19/01/03 07:20:47.77 0.net
>>191 (続き)
今のところはこの非対称性とギャップは、相互の無関心によって、問題化することが回避されているが、それはいつまで続くだろうか。
日本が実質上の移民国家となり、これまで以上にイスラーム圏から、当面は特に東南アジアから、移民を受け入れれば、やがては
イスラーム教の規範と、日本社会で無意識のうちに強固に信じられているこの「こころ教」の乖離は、摩擦や衝突に発展するかも
しれない。
律法を中核とすることによってイスラーム教は、信者に政治的・社会的な共同体への帰属意識をもたらす。イスラーム教徒が帰属
する共同体を、アラビア語で「ウンマ」と呼ぶ。これは「宗教政治共同体」と訳してもよいと私は考える。このウンマは「国」というものとも
「宗教団体」とも違う。特に地理的な範囲は明確ではなく、一人一人のイスラーム教徒はエジプトにいようが米国にいようがインドネシア
にいようが、「ウンマ」の一員である。
宗教団体としてのイスラーム教の「教団」が物理的に、組織として存在しているか否かはさほどの意味を持たない。神が啓示の法を
下してしまった以上、それを受け取った各人はすでにイスラーム教の法を下された共同体に属している。
その共同体は、本来は、イスラーム法の有力な解釈によれば、指導者としてのカリフ、あるいはイマームに率いられることが望ましい。
しかしイスラーム教徒たちを一つの政体としてまとめ、統治し、率いるカリフが不幸にして存在しなかったとしても、ウンマの実在は全く
疑われることがない。ウンマの存在は神が律法を下して示した以上、人間がそれを組織的に地上に実現できていなくても、厳然として
存在するのである。
イスラム教徒が所属しているウンマの実在を拒否する権限、そして能力を、人間は持ち得ない。これもまた日本の「こころ教」の観点
からは納得がいかないことだろう。ないものはないはずだ。また、もしあったとしても、それぞれの信徒が嫌なら抜ければいいではない
か、活動に参加しなければいいではないか。参加していなければイスラーム教団に入っていることにもならないだろう、と。目に見えない、
現世の組織としての形を取らないものを認知しない、ある種の強固で頑強な世俗主義が日本には根強い。
(続く)