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桂首相との日支協力の密約
その年の12月に桂太郎による第3次内閣が組閣された。
滔天は政界の陰の実力者秋山定輔を通じて、桂首相に孫文との
協力を説いた。孫文は国賓として来日し、桂首相と語り合う。
その結果、 ・新支那の建設は孫文にまかせる。日本は孫文の新政権を
支援し、 日支協力して、満洲を共同開発する。
・日支協力して
ダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立達成(解 放)に助力する
などの密約を交わした。日本と中国が相協力して、アジア独立の
ために立ち上がる
という孫文や滔天の大アジア主義が、両国の正式な政策
として採用されたかに見えた。
しかし、桂太郎はまもなく急死し、孫文も袁世凱にその地位を
奪われて、失脚した。こうして日支提携密約は実現しなかった。
孫文は東京で、犬養、頭山、宮崎らの助力を得て、
1914年(大正3年) 中華革命党を結成する。まことに
不屈の革命家ではある。 しかし、われわれはまだ、
日本に絶望してはいない。それ はなぜか、自分は
日本を愛し、亡命時代に自分をかばってくれたからである。
また、東洋の擁護者 としての日本を必要とするからである。
ソヴィエトと同盟す るよりも、日本を盟主として、
東洋民族の復興をはかること がわれわれの希望である。
1923年に孫文がある日本人に語った言葉である。
以後の孫文はソ連からの協力を得る方向に傾いていくが、
孫文は日本との提携を諦めてはいなかった。
しかし、共産主義勢力という新たな攪乱要因も登場して、
日支提携の望みはますます遠ざかっていく。