なぜ神聖ローマ帝国をフランスは併合しなかったのかat WHIS
なぜ神聖ローマ帝国をフランスは併合しなかったのか - 暇つぶし2ch586:世界@名無史さん
21/04/09 07:18:23.09 0.net
>>578
ローマ帝国分裂からいまだに続いているよ。
一応、穏やかになったのは、三十年戦争終結・ウェストファリア条約だけれど、
ナポレオンで再燃し、ヒトラーの第三帝国構想でまた持ち上がり、今はEU。

587:世界@名無史さん
21/04/09 07:24:07.45 0.net
>>580
そもそも、ヒトラーにしても、ヴィリーにしても、東方をドイツの領土または勢力圏にしようという意図はあったが、フランスを併合する意図はなかった
別にフランスに敬意とかじゃなく、統治に色々と面倒だからだが

588:世界@名無史さん
21/04/09 15:59:49.89 0.net
>>572女系の血を引いてる者から選帝

589:世界@名無史さん
21/04/09 16:01:19.09 0.net
>>581アルザスロレーヌは旧ロタール領

590:世界@名無史さん
21/04/09 17:24:36.46 0.net
ヨーロッパの王侯貴族なんて14世紀にはみんな親戚じゃん?
なんだかんだでカールマルテルやらピピンやらの子孫

591:世界@名無史さん
21/04/09 22:15:19.70 0.net
14世紀?くらいから中東欧の諸侯が西欧王朝から王を頂き傘下に入りはじめたのはなんでなの?

592:世界@名無史さん
21/04/10 07:29:04.62 0.net
>>585
9世紀~14世紀の間に、スウェーデン、ポーランド、ボヘミア、ハンガリーの王族貴族を介して、
西欧の王侯貴族と、ビザンツ帝国やロシア諸邦の支配層と、血が行ったり来たりしているでよ。

593:世界@名無史さん
21/04/11 09:27:33.79 0.net
>>579
綺麗に分かれるはず無いじゃん。綺麗どころか、全く分けようが無い。
旧帝国の再統一が究極的な目標、ローマ帝国なしいはローマ帝冠を受けたフランク王国の再統一。
いうたらヨーロッパの天下取り。
戦国時代のような状態から統一を一旦諦めてしまうのがウェストファリア条約よ。

594:世界@名無史さん
21/04/11 09:55:02.64 0.net
>>587
全く分けようがない
わけではない
フランス語圏とドイツ語圏は中世以降にはすでに分たれていたし、フランスとドイツは別の国という意識も中世末期、百年戦争の終盤以降には醸成されてる
ただし、その境界は不文明であり、かつ流動的でもあったって話だ

595:世界@名無史さん
21/04/11 12:01:25.58 0.net
>>588
分かれてねえよ。
現役にほぼ半々のベルギーみたいな国あるじゃん。
王様は民草の人種や言語なんて意に介してねえよ。人種・言語・文化の境界なんてお構いなしに、領地を斬り渡したり受け取ったり王族の縁組が有ったりが普通。
ここら一体の住民はみんなドイツ語を喋ってるからドイツの領地にすべきだ、みたいなのが出てくるのは19世紀後半からで、戦争の大義名分になるのは20世紀に入ってからだ。
それでも、戦略的・経済的なメリットが上回れば、人種・言語・文化お構いなしの国境を設定する。
ここ界隈ドイツ語喋る人多いから、ドイツに統治されて方が良いって住民の多数が言うなら、ドイツに引き渡すよ、なんて素直に言い出したのは、20世後半だよ。ザールラント条約とか。

596:世界@名無史さん
21/04/11 12:44:54.82 0.net
ベルギー、スイス、アルザスロレーヌは旧ロタール領の残骸。

597:世界@名無史さん
21/04/11 13:19:53.91 0.net
スイス独立は難攻不落の山岳聖域かつ緩衝地帯だからわかる
なぜネーションがうまれる前に独仏蘭べ統一王国が成立しなかったのか
宗派が違うじゃ納得できない

598:世界@名無史さん
21/04/11 13:44:18.80 0.net
>>589
王侯がコスモポリタンなグループで、欧州圏内で一体的な存在であることと、主権国家概念成立以前の言語文化圏における地域差生まれ、ナショナリズムの萌芽が存在したことは矛盾しない
ハノーヴァー朝の大ブリテンとハノーヴァーの人的同君連合と、中世中期以前の私領(相続財産)としての同君連合は同一ではない

599:世界@名無史さん
21/04/11 13:49:20.75 0.net
中世中期までに、現代につながる「フランス」なる地域が生まれたのは、カペー朝の相続力の偉大さは間違いなく影響している
フランス王は、その臣下の使い方含め、やはり英邁or有能な王が多かった
ドイツはザクセン朝、ボーエンシュタウフェン朝の頃に皇帝・王がローマ帝国の夢を追いすぎたのが後々まで影響してるだろうな

600:世界@名無史さん
21/04/11 13:54:33.84 0.net
>>589
ついでに突っ込んでおくと、そのレスで言ってるのはフランス語圏とドイツ語圏のまさに周縁部の話で(旧ロタールの国)、
文化圏的にコアな領域
フランスであれば、イル・ド・フランスであったり、シャンパーニュ、ブロア、アンジューといった領域
ドイツであれば、大ザクセン、フランケン、シュバーベンと言った領域
これらの領域において、ドイツとフランスが別の国であるという意識が生まれていたって話を>>588でしている

601:世界@名無史さん
21/04/11 16:09:32.45 0.net
オラ達の圏域は他と違う一緒にしてくれるなって共同体の存在と主張はわかる
でもさ実際問題として王様諸侯が強ければそんなのおかまいなしに併合分割交換統一できたのでは?とおもってしまう
地理的障壁が独仏語地域にはほとんどないし
ロシア中華イスラームだと国民国家以前には地理的に手が出せない地域を除いて基本広域統一王朝だった
なぜ西欧中欧だけネーション以前にもあんなに細かく領土がわかれ何々伯爵領だの公国だのが群雄割拠して末長く存続できたのかがわからない
ウェストファリアでなぜ諦めてしまったのか

602:世界@名無史さん
21/04/11 16:18:52.70 0.net
>>591
地面ごと脱藩したんだよ。あの王様に統治されるの嫌ってふうに。
代わりの王様も要らんって。本邦で言うと、加賀国人一揆みたいなものよ。

603:世界@名無史さん
21/04/11 16:38:11.50 0.net
>>595
その辺いろんな説があるけど、「銃・病原菌・鉄」は人為によらない客観的理由を検討してるから一読おすすめ
必ずしも同意しきれない(あと、検討が雑な)部分はあるけど、それ込みでも面白いよ

604:世界@名無史さん
21/04/11 17:09:12.94 0.net
>>593
で、チャネル諸島はなんでフランスに引き渡されてないの?

605:世界@名無史さん
21/04/11 17:18:30.59 0.net
>>598
エリザベス2世に聞けよ
あそこは彼女の私領だ

606:世界@名無史さん
21/04/11 20:04:46.77 0.net
>>599
私領だから好き勝手指定医なんて時代ではないでしょうに。

607:世界@名無史さん
21/04/11 20:16:09.07 0.net
>>594
生まれてないだろ。
ドイツなんて小国割拠状態だったし、ナポレオンなんて全方面に攻めて取ってってやってる

608:世界@名無史さん
21/04/11 23:49:54.67 0.net
>>601
ツッコミどころしかないが、ドイツの領邦国家は別に民族・文化意識の反映ではない
ドイツ語を母語とするドイツ人意識は、16世紀には存在していたと言われ、ルターはその現象に方向性を与えた
(初期のプロテスタントは文化的なドイツ化とも言われる)
>>600
法的には彼女がどうするかの問題でしかない
英国議会の支配下にないから

609:世界@名無史さん
21/04/12 04:55:39.97 0.net
>>602
だからずっと言ってんじゃん、王様は民草の民族文化言語に関心なんか無い、民族意識・文化・言語の境界なんて無関係に領地のやりとり縁組なんかをやっていた、って。
で、16世紀? 神聖ローマ帝国からオランダが逃げて今に至ってんじゃん?
ドイツの北海沿岸地域とか、ずーっと、うちらの喋りはドイツ語違うんちゃうか?ってのはくすぶり続けていた。ニーダーザクセン方言群、どれも、標準的なドイツ語やらそれに近い
中部・南部のとは話が通じにくくて、オランダ語は素で理解するからね。
新しめの話なら、20世紀も終わり賭けの時期になって、欧州評議会のヨーロッパ地方言語・少数言語憲章の対象の扱いを受ける運びになった。
南は南で、なんとなくドイツになってるだけで、やはり、ドイツ人意識は薄く、バイエルン州はドイツ基本法み批准していいないし。

610:世界@名無史さん
21/04/12 08:08:32.38 0.net
>>603
それ、議論の我田引水
ドイツの領邦国家はそれそのものがナショナリズムの拠り所ではないからこそ、ドイツ人としての共同体としての帝国を必要としたって話
神聖ローマ帝国研究の本読めば必ず出てくるぞ

611:世界@名無史さん
21/04/12 11:44:42.77 0.net
>>604
そんなのは、それこそ、第三帝国構想でしょうに、二十世紀も中盤の

612:世界@名無史さん
21/04/12 12:30:12.60 0.net
フランスというはフランクのことをオイル語で言った形
つまりフランスはフランク王国の継承国家であるがドイツはイタリア半島との関わりでカール大帝から連綿と続く皇帝権だけ受け継いだという事
この腸捻転現象がこの両国に紛争をもたらしたといっても過言ではない

613:世界@名無史さん
21/04/12 12:33:27.28 0.net
>>605
ヴェストファーレンで死亡宣告書書かれた帝国が、その後もナポレオンに至るまでなぜなくならなかったのか
それ以前に「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と中世末期には呼ばれ始めた「ドイツ人」の意味
20世紀の第三帝国構想なんて19世紀のロマン主義の焼き直しだし、ロマン主義の先祖は、ゲーテによるドイツ連邦論持ち出すまでもなく、源流としてルター以来あったんだよ

614:世界@名無史さん
21/04/12 12:44:47.27 0.net
16世紀にドイツ人意識があったとしたら統一までに時間かかりすぎじゃね
350年近く経ってるよ帝国誕生まで
英蘭西葡スイス仏が17世紀までにそれらしい形を整えてるのと対照的
18世紀までなら絶頂期の仏が独併合しててもおかしくないよな、やっぱり
当時から仏とすみわけてて独文化圏がそれを阻んだってのは論拠が弱い

615:世界@名無史さん
21/04/12 13:06:40.05 0.net
ドイツ人の定義自体が世界史板で収まる話じゃない

616:世界@名無史さん
21/04/12 13:11:24.35 0.net
いやいやこの議論の流れだと母語がドイツ語ってことでしょ>>602
そんな衒学ぶることないよ

617:世界@名無史さん
21/04/12 13:34:11.98 0.net
オーストリア人、スイス人の一部、アルザスロレーヌ人もドイツ人だと

618:世界@名無史さん
21/04/12 14:17:15.58 0.net
そうなるね>>602がそういってんだもん
まあ、だから破綻してる論理なんだけど

619:世界@名無史さん
21/04/12 14:18:54.95 0.net
>>611
オーストリア人とかドイツ人のど真ん中だろ

620:世界@名無史さん
21/04/12 14:25:23.31 0.net
カトリックのドイツ人
ほぼバイエルン人みたいなもんね

621:世界@名無史さん
21/04/12 14:30:12.16 0.net
ナチス統治後のオーストリア人はドイツ人意識を避けている

622:世界@名無史さん
21/04/12 15:25:54.79 0.net
>>608
16世紀ったら、オストマルクとかプロイセンとか、王侯貴族がドイツ人、農民牧童木こりはスラブ人、みたいな状況だろ。
原住民比率を下げる新領土統治の定石で、他地域からドイツ人農民連れてきて素回したり、捕まって奴隷らされて上等、足軽に駆り出す、みたいなことしてたろ。

623:世界@名無史さん
21/04/12 15:30:38.35 0.net
>>607
イタリアを喪失というか離反されてしまったからだろ
ボヘミアとかシレジアとか、王侯貴族はドイツ人、農民商工民はスラブ人みたいなところも含んでたしな。

624:世界@名無史さん
21/04/12 18:36:03.21 0.net
東フランクの継承だからイタリアはそんなに必要ではない

625:世界@名無史さん
21/04/12 18:41:58.85 0.net
ローマ帝国の継承国が本領のローマ獲らずしてどうするよ?天下取りに成んねえぞ

626:世界@名無史さん
21/04/12 19:12:11.70 0.net
それ言ったら東ローマはどうなる

627:世界@名無史さん
21/04/12 19:19:42.28 0.net
>>619
に、こだわったザクセン朝とホーエンシュタウフェン朝のドイツ政策の結果が領邦国家の乱立という結果になった

628:世界@名無史さん
21/04/12 19:38:58.15 0.net
>>620
6世紀のユスティニアヌス皇帝とかちゃんと本領回復してたよ

629:世界@名無史さん
21/04/12 19:46:58.97 0.net
>>616
16世紀にはプロイセンはようやくドイツ騎士団領から世俗化して公国となった時代であり、ポーランド王の勢力下にあった
また、プロイセンは帝国の領域に入ったことはない

630:世界@名無史さん
21/04/12 21:48:08.08 0.net
何言ってんだ?特に二行目。プロイセン王国の王様がドイツ帝国の皇帝に成ったろ。
ドイツの北半分くらいプロイセン領だったべ。

631:世界@名無史さん
21/04/12 21:55:36.15 0.net
東プロイセンが帝国内にも領土を持っただけ

632:世界@名無史さん
21/04/13 00:56:38.93 0.net
違う
ブランデンブルク選帝侯が「帝国外の」プロイセン公国で国王を称することを皇帝に認められただけ
そのブランデンブルク=プロイセン王国が、最終的にドイツ帝国の母体となるわけだが
ブランデンブルクとプロイセンの関係と違いすら知らんとドイツについて語ってるとかいくらなんでもありえんだろう

633:世界@名無史さん
21/04/13 01:04:25.78 0.net
>>617
ナショナリズムは敗北から生まれる部分もあってだな
英国のナショナリズムは、百年戦争による大陸領地の喪失から生まれたと説明する研究者もいて、割と有力

634:世界@名無史さん
21/04/13 07:11:14.33 0.net
>>627
対伊、対仏、対丁、対瑞、対波、対露、対墺、対洪、全面的に小競り合いして勝ったり負けたり取ったり取られたりしてんじゃん

635:世界@名無史さん
21/04/13 20:31:20.70 0.net
>>608
日本も廃藩置県が1971年だから国家統一まで相当時間がかかったと言えるぞ
それまで日本には統一国家はなかったんだからな

636:世界@名無史さん
21/04/14 05:58:10.30 0.net
>>629
何を以って統一とするかはあんたの基準は解らんけど、
武官は江戸の将軍の招集に応ずる義務があって、地方領主は定期的に江戸と領地を往来、18世紀に殿様ったらあらかた江戸生まれ。
領主家間の縁組やら領主の代替わりには江戸の将軍の予め承認が必要、ついでに、琉球藩王の縁組や代替わりには鹿児島城主の承認が必要で、その鹿児島城主も
江戸将軍の配下の領主として縁組やら領主の代替わりには江戸の将軍の予め承認が必要。
そりゃ、「諸侯の家中は大君の与る所に非ず」(大名の領地経営は(江戸の将軍の関与するところでない)というのが幕府の方針だったけれども、独立までは認めてない。
呼んだら来い命令した場所平家、定期的に呼ぶ、跡継ぎや結婚には関与する、ってガッツリ統制されてたで。
呼んだら来い命令した場所へ行けの一環で、参勤交代に、領地替え。
そもそも江戸の将軍には、官位の推挙権はあっても任命権は無い、朝廷が管轄。外交も、交易の一部を江戸の将軍を介して松前藩・対州藩・薩摩藩・琉球藩王・長崎奉行に
預託していたけれども、基本、天皇の大権で、既に交わされた条約を改廃したり新たな条約を結ぶ権限は辺地諸藩にも江戸将軍にも与えていなかった。
これで統一国家でないんかな?
その前にも、太閤豊臣秀吉が、全国の領主に戦役や普請の命令を出して、北は松前の蠣崎から南は琉球まで応じてるで。
南北朝時代・戦国時代はなかなか命令が届かなかったり従わなかったりだったが、その前の鎌倉時代には、これまた幕府が各地の領主に動員をかけて応じている。
元寇の時分には、朝廷から遣わされた宮様が鎌倉将軍をやっていて、執権の北条時宗に武家の統制は丸投げなんだが、奥羽から薩摩大隅まで全国から兵員を動員かけたで。
更に前の律令時代には、国司を派遣していた。
統一国家でなきゃあできんことではないんかい?

637:世界@名無史さん
21/04/14 09:12:45.28 0.net
廃藩置県は昭和だったのか

638:世界@名無史さん
21/04/14 16:52:02.10 0.net
封建国家ではあるが
統一国家というと中央集権的な官僚システムイメージするから違うかな

639:世界@名無史さん
21/04/14 16:54:31.50 0.net
そういうと武士も官僚がぁぁとか言い出すだろうけど
やっぱり国家の土地を小国家的な大名(諸侯)に分割してるってのがどうもね

640:世界@名無史さん
21/04/14 17:09:40.80 0.net
幕藩体制は幕末に外国勢力と接するあっさりひっくり返ったからな
日本が地理的に外圧をうけにくいから長期に安定したけど
幕藩体制の統制力が神聖ローマよりはずっとましだとしても大名の存在がある以上
強力な大諸侯がほぼ消滅したフランスやイギリスなどに比べれば中央集権は全然進んでなかったと考えるのが妥当だろうね

641:世界@名無史さん
21/04/17 08:21:32.23 0.net
そもそも幕府は諸侯の盟主であって諸侯は幕府に従属してるが原則は独立勢力だからなあ
各地の大名が独自の領土・君統・法律・統治体制を持ってた

642:世界@名無史さん
21/04/20 22:17:45.05 0.net
1871年はドイツも日本も封建制諸国連合から君主制の中央集権国家に変わった記念すべき年

643:世界@名無史さん
21/04/21 11:37:12.33 0.net
中央集権がベストと言う訳ではない

644:世界@名無史さん
21/04/21 16:50:48.37 0.net
いったん中央集権やっとかないと国民国家意識が芽生えないからね
近世以降はすごく重要なこと
イスラームの惨状みるとつくづくそうおもう

645:世界@名無史さん
21/04/21 18:12:52.84 0.net
それは順番が逆

646:世界@名無史さん
21/04/23 06:26:48.49 0.net
ローマの地方分権の成れの果てが後のヨーロッパ

647:世界@名無史さん
21/05/02 08:48:52.26 0.net
>>635
独立勢力じゃないよ? 徳川本家に、内大臣以上の官職で内政権利を、征夷大将軍として武官の任免権を与えられてる。
だから、大名は、削封や転封や改易があるし、代替わりごとに誓詞を出して封土の安堵を受ける、言い換えたら、封土の統治権の分与と武官としての任官を受ける。

648:世界@名無史さん
21/05/02 09:02:09.22 0.net
>>641
しかし幕府には藩政への直接介入権はなかっ�


649:ス



650:世界@名無史さん
21/05/02 10:00:30.22 0.net
>>641-642
これを合わせると、欧州よりは中央集権度は高いが、典型的な封建制度の成立を見ることができる
通説通りの話だな
フランスの封建制度は、ブルボン朝の成立をもって事実上終止符が打たれるが(王政府における中央集権が固まる)、
ドイツはヴェストファーレン条約で終止符が打たれる(領邦国家の主権が事実上認められる)という、対照的な結論
に至るのは面白いな

651:世界@名無史さん
21/05/02 13:19:06.24 0.net
>>642
介入権が無いのではなくて、幕府の自由意志による施政方針として、「家中は大君の与るところに非ず」(大名の領地経営に幕府は責任を関与しない)。
但し、お家騒動や百姓一揆が起こると、改易や削封や隠居命令や転封が行われた。

652:世界@名無史さん
21/05/02 13:25:58.36 0.net
>>644
改易転封は「直接介入」じゃないよ。
幕臣が直接藩政を指揮したことはないし、各藩邸は現在の大使館のような扱いで奉行所などは直接踏み込めなかった。
現実としてやっていなかったことなのに「施政方針としてそうしていただけだ」とこだわるようだけど
それと「権利として認めていた」というのの差はどこに?
明文化してなくても世の中には慣習法というものがあるからね。

653:世界@名無史さん
21/05/02 13:32:54.49 0.net
>>645
一機が起こる → 統治が巧く行ってない → 改易(お前らの藩はお取り潰し)・隠居(代替わり)命令、削封(大きな藩は納められないんだろ)、転封(別の大名に治めてもらう)

654:世界@名無史さん
21/05/02 21:05:34.63 0.net
幕府が強い力行使できたのも強力な外国勢力と接してなかったからじゃね
神聖ローマは皇帝自体の領土はオーストリアとボヘミアで帝国内の3割を占めてさらに帝国外にハンガリーをもってたが
さらに巨大な国家フランスが横にいて介入してくるから諸侯も強気で反抗してきて譲歩せざるを得なかった
まぁ幕府は直臣領も含めると国内5割だったけど最後は親藩の尾張に裏切られるからな

655:世界@名無史さん
21/05/02 21:12:24.55 0.net
>>647
紀伊にも彦根にも裏切られてるあたり、当時の時勢というのがあったとしか思えん

656:世界@名無史さん
21/05/03 06:04:56.32 0.net
>>647
実際に強力な外国勢力が船で乗り付けてきたら、めっちゃ揺らいで、中央集権的な明治政府に取って代わられてんじゃん廃藩置県じゃん。

657:世界@名無史さん
21/05/14 10:44:46.03 0.net
>>622
> 6世紀のユスティニアヌス皇帝とかちゃんと本領回復してたよ
むしろローマと仲違いしてローマを失いかけた人だけどな

658:世界@名無史さん
21/05/15 18:48:21.86 0.net
そもそも西ローマはその領域に12世紀までローマも
含んでるから前提が間違ってる
名称が神聖ローマ帝国になった時代以降だけを話してるなら別だが

659:世界@名無史さん
21/06/09 18:32:58.70 0.net
ナポレオンが実質併合してたじゃん
でもナポレオン倒した連合が国がでかすぎるからってまた分けた
そしてフランスも消さなかった。バランスとるために

660:世界@名無史さん
21/06/22 13:12:32.71 0.net
>>620
コンスタンティノープルの正式名称は新ローマ
4世紀以降はここがローマだ

661:世界@名無史さん
21/06/22 21:10:37.38 0.net
新ローマじゃローマじゃないじゃんwww

662:世界@名無史さん
21/06/23 20:53:37.64 0.net
ビザンツ人ですらローマと言ったら西側を意味したからな

663:世界@名無史さん
21/06/24 07:33:16.51 0.net
アラブ人トルコ人ペルシャ人にとってローマといえばコンスタンティノープル以東だが

664:世界@名無史さん
21/07/01 09:43:54.13 0.net
それよりも、何故デンマークやらハンガリーやらクロアチアやらトランシルバニアは併合されてなかったの?
結構な時期、神聖ローマ帝国に本領を持ってる王家が支配していたよね

665:世界@名無史さん
21/07/01 11:35:33.35 0.net
>>657
デンマークは逆
デンマーク王(中世は強国)が帝国内の諸侯位を持ってる形
スペイン領ネーデルラントみたいなもん
ハンガリーは中世中期まで帝国に伍する大国で、王が誰であろうと諸侯の力が強く、帝国に併合とか夢のまた夢だった

666:世界@名無史さん
21/07/01 14:04:31.60 0.net
神聖ローマに入るにはハンガリーやデンマーク側の王や貴族連中が神聖ローマに入る合意の意思表示をして
神聖ローマ側の貴族たちが受け入れを認めるって条件じゃないかな
ボヘミアやブルグンドを後から参入したけどハンガリーやデンマークは入る気なかったんでしょ
デンマークは帝国内のオルデンブルク家、ハンガリーはハプスブルク家、ポーランドはザクセンのヴェッティン家が継承したけど
帝国に参入する流れはなかった
フランスは30年戦争で獲得したアルザスを通して帝国議会に参入する気まんまんだったけど帝国貴族が拒否した結果アルザスは帝国から除外された
もちろんフランスはアルザスだけ帝国内にとどめておくつもりでフランス全体を帝国にいれるつもりはない
ルイ14世がプファルツ選帝侯位やケルン司教領を臨んだのも帝国議会にフランスを参加させて帝国内で影響力増大をはかったというところかな

667:世界@名無史さん
21/07/01 14:44:20.31 0.net
デンマークの場合帝国内にあるオルデンブルクは分家が継承するが途中で断絶するから17世紀後半にデンマークのものに
同じ帝国内にあるホルシュタインは分家2つとデンマーク王家で分割しててややこしい
スペインやイギリスも帝国内の公家と同君連合はある
フランスは分家が帝国内の公家になることはあるが王家の同君連合はない
アンジューヴァロア家が断絶した時プロヴァンスを勝手にフランス王国に編入したのもイタリア戦争で最終的に認められる

668:世界@名無史さん
21/07/01 15:39:36.22 0.net
帝国から王様かりた国も帝国の一部
ってやったら、1000以上かかって再統一できないみたいな
万年戦国時代でもなかったろうにな

669:世界@名無史さん
21/07/01 19:26:11.36 0.net
フランスの方が人口多いのにどうやって併合するんだw

670:世界@名無史さん
21/07/02 14:29:53.27 0.net
推定人口見る限りイタリア抜いても長期にわたって帝国の方がやや多い感じ
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)
1800年はフランスの方が多いがナポレオン帝国なんでフランス部分だけだとハプスブルク領イタリア抜きの帝国より1000万以上も人口少ない
URLリンク(en.wikipedia.org)
西暦1000年ぐらいだとイタリア抜きのドイツより人口が多い
中世末期以降は30年戦争期をいれても帝国の人口が安定してでかい
経済力もドイツとフランスは経済史の本で中世から現代まで一人当たりGDPも似たようなもんだし
遺伝子検査でもドイツとフランスは近縁で同属グループに分類されるし
言語は違うがドイツとフランスは兄弟国家

671:世界@名無史さん
21/07/02 14:37:48.47 0.net
フランス人が遺伝的に一番近いのはスイス、オーストリアや南ドイツと
ちょうど古代ケルト文化(ラテーヌ文化)の地域とかぶる
次に近いのがスペイン人でイタリア人とは結構遠い
イタリアはアルプスのせいか遺伝的に他の欧州地域と遺伝的に離れてる
ローマがあれほど拡大したのだがローマ人はほとんど現地人と交わらないか任務が終わったらさっさとイタリアに帰ったんだろう

672:世界@名無史さん
21/07/02 14:40:14.84 0.net
>>664
ガリア・キサルピナって、ルビコン川からアルプスまでローマ本国に編入されたケルト地域あったじゃん。

673:世界@名無史さん
21/07/02 15:53:10.64 0.net
>>665
ケルトと言っても遺伝的一体のグループじゃないからね
アイルランドのケルトも遺伝的には遠いし
ただケルトの中核地だったハルシュタットやラテーヌなどアルプス以北の地域は遺伝的に近縁グループが形成されている
URLリンク(upload.wikimedia.org)

674:世界@名無史さん
21/08/11 10:42:14.94 0.net
667

675:世界@名無史さん
21/08/11 15:55:44.57 0.net
日本なんて近代までは眼中に無いだろう

676:世界@名無史さん
21/08/12 18:02:38.25 0.net
>>89
クメール人が統一しかけたが、
その後侵入してきたベトナム人とタイ人と
ミャンマー人はそれなりに全部大勢力だもんな
プロイセンが台頭する前のドイツと同じで
一強になりにくい

677:世界@名無史さん
21/08/14 23:56:07.56 0.net
余程の物理的障壁が存在しないのならば、時間がありゃそのうち統一するようなもんだと思うんだがな~
日本の戦国時代だって信長→秀吉→家康という流れで統一したし、
中国だって群雄割拠の時代があっても始皇帝や楊堅や趙匡胤が統一した訳だし。

678:世界@名無史さん
21/08/15 00:40:35.25 0.net
>>670
インドは英国が進出するまで統一しなかったし、北アフリカも統一してる時期の方が短い

679:世界@名無史さん
21/08/30 17:55:09.49 0.net
>>670
よほどの物理障壁だらけのペルシャは割かし政治的に一まとまりになっている期間が長いし今のイラン国もそうだよな。
向かいのジッジーラはこれといった物理的障壁が無いのに、むしろ障壁たるネジドの砂漠が唯一の統一箇所って感じだよな。

680:世界@名無史さん
21/09/15 09:14:38.52 0.net
フランソワ1世がカール5世に皇帝選挙で勝っていたらフランスに併合されて新フランク帝国が誕生していたかも知れん

681:世界@名無史さん
21/09/15 12:02:04.82 0.net
>>673
まあ、勝ち目なかった訳だが

682:世界@名無史さん
21/12/16 07:29:03.38 0.net
ブルグンド王国とブルグンド公国とブルゴーニュ自由伯(フランシュ・コンテ)の違いについて教えて下さい
ワイン等で有名なフランスのブルゴーニュ地方とは現在のフランシュ・コンテに相当すると思うのですが、ブルグンド王国やブルグンド公国のあった地域はブルゴーニュ地方には含まれないのでしょうか?

683:世界@名無史さん
22/01/19 09:46:03.05 0.net
URLリンク(www.atpress.ne.jp)

684:世界@名無史さん
22/01/19 22:58:10.16 0.net
ブルグンド王国はプロバンスやドーファンも含まれる
ブルゴーニュ公国とフランシュコンテはブルゴーニュだよ

685:世界@名無史さん
22/01/19 23:01:55.62 0.net
ブルゴーニュ公国はフランス王国に含まれてて
ブルゴーニュ伯国はブルグンド王国に含まれてて
どちらも地域としてはブルゴーニュ

686:世界@名無史さん
22/01/20 22:52:33.30 0.net
ブルゴーニュ公
・ボゾン家(アルデンヌ伯家)
リシャール (898年 - 921年)(正義公)
ラウール (921年 - 923年)
ユーグ黒公 (923年 - 952年)
・ヴェルジー家
ジルベール (952年 - 956年)
ユーグ大公 (956年 - 956年)
・ロベール家(カペー家)
オトン (956年 - 965年)
アンリ1世 (965年 - 1002年)(偉大公)
・ブルゴーニュ=イヴレ家(イヴレーア家)
オット=ギヨーム (1002年 - 1004年)
1004年 - 1032年フランス王国に統合
初代のリシャール正義公の兄はプロバンス王ボソ(キスユラブルグンド王)
ブルグンド自由伯
・ブルゴーニュ=イヴレ家(アンスカリ家)
オット=ギヨーム(986年 - 1026年)
ルノー1世(1026年 - 1057年)
ギヨーム1世(1057年 - 1087年)
ルノー2世(1087年 - 1097年)
エティエンヌ1世(1065年 - 1102年)
ルノー3世(1102年 - 1148年)
ギヨーム2世(1097年 - 1125年)
ギヨーム3世(1125年 - 1127年) 
ベアトリス1世(1148年 - 1184年)※皇帝フリードリヒ・バルバロッサ妃
1184年以降はホーエンシュタウフェン家が相続

687:世界@名無史さん
22/01/20 22:52:40.29 0.net
初代ブルグンド伯のオットー=ギョームの母ジェルベルガ・ディ・マコンよりのちのブルグンド自由伯領となるドル付近の地を相続(986年)
ジュルベルガはイタリア王アダルベルト2世(オットー=ギョームの父)との死別後はフランス王ユーグ・カペーの弟ブルゴーニュ公アンリ1世と再婚
アンリ1世には男子がいなかったためジェルベルガの継子のオットー=ギョームが後継者となるとなるが、ソーヌ川左岸のブルゴーニュ公領を巡りフランス王ロベール2世と抗争、結果ブルゴーニュ公国は1004年にフランス王ロベール2世によりフランス王領とされた
その一方でオットー=ギョームは1016年、ブザンソン大司教の叙任を巡り、ブルグンド王国(ユラブルグンド王国)最後の王ルドルフ3世と争うが、王と皇帝ハインリヒ2世はストラスブールで会い、交渉の末皇帝はルドルフの後継者になることに成功し、次いで皇帝はオットー=ギョームに対し軍を派遣し、オットーをはじめとするブルゴーニュの貴族はそれに服従する
ハインリヒのブルグンド王国継承は1018年のマインツでの議会で確認され、ブルグンド自由伯領は以後神聖ローマ帝国の支配下に入ることとなった

688:世界@名無史さん
22/01/21 08:41:49.35 0.net
>>672
ただし現代のイランは40%が少数民族の多民族国家

689:世界@名無史さん
22/11/09 21:46:55.22 0.net
URLリンク(i.imgur.com)

690:世界@名無史さん
22/11/09 22:17:08.01 0.net
>>681
民族は政治的なまとまりにあんまし関係無いよ?

691:世界@名無史さん
22/12/28 00:56:15.51 0.net
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

692:世界@名無史さん
23/08/20 12:46:06.09 0.net
?

693:世界@名無史さん
23/09/08 17:34:13.49 0.net
神聖ローマなんて名前だけの帝国
EUみたいなもんで、国家としての力はない

694:世界@名無史さん
23/11/02 15:24:47.46 0.net
神聖ローマ帝国はほとんど今のドイツ
当時はフランスの方が先進国で後進国のドイツに魅力がなかったのでは

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