☆支那・朝鮮・会津の捏造史★at WHIS☆支那・朝鮮・会津の捏造史★ - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト393:世界@名無史さん 16/08/29 17:55:44.47 0.net 「御所辺放火」計画については詳細な先行研究がある。 名城大学の原口清氏の成果である (「禁門の変の一考察」『名城商学』46-2〜3、1996年)。 原口氏が使用した史料は、池田屋事件直後の 元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である。 (『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁) 在京の会津松平家老臣の書簡ならば、新選組ともきわめて近く 最も信用に足る史料の一つである。 原口氏はこの書簡を分析し、池田屋への出兵への経過を次のように述べる。 新選組が古高邸を襲撃したところ、甲冑10組程、鉄砲2〜3挺 長州人との往返の書類があった、そのなかに「機会を失しなわず様」と 記したものがあり、甚だ不審千万、きっと何か計画がある様子に見えた その後何者かによって封印した土蔵が打破られ、甲冑や鉄砲が奪取られたことから 新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し 会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。 原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという 記載が全くないことから、計画の存在を疑問視した。 そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に 古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと 突然「御所放火」が登場することを指摘する。その意味するところは実は御所辺放火計画はなかったのだが 慶喜らが周囲から長州人をはじめとする尊攘志士を弾圧したと 非難を受けることをかわすため(「史料的に確定は困難」とされてはいるが) 一・会・桑権力(慶喜、会津松平家、京都所司代桑名松平家の連立政権)の誰かが 何者からも長州人の弁護ができない取締りの理由として 6月9日ごろから御所辺放火計画が でっちあげられた可能性が高いと結論づけるのである。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch