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宋美齢は自ら、中華国民党の空軍総指揮官をやりたいと申し出て、承認された。
1937年春、宋美齢はソ連のスターリンに軍備強化を依頼して快諾され、
中華軍はソ連軍の軍事支援を得た。
1937年夏、宋美齢指揮による中華空軍の上海盲爆は、
中華人民・外国人にも大勢の犠牲者を出した。
ルーズヴェルトの親族がキャセイホテルに宿泊していて寸での処で被爆しそうになり
急遽、アメリカから宋美齢に盲爆中止するようメッセージが届いたらしい。
1943年(とされている)、宋美齢はアメリカ議会やアメリカの大学等で反日演説を行い、
独立戦争や南北戦争などの戦乱続きで嫌戦ブームだった宗教熱心なアメリカ国民達を
一気に戦争ブームに持ち込み、日米戦激化につなげた。
その結果は、日本焦土化と台湾朝鮮爆撃につながり、大勢の民間人が被災死傷した。
一般沖縄県民の犠牲も、宋美齢が日米戦を頼んだ結果。
そんな頃、中華軍はと言えば、アメリカなどの列強からの支援物資をたくさん貰い、
貰った物が減らない様に国共内戦に備えて備蓄し、
のらりくらりと牛歩の歩みで行軍して死なないようにしていて、
アメリカ人指揮官達や支援部隊を苛立たせていた。
その後、宋美齢は、蒋介石と別居し、アメリカに移住してしまった…。
日本ではその理由はよく知られていない。個人のプライベートな事情は尊重する方なので。
ニューヨークでの宋美齢は好きな人達とだけ交流し、
日本からのインタヴュアーのインタヴュー申し出を拒否し
顔も見せずに説明責任を果たさず、責任も殆ど問われずに天寿を全うした…。
宋美齢は、見栄えの良い欧米列強の上層部と密接し、
日本人との戦争回避の話の場を全く持とうとしない女性だった。