりも、情報伝達手段の整備の方が重要では
文字無しでは都市国家単位の朝貢関係より以上の緊密な支配は無理だろ

181:世界@名無史さん
21/04/20 21:35:57.48 0.net
インカ帝国「馬肉美味いよな!」

182:世界@名無史さん
21/04/20 21:36:40.38 0.net
情報伝達手段でもあるからな。
当時、携帯電話があれば、当時より広大な領域を把握できそう。

183:世界@名無史さん
21/04/21 19:38:57.50 0.net
携帯電話があって、タワーとかのインフラが何故か保全されてる状況なら戦争のあり方からかわるよな

184:世界@名無史さん
21/04/21 20:24:43.73 0.net
>>182
まあ、広域行政ができたとしても遠隔地まで物資を運ぶ手段が整ってなかったら広域国家で徴税とかできないしなあ

185:世界@名無史さん
21/04/21 21:02:02.97 0.net
羊を肉と毛とチーズ以外に輸送の動力源として繁殖しようぅて動きは無かったのかな?遊牧民って
単純育て増やすだけなら馬より用意だろうけど

186:世界@名無史さん
21/04/21 21:30:01.33 0.net
>>179
馬なし文字なしでも4000キロの領域を駅伝制による道路網で支配したインカ帝国があるからなあ
馬ありきは結果であって原因とはいいきれない

187:世界@名無史さん
21/04/22 01:52:44.16 0.net
羊に頼りたくなるほど輸送に余裕がないわけではないからな
移動はあくまで牧草を求めてのものだし数多いと管理も大変だから司馬炎がやってた以上の使い道はないのかねぇ

188:世界@名無史さん
21/04/22 19:41:38.17 0.net
>>186
徒歩で支配してたんだろうか?
文字は縄か?

189:世界@名無史さん
21/04/22 21:06:46.26 0.net
羊車って単語があるってことは一応そういう使い方もあったのかな?

190:世界@名無史さん
21/04/22 21:28:52.32 0.net
インカに舟運はなかったのか?

191:世界@名無史さん
21/04/23 09:20:57.20 0.net
夏王朝がタイ系だったというのは本当ですか?
そして殷王朝は北狄(森林地帯の狩猟民)出身で、山西高原から南下してきたとか

192:世界@名無史さん
21/04/23 21:07:41.13 0.net
何一つ合って無いよ
知能障害だね病院行って

193:世界@名無史さん
21/04/24 00:05:04.35 0.net
>>191
正しい

194:世界@名無史さん
21/04/28 18:43:24.27 0.net
呉はむかし周の王族の一人が東南の地に来て建てた国と自称していたが、
断髪に文身という蛮族の風俗からみて、それはただの伝説の可能性が高い

195:世界@名無史さん
21/04/29 01:21:55.92 0.net
多分伝説だろうけど
文明人が僻地へ入植すると文化を維持出来無く成って原始的な生活に退行するのわ
地理や時代を問わず普遍的に見られる現象らしいよ

196:世界@名無史さん
21/04/29 06:27:47.22 0.net
>>194
『史記』に記されているように、呉の開祖、太伯・虞仲が自ら
現地の習俗を取り入れたという説明で、それが史実であっても
何ら問題ないでしょう。

197:世界@名無史さん
21/04/29 11:42:29.00 0.net
この時代の長江下流域ってどの程度南下してきた中原出身の集団がいたんだろうね
オーストロネシア系がマジョリティっぽいが
客家はもう定住していたのかな

198:世界@名無史さん
21/04/29 12:54:18.24 0.net
呉越はオーストロネシア語じゃ無いよ

199:世界@名無史さん
21/04/29 18:19:22.16 0.net
越は夏王朝の子孫と自称していた
呉、越の地は海浜に近く、魚介や塩の利益があるうえに、
農業にも適しており、中原の進歩した生産技術が伝わると、
たちまち繁栄を迎えた

200:世界@名無史さん
21/04/29 19:05:05.06 0.net
史記の記述ですら、けっこうフィクション比率が高いみたいだし、それ以外の典籍はそれ以上のフィクション率だ
基本、話半分で理解しといて、考古学とか他系統の研究をペースにするべき

201:世界@名無史さん
21/04/29 20:30:24.09 0.net
先祖を中原の王朝と結びつけてるのはただのフィクションだね
司馬遷の時代からさらに千年以上前のことなんて細かくわかるわけないからね

202:世界@名無史さん
21/04/29 21:12:54.37 0.net
呉越や匈奴の祖先伝承はフィクションかもしれんが
商、夏王朝は史記の記述通り実在したからね
神武欠史八代王朝と倭の五王王朝を適当に接木した天皇王朝が創造した記紀と違って

203:世界@名無史さん
21/04/29 21:22:33.76 0.net
>>202
コジツケだよ、そんなもん
古代都市の遺跡を、強引に「これは夏王朝なのである」ということにした

204:世界@名無史さん
21/04/29 21:52:05.80 0.net
無知な妄想症患者に救いわ無いな

205:世界@名無史さん
21/04/29 22:04:00.30 0.net
夏王朝は存在してないよな、妄想過ぎる

206:世界@名無史さん
21/04/29 22:42:28.19 0.net
それを「夏」と呼ぶかどうかは文字史料がないから決定打はないけど、二里頭文化が王朝と呼びうるような高度な政治的求心制や勢力圏を持っていたこと、建築や習俗において後の中国との強い連続性があったこと、はもう確実

207:世界@名無史さん
21/04/29 23:09:24.63 0.net
正直、中国の史家の怪力乱心を語らずって偉いと思うけども
そういうの後の世界の人間が判断するから、全部書き残しとけと思わんでもない
それがあれば、この春秋時代だってもっと沢山の話が残ったはずなのに

208:世界@名無史さん
21/04/29 23:10:36.95 0.net
倭の五王は中国史書に記録が残ってるけど
前代の神武王朝に関する記述は乏しい上に在っても事実と全然一致してない

209:世界@名無史さん
21/04/30 02:27:53.33 0.net
>>206
二里頭文化で王権っぽいものが確立されてたであろう事や
政治的にある程度の成熟を見せてたっぽい事は否定する奴ぁ居らんと思うが
それが夏かどうかってのがどうしても思想的、政治的な問題になっちゃうよな
現状は夏王朝とすべき明確な証拠はないから、「かもしれない」以上の事は
妄言、妄想か希望的に言ってるだけになってしまうが

210:世界@名無史さん
21/04/30 02:38:16.44 0.net
>>209
クノッソスやトロイアだって、はっきりと「そうです、ここがクノッソス(トロイア)です」って看板が出土したわけじゃないんだし、もう「たぶん夏」としてもいいんじゃないの?
クノッソスやトロイアを認めて夏を認めないのも政治性入ってる気がする

211:世界@名無史さん
21/04/30 03:22:37.20 0.net
>>209
いや成ら無いよ
史書に夏王朝の記録が有り
考古物も発見された
夏王朝の実在わ確定
倭の五王以前の天皇神話とわ違うよ

212:世界@名無史さん
21/04/30 04:18:57.14 0.net
>>210
あれもシュリーマンがホメロースのトロイア発掘云々で出土したからトロイアっぽいよね
って話にはなってるけど、学術的には詩に出て来たトロイアそのものとは認められとらんぜ?

213:世界@名無史さん
21/04/30 17:59:49.92 0.net
何を言ってるのか意味不明

214:世界@名無史さん
21/04/30 18:20:39.14 0.net
>何を言ってるのか意味不明
・夏王朝を実在したと言っている奴は、夏王朝の実在と何の関連もない記紀の記述を引き合いにだすのは
 夏王朝が実在したかどうかはどうでもよく、記紀をデスりたいだけなんだろうなということは分かる。
・記紀と単純に一纏めにしているのは、両書を区別できていないからで、その点から論者の教養のなさ頭の悪さが垣間見えることは読み取れる。

215:世界@名無史さん
21/04/30 18:24:06.44 0.net
>>214
そいつは世界史板名物のバカ
相手にするのはホドホドに

216:世界@名無史さん
21/04/30 20:36:09.84 0.net
>>215
わ、の使い方で分るあの人のことね

217:世界@名無史さん
21/05/01 01:13:38.70 0.net
殷より古い遺跡が続々発掘されるにつれ、
「夏が実在したかどうか」というのはどうでもよくなってるのでは?
日本だと同じ王朝がずっと続いてるから
古代の遺跡が大和朝廷と連続性があるかどうかは問題になるが。

218:世界@名無史さん
21/05/01 02:22:14.35 0.net
>>214
倭の五王以前の天皇神話は考古学的な裏付け無いからね
奈良盆地が征服された形跡って発見されて無いし

219:世界@名無史さん
21/05/01 07:55:09.74 0.net
神武東征神話、九州出身で奈良盆地に攻めこんだって部分は少なくとも嘘だわな
神武が実在かどうかはいまも不明のままだが。

220:世界@名無史さん
21/05/02 01:32:28.35 0.net
>>219
うそじゃなく、むしろ史実くさいんだけど
西暦100年ごろに関西の遺跡はまとまって破壊されてる

221:世界@名無史さん
21/05/02 10:37:28.04 0.net
稲荷山古墳の金文しかない現状では、そうじゃないかな?以上の事は言えん
殷墟で大量の甲骨文が発見されたように、誰かの古墳で大量の文字が発見されない限りは

222:世界@名無史さん
21/05/02 12:49:13.75 0.net
>>220
奈良盆地でも大阪平野でも破壊跡無いよ

223:世界@名無史さん
21/05/02 15:50:50.95 0.net
畿内の遺跡で、二世紀とか三世紀四世紀あたりに旧来文化から九州などの文化に置き換わるような入れ替りの痕跡がない
他の地域要素が流入するようになったのはたしかだが、基調が旧来文化なんで、外来勢力による侵攻を受けたとは考えられないよ

224:世界@名無史さん
21/05/03 02:03:23.79 0.net
>>222
ソースが見つからないけど
西暦100年ごろにいっせいに関西の遺跡が破壊されたのは事実よ

225:世界@名無史さん
21/05/03 03:28:15.44 0.net
少なくとも奈良盆地と大阪平野でそんな事起きて無いよ
奈良わずっと安定的で大坂も居住区の変遷は有るけど
河川の堆積や流路変更等の地形要因ってのが有力

226:世界@名無史さん
21/05/03 11:31:19.42 0.net
>>223
多くの遺跡が衰退消滅してるけど破壊されたわけではない
破壊の痕跡なんてない
そもそも、古代社会には生活環境の変動で集落が破棄されて別の場所に移動することは珍しくなく、移転ラッシュの時代が何度かあるほどだ
そんな移転ラッシュが畿内では一世紀から二世紀にかけておこってただけ

227:世界@名無史さん
21/05/03 12:03:36.29 0.net
古代の倭はコロコロ首都移転するのが日常茶飯事だ
何が「まとまって破壊されてる」だよ、妄想もいい加減にしろ(笑)

228:世界@名無史さん
21/05/03 13:09:10.77 0.net
そんなこと言われても
どうすりゃいいのさ
    ___
   /ノ ヽ\
  /(●) (●)\
 |  (_人_)  |
  \  `⌒′ /
  /     \
 / /     ||
_| L[]o___/_/_
 \_三)
   |
   |__ コロ…
  ___\  コロ…
  ()__)┘

229:世界@名無史さん
21/05/03 14:01:15.96 0.net
浅草が衰退して、新宿が繁栄するようなものか

230:世界@名無史さん
21/05/03 14:27:47.50 0.net
いや、単に建物の寿命の20年とか30年で、立て替えだろ

231:世界@名無史さん
21/05/03 14:36:41.15 0.net
黄河の下流や、チグリス・ユーフラテス川のような極端な暴れ川だと、都市が洪水に飲まれて消滅することが珍しくない

232:世界@名無史さん
21/05/03 15:40:18.10 0.net
DNA的にも時間をかけてゆっくり混じり合った説が有力で100年そこらで急激にゲノムが入れ替わった説はDND分布的にありえないんだっけか

233:世界@名無史さん
21/05/04 00:11:13.82 0.net
>>230
法隆寺や千本釈迦堂みたいな奇跡的に現存している木造建築物って無いの?

234:世界@名無史さん
21/05/04 02:01:25.52 0.net
どっちも何度も建て替えてるしな

235:世界@名無史さん
21/05/04 02:12:29.68 0.net
防蟻剤のない時代に掘立柱建物だもん

236:世界@名無史さん
21/05/04 09:23:42.50 0.net
現代の長安も洛陽も、古都ではない
単なるショボい地方都市

237:世界@名無史さん
21/05/04 09:57:48.72 0.net
京都の悪口言うなよ
京都タワーがご自慢なんだって?京カスはw

238:世界@名無史さん
21/05/04 10:33:45.81 0.net
>>236
そりゃ場所が近いだけで同一じゃないしな
漢の頃の洛陽はいまの洛陽の場所に隣接した隣町みたいな場所だろ

239:世界@名無史さん
21/05/04 10:57:31.60 0.net
西安は昔の長安城と微妙にずれたけど移動ってほどじゃないな。明代の城壁も完全に残ってるし。

240:世界@名無史さん
21/05/04 18:12:41.80 0.net
明の歴史は日本では滅多に話題にならないけど
万里の長城や紫禁城などそのビジュアルの影響力は中国歴代王朝ナンバーワン、圧倒的やな
他の王朝が束になっても敵わん……いや清の辮髪と旗装はわりとインパクト強いか

241:世界@名無史さん
21/05/04 23:03:48.92 0.net
春秋戦国時代、水利灌漑施設も発展したが、諸侯の国の間に築かれた堤防はみな、
自国に水害が及ばないようにするものだったから、洪水はしばしば隣国に
流れ込んで大災害をもたらしたとか
そのために、治水事業の統一管理の必要が痛感されていた

242:世界@名無史さん
21/05/05 02:05:17.31 0.net
この時代のトイレはどうしてたんだろ

243:世界@名無史さん
21/05/05 08:44:22.19 0.net
>>241
春秋戦国の堤防、洪水、水害といえば
趙の恵文王は河水を決壊させて魏を攻撃してますね(楽毅が活躍してた頃)
なお同年自国も別の河川の氾濫で水没した模様

244:世界@名無史さん
21/05/05 09:23:57.75 0.net
揚子江や珠江沿いには多くの都市が並んでいるのに、
山東省の省都、済南は河岸には建設されなかった
その理由は黄河があまりに激しく荒れるからだと

245:世界@名無史さん
21/05/05 15:14:43.10 0.net
以前の開封みたく氾濫で埋まって発見されて無いだけじゃねーの

246:世界@名無史さん
21/05/05 18:38:58.16 0.net
古代の都市国家の分布をみると、山西高原の東縁をなす太行山脈の東麓に
沿っているし、その東方では、平原のなかに顔を出しているいくつかの
丘陵の上に都市国家が建設され、山東省の泰山山塊にいたっている
「中原」とはいいながら、平原部は黄河の氾濫と水質の悪さのために、
人間の生存にあまり適さない環境だった

247:世界@名無史さん
21/05/05 22:53:17.80 0.net
土木技術が未発達だと河川沿いの大平原はあまり都市が形成されないよね

248:世界@名無史さん
21/05/06 02:47:27.65 0.net
古代黄河の場合はマジでやらかすと武帝の時みたく水が溢れた地域が壊滅して流民大発生するからな…
中小(現代的感覚なら悲惨な)被害は毎年のようにあっただろうし
後この辺りの時代は城壁だけじゃなく大きな宮殿とかも版築の山に屋根かぶせるような作りだし
おそらく浸水は軽度でも避けたいよなぁ…

249:世界@名無史さん
21/05/06 02:55:28.67 0.net
それなりに良い屋敷なんかわ木柱と梁構造だよ

250:世界@名無史さん
21/05/06 06:25:49.97 0.net
洛陽盆地は、黄河の氾濫の危険に直接おびやかされることもなく、
それを貫流する洛河とその支流伊河は原始的な技術で十分に
灌漑工事が可能な規模だった
さらに洛陽盆地は東アジアの南北を結ぶ陸路と水路の結節点にあたっていた
洛陽から東方、開封にいたる約200㎞の間だけは、河の流速は緩く、
両岸は低く、水路は安定して、南から北へ、北から南への渡河は容易である

251:世界@名無史さん
21/05/07 05:33:52.61 0.net
>>249
それなりの良い屋敷はそれでいいだろうけど
戦国諸侯の首都にあるような高大な宮殿建築は柱と梁だけじゃ無理だったらしい
咸陽宮や燕下都、中山王陵などに残る宮殿遺構から推測される内部構造は基本的に中身土台

252:世界@名無史さん
21/05/07 06:14:19.73 0.net
臨淄は現代では山東省の一小都市に成り下がったけど、春秋戦国時代には、
大国斉の都であり、当時、最大の大都市だった
周の洛陽、趙の邯鄲、魏の大梁、楚の郢なども、政治都市であるとともに
手工業あるいは商業都市にもなって巨大化した

253:世界@名無史さん
21/05/07 18:56:38.02 0.net
>>251
中身が土台なんじゃ無く土台の上に建築するんだぞw
歴史ドラマでもよく出て来る高い位置に築かれてるアレ

254:世界@名無史さん
21/05/07 23:49:08.03 0.net
>>253
歴史ドラマのそれとは違うらしいよ
段差をつけた土台を壁にして建物をへばりつくように建てるのが戦国期の宮殿
だから一層目や二層目の中心部は土が詰まってて内部に大きなスペースを確保できない
外からは高層建築に見えても実際に土台上に建ってるのは上層のみで復元図では概ね平屋or二階建て

255:世界@名無史さん
21/05/08 01:18:19.39 0.net
>>254
いや合ってるよ
咸陽の宮殿は土台の上に築かれてる
ドラマでよく見掛けるヤツと同じ建造法
底層は一層だし抑々土台以外の建築部分は極一部
土台の上に築かれてるのが三階建て

256:世界@名無史さん
21/05/08 09:32:24.84 0.net
>>255
回答ありがとう、詳しいね
三層くらいの階段状土台を核心とする台?建築らしい燕下都や中山王陵遺跡の宮殿とは違うってことか
咸陽宮の基壇が一層というのはわかる
構造物が三階建てというのは随分具体的だけど、なにか決定的な証拠が見つかっているのかな?
もしよければネットで閲覧可能な発掘調査報告の類や論文など、参考になるものがあれば教えていただけないだろうか

257:世界@名無史さん
21/05/08 14:12:57.70 0.net
燕下都の建築は主に平屋だけど木造二階建て部分も有る,建築考古学論文集1987年
咸陽も3階建てと思ってたけど見たら外側二階建て,内側二階建てで重なって無いのね,秦咸陽宮一号宮殿遺址立面復原図

258:世界@名無史さん
21/05/08 20:05:48.41 0.net
やっぱ先秦は平屋か二階建のイメージだよなぁ
楼閣とかと違って普段使用する大型宮殿建築で無理する必要ないし

259:世界@名無史さん
21/05/09 00:44:11.28 0.net
>>257
さっそく情報ありがとうございます
土台の使い方こそ重ねて高さを強調する?燕趙中山あたりとは多少趣が異なるけど
台上にある建物の主要構造は基本的に大差ない感じですね

260:世界@名無史さん
21/05/09 05:36:52.70 0.net
ローマでは庶民のほうが高層化したが
中国でもそんなふうかな

261:世界@名無史さん
21/05/09 13:07:42.29 0.net
ローマの石造高層建築は一旦地震起きると倒壊し捲って被害惨重だったから
地震の多い地域じゃ無理だよ

262:世界@名無史さん
21/05/09 19:43:28.30 0.net
まあ中原は地震被害の少ない地域だからあまり気にしてなさそうだが

263:世界@名無史さん
21/05/10 05:05:09.12 0.net
イタリア半島はアフリカプレートとユーラシアプレートがぶつかる地震多発地帯だけどな

264:世界@名無史さん
21/05/10 15:54:17.29 0.net
だから崩落しまくってるしな
材木に向いた森林も少ない

265:世界@名無史さん
21/05/11 00:21:12.93 0.net
紀元前2000年ごろ、中国の森林被覆率は64%だった
それが清代のはじめごろには21%に低下していた

266:世界@名無史さん
21/05/11 01:19:03.15 0.net
日本は森林率65パーセントだが江戸時代は40パーセントほど
と考えるといまの日本もかなり異常
イギリスは森林率10パーセントと低い
現在ドイツフランスイタリアなど森林率は三十パーセントあまり
三割程度の森林率をめざしてるんだろうな

267:世界@名無史さん
21/05/11 01:47:17.02 0.net
ヨーロッパは中世までは森林におおわれてるとこが多かったが三行革命前ぐらいに森が禿げたんだっけ

268:世界@名無史さん
21/05/11 02:03:08.26 0.net
また髪の話をしてる

269:世界@名無史さん
21/05/11 02:17:36.15 0.net
>>266
戦後の復興で増えたのか
おそらく杉だよね。花粉症がひどくなったのか

270:世界@名無史さん
21/05/11 06:46:37.55 0.net
江戸時代の日本はハゲ山だらけだったとよくいわれるけど、
それでも森林率は40%もあったのか
ヨーロッパ諸国の場合、大航海時代以降、帆船を大量に製造したことも
影響しているのかな

271:世界@名無史さん
21/05/11 07:59:16.03 0.net
江戸時代前半に大規模開発で禿げ山が増えて洪水とかの災害多発するようになったから、江戸時代半ばごろから開発に規制が入って、環境保全が進んでるからなあ
それで40%なんじゃね?

272:世界@名無史さん
21/05/11 08:01:12.41 0.net
ヨーロッパで森林がなくなったのは、製鉄で木炭を使いすぎたかららしいよ
森がなくなって木炭が入手しにくくなったことで、木炭よりやすい石炭が普及したと。

273:世界@名無史さん
21/05/11 10:20:36.17 0.net
明治政府が関東平野の田畑生産力を東京でつぶしたのを悔んで
仙台平野など東北北海道に強力な規制しいて
住宅開発は山地に追いやったらしいが
江戸でやっていればなぁ

274:世界@名無史さん
21/05/11 12:08:26.02 0.net
当時、同程度な土地でも地域によって単位面積あたりの収穫が二倍三倍も違うほどの格差があったわけで、生産力に劣る東北とかで農地を保護しても実際の効果は低かっただろうけどな

275:世界@名無史さん
21/05/11 12:34:57.24 0.net
おしいことに先進地帯の近畿は平野平地がほとんどない日本

276:世界@名無史さん
21/05/11 13:05:18.70 0.net
日本の場合ハゲ山は土砂崩れ起こすばかりで利用価値ほとんどないけど、平坦なイングランドでは牧草地や耕地として利用できるからなあ
少なくとも産業政策としては森林を回復させる必要はそんなに感じなかったんだろう

277:世界@名無史さん
21/05/11 13:07:07.50 0.net
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278:世界@名無史さん
21/05/11 15:02:12.28 0.net
>>270
エゲカスは製鉄の為に森林乱伐し捲って禿げた

279:世界@名無史さん
21/05/11 15:04:29.73 0.net
>>276
17世紀初頭に最も生産量多かった地域の製鉄量が
半世紀で10%まで激減してるけどね

280:世界@名無史さん
21/05/11 18:30:40.49 0.net
>>272
木炭枯渇で石炭に切り替えた当初は木炭より不純物が多かったせいで銑鉄の品質が落ち、鉄の精錬技術を高める必要が出たんだよな
木炭の時代の銑鉄より石炭の銑鉄の方が、どうしても脆くなってたから。

281:世界@名無史さん
21/05/11 18:39:50.96 0.net
>江戸時代の日本はハゲ山だらけだったとよくいわれるけど
この種の本って必ずと言っていいほど広重の浮世絵を根拠に挙げているけど、
「東海道五十三次」に描かれている全ての山が禿山ではないし
鞠子のような前面の落葉樹が葉を散らしていて冬の情景なのは明らかなのに、背後の山が
青葉に覆われていないのが証拠だとか、先日産経抄で紹介された著者が断定しているらしいが、マジわけが分からん。
前面の木が繁っているのに背景が土山だから、これは禿山を描いたのだというのなら分かるんだけどね。
森か山なのか区別するための絵画表現ではないと決めつける根拠も分からん。
何より広重は現地に行かず想像で「東海道五十三次」を画いたのに……
六甲や生駒のように花崗岩の採取で荒山なのは自明なのに、わざわざ調査して禿山なのが
明らかになったと手柄顔で調査報告と称する無意味な事実を証拠にしていたり、
『森林の江戸学』には東北の山が乱伐されたと参考文献を挙げているが、
同書にある和泉国の山は大半が樹木に覆われていたという不都合な真実はスルーするという悪書もある。
スレチなのは承知だが、話の流れのついでに、俺が読むべき良書を誰か紹介してくれないか?

282:世界@名無史さん
21/05/12 02:45:57.21 0.net
村に近い山だと乱伐で禿山に成りそうだから
その都度領主の許可が要る様に命令出してた所もあるけど
何で読んだか忘れた

283:世界@名無史さん
21/05/25 18:59:04.40 0.net
春秋戦国時代の食糧は稲、粟、黍、麦、豆など数種類あったが、
豆は下層階級の食物だったのだとか
『菅子』巻五「重令」には、「豆や穀物が不足すると、民衆には必ず飢餓の様子が
現れる」という言葉があり、ここからも豆が庶民の食糧であることがわかる

284:世界@名無史さん
21/05/25 19:15:05.50 0.net
豆はタンパクだが毒性も

285:世界@名無史さん
21/05/25 22:23:33.87 0.net
古代中国には牛をはじめとする家畜を生贄に捧げる祭儀が存在したが、
ああいうものはいつの時代まで存続していたんだろう?
地中海世界ではキリスト教の普及とともに廃れていったらしいが

286:世界@名無史さん
21/05/25 23:17:13.34 0.net
少なくとも、後漢とか三国時代までは存続してそう
隋唐時代はどうなんだろ?
宋代は?

287:世界@名無史さん
21/05/26 04:49:40.94 0.net
古代ゲルマン人の地母神なども聖牛だったらしい

288:世界@名無史さん
21/05/26 06:15:40.06 0.net
頻度の問題でしょ
日本国は今に至っても天皇家が何かやってるし

289:世界@名無史さん
21/05/26 06:25:59.38 0.net
ネパールでは、今でも生け贄の動物が何十万頭も殺されて問題になってるけどな

290:世界@名無史さん
21/05/26 07:42:14.23 0.net
犠牲と言ったってお供えしたあとちゃんと食べるんだろ。ご近所に振る舞ったり。
なら別にいいんじゃね?

291:世界@名無史さん
21/05/26 08:03:34.34 0.net
農耕民族が米や麦をお供えするのも、牧畜民族が家畜をお供えするのも、やってることは同じだ

292:世界@名無史さん
21/05/26 08:29:11.87 0.net
宗教儀式という点でわね
血腥さの観点なら全然違う

293:世界@名無史さん
21/05/26 09:15:30.73 0.net
>>289
URLリンク(www.afpbb.com)
この写真だな、ネパールのいけにえ祭り

生贄とはまた意味が違うが、唐代には白馬を屠ってその血をすすって
誓いを立てる儀式というのがあったらしい

294:世界@名無史さん
21/05/26 10:39:11.03 0.net
キリスト教以前のケルト人ではインドとおなじバラモン
僧侶が勢力張っていた
どういうわけか僧侶階級が衰退したあとでローマ人が来たらしい
ブリテン島が中心だった

295:世界@名無史さん
21/05/26 12:12:14.96 0.net
あえて言うなら、スペインの闘牛だって元々は宗教儀式で家畜を生け贄に捧げてるわけだよなあ

296:世界@名無史さん
21/05/26 22:42:36.83 0.net
殷代には人間を生贄に捧げることもあったとか

297:世界@名無史さん
21/05/26 23:44:25.49 0.net
羌という異民族だけどな。一説に羌という漢字は二本足の羊の意味だとか。

298:世界@名無史さん
21/05/27 05:34:47.44 0.net
そんな説無いけどな
甲骨文すら見た事無いおっさんが全く予備知識無しに妄想

299:世界@名無史さん
21/05/27 10:38:56.71 0.net
春秋戦国時代には、商工業の発達が農村の閉鎖的な経済をゆさぶり、共同体の上層の
人びとがうまく土地をとりこんで富農となる反面、土地を失って没落して貧農と
なったり、生活の途を失って都市へ流れていった者も少なくなかった
江戸時代の日本で士農工商といわれたのは、このように商業が社会の安定を脅かす
おそれがあったからなのかな?

300:世界@名無史さん
21/05/27 12:52:22.82 0.net
原始共産制の農村共同体なんてのは、マルクス主義史観の学者たちの空想妄想の中にしか存在しない架空の農村

301:世界@名無史さん
21/05/27 16:11:01.93 0.net
粗放農業は農産共同体を形成し易いよ稲作より
>>299
社会変動が起きる位経済活動が発達したのわ漢代入ってからじゃね?
一応七国に分かれてたし

302:世界@名無史さん
21/05/27 17:25:13.63 0.net
>>300
原始共産制って農耕以前の狩猟採集社会が想定されてるんだが・・・
こういうマルクスのマの字も知らん低能が「ぼくのかんがえたまるくすしゅぎ」を妄想しては叩くのって何なの?
お前の妄想はママにでも聞いてもらえよ誰も興味ねーから

303:世界@名無史さん
21/05/28 03:25:15.75 0.net
>>298
士農工商って言葉自体が最近じゃ使われないのでは

304:世界@名無史さん
21/05/28 07:41:57.15 0.net
>>299
江戸時代の日本について士農工商と言ったのは、同時代にはほとんどなくて、主に明治以後の人が江戸時代をあしざまに言うための言葉という状態
というか、本来は朱子学の言葉で日本の江戸時代の社会とはぜんぜん違うんだよ

305:世界@名無史さん
21/05/28 08:45:15.21 0.net
士7%農22%工7%商7%農奴44%奴婢14%奴隷9%

306:世界@名無史さん
21/05/28 18:07:21.77 0.net
波動砲!エネルギー充填率120%!!
艦長!安全深度限界ですー!!
まだいける!あと20m潜れ!!
みたいな?

307:世界@名無史さん
21/05/28 18:29:21.30 0.net
春秋戦国時代にはさまざまな形の貨幣があったが、布銭(農具をかたどった銭)は
おもに中原地域で、刀銭はおもに燕や斉で、円銭は秦で用いられていたんだよな
ある意味多様性があって面白いともいえるが

308:世界@名無史さん
21/05/28 18:49:00.80 0.net
>>307
復古主義者の王モウは、前漢を滅ぼして古銭を復刻した

309:世界@名無史さん
21/05/28 20:18:49.93 0.net
宝貝が貨幣として用いられていたのはいつ頃ぐらいまでなんだろ?
海岸にいけば入手できる貨幣とかインフレデフレ凄まじい気がするけど

310:世界@名無史さん
21/05/28 22:16:47.51 0.net
>>309
王莽の政策が破綻したのちは、貝貨が雲南以外で使われることはなかったらしい

311:世界@名無史さん
21/05/29 05:04:39.14 0.net
>>305
徳川時代中期以降は農奴が奴隷奉公で都市へ奴婢として出荷される数が増加したよ

312:世界@名無史さん
21/05/31 14:56:48.61 0.net
江南では昔から巫術が盛んだったらしいけど、道教とはどう違うのかな?

313:世界@名無史さん
21/05/31 16:09:00.87 0.net
鬼道ってヤツじゃね?
どんなのか知らんけど

314:世界@名無史さん
21/05/31 19:39:01.15 0.net
江南の巫女は楽器を叩いて死人の魂を下ろし、死者に話をさせたらしい
さらに吉凶を占い、ときにはひでりや雨乞いのとき、犠牲として天に
捧げられる場合もあった
周の時代には手に茅を持って舞い、託宣をしたという

315:世界@名無史さん
21/05/31 20:42:40.94 0.net
公孫衍って前314年に秦に攻められて敗走したあとの動向わかっているのでしょうか?
武王のもとで甘茂にどうこうとか、その後の伊闕の戦いでは魏の使者となり秦と和平したとか何とか書いてあるところがちらほらありますがあれ向寿や公孫奭とかという人と混同しているような…

316:世界@名無史さん
21/06/01 06:44:53.44 0.net
>>312
道教よりむしろ、儒教のルーツがそれ
孔子が「怪力乱神を語らず」とする以前の儒教はシャーマニズムだった
孔子の母も巫女だったと言われている

317:世界@名無史さん
21/06/01 07:09:54.74 0.net
違うよ
祖先神を祭る宗族制と政教一体だけど
既にシャマニズムでわ無いよ

318:世界@名無史さん
21/06/01 07:42:31.64 0.net
戦国時代中期以後、漢民族共通の祖先と考えられるようになった黄帝も、
風雨を支配する巫術者と考えられていた
しかし、中国の古代ではシャーマン=王だったにしても、為政者が儒教を民衆統治の
手段にしてから後、巫術者の行為はおおむね時の権力に対してアンチテーゼとして
働くため、史料に残される例がきわめて少ない

319:世界@名無史さん
21/06/01 08:06:54.71 0.net
>>315
史記張儀列伝では張儀死後に入秦したことになっているからね
個人的には武王~昭王の初期は公孫なんとかがよく登場するので混同の可能性は相当あると思う
向寿「そろそろ誰が昭襄王の真の幼馴染か決めようではないか?」

紀年記事における公孫衍または犀首という名での登場は
たぶん魏世家の哀王九年が最後じゃないかな?(岸門に敗走したのが哀王五年、哀王十年に張儀卒)
その後も存命かもしれないけど魏または秦の将軍、宰相としての活動は確認できない気がする

320:世界@名無史さん
21/06/01 10:42:26.11 0.net
夏后少康の庶子の無余という人が会稽に封じられ、
土地の風習に従って入墨をし、
髪を切って村落をつくった
その子孫が越王勾践

321:世界@名無史さん
21/06/01 11:32:56.04 0.net
こじつけ伝説だろそんなん

322:世界@名無史さん
21/06/01 15:46:00.79 0.net
>こじつけ伝説だろ、そんなもん
いや、問題は何故こじつける必要があったか?そして、それを記録するだけの裏付けはあったのかどうか?
が、問題なんだろ
つまり、当時に二里頭文化の集団移民が実際にあって、それを夏の王族に仮託されたのか
そして、それを裏付ける文化的な連続性があったのかどうか

323:世界@名無史さん
21/06/01 18:06:20.25 0.net
たとえ当時なんらかの根拠があったとしても
今となっては匈奴≒夏の末裔みたく証明できないだろうしなんとも
初期越の有力者墓は中原型だった、という話も聞かないし

324:世界@名無史さん
21/06/01 18:55:04.67 0.net
>>319
ご丁寧に解答くださってありがとうございます!
古代特有の楽しく同時にもどかしい感じ…おとしどころ探さなくては

325:世界@名無史さん
21/06/01 19:57:28.42 0.net
呉太伯の父は古公亶父といい、周王朝の祖だが、
長男の太伯よりも末子を位に即けたいと願っていた
それを知った太伯は位を弟に譲るため、髪を切り、
入墨をする蛮族の風習をして会稽に行き、呉の始祖となったという
これもこじつけ伝説?

326:世界@名無史さん
21/06/01 20:04:38.49 0.net
>>324
いえいえ、張儀列伝と魏世家という基礎中の基礎の範囲でしか答えられず申し訳ない
一応魏将の記述が史記比豊富な竹書紀年に犀首がいないか探したこともあるのですがそれらしき人物はいませんでした
武王期以降になると宣太后一族他に関心が移ってしまい完全に勉強不足です(汗)

327:世界@名無史さん
21/06/01 21:40:39.51 0.net
>>325
あのまま周に残っていたら殺されたのが李歴ではなく太伯だったんだろうか?

328:世界@名無史さん
21/06/02 11:38:01.29 0.net
殷周時代の大都市、とりわけ王都は、王朝の滅亡とともに
放棄されるものであり、政治的な性格を強く帯びていた
しかし戦国時代になると、王朝の興亡に左右されない、
巨大な経済都市が出現する
なかでも大規模な城郭都市が生まれたのは、韓・魏・趙の地域

329:世界@名無史さん
21/06/02 14:38:04.45 0.net
そんだけ都市の力が強くなったってことか
インフラとマンパワーが

330:世界@名無史さん
21/06/02 19:35:50.47 0.net
戦国期には社会的・地域的な分業が相当な水準まで発展し、天然資源のみならず、
日常的な什器の流通も始まっていた
北海では馬や犬、南海では大鳥の羽・象牙・犀の角・青色の染料・丹砂、
東海では紫貝・葛製の布・魚・塩、西海では皮革やヤクの尾を産出した
中国の民はこれを交易で手に入れることができた

331:世界@名無史さん
21/06/03 00:09:04.54 0.net
>>330
それだけ色んな交易品があるのに調味料は塩と酢だけなのか

332:世界@名無史さん
21/06/03 07:28:01.55 0.net
戦国期だと魚醤,肉醤と味噌が普及前だけど有る感じ

333:世界@名無史さん
21/06/03 14:22:03.76 0.net
春秋戦国時代には、食客3000人を抱えるような人物も現れたけど、
それだけ社会が豊かになったということなのかな
ちなみに孟嘗君はいかもの食いで、他国からの逃亡者や罪人までも集めていた

334:世界@名無史さん
21/06/03 15:05:50.21 0.net
うがった見方だと、有能な人材は大国に取られてるからイカモノ人材しか集められなかったという説も
そんなイカモノ軍団を使いこなして活用したんだからすごいよな

335:世界@名無史さん
21/06/03 15:16:59.55 0.net
有能はイカモノでも有能だし
イカモノでも有能は有能でしょ

336:世界@名無史さん
21/06/03 17:24:03.67 0.net
犯罪者の活用といえば秦
秦末には軍が罪人だらけになっちゃった

337:世界@名無史さん
21/06/03 22:30:50.62 0.net
ヨーロッパの城郭都市の場合、門限が定められていたが、
中国の都市の場合はどうだったんだろう?

338:世界@名無史さん
21/06/03 23:33:44.82 0.net
夜明けまでは城門を出入りできなかったからこそ、町を出られなかったからこそ、鶏の鳴き真似をする人材が活躍したんじゃね

339:世界@名無史さん
21/06/04 06:02:19.83 0.net
鶏鳴もそうだし光武帝も門限過ぎて野宿した逸話がある
宋の開封なんかは不夜城として有名

340:世界@名無史さん
21/06/04 07:30:31.96 0.net
日本の江戸城も門限が決まっていて、
それを過ぎると将軍といえども
みだりに入れてもらえなかった

341:世界@名無史さん
21/06/04 07:48:45.63 0.net
つうか、江戸だと町全体がブロック状に区切られて柵で往来制限されててその門扉が夜間には閉じられて往来できなかったはず
その門のことは木戸とか城戸と呼んでたはず

342:世界@名無史さん
21/06/04 14:32:23.91 0.net
日本では中国の都市のなかで、唐の長安だけがやたら有名で、
宋の開封では夜間の通行を禁じた唐代の坊制はとっくに
なくなっていたことなど、ほとんど知られていないな

343:世界@名無史さん
21/06/04 23:47:27.70 0.net
文化は伝播するが現地に馴染みがあるわけじゃないからね
これは前近代中国に限らず現代の欧米に対しても言えるな
有名なのは代表的な都市だけ

344:世界@名無史さん
21/06/05 10:58:03.98 0.net
春秋戦国時代に諸子百家が盛んに活躍していたが、
そのなかには一人の秦国人もいなかった
やはり秦は文化的にも遅れていたのかな

345:世界@名無史さん
21/06/05 11:33:20.45 0.net
秦で活躍した人は複数いるのに秦出身って聞かんよね

346:世界@名無史さん
21/06/05 11:55:44.05 0.net
秦は法律が厳しくて高等遊民はできないしゆっくり学問もできなかった
一家に二人以上の男子がいれば必ず分家しなければならないとして
自作農の増加をはかり
五人組で農家を互いを監視させた
漢代になると余裕のある家の子が
ずっと学問して世評が高まり70歳でようやく官に招かれ
とか出てくる。孔明もニートだったし

347:世界@名無史さん
21/06/05 12:15:01.81 0.net
孔明ニートは誤読だな
あいつら、大土地所有者、大土地経営者らは領地経営が本業
君主に仕えるのは副業みたいなもんだぞ

348:世界@名無史さん
21/06/05 12:38:19.68 0.net
呉の4姓とか大土地所有者だけど先祖を見ると北から来たみたいだし
東晋の豪族もそういうの多いし
孔明の実家も華北で戦乱に押されて南に流れてきたみたいだし
太守のおじさん殺されてるし荊州に土地縁なさそうよね

349:世界@名無史さん
21/06/05 12:53:24.99 0.net
その辺の時代の大土地所有者って、異境に移動するときに領民を引き連れて移動することが多かったみたいだね
土地は移動先で手に入れて開拓して入植するのかな?
だから、孔明も異境である荊州で地主業、大土地経営をしてるわけだよ
自分自身も土地を耕したりしてるけど、それも本業じゃない

350:世界@名無史さん
21/06/05 13:04:54.20 0.net
袁紹も司馬懿も仕官に出てこないと殺されるから仕方なく仕官
本音では高等遊民していたかったようだ

351:世界@名無史さん
21/06/05 13:28:28.16 0.net
未だ未耕地有る時代だし
上古わ道徳を競い 中世わ智謀を逐い 当世わ総力を争う

352:世界@名無史さん
21/06/05 15:47:56.22 0.net
>>351
死ね

353:世界@名無史さん
21/06/05 16:00:26.35 0.net
>>350
司馬懿はわかるけど、袁紹もなの!?

354:世界@名無史さん
21/06/05 16:45:37.93 0.net
袁紹は董卓に脅されて仕官したんだっけ
袁紹が離反した腹いせに叔父が殺されてるな、たしか?

355:世界@名無史さん
21/06/05 16:52:32.20 0.net
朝廷の政治を壟断していた宦官の趙忠らは、袁紹の行動を不審に思い危険視していた。そのことを聞いた叔父の袁隗は、一族を滅ぼすつもりかと袁紹を叱ったという(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)。そのため、何進の掾(属官)に召されるとようやく官途に就くことにした

356:世界@名無史さん
21/06/05 17:40:46.81 0.net
>>354
訂正
董卓のときに仕官したわけではない
すまん。指摘のレスの意味も読み取れてなかったし……

357:世界@名無史さん
21/06/05 18:03:36.75 0.net
秦の知恵者と言えば厳君かな

358:世界@名無史さん
21/06/06 03:34:29.86 0.net
史上活躍した人物となると、他の国と同じくまずは宗族ということになる
昭王期くらいまでは公子や公孫が政戦によく登場する
まあ出自が明らかな人間は殆どいないから公孫某でも秦出身確定にならんのが辛いとこだが
他にパッと思い浮かぶ出身地が書いてある有力者は・・・
白起:バリバリの秦地出身
王氏:秦の本拠地、関中東端出身
犀首:秦の周縁、魏との係争地域出身
あと蒙恬みたく先祖は他国者だけど本人は秦育ちな秦人(知らんけど)も割といるかもしれん

359:世界@名無史さん
21/06/06 07:54:57.14 0.net
どいつもこいつも実務的な人で私塾を建てて後進の育成になんて考えそうになさそうだ
お国柄終わりを全うできないってのも要素の1つかな

360:世界@名無史さん
21/06/06 08:52:37.40 0.net
私塾で後進の育成とか無いしな
基本はサロン

361:世界@名無史さん
21/06/06 13:49:14.03 0.net
王朝のその後を考えない利己主義者の集まりで、自分の能力を活かしたい人が来るから乱世には発展するけど後に続かない
始皇帝没後の帝国を見ているようにで面白い
趙高・李斯と陳平・周勃の差よ

362:世界@名無史さん
21/06/06 16:13:33.53 0.net
始皇帝に人を見る目が無かったというだけの気も

363:世界@名無史さん
21/06/06 16:48:16.26 0.net
豎5fc; 趙高 公子開方みたいな一見忠義面した輩わ質悪いから

364:世界@名無史さん
21/06/06 17:02:48.55 0.net
>>363
死ね

365:世界@名無史さん
21/06/06 19:02:33.34 0.net
>>359
>>361
秦は諸子百家に分類される人材を雇用しているけど、多くが便利な侵略案内人&権力強化のお供(寵臣)タイプで
史料を見る限り諸子百家的な文化を振興しよう、みたいなタイプの権力者は戦国末の呂不韋を待たなければいけないからなぁ
しかも孤立する甘茂説話の数々や、逐客令というワード、厳格な移動の制限から考えて
東方で流行る諸子百家ムーブを積極的に否定、拒絶する有力者&地元秦人は少なくなさそう

366:世界@名無史さん
21/06/06 19:34:38.51 0.net
側近と寵臣は違うでしょ

367:世界@名無史さん
21/06/07 01:54:19.39 0.net
側近は君主と親しい、つまり君寵を得ている人物、すなわち寵臣である場合が少なくないし
君主の信頼を背景に強大な政治権力を握る寵臣は側近出身であることが多いのでは?

368:世界@名無史さん
21/06/07 06:02:18.25 0.net
寵臣は権力握って無い場合も多いよね

369:世界@名無史さん
21/06/07 07:09:09.32 0.net
もちろん場合によりけり
寵臣政治する事もあればただの遊び相手でしかないこともある、それは側近も同じだけど

370:世界@名無史さん
21/06/07 19:18:47.13 0.net
側近は近臣と手足となって働く信頼厚い体制幹部を指す場合がほとんどだけど
寵臣は要するにお気に入りなのでやや範囲が広いかな
上は君主個人の寵愛を頼りに強権を振るい改革を強行する歴史的人物から下は寝室で活躍する人まで


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