18/08/11 08:11:47.69 0.net
>>295
高麗、南宋の兵は船を漕いでいただけで、戦闘はモンゴル帝国主力軍のモンゴル兵や漢人兵が
メインだよ。
だから文永の役で鎌倉武士に蹴散らされた時、モンゴル人の将軍が「蒙人、戦いに習うと雖も、
何を以てか此れに加えん」と言ってる。
鎌倉武士に負けたのは戦い慣れたモンゴル兵ってこと。
ちなみに筥崎宮が所蔵してる元寇の戦利品の中にはヨーロッパ製の兜と言われてるモノがある。
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ワールシュタットで騎士に勝ったモンゴル兵かその子孫が日本で武士に討ちとられたのかもね。