台湾猿は心も身体も醜いねat TAIWAN
台湾猿は心も身体も醜いね - 暇つぶし2ch63:美麗島の名無桑
15/08/03 04:56:56.66 .net
バシー海峡慰霊祭、日本兵の遺体を手篤く葬ってくれたのは台湾の人だった…「慟哭の海峡」で鎮魂の集い
2015年8月2日 21時52分 産経新聞
 南の海に「海ゆかば」の大合唱がこだました。
 2日、約160人が参加してバシー海峡を望む台湾南端の潮音寺(ちょうおんじ)で行われた戦後70年の慰霊祭。海中に眠る父祖の霊に向けて遺影を掲げる遺族、「父と同じ場所に…」と亡き母の遺骨を持参した女性もいた。
 ギラギラと照りつける熱帯の日差しとコバルトブルーの美しい海。70年以上前、フィリピン・ルソン島へと続くこの海が、おびただしい数の若い日本人の命をのみ込んでいったことを現代人は知らない。
 戦争末期、戦局が悪化した日本軍は起死回生の決戦に臨むべく、残った兵力をフィリピンへ向けて送り込む。しかし、制海権、制空権を米軍に奪われ、兵員や物資を満載した日本の艦船は、ことごとく米潜水艦の餌食となってしまう。
 慰霊祭で導師を務めた佐賀・禅林寺住職、吉田宗利(むねとし)(73)は昭和19年12月にバシー海峡で撃沈された駆逐艦「呉竹(くれたけ)」艦長、吉田宗雄の長男。
「私は父が最後に行くとき、『僕も一緒についてゆく』と聞かなかったらしい。今日は、父のためだけでなく、この地に散った幾万の英霊のために務めさせてもらった」
 無念の思いを胸に刻みながら海中に消えた命は少なくとも10万人以上とされる。近くの海岸には連日、多くの日本人の遺体が打ち上げられたという。そのとき、日本兵らの遺体を収容し、
手厚く葬ってくれたのが台湾の地元住民だった。
 潮音寺は、昭和56(1981)年8月19日、バシー海峡で九死に一生を得た元独立歩兵第13連隊通信兵、中嶋秀次(ひでじ)(平成25年、92歳で死去)の強い思いによって建立された。
 昭和19年8月、中嶋が乗船していた「玉津丸」と約30隻の船団はこの海域で米潜水艦の急襲に遭う。沈没までわずか5、6分。玉津丸に乗っていた仲間のほとんどがこのとき戦死した。
 中嶋の「地獄」はそこから始まる。何とか非常用のイカダにしがみついたが、非常用の水、食糧はわずかしかない。仲間が1人、2人と息絶えてゆく。「
正気じゃなくなるんです。『水をくれ』と狂ったようにわめいていたかと思うと突然、静かになる。見に行くともう、死んでいた」


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