▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼at SOCIOLOGY
▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼ - 暇つぶし2ch324:名無しさん@社会人
11/03/15 12:15:05.80 .net
鏡に映るその筋肉ほど、ナルシシズムにとつて、といふのは、男性の自意識にとつて、恰好な対象はあるまい。
しかし、そこには同時に、ナルシシズムの重要な一要素が欠如してゐる。ここには自意識が自意識を喰ひ、鏡が鏡を
蝕むところの、あの不可思議な自己生殖の運動と、それによつて起るナルシスの投身、すなはち自己破壊の衝動が、
ふしぎなほど欠けてゐる。ボディ・ビルダーたちは、大好きな家畜をいたわるやうに自分の逞しい肉体をいたはり、
ヴィタミンやカロリーの摂取に余念がない。男のナルシシズムには、死の衝動へ促す行動性が必要なのである。
そしてこのやうな行動的ナルシシズムは、鏡への投身による鏡の破壊をめざして、拳闘、レスリング、柔道、
剣道等の格技や、自動車レース、モーター・サイクルなどのスピードへ向ふのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

325:名無しさん@社会人
11/03/16 11:12:15.09 .net
純粋ナルシシズムの本当の姿は、他人の賞讃を必要としないことであるが、ここには美のきはめて微妙できはめて
難しい問題がひそんでゐる。
なるほどナルシスは美しい。他人の目から見て美しいのである。そしてナルシスが、他人の目から見て客観的に
美しくなければ、あの神話の美しさ自体が成立しないのであるが、一方ナルシスが絶対に排他的であり、彼が
他人の賞讃を一切必要としないほど、自意識の客観性に絶大の自信を持つてゐなければ、同様に、あの神話は
意味がなくなつてしまふ。ナルシスは己れを知つてゐなければならず、自己批評の達人でなければならず、
そしていかなる容赦ない自己批評も破砕できぬほどに美しくなければならないのである。してみるとこの神話の
恋には、二つの、いづれ劣らぬ大切な要素があることがわかる。一つは彼の絶対的美貌であり、一つは彼の
自意識の絶対的客観性である。この二つが揃はなければ、ナルシスの恋は成立しない。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

326:名無しさん@社会人
11/03/16 11:13:23.54 .net
しかし、いかにして自意識はそのやうな絶対的客観性に到達するであらうか? 決して他人の賞讃を必要と
せぬほどの境地に達しうるであらうか? 自意識の構造自体が、このやうな客観性を常に志向してゐることは
前にも述べたが、純粋ナルシシズムが、「他人の賞讃を必要としない」からと言つて、その逆は必ずしも真ではない。
ナルシスが他人を排斥するのは、他人を全く必要としないほど美しいからだが、醜い者も、同じやうに他人を
排斥する。彼は他人の賞讃を得る自信がないからである。世間でナルシシズムといふ言葉を口にするときに、
多くの嘲笑が含まれるのは、たとへば、アラン・ドロンがナルシストであつても少しも滑稽ではないが、客観的に
見て全然美しくないものがナルシシズムに陥つてゐるのは滑稽に見えるからで、このことは、男性一般の本源的
衝動であるナルシシズムの普遍性と、微妙に噛み合つてゐる。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

327:名無しさん@社会人
11/03/16 11:14:31.65 .net
そこで他人の賞讃を期待できぬナルシシズムは、滑稽に見えることをおそれて地下に沈潜し、そこに「秘密の
ナルシシズム」「抑圧されたナルシシズム」が鞏固に形成される。これが、他人のナルシシズムへの嘲笑の
大きな原動力になるのである。
一方、嘲笑される側は、その醜さのためではなく、自意識の絶対的客観性の不足乃至欠如のために、笑はれるのだ。
このことが、社会全般におけるナルシシズムの捕捉を実に困難にする。
もとより他人の賞讃を全く必要としないほどの純粋ナルシシズムとは、絶対真空と同様に、一つの仮定としての
絶対値にすぎず、一つの究極の観念、一つの神話にすぎぬ。誰しも他人の賞讃を必要とするが、それは他人こそ
「物言ふ鏡」であり、その賞讃こそ、肉体を離脱した非在の観念としての自意識の、何ら目に見え手にとることの
できない絶対的客観性を、傍証してくれるからである。
ナルシスの水鏡を、ナルシシズムの純粋な無言の鏡とすれば、「他人」こそは、二次的でありながらはなはだ
力強い、物言ふ鏡と言へるであらう。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

328:名無しさん@社会人
11/03/16 11:15:37.38 .net
自意識がその客観性を確認するために、どうしても他人の賞讃を必要とするのは、ナルシシズムの客観的要件を、
できるだけ多く自分のはうへ引寄せようとする自然な志向である。すなはち、すでに水鏡をではなく、「他人の
鏡」を相手にするときには、嘲笑が返つてくるか、賞讃が返つてくるかに、彼の自意識の客観性が賭けられてをり、
思ひどほり賞讃が返つて来たところで、彼の客観的要件は、本来減りもせず増しもしない筈であるけれど、
その結果、自意識の客観性は他人の賞讃によつて保証されること多大であるから、そこであたかも、彼の客観的
要件自体が増しでもしたやうな外見を呈する。それはあくまで一つの擬制であるが、水鏡ではなく「他人の鏡」を
相手にした以上、ナルシシズムは悉く相対主義に陥り、いはば相対性の地獄に落ちることが避けられない。
純粋ナルシシズム以外のあらゆるナルシシズムにとつて、かくて本質的な様態は「不安」Sorge なのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

329:名無しさん@社会人
11/03/16 11:16:38.90 .net
さてこの際どい賭に勝つために、彼が自分の最良のものを賭けようとすることは自然であらう。肉体的ナルシシズムに
よつてこの賭に勝つ自信がなければ、知的精神的ナルシシズムによつて勝たうとするのは当然であらう。ナルシスの
神話は、あのやうに素朴に、人間の肉体的ナルシシズムの純粋性、絶対性を謳ひ、自意識の純粋形態を象徴して
ゐるのに、古代ギリシアにすら、やがてソクラテスの近代がしのび込み、知的精神的ナルシシズムが覇を制する。
知的精神的ナルシシズムは、純粋ナルシシズムの見地からすれば明らかに倒錯であるが、二つの絶対の利点を
持つてゐる。一つはそのナルシシズムが不可見のもの(知性・精神)に関はつてゐることであり、もう一つは、
従つて、普遍妥当性において、純粋ナルシシズムをはるかに凌駕してをり、ごく稀な天然真珠よりも、はるかに
一般的な養殖真珠に相当するからである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

330:名無しさん@社会人
11/03/16 11:22:14.53 .net
のみならず、人々は安心してこのやうなナルシシズムを許容することができる。誰にも機会は均等に与へられてをり、
努力によつてそれに達することができ、しかも不可見であるからごく秘密裡に、男性全般のナルシシズム的衝動を
満足させることができる。
かくて男の世界における肉体蔑視がはじまり、近代社会の多くの知的弊害がそこから生れてきた。
男は不可見の価値に隠れ、女は可見の世界へ押し出された。男は見る側になり、女は見られる側へ廻つた。
男女の服装を見ればわかることだが、男は渋い色の劃一的な背広に身を包み、もはやきらびやかな緋縅の鎧を
着ることはなくなつた一方、女はますます肌をあらはに、さまざまなファッションに身をやつすやうになつた。
女のナルシシズムといふ観念は、男性から移植され注入された観念のやうに思はれるが、もし女にとつて、
一般的普遍的に肉体的ナルシシズムが許容されるとなれば、そこに自意識の規制が働かないことは明らかであるから、
別な方法が案出されなければならない。それが化粧である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

331:名無しさん@社会人
11/03/16 11:23:16.31 .net
化粧こそ、一般的肉体的ナルシシズムを、滑稽さから救ふ唯一の方法である。この方法が特に女に普及したのは、
女の自意識の欠如の代償作用であつて、顔に白粉や紅を塗つて美しく作りかへることによつて、肉体的ナルシシズムは、
はじめからまつしぐらに、その不純性へ飛び込むのである。純粋ナルシシズムには、決して化粧の原理を
導入することはできない。
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をする習慣は、美女と醜女を問はないが、それが醜女だからと言つて、
人は決して笑はうとはしない。そこで問はれてゐるのは、自意識の客観性の問題ではなく、いかに美しくなるか
といふ問題だけであつて、化粧を�


332:オない醜女よりも、化粧をした醜女のはうが幾分でも美しく見えれば、それは 社会の志向するところと一致してゐるからである。 三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より



333:名無しさん@社会人
11/03/16 11:24:21.00 .net
他人の賞讃が、しかし、女の場合には、肉体的賞讃にとどまるやうに、女自身も要請し、社会も亦これを要請して
ゐるのは、男の世界が守つてゐる知的精神的ナルシシズムの縄張りを、女に犯されないための用心であらう。
そのためにこそ、男は、古代の男の肉体的ナルシシズムの不安(ゾルゲ)の地獄を、女のために開け渡したのである。
しかし、さうして開放された世界が、女に果して不安(ゾルゲ)を与へたかどうかは疑はしい。鏡の前にゐるとき、
女は明らかに幸福に見える。その幸福を見て、男は又しても不可解なものにぶつかるのである。
どうして化粧をしてゐるときの女は、そんなにも幸福なのであらうか? ナルシシズムが幸福であらう筈がない。
それならば、それはきつと、何かわからぬ、何か別のものにちがひない。とまれかくまれ、「幸福」とは、
男にとつてもつとも理解しがたい観念であり、あらゆる観念の中で、もつとも女性的なものである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より

334:名無しさん@社会人
11/03/18 12:50:18.59 .net
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。

三島由紀夫「言ひがかり」より

335:名無しさん@社会人
11/03/21 12:09:52.58 .net
私は本当のところ、恋愛結婚も見合ひ結婚も、本質的に大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。
それをムリに区別して考へるのは、恋愛がタブーであつた徳川時代の常識に、いまだにとらはれてゐるのである。
つまりこの二つは、「禁止を破つた結婚」と「公認された結婚」といふやうな、相対立する概念ではなくなつて
ゐるのである。
禁止されてゐればこそ、恋愛(不義)の火も燃えさかるので、適当に理性的に恋愛してゐる若い世代は、結婚に
ついても全然理性的で、形だけは恋愛結婚、実質は、見合ひ結婚よりは、はるかに理性結婚に近い、といふやうな
例も多いにちがひない。
恋愛といつても、大都会でこそ、偶然の出会ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都会でも、多くの恋愛は、
職場などの小さな地域社会から生まれる。浮気のチャンスはころがつてゐても、恋愛のチャンスはどこにでも
ころがつてゐるわけではない。無限の選択の可能性があるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を
泳いでゐて、同じ生簀の魚と恋してゐるにすぎないのである。

三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より

336:名無しさん@社会人
11/03/21 12:11:28.90 .net
外国の社交界ともまたちがつた、日本独特の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな恋愛結婚より、選択の範囲が
かへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで



337:むことができる。 北海道の果ての娘と、九州の果ての青年とが偶然に出会ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも 十分にありうる。 アメリカのオールドミスが、日本の見合ひ結婚の話を聞いてうらやましがるのももつともで、アメリカの (上流を除く)一般社会では、結婚自体が苛酷な生存競争であることは、「マーティ」といふあはれな醜男を 描いた映画で、皆さんもご承知であらう。 結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、 結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史の ちがひにすぎぬことが多い。 見合ひ結婚といふせつかくの日本特産物を、失はないやうにすることが、結局これからの若い人たちのしあはせで あらうと思ふ。 三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より



338:名無しさん@社会人
11/03/26 11:44:57.04 .net
男は一人のこらず英雄であります。私は男の一人として断言します。ただ世間の男のまちがつてゐる点は、
自分の英雄ぶりを女たちにみとめさせようとすることです。


「何くそ! 何くそ!」
これが男の子の世界の最高原理であり、英雄たるべき試練です。


「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。


子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の不潔さよりも、女性の好評を
得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて
現はれてゐる。


動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。


男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは一つもない。

三島由紀夫「第一の性」より

339:名無しさん@社会人
11/03/26 11:45:26.44 .net
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。なぜなら男が、
「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概して
その前に美人ではないけれどといふ言葉が略されてゐると思つてまちがひないからです。


「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとるといふことと、「愛する」と
いふこととはちがふ。


相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます相手から嫌はれる羽目になる。


愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。


小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。


男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、どの恋愛読本にも
書いてないのはふしぎなことです。

三島由紀夫「第一の性」より

340:名無しさん@社会人
11/03/26 11:46:03.29 .net
変り者の変り者たる所以は、その無償性にあります。世間に向つて奇を衒ひ、利益を得ようとするトモガラは、
シャルラタン(大道香具師)であつて、変り者ではありません。


変り者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からは
どう見ても無意味なものに対して、頑固に忠実にありつづける。


男の性慾は、ものの構造に対する好奇心、探求慾、研究心、調査熱、などといふものから成立つてゐる。


男には謎に耐へられない弱さがある。
男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、現実と人生の謎を、
カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、男は耐へられない。


人間は安楽を百パーセント


341:好きになれない動物なのです。特に男は。……こればかりは、どんなにえらい御婦人たちが 矯正しようとかかつても、永久に治らない男の病気の一つであります。 三島由紀夫「第一の性」より



342:名無しさん@社会人
11/03/26 11:46:35.59 .net
スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。


政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにあるのでせう。


俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色がひそんでゐると云つても
過言ではない。


宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。そこでは余分の男がギュウギュウ抑へつけられ、身内に溢れて
ゐるからです。


宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、指導者、組織者としての一面と、
三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、キリストも釈迦も、男でありました。

三島由紀夫「第一の性」より

343:名無しさん@社会人
11/03/26 19:53:49.88 .net
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の生きてゐる時代を
「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。その呼びかけは、時代の理想主義的な思想と対蹠的な
ものとなるところの、いはば「もう一つの・暗黒の理想主義」から発せられる叫びである。あらゆる改革者には
深い絶望がつきまとふ。しかし改革者は絶望を言はないのである。絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な
力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の根絶に向けられてゐるからである。一方、暗黒の理想主義から
発せられる「悪時代」といふ呼びかけも絶望をいはない。絶望はおそらく自明の理、当然の前提で、いふに値ひ
しないからである。この一点で両者は、第三者には理解しえないフリー・メイソン的な親密な目くばせをする。
より良き時代を用意するための準備段階として、現代は理想主義者にとつては完全な悪時代ではありえない。
何らかの意味で上昇しつゝある段階である。しかしかういふ可能性において一時代を見てゐる人間は、その時代を
全的に生きてゐるとはいへない。

三島由紀夫「美しき時代」より

344:名無しさん@社会人
11/03/26 19:56:42.38 .net
是認は非歴史的な見地で行はれる。この種の是認が一種の生の放棄を意味することは見易い道理である。また一方、
現代を悪時代と規定する人間は、否定を通しての生き方においてもなほ、その時代を全的に生きてゐるとはいへない。
なぜならこの否定は、「悪時代」と呼びかける根拠それ自身を否定することはなく、当然の前提である絶望は、
その実決して否定によつて現実的なものにまで持ち来されないからである。ここにもまた放棄がありそれは
前者の放棄と同種のものである。
この間にあつて、「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に生きようと
する欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられたものではなく、偶発的なものである。
なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く
必然的に生きさせるのである。彼らにとつては、偶発的な絶望によつて現代が必然化されてをり、いひかへれば、
絶望の対象である現代は、彼らにとつて偶然の環境ではない。

三島由紀夫「美しき時代」より

345:名無しさん@社会人
11/03/26 19:58:55.31 .net
この偶然的な絶望は、それが時代を全的に生きようとする欲求であることを通して、生の一面である。決定論的な
前提を全く控除した生の把握がそこにみられる。ここではどのやうな意味でも生の放棄はありえない。
終戦後の思想界のおほよその傾向は、以上の三つに分類されるやうである。理想主義はヒューマニズムの立場であり、
絶望主義はその偶然性によつてヒューマニズムを乗り越えようとする立場であり、あとに残る一つのものは
純然たる反ヒューマニズムの立場である。第一のものが宗教的傾向との間に次第に協調をみせ、第二のものが
「生の哲学」に由来してゐることはとうに興味を惹く事実である。第三のものはまだ確乎たる立場を持つてゐるとは
いへない。私は現在の最も若い青年層の間にある漠たる虚無的な傾向といはれるものをこれに包括したのである。
私自身の思考も最もこれに隣接してゐるにちがひない。

三島由紀夫「美しき時代」より

346:名無しさん@社会人
11/03/26 20:02:50.80 .net
それは理想主義がさうであるやうな意味において、すなはち生の放棄といふ意味において、虚無的であるにすぎない。
この暗黒の理想主義は、一定の理想像を信ぜぬほどに純粋なのである。しかも彼は懐疑に逃避するでもない。
懐疑の偶発的な構造が、彼の置かれた環境の偶発性に溶解されてしまふ懐疑がないために、普通いはれる意味での
信仰もありえない。すこぶる日常的な、生理的ですらある絶望が彼を支配し、彼の偶発的な環境が、彼の生を
運命化するのである。今自ら生きつつある時代を「悪時代」と呼ぶこと、それは彼のうちの何ものをもジャスティファイするわけではない。
彼には現代が良くなりつつある時代であるといふ理念的な確信に生きることができず、さりとて当然の前提である
絶望を偶然化してそれによつて没理想的に生きようとすることもできないので、彼は自己の生のただ一つの
確証として「悪い時代だ」と呟きを洩らすのである。

三島由紀夫「美しき時代」より

347:名無しさん@社会人
11/03/29 10:48:19.84 .net
一フランス人が面白いことを言つた。日本は極東ではなくつて、極西である。中華民国から極東がはじまるのだ、
と言つたのである。ヨーロッパは多くの日本人が想像してゐるよりはずつと遠い。ヨーロッパ的世界にとつて、
極東よりも極西のはうが遠いのである。好むと好まざるとにかかはらず、北米大陸の存在は今後の日本にとつては
宿命的で、ヨーロッパにとつて、日本はアメリカの向う側に位する。


技術も文学や絵と同様に、風土の質や量(ひろさ)と深い関係があり、アメリカの技術は日本の風土に適しない。
それはさうである。しかしヨーロッパの精神文明と、日本の精神文明は、全く対蹠的なものである。(中略)
ある意味において、アメリカの文化は、ヨーロッパ文化の風土を無視した強引な受継であつて、そこでは微妙な
ものも見失はれた代りに、ヨーロッパに堆積してゐるあのおびたゞしい因襲の引継も免れたのである。
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。フランスのアメリカぎらひは、
自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 日本は極西」より

348:名無しさん@社会人
11/03/29 10:49:22.28 .net
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は疑り深くて、新聞に
書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。しかし或る非常の事態にいたると、
知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは
自分の生活の場に立つて、蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうなあの民衆の本能的不信は、
古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と
考へられたのには、理由がある。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 大衆の触角」より

349:ウん@社会人
11/03/30 19:29:51.56 .net
羽田のインタビューが感じがわるかつたとしても、(事実相当に感じがわるかつたと想像されるが)、新聞記者の
心証をよくするといふことが、太平洋横断といふ達成された事実と何の関係があるのか。太平洋横断をした青年が、
何で英雄気取りになつてはいけないのか。かういふことをした青年が、凡庸な世間の要求するイメージに従つて、
頬をポッと赤らめて頭を掻いたりする「謙虚な好青年」でなければならぬ義務がどこにあるのか。又世間が
どうしてそんなものを彼に要求する権利があるのか。……考へれば考へるほど、腑に落ちないことだらけである。
大体、青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。ヨットで九十日間、
死を賭けた冒険ををして、それでいはゆる「人間ができる」ものなら、教育の問題などは簡単で、堀江青年は
この冒険で太平洋の大きさは知つたらうが、人間や人生のふしぎさについて新たに知ることはなかつたらう。
そんなことは当たり前のことで、期待するはうがまちがつてゐる。

三島由紀夫「堀江青年について」より

350:名無しさん@社会人
11/03/30 19:30:59.56 .net
のみならず堀江青年に、テレビや映画のまやかしものの主人公のやうな、出来合ひの「好青年」を期待するはうが
まちがつてゐる。そんな好青年は、決してたつた一人で小さなヨットで太平洋を渡らうなどとはしないだらう。
かういふ孤独な妄執は、平均的な「好青年」などから芽生える筈もない。たとへばこのごろの「カッコいい
若者たち」の六尺ゆたかの背丈と、五尺そこそこといはれる堀江青年の背丈とを比べてみるだけでもいい。
ラスウェルは「政治」の中で、リンカーンの情緒的不安定や、ナポレオンの肉体的劣等感について詳さに述べてゐる。
今度のジャーナリズムの態度は、大衆社会化の一等わるい例を、又一つわれわれに示した。それは社会的イメージの
強制であり、そのイメージは凡庸な平均的情操から生れ、無害有益なものとして、大衆社会からすでに承認された
ものである。これは一堀江青年のみならず、芸術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する。

三島由紀夫「堀江青年について」より

351:名無しさん@社会人
11/03/31 21:17:58.03 .net
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。この死を前に、戦死者たちは
生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも「絶対」に直面する。この美しさは
否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。

三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より

352:名無しさん@社会人
11/04/03 00:18:25.91 .net
宝塚滞在のための目算は立つてゐたが、大阪へ到着当夜の宿に困つた私は、親戚のものの紹介状をさし出して、
一夜の宿の世話を駅長に懇望した。(中略)
ホテルは土地に不案内の私にもすぐに見つかつた。四階建の小ぢんまりしたビルである。
入口は日本映画に出てくるセットの安ホテルによくあるやうな奴である。入るとすぐ右にフロントがある。
靴のまま上らうとした私はたしなめられた。
「靴はね、御自分でもつて上つて下さい」
破れたスリッパが、海老いろの絨氈とは、一応不似合である。
私はうけとつた鍵をポケットに入れ、二つの鞄と一足の靴を持余して三階へゆく階段の途中で一休みした。
『靴つて奴は、手に持つとなると、何て不便な恰好をしてゐるんだらう』
私はかう考へて、靴紐を解いて一緒に結んで、その結び目の輪を指にかけた。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

353:名無しさん@社会人
11/04/03 00:20:19.12 .net
空のビール罎と残肴の皿を盆にのせて下りて来た女中が、私にぶつかりさうになつて、アレエといふ古風な悲鳴を
口の中で叫んだ。私はひがみではないが、この女中の目つきにも、何となく自分が客扱ひをされてゐないのを感じる。
故なくしてダブルベッドを一人で占領する私のやうな客は、汽車の坐席に横になつて二人分の空間を占領する
乗客のやうに社会的擯斥に会ふものらしい。私は昇りがけに、上から盆を見下ろしたが、不味さうに残つた
メンチボールらしいものの皿は二つある。そのちぎれて残つたメンチボールは、何かとてもいやらしい喰べ物の
やうに思はれる。
三階の廊下は森閑としてゐた。つきあたりの窓の空が駅近傍のネオンサインのために火事のやうに紅い。
私の部屋は三一四号である。入ると、六畳にしてはひろい八畳にしては狭い殺風景な全景があらはれる。(中略)
床は安つぽい紋様の緑いろのリノリュームで張つてある。壁紙は臙脂(えんじ)と白の花もやうであるが、別段
色あせてゐるやうにも見えないのは、一日中日光の射しこまない部屋だからであらう。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

354:名無しさん@社会人
11/04/03 00:22:06.64 .net
見上げると、天井から、裸電球が臆面もなく下つてゐて、部屋のなかで今しがた何かが動いたやうな気がしたのは、
揺れてゐる電灯のおかげで、私の影が揺れたのである。
早速顔を洗はうとすると、部屋の一方の壁をおほふ薄汚れたボイルのカーテンが目に入る。そのカーテンの
万遍ない汚れ方といふものは、人工的に汚れを染めたとしか思はれない。その片方をあけると、鏡と洗面器があり、
片方をあけると真鍮の棒から洋服掛が下つてゐる。
私はたつた一つの三等病室のやうな窓をあけた。
その硝子といふのがまた、厚い緑がかつた磨硝子の中に金網を仕込んだ奴である。
午後九時だつた。窓の下の錯雑した家の二階の窓には目かくしがない。薄暗い部屋のなかでほつれ毛をしきりに
掻き上げながら、ミシンを踏んでゐる女のすがたが見える。横顔が妙に骨ばつて、尖つてみえる。狐かもしれない。
……空の遠くには大小さまざまのネオンサインがいそがしく活動してゐる。ここからは中の島の方角が見えるの
かしらん。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

355:名無しさん@社会人
11/04/03 00:23:45.30 .net
忽ち扉がノックされた。
女中が入つてくる。ひどくだらしのない風態で、はらわたのはみでた桃いろの草履を引きずつて歩いてゐる。
手には土瓶と茶碗をのせた盆を持つてゐるが、すすめられた茶碗から呑まうとすると、御丁寧に縁が大きく
欠けてゐる。
お茶をのむ。無言の対峙。呑みをはる。
「御勘定!」
間髪を容れずしてかう言はれては、いくら私が剛胆でも好い加減おびやかされる。
「いくらだい」
茶代の催促かと考へて私はたづねた。
「七百五十円!」
ずいぶん高い番茶もあるものである。呆気にとられてゐると、重ねてかう言つた。
「朝食とコミで七百五十円」
つまり彼女は、このホテルの合理的な慣習に従つて、宿泊料・茶代・食費を含むお会計全額を前金で請求して
ゐるのである。

女中が行つてしまふと私は退屈した。廊下へ出た。
(中略)
……私は緑いろのリノリュームの上を巡査のやうに何となく歩いた。
『案内人のないホテルといふのは洒落れたものだなあ』と私は考へた。『前金制、……案内人なし、……その他に
どんな規約があるのかしらん』

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

356:名無しさん@社会人
11/04/03 00:28:12.38 .net
私は壁に不細工に貼られてゐる注意書を丹念に読んだ。
(中略)
余談になるが、かういふ注意書に興味をもつのが私の道楽である。
学士会館の喫煙室の椅子の背には、いちいち札がぶら下つてゐて、その札にどんな馬鹿なことが書いてあつたかを
おぼえてゐるのは、この道楽のおかげである。覚えてゐる人もあるかもしれないが、椅子毎にぶら下つてゐた
木札にはかう書いてあつた。
「この椅子の位置を動かした方は、お忘れなく元の位置に戻しておいて下さい」

また余談になるが、東京大学法学部の厠には、磁器の板に刷つたこんな文句が壁にはめてあつた。
「この便所は水洗便所で、特別の装置をもつたものですから、固い紙類、異物、セルロイド等を投下すると、
パイプが梗塞状態になり故障を惹起すことになりますから、十分注意の上、使用して下さい」
六法全書をめくると、こんな法律がある。
「動物の占有者は其動物が他人に加へたる損害を賠償する責に任ず。但し動物の種類及び性質に従ひ相当の注意を
以て其保管を為したるときは此の限に在らず。占有者に代はりて動物を保管する者も亦、前項の責に任ず」

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

357:名無しさん@社会人
11/04/03 00:30:14.63 .net
……たまたまこんな馬鹿らしいことを私が思ひ出したのには理由がある。椅子に下つたあの妙な木札は、椅子の
上での安楽な休息と別物であるやうに、便所の掲示は生あたたかい糞尿と、法律の規定はよく跳びまはる元気な
フォックステリヤと、一応別物でありながら、そこには何かしら「ありうべき場合」を網羅しようとして陥つた
抽象の中に、異様に生々しいものが横たはつてゐる。生きてとびはねてゐる現実の犬よりも、もつと生々しい
抽象的な犬がそこに想定される。
ホテルの規定は、いふまでもなく馬鹿らしいものの一つである。しかしこの注意書のおかげで、この殺風景な
部屋には、妙に生々しい実質が与へられてゐるやうに思はれる。連れ込みのお客も部屋へ入つた以上、こんな
規定に則つて行動し、その限りではみんな劃一的な、身も蓋もない存在になつてしまふ。その限り……、それが
生活といふものだ。それなしには誰も実質を失つてしまふ場所で、この注意書が「生活」の教訓を垂れてゐるのだ。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

358:名無しさん@社会人
11/04/03 00:31:45.97 .net
朝の食事には規定に従つて地下室の食堂がアベックで溢れるだらうと考へた私の目算は外れた。行つてみると、
タイル張の冷え冷えとした部屋に、タイル張の大きな柱がいくつも立つてゐる。タイルの柱はあらかた剥げてゐて
汚ならしい。配膳机のやうな長方形のテーブルが並んでをり、椅子がひつそりと並んでゐる。
「何番さん?」
と出て来たコックがたづねた。
「三一四番」
と私は答へた。私はこんな取扱には一向平気だ。
渦巻の凸凹のあるアルミニュームの丸盆に満載した朝食が運ばれて来て、盆ごと私の前に置かれた。
日向水のやうな味噌汁をすすつてゐると、疲労困憊したスリッパの足音がして、着流しの老人がやつて来て、
私の目の前のテーブルに背を向けて坐つた。
坐りかけて右方の柱のかげへ、やあ、おはやう、と嬉しさうに挨拶した。今まで見えなかつたが、そこには
もう一人食事をしてゐる人があるらしい。私のところからは依然見えにくい。
間もなく柱のかげの人は立上つて、コックに、おつさん、ごちそうさん、と声をかけてゐる。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

359:名無しさん@社会人
11/04/03 00:34:02.09 .net
見ると、四十を越したか越さないかの荒んだ肌の女である。寝間着に伊達巻ならまだしものこと、細紐一本が
ゆるゆると浴衣の胴中を締めてゐる。細紐はぬるま湯のやうにほどけてしまひさうで、もしかするとこんな
着こなしは、寝起きに水おしろいを刷いた衿元を見せようためかもしれない。女は立つたまましばらく楊枝を
使つてゐたが、煙草に火をつけると、一吹きしては、大袈裟に指さきであたりの煙を払ふやうにしながら食堂を
出て行つた。
あとには老人の入歯の歯音が、人気のない朝の食堂できかれる唯一の音である。
『全くへんな旅行の振出しだ』と私は考へた。
『早く逃げ出さなくてはいけない』
こんな風変りな宿に永くゐたら、予測することもできない不幸に引止められて、あの老人の年まで居つづけなければ
ならぬやうにならないとも限らない。朝飯をすませたら、すぐ出てしまはう』
……さうして私は地上へ向けられた地下室の天窓を見上げるが、こいつも例の金網入りの青い磨硝子である。
硝子を透して来る光は明るいけれども、その上をひつきりなしに流れてゐる淡緑色の水の影は、今朝になつて
降りだした雨らしかつた。

三島由紀夫「大阪の連込宿―『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より

360:名無しさん@社会人
11/04/05 10:46:21.57 .net
尾崎紅葉の「金色夜叉」の箕輪家の歌留多会の場面は大へん有名で、お正月といふと、近代文学の中では、まづ
この場面が思ひだされるほどです。
(中略)
三十人あまりの若い男女が、二手にわかれて、歌留多遊びに熱中してゐるありさまは、場内の温気に顔が赤くなつて
ゐるばかりでなく、白粉がうすく剥げたり、髪がほつれたり、男もシャツの腋の裂けたのも知らないでチョッキ姿に
なつてゐるのやら、羽織を脱いで帯の解けた尻をつき出してゐるのやら、さまざまですが、
「喜びて罵り喚く声」
「笑頽(わらひくづ)るゝ声」
「捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き」
「一斉に揚ぐる響動(どよみ)」
など、大へんなスパルタ的遊戯で、ダイヤモンドの指輪をはめた金満家のキザ男富山は、手の甲は引つかかれて
血を出す、頭は二つばかり打たれる。はふはふのていで、この「文明ならざる遊戯」から、居間のはうへ逃げ出します。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

361:名無しさん@社会人
11/04/05 10:47:46.65 .net
―むかしの日本には、今のやうなアメリカ的な男女の交際がなかつた代りに、この歌留多会のやうな、まるで
ツイスト大会もそこのけの、若い男女が十分に精力を発散して取つ組み合ひをする機会がないわけではありませんでした。
紅葉がいみじくも「非文明的」と言つてゐるやうに、かういふ伝統は、武家の固苦しい儒教的伝統や、明治に
なつて入つてきた田舎くさい清教徒のキリスト教的影響などと別なところから、すなはち、「源氏物語」以来の
みやびの伝統、男女の恋愛感情を大つぴらに肯定する日本古来の伝統に直につながるものでありました。百人一首の
歌の詩句は、古語ですから柔らげられてゐるやうだが、どれもこれも、良家の子女にはふさはしくない、露骨な
恋愛感情を歌つたものばかりでした。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

362:名無しさん@社会人
11/04/05 10:48:57.98 .net
お正月といふと、日ごろスラックスでとびまはつてゐるはねつかへり娘まで、急に和服を着て、おしとやかに
なるのは面白い風俗ですが、今のお嬢さんは和服を着馴れないので、たまに着ると、鎧兜を身に着けたごとく
コチンコチンになつてしまふ。必要以上におしとやかにも、猫ッかぶりにも見えてしまふわけです。
私はさういふ気の毒な姿を見ると、ちかごろの日本人は、「日本的」といふ言葉をどうやら外国人風に考へて、
何でも、日ごろやつてゐるアメリカ的風俗と反対なもの、花やかに装ひながらお人形のやうにしとやかなもの、
ととつてゐるのではないかといふ気がします。
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素も
あるのです。たださういふ要素が今では忘れられて、いたづらに、静的で類型的なものが、「日本的」と称されて
ゐるにすぎません。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

363:名無しさん@社会人
11/04/05 10:50:05.72 .net
実際、地球上どこでも、人間が大ぜい集まつて住んでゐるところで、やつてみたいことや、言つてみたいことに、
そんなにちがひがあるわけはなく、たまたま日本が鎖国のおかげで孤立的な文化を育て、右のやうな要素までも
すべて日本的な形に特殊化して、表現してきたのは事実ですが、今日のやうに、世界のどこへでもジェット機で
二十四時間以内に行けるほどになると、「日本的なもの」の中の、ツイスト的要素はアメリカ製で間に合はせ、
シャンソン的要素はフランス製で間に合はせ、……といふ具合に、分業ができてきて、どうにも外国製品では
間に合はない純日本的要素だけを日本製の「日本趣味」で固める、といふ風になつてくる。
それでは、一例がお正月の振袖みたいな、わづかに残されたものだけが、純にして純なる本当の「日本的なもの」で
あるか、といふと、それはちがふ。そんなに純粋化されたものは、すでに衰弱してゐるわけで、本来の
「日本的なもの」とは、もつと雑然とした、もつと逞ましいものの筈なのです。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

364:名無しさん@社会人
11/04/05 10:51:23.09 .net
(中略)
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、
どこまでひどくなるか、といふことです。振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ
迎へに出ること自体は、私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、配色など、今のわれわれから見ても、
超モダンに感じられます。日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成して
ゐます。この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。しかし一方、先年、フランスから
コメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)カーテン・
コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。しかし、
突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

365:名無しさん@社会人
11/04/05 10:54:36.39 .net
色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、……これで、今まで
保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。本当に
「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へ
ほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が
証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を
発見していただきたいと思ひます。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

366:名無しさん@社会人
11/04/06 11:44:37.16 .net
三月といふ月は、季節的には、何だか落着かない、いらいらした月である。何度か冴え返る寒さ、目つぶしを
喰はす埃と突風、木々の芽生えのじれつたさ、それから不規則な雨、……ものごとの成長の季節がかういふものなら、
われわれの青春時代も愉快なものであらう筈がない。
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を感じるときには、
もう衰退の中にゐるのだ。
(中略)
春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして青春は思ひ出の中でのみ
美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春が
こんなに人をいらいらさせるのは、この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。
あの春先のまつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、
顔をそむけずにはゐられないのである。

三島由紀夫「春先の突風」より

367:名無しさん@社会人
11/04/07 20:50:20.65 .net
そもそも推理小説とは欧米でも売れて売れて困るもので、売れない推理小説は、そもそも推理小説の資格がない
やうなものだ。


純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて手も出さないやうな、取扱の
きはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じがなければならない、と思ひます。つまり純文学の
作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうなところがなければならないのです。(中略)小説の中に、ピストルや
ドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、作者自身が何ら身の危険を冒して『危険物』を
扱つてゐないといふ感じの作品は、純文学ではないのでせう。


純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が漂つてゐなければ
ならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、
危険で怖ろしい作業であればあるほど、その達成のあとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたとき
その幸福感は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

368:名無しさん@社会人
11/04/07 20:51:29.44 .net
(中略)
人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、
もう、しやにむに生きるほかはない。
室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。
老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。殊に肉体芸術やスポーツの分野では、
東西の差が顕著で、先代坂東三津五郎丈は老齢にいたるまで見事な舞台姿を見せたが、セルジュ・リファールは
もうすでに舞台姿は見るに堪へぬ。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、
七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。室生氏などは
世阿弥のいはゆる「珍しき花にて勝」つた人であらう。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

369:名無しさん@社会人
11/04/07 20:52:48.02 .net
(中略)
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

370:名無しさん@社会人
11/04/07 20:53:46.17 .net
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも二種類あります、と持つて
来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を千五百円といふ無責任さ。
そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
―かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説といふ
ものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

371:名無しさん@社会人
11/04/10 12:07:17.46 .net
外国へ行つたら、日本のことをとやかくきかれるかと思つて、それなりの心づもりをして行つたら、大まちがひで
あつた。どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。講演会で、
中学生が講師に質問して、
「先生はサルトルについてどうお考へですか」などと訊くのは日本だけである。
なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は支那に似てゐる。
(中略)
アメリカでは、はうぼうで、日本に関する歯の浮くやうなお世辞を云はれたり、「原子爆弾を落してすまなかつた」と
隣家の窓ガラスに野球の球をぶちこんだ時のやうな真顔の詫び言を云はれたこともあつたが、アメリカ人の
いふことには、概して政治的な臭味があつて人の心を打たない。それだけ、アメリカ人は正直なのであらう。

三島由紀夫「日本の株価―通じる日本語」より

372:名無しさん@社会人
11/04/10 12:09:08.64 .net
一つ快い思ひ出はギリシアである。
(中略)バスが故障して何度も停つたので、その間に伯父さんにつれられて田舎へ遠足にゆく、二人のかはいらしい
小学生と知合になつた。かれらは英語を勉強してゐるので、私と英語で話すことが得意なのである。(中略)
「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬してゐるんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、他ならぬギリシアの子供に
かう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に
残つてをり、しかもわが日本が、(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの
競技会に参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、いかに世界を
おほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。事実、われわれの精神の仕事も、
もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るかとかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。

三島由紀夫「日本の株価―通じる日本語」より

373:名無しさん@社会人
11/04/11 20:59:47.16 .net
最近ウェイドレーの「芸術の運命」といふ本を面白く読んだが、この本の要旨は、キリスト教的中世には
生活そのものに神の秩序が信じられてゐて、それが共通の様式感を芸術家に与へ、芸術家は鳥のやうに自由で、
毫も様式に心を労する必要がなかつたが、レオナルド・ダ・ヴィンチ以後、様式をうしなつた芸術家は方法論に
憂身をやつし、しかもその方法の基準は自分自身にしかないことになつて、近代芸術はどこまで行つても告白の域を
脱せず、孤独と苦悩が重く負ひかぶさり、ヴァレリーのやうな最高の知性は、かういふ模索の極致は何ものをも
生み出さないといふことを明察してしまふ、といふのである。著者はカソリック教徒であるから、おしまひには、
神の救済を持出して片づけてゐる。
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。しつかりした
共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ共通の判断で、あれを善い、これを悪い、
あれは正しい、これは正しくない、といふ。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

374:名無しさん@社会人
11/04/11 21:03:18.26 .net
それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を与へるから「美しい」行為といはれるものは、直ちに
善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャのやうな至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と
道徳的感覚は一つものになるであらう。
最近、汚職や各種の犯罪があばかれるにつれて、道徳のタイ廃がまたしても云々されてゐる。しかしこれは
今にはじまつたことではなく、ヨーロッパが神をうしなつたほどの事件ではないが、日本も敗戦によつて古い神を
うしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、神が
支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふそのことではないのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

375:名無しさん@社会人
11/04/11 21:06:26.63 .net
今世紀の現象は、すべて様式を通じて感覚にぢかにうつたへる。ウェイドレーの示唆は偶然ではなく、彼は様式の
人工的、機械的な育成といふことに、政治が着目してきた時代の子なのである。コミュニズムに何故芸術家が
魅惑されるかといへば、それが自明の様式感を与へる保証をしてゐるやうに見えるからである。
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。かういふ方法で
政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきたことを意味する。我々は今日、自分の
モラルの感覚を云々することはたやすいが、どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、
明言することはだれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に従ひがちに
なるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

376:名無しさん@社会人
11/04/11 21:09:00.44 .net
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられたことはない。文明のさまざまな
末期的錯綜の中から生れたもつとも個性的な思想が非常な近道をたどつて、もつとも民族的な未開な情熱に結びつく。
ブルクハルトが「イタリー・ルネッサンスの文化」の中で書いてゐるやうに「芸術品としての国家や戦争」が
劣悪な形で再現してをり、神をうしなつた今世紀に、もし芸術としてなら無害な天才的諸理念が、あらゆる
有害な形で、政治化されてゐるのである。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて来てをり、もしモラルの
感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に抗して、芸術家が己れの感覚の誠実を
うしなはないことが大切になるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

377:名無しさん@社会人
11/04/13 12:05:39.56 .net
科学的見地から見れば、素人のわれわれにも、フロイトのユダヤ的夢判断よりもハヴロック・エリスの夢の研究の
はうが妥当なやうに思はれる。しかしフロイトの魅力はもとよりその妥当さに在るのではない。フロイトの強引な
仮説は今日われわれの社会生活の常識にまでしみ入りおくればせに北米合衆国を風靡して、おかみさん階級までが
アナリシスに熱中してゐる。古典的合理主義の支配してゐる米国では、性慾その他の非合理的世界がいつも
恐怖の対象になつてゐるので、フロイトはもつぱらその合理的側面から、DDTみたいに愛用されてゐるのである。


「芸術論」を再読してみて、カントが芸術にぶつかつて「判断力批判」で失敗したやうに、フロイトも芸術で
つまづいて、ここで最もボロを出してゐると思はれるところが多い。極度に反美学的考察のやうにみえながら、
実はフロイトが陥つてゐるのは、美学が陥つたのと同様の係蹄である。芸術の体験的把握を離れた分析の図式主義と、
芸術を形成する知的な要素と官能的な要素との相関関係の解明にとどまつて、「鶏が先か卵が先か」といふ
循環論法に終始してゐる。

三島由紀夫「フロイト『芸術論』」より

378:名無しさん@社会人
11/04/14 11:14:29.90 .net
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。蛍光灯の下では美人も幽霊の
やうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、あまり美味しくもなささうな色の
料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、臘燭が用ひられだした。磨硝子の円筒形のなかに臘燭を点したのが卓上に
置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した女は、周囲の暗い
喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した目の煌めきまでが
いきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も臘燭に如くものはないらしい。そこで今度は古来の提灯が
かへり見られる番であらう。
子供のころ、こんな謎々があつた。
「火を紙で包んだもの、なあに」
この端的な提灯の定義は、今日でも外国人の好奇心を誘ふものであらう。
私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。

三島由紀夫「臘燭の灯―今月の表紙に因んで」より

379:名無しさん@社会人
11/04/14 11:15:06.72 .net
内玄関の鴨居には、家紋をつけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、
それらが一家の避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。江戸時代の
庶民の発明した紙のシャンデリアである。
花灯籠、絵灯籠、灯籠流し、といふのはもう言葉ばかりで、正直のところ、私の都会生活で、ゆらめく臘燭の灯に
接する機会は、レストランか、さもなければ停電の夜だけになつた。

三島由紀夫「臘燭の灯―今月の表紙に因んで」より

380:名無しさん@社会人
11/04/16 11:15:20.76 .net
張り合ひのない女ほど男にとつて張り合ひのある女はなく、物喜びをしないといふ特性は、愛されたいと思ふ女の
必ず持たねばならない特性であつて、かういふ女を愛する男は、大抵忠実な犬よりも無愛想な猫を愛するやうに
生れついてゐる。
(中略)
冷たさの魅力、不感症の魅力にこそ深淵が存在する。
物理的には、ものを燃え立たせるのは火だけであるのに、心理的には、ものを燃え立たせるものは氷に他ならない。
そしてこの種の冷たさには、ふしぎと人生の価値を転倒させる力がひそんでゐて、その前に立てば、あらゆる価値が
冷笑され、しかも冷笑される側では、そんな不遜な権利が、一体客観的に見て相手にそなはつてゐるかどうかを、
検討してみる余裕もないのである。
こんないら立たしい魅力も、しかし心を息(やす)ませないから、実は魅力の御本尊の自負してみるほど、
永続きはしないものである。

三島由紀夫「好きな女性」より

381:名無しさん@社会人
11/04/16 11:16:46.29 .net
(中略)
ありがた迷惑なほどの女房気取も、時によつては男の心をくすぐるものである。かういふ女性の中には、どんなに
知識と経験を積んでも、自分でどうしても乗り超えられない或る根本的な無智が住んでゐて、その無智が決して
節度といふことの教へを垂れないから、いつも彼女自身の過剰な感情のなかでじたばたしてゐるのである。
(中略)
恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。しかし計量できない天文学的
数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、はたで想像するほど男をうるさがらせてはゐないのだ。
それは過剰の揺藍(ゆりかご)に男を乗せて快くゆすぶり、この世の疑はしいことやさまざまなことから目を
つぶらせて、男をしばらく高いいびきで眠らせてしまふのである。
私は時には、さういふ催眠剤的な女性をも好む。
これはさつきの議論と矛盾するやうでもあるが、一方、認識慾のつよい男ほど、催眠剤を愛用する傾きも強く、
その必要も大きいといふことが云へるだらう。

三島由紀夫「好きな女性」より

382:名無しさん@社会人
11/04/16 11:18:38.74 .net
この世にはいろんな種類の愛らしさがある。しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であらう。
美しいと謂はれてゐる女の人工的な計算された可愛気は、たいていの場合挫折する。実に美しさは誤算の能力に
正比例する。
(中略)
可愛気は結局、天賦のものであり天真のものである。
そしてかういふものに対してなら、敗北する価値があるのだ。
ほんのちよつとした心づかひ、洋服の襟についた糸屑をとつてくれること、そんなことは誰しもすることであるが、
技巧は、かういふ些細なところでいつも正体をあらはしてしまふ。
私は小鳥を愛する女の心情の中にさへ、暗い不可解な無意識の心理を、忖度せずにはゐられない不幸な人間であるが、
たまには、(時には気候の加減で)さういふ時の女にかけがへのない天真さを発見する。
何かわれわれの庇護したい感情に愬へるものは、おそらく憐れつぽいものではなくて、庇護しなければ忽ち
汚れてしまふ、さういふ危険を感じさせる或るものなのであらう。�


383:ニころが一方には何の危険も感じさせない 潔らかさや天真さといふものもあり、さういふものは却つて私を怖気づかせてしまふから妙である。 三島由紀夫「好きな女性」より



384:名無しさん@社会人
11/04/18 10:43:01.66 .net
私の主義としては、匿名の原稿は一切引受けない。これは匿名批評を否定するから引受けないのではなく、
ウィスキーは決してストレイトで呑まないとか、飛行機には決して乗らないとか、(中略)さういふことを
力んで主義にしてゐる人のやうに、私も力んで主義にしてゐるにすぎない。健康上の理由のほか、大した根拠は
ないのである。
一般的に匿名批評は是が非かといふことになると、人のやることにはあまり口を出したくないから、勝手にやつて
もらつたらいい。ただ困るのは、匿名批評といふものは、人のやることにいちいち口を出したがる立場だから、
こつちがかういふ態度でゐれば、おのづと火の粉はこちらの身にかかり、無防禦の受身になつたも同様である。
事実私も、匿名といふ匿名で、袋叩きに合つた経験があり、さういふときはどうして覆面同士の気がピタリと
合ふのか、面白いほどである。
自分がやらないから、匿名家の心理といふものはわからぬが、一年もつづけてやると、自己中毒症状に陥るのでは
ないかと思はれる。ミスティフィケイションの心理には、永続性がなく、必ず地獄のやうな倦怠に陥る。

三島由紀夫「匿名批評是非」より

385:名無しさん@社会人
11/04/18 10:44:12.78 .net
一生ミスティフィケイションをとほして平気だつた文学者といふものもあるが、それは実はミスティフィケイションと
見えたものが、その人の素顔だつたのである。野暮な議論だが、およそ文筆活動といふものは、自我の拡張の
喜びであつて、署名はその最低限度のあらはれである。できることなら、私、私、私、私、と百万べんも書きたいのだ。
一方、匿名の趣味は、覆面の英雄を喜ぶ民衆の趣味に支へられるから、それを読む民衆ははじめから、公平な
最大公約数的意見だなどと思つて読みはしない。(中略)さうすると、匿名作家は、おしのびの快楽にいつしか
熱中し、署名附文筆よりももつと絶対な自我の拡張のよろこびを味はつてゐるかもしれないのである。かういふ
心理が自家中毒を起すと私は言ひたいのだが、しかしそれも私のひがみの一種であらう。
結論をいふと、現代の匿名批評には、批評される対象にとつての害悪、および読者にとつての害悪はほとんど
みとめられず、ただ(余計なお節介であらうが)匿名家自身の健康に害悪がありはしないか、と憂慮されるのみである。

三島由紀夫「匿名批評是非」より

386:名無しさん@社会人
11/04/18 11:12:39.70 .net
>>339-340
これはおもしろいね

387:名無しさん@社会人
11/04/20 10:59:31.64 .net
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、透明な抽象的構造を
いつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。(中略)
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

388:名無しさん@社会人
11/04/20 10:59:51.63 .net
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

389:名無しさん@社会人
11/04/20 11:00:25.87 .net
サディズムとマゾヒズムが紙一重であるやうに、女性に対するギャラントリィと女ぎらひとが紙一重であると
いふことに女自身が気がつくのは、まだずつと先のことであらう。女は馬鹿だから、なかなか気がつかないだらう。
私は女をだます気がないから、かうして嫌はれることを承知で直言を吐くけれども、女がその真相に気がつかない間は、
欺瞞に熱中する男の勝利はまだ当分つづくだらう。男が欺瞞を弄するといふことは男性として恥づべきことであり、
もともとこの方法は女性の方法の逆用であるが、それだけに最も功を奏するやり方である。「危険な関係」の
ヴァルモン子爵は、(中略)女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、女の心をとろかす甘言を
総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く捨ててかへりみない。(中略)
女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに目くじら立てる女は、
そのへんがおぼこなのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

390:名無しさん@社会人
11/04/20 11:05:28.96 .net
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な
文化の母胎であつた。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

391:名無しさん@社会人
11/04/20 11:05:53.79 .net
したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を味はふことができぬのである。文化の進歩につれて、この孤独の意識を
先天的に持つた者が、芸術家として生れ、芸術の専門家になるのだ。私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと
首をひねらざるをえない。
あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教へてもらつてゐる始末である。教師的趣味の男が
いつぱいゐるから、それでどうにか持つてゐるが、丁度眼鏡を額にずらし上げてゐるのを忘れて、一生けんめい
眼鏡をさがしてゐる人のやうに、女は女性といふ眼鏡をいつも額にずらして忘れてゐるのだ。(時には故意に!)
こんな歯がゆい眺めはなく、こんな面白くも可笑しくもない、腹の立つ光景といふものはない。私はそんな明察を
欠いた人間と附合ふのはごめんである。うつかり附合つてごらん。あたしの眼鏡をどこへ隠したのよ、とつかみ
かかつてくるに決つてゐる。
もつとも女が自分の本質をはつきり知つた時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであらう。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

392:名無しさん@社会人
11/04/21 12:59:19.86 .net
中世における世界像の縮小とコロンブスのアメリカ発見による再拡大、近世における植民地の争奪による世界像の
終局的拡大、……かういふものを通じて、前大戦後の失敗にをはつた国際連盟あたりから、世界国家の理想が
登場してくる。第二次世界大戦後にもこの理想は、国際連合の形で生き延びてゐる。
そこで問題は、原子爆弾と国際連合との宿命的なつながりに帰着する。
われわれはもう個人の死といふものを信じてゐないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、
個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることは
できないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及に
よる世界像の単一化が原因してゐる。
ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、おそらく
大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と同等の
ものなのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

393:名無しさん@社会人
11/04/21 13:00:02.93 .net
小さな封建国家の滅亡は、世界の滅亡と同様の感覚的事実であつた。われわれの原子爆弾に対する恐怖には、
われわれの世界像の拡大と単一化が、あづかつて力あるのだ。原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、
国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を
貸し合つてゐるのである。
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に
狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。
世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。
しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は
同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を明確に
見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。まづ個人が復活しなければならないのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

394:名無しさん@社会人
11/04/23 11:24:19.72 .net
僕は青春の花のさかりの美しい男女にいつも喝采を送る。ある年齢の堆積から来る美といふものも、わからぬではない。
しかしそれは女に限られてゐる。自分の母の年齢までの女の美しさは、みんなわかるつもりだ。母が七十になれば、
僕には七十の老婆の美もわかるやうになるだらう。ところで、男の年齢の累積は美しくない。それは男が成年期に
達すると、単なる男から、一個の抽象概念としての「人間」に脱皮するからであらう。世間で男ざかりなどと
いふのは、主としてこの後者の意味である。女はこれに反して、いつまでたつても女だ。女は第一お化粧をするから、
いつまでも美しいわけで、生地のままの男のはうが青春のさかりは短いのである。これは世間の定説に反した私の
確信ある学説で、世の女性に捧げる福音である。アレキサンダア大王が、死ぬまで、二十歳そこそこの自分の
肖像しか作らせなかつたといふ伝説は、古代ギリシャの知恵が、このマケドニヤの大帝の中に生きてゐた証拠と思はれる。

三島由紀夫「美しいと思ふ七人の人」より

395:名無しさん@社会人
11/04/24 11:27:14.75 .net
六月二十五日(土)
人間のやつたことは、自然力から、人間生活に役立つ効用を発見し、機能を引出すことだつた。道具や機械に
とつては、物の究極の構造などはどうでもよいのだ。自然の一機能が、ただグロテスクに誇張されてゐればよいのだ。
科学が誕生した。科学の目的は、宇宙的法則および宇宙構造の認識に在るとしても、それを模写し、その雛型を
つくることに在るのではない。そんな全的なことは、何の役にも立たないのだ。
(中略)
原子力時代が到来して、科学の人間的要請、つまり自然の効用と機能を盗むことが、いひしれぬ非人間的な結果に
おちいり、逆に、非人間的要請から出発した芸術が、唯一の人間的なものとして取り残されたのは、逆説的な
ことである。しかし原子力研究が発見したやうな物の究極の構造へ、芸術は新らしい方法によつて達するべきで
あらうか? あくまで可視的な自然にとどまることが、芸術の節度であり、倫理でもあるのではないか? 
原子爆弾は、人間の作つたもつともグロテスクな、誇張された自然である。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

396:名無しさん@社会人
11/04/24 11:28:09.28 .net
六月三十日(木)
私が太宰治の文学に対して抱いてゐる嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらひだ。第二に
この人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と
心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。しかし弱点をそのまま強味へ
もつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思はれる。どうにもならない自分を信じるといふことは、
あらゆる点で、人間として僭越なことだ。ましてそれを人に押しつけるにいたつては!
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。
生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには
本当の病人の資格がない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

397:名無しさん@社会人
11/04/24 11:28:35.92 .net
七月二日(土)
青年の自殺の多くは、少年時代の死に関するはげしい虚栄心の残像である。絶望から人はむやみに死ぬものではない。
私は青年期以後、はじめて確乎とした肉体的健康を得た。かういふ人には、生れつき健康な人間とは別の心理的
機制があつて、自分は今や肉体的に健康だから、些事に対して鈍感になる権利があると考へ、そんなふうに自分を
馴らしてしまふのである。

七月四日(月)
典型的な少年は、少年期の犠牲になる。しかしこれは少年期ばかりではないかもしれぬ。典型的な青年は、青春の
犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、
フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

398:名無しさん@社会人
11/04/24 11:29:28.25 .net
七月六日(水)
学生にふさはしい文章は、その清潔さにおいて、アスリート的文章だけであらう。どんなに華美な衣裳をつけて
ゐても、下には健康な筋骨が、見え隠れしてゐなくてはならない。
ところで最近私は、「太陽の季節」といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人の小説を読んだ。よしあしは別にして、
一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対の文章、学生文学通の文章で、
書かれてゐたことであつた。

七月十日(日)
極度にまで理性に蝕まれた感情が、しかも強力に観客に作用して、観客を引きずつてゆかねばならないとは、劇の
逆説的要請であるが、感情のかういふ逆説の可能になる場所が、まさに俳優の肉体なのだ。そして媒体である俳優は、
白(せりふ)を諳んじ、ある白のあとで退場するといふやうなこまごました理性の統制に服しながら、同時に
その生理的機能をあげて、顔を紅潮させて怒り、あるひは時には本物の涙を流して嘆くのである。
しかし俳優の作品は極度に抽象的で、芸術家のなかでもつとも肉体(可視的)でものを言ふ俳優なるものが、
実はもつとも抽象的(不可視的)な作品をもつてゐる。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

399:名無しさん@社会人
11/04/24 11:39:10.70 .net
七月十日(日)
肉体が宿命的であるならば、精神も宿命的でないとはいへない。俳優における肉体の宿命は、あらゆる芸術家に
おける精神の宿命と、相似のものでないとはいへない。小説家の作品にも、作曲家の作品にも、画家の静物画にも、
われわれは俳優の肉体と相似のもの、まるで肉体の宿命のやうにはつきりした精神の宿命を見ないだらうか? 
これらの芸術家が素材を可塑的(プラスチック)だと思つてゐるのは、単なる妄信ではなからうか?
かう考へてゆくと、私には、俳優なるもののグロテスクな定義が思ひうかんで来るのである。私は仮りに、
(あくまで仮りにだが)、かう定義したい誘惑にとらはれる。
「芸術家としての俳優は、内面と外面とが丁度裏返しになつた種類の人間、まことに露骨な可視的な精神である」と。
(中略)彼があんなにも次々と、他人の精神に身をまかせながら、(この点では俳優は批評家に似てゐる)、
批評と別の方向を辿るのは、彼にとつてはつきりした外面、はつきりした肉体があるおかげではないか。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

400:名無しさん@社会人
11/04/24 11:39:34.96 .net
七月十一日(月)
扇が射落されたとき、(那須の)与市のその行為は、彼の現実認識と一つものになつてゐた。それがそのまま
認識たりうるやうな稀な行為。与市はその行為の体験によつてのみ認識に達し得たのであり、その瞬間、認識と
行為とはまつたく同一の目的、すなはち現実を変革するといふ目的に奉仕した。
さて、われわれは、かういふ一瞬のために生きれば足り、爾余の人生は死にすぎない。与市がそれによつて
生きたやうな一瞬こそ、まさに純粋な生、極度に反芸術的なもの、芸術不要の一点だ、と私は言ふのである。
芸術をここへもつてくれば、芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地のよいことをのぞまず、むしろ
つねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、
芸術を押しつぶしてしまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?

三島由紀夫「小説家の休暇」より

401:名無しさん@社会人
11/04/24 21:06:42.29 .net
七月十二日(火)
われわれの目に映る範囲では、女性的特色をもつた男色家はたくさんゐる。熾烈な女装の欲望を抱いた男もあれば、
男の言葉を使ふことにゆゑしらぬ困難を感ずる男もある。しかし無智な人間ほど、面白いことには、男色の
本質的特異性がつかめず、世俗的な異性愛の常識に犯されてしまふのである。その結果、どうなるかといふと、
自分が男のくせに男が好きなのは、自分が女だからだらうと思ひ込んでしまふ。人間は思ひ込んだとほりに
変化するもので、言葉づかひや仕草のはしばしまで、おどろくほど急激に女性化してくる。田舎出の少年などは、
ひとたびこの風習に染まると、それが都会のハイカラな流行だと思ひちがへて、たちまち女言葉に習熟してくる。
それはあたかも外国人が日本へ来て、女からばかり日本語を習つて、女の言葉づかひしか出来なくなつた場合に
似てゐる。これらの変化は生理的な変化といふよりも、支配的な異性愛文化の影響下にある一種の社会的変化とでも
云つたはうが適当であらう。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

402:名無しさん@社会人
11/04/24 21:07:07.50 .net
七月十九日(火)
例のビキニ実験における補償問題でも感じたことであるが、その実験を非人間的といひ、反人道的といふときに、
われわれの人間なる概念は、すでに動揺を来してゐる。私は政治的偏見なしに言ふのであるが、水爆の実験を
した国の人間が、被害国の人間に補償を提供するといふこの行為には、国際間の問題とか、人種的偏見の問題とかを
超えて、人間の或る機能が、人間の別の機能に対して、慈悲を垂れてゐるといふ感を与へる。「知的」な概観的な
世界像に直面してゐる人間が、自分の一部分であるところの、さういふ世界像と無縁な部分に、慈悲を垂れるとは
何を意味するか。私は人間相互の問題といふよりも、人間一般の内部の出来事、といふふうに理解するのである。
たとへばわれわれは、水爆を企画する精神と無縁ではない。われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用する
ことと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。科学はさういふ風に発達して来て、精神の歴史にも関はつて
来たのであり、火薬の発明と活字の発明は、かつて手をたづさへて、封建制を打破したのであつた。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

403:名無しさん@社会人
11/04/24 21:07:40.99 .net
現代の人間概念には、おそるべきアンバランスが起つてゐる。広島の原爆の被災者におけるよりも、あの原爆を
投下した人間に、かうしたアンバランスはもつと強烈に意識された筈であつた。被災者は火と閃光と死を見た。
それを知的に概観的に理解する暇はなかつた。相手が原爆であらうと、大砲であらうと、小銃であらうと、被害者は
いつも原始的な個体に還元され、死がさらに彼を物質に還元してしまふ。しかし原爆投下者はどうだつたか? 
彼は決して巨人の感受性にめぐまれてゐたわけではなかつた。彼の肉体は小刀にも血を流し、うすい皮膚の下には、
こはれやすい内蔵が動いてゐた。しかし彼には距離があり、はるか高みから日本の小さな地方都市を見下ろしてゐた。
人間の同一の条件についての意識は隠蔽された。むしろ彼はそれを押しかくした。おそらくいくばくの技術と
科学知識にめぐまれてゐた投下者は、巨大ならざる自分の感受性を、あの知的な概観的な世界像の下に押しつぶす
ことを知つてゐたのである。そしてかういふ小さな隠蔽、小さな抑圧が、十分あの酸鼻な結果をもたらすに足りた。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

404:名無しさん@社会人
11/04/25 11:48:21.46 .net
ところがかうした投下者の意識は、今日われわれの生活のどの片隅にも侵入してゐて、それが気づかれないのは、
習慣になつたからにすぎないのである。われわれは、新聞やラヂオのニュースに接したり、あるひは小さな
政治問題にひそむ世界的な関聯に触れたり、国際聯合を論じ世界国家を夢想したりするときのみならず、ほんの
日常の判断を下すときにも、知的な概観的な世界像と、人間の肉体的制約とのアンバランスに当面して、一瞬、
目をつぶつて、「小さな隠蔽」、「小さな抑圧」を犯すことに馴れてしまつた。瞬間、われわれは巨人の感受性を
持つてゐるやうな錯覚におそはれる。私が諷して巨人時代といふのは、このことを斥すのだ。
かくて例の水爆実験の補償は、私の脳裡でふしぎな図式を以て、浮んで来ざるをえない。いづれも人間の領域で
ありながら、一方には、水爆、宇宙旅行、国際聯合をふくめた知的概観的世界像があり、一方には肉体的制約に
包まれた人間の、白血病の減少があり、日常生活があり、家族があり、労働があるのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

405:名無しさん@社会人
11/04/25 11:48:50.84 .net
この二つのものをつなぐ橋が経済学だけで解決されようとは思はれぬ。この二つのものは、現代に住む人間の
条件であり、アメリカの富豪にあつても、焼津の漁夫にあつても、程度の差こそあれ、免れがたい同一の条件
なのである。(中略)
そして慈悲を垂れることが侮蔑を意味するなら、この現象は、人間が人間を侮蔑し、人間の或る価値が他の価値を
おとしめつつあることに他ならぬ。人間内部の問題だと云つたのはこのことである。
さて、かうした「巨人時代」が来てから、巨人的な精神といふものは、徐々に必要でなくなり、半ば衰減してをり、
政治の領域でさへ、四巨頭会議といふ用語は、首をかしげさせることになつた。世界の国々をめぐつて飛行機旅行を
した人には、実感のあることであるが、そのひどく無機的な旅の印象には、われわれの統一や綜合をめざす精神の
動きは入りこむ隙のない感を与へられる。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

406:名無しさん@社会人
11/04/25 11:49:15.62 .net
われわれはただ地上を地図のやうに考へ、与へられた概観に忠実であることによつてしか、世界を把握することが
できぬ。現代は、丁度かうして、常住飛行機に乗つてゐるやうなものである。諸現象は窓のかなたを飛び去り、
体験は無機的になり、科学的な嘔吐と目まひは、われわれの感覚を占領してしまふ。
精神はどこに位置するのか、とわれわれは改めて首をかしげる。巨人的な精神とは、一個の有機体であつて、
こんなものを容れる隙が世界にはなくなつた。巨人的な精神とは、精神それ自体の法則に従つて統一と綜合を
成就したものであるから、その肉体的制約と世界像の間には、小宇宙と大宇宙のやうな相互の反映があつて、
しかも堅固な有機的基礎に立つてゐた。さういふものが人間と称されてゐたのに、人間概念は崩壊したのである。
人間愛はかくて侮蔑的なものになつた。なぜならそれは、人間が人間を愛することではなくて、誰も信じなく
なつた人間概念を信じてゐるやうなふりをすることであり、ひいては人間の自己蔑視に他ならなくなつたからである。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

407:名無しさん@社会人
11/04/25 11:49:37.40 .net
それでもなほかつ、精神がどこに位置するか、といふ問は、さまざまな形で問はれてゐる。私がさつき挙げた
二つのもののその後者、その肉体的制約のうちに、精神をおしこめて、そこから出発しようといふ思考の形は、
二十世紀初頭からいろいろと試みられた。(中略)精神固有の形態は、かくてすでに十九世紀末に崩壊し、
ふたたびギリシア時代が再現して、肉体と精神の親密さが取り戻されたかのやうであつた。しかし根本的なちがひは、
ギリシアの精神が美しい肉体から羽搏き飛立つたのに引きかへて、二十世紀では、精神がおそれをののいて、
肉体の中へ逃げ込んだのである。
(中略)哲学の使命である世界把握は、普遍的な概観的世界像によつて追ひ抜かれた。今日、斬新な哲学は、
ニュースによる世界把握の上に組み立てられ、哲学のみが世界像の把握に到達する唯一の小径であつたやうな
嘗ての状態は消滅した。そしてこの世界像を更新し、拡張してゆく作業を、今では科学が受け持つてゐるのである。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

408:名無しさん@社会人
11/04/25 11:49:57.40 .net
精神はどこに位置するか? 精神は二十世紀後半においては、人間概念の分裂状態の、修繕工として現はれる
ほかはない。統一と綜合の代りに、あの二つのものの縫合の技術が、精神の職分になるだらう。それがどんなに
不可能に見え、時にはどんなに「非人間的」に見えても、精神はこの仕事のために招かれてゐるのである。その
縫合の結果が誰に予見できよう。もし再び、肉体的制約の中へ人間が確乎として立ち戻り、科学のあらゆる兇暴な
進歩を否定することにならうと、それが簡単に精神の勝利だと云へようか? また、万一、各人が肉体的制約を
離れて、まさしく、巨人の感受性をわがものにするやうにならうと、それな簡単に精神の敗北だと云へようか? 
精神は縫合をすませれば、いづれは本来の動きに戻つて、しやにむに統一と綜合へ進むだらう。
さて、芸術は、もつとも頑なに有機的なもののなかに止まりながらも、もし精神がそれを命ずれば、どんな
怖ろしい身の毛のよだつやうな領域へも、子供じみた好奇心で、命ぜられたままに踏み込んでゆくにちがひない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

409:名無しさん@社会人
11/04/26 11:30:32.46 .net
七月二十九日(金)
啓蒙主義的人間主義は、まつたく唯物的な人間主義である。自然科学だけが、このやうな人間主義を教へ、自然を
物とみなし、自然を征服せしめ、自然を道具に分解し、……やがて人間をも物として見るやうに誘導した。
なぜなら自然を物として見ることは、やがて人間をも物として見ることを意味するからである。
人間は人間をも物として見る。他人を物として見るばかりか、人から見られる自分をも物として見る。つひには
人間は、誰からも見られてゐない時だけしか、シュペルヴィエルのいはゆる「知られぬ海」の状態にある時しか、
彼自身たりえない。
近代的人間のかういふ孤独の救済のために、二つの方法が考へられる。キリスト教によつて再び、自然から
世界から人間から逃避するか、古代希臘の唯心論的自然観のうちにふたたび身をひたすか。ヘルデルリーンは
後者に従つたが、もとよりギリシアはすでに死んでをり、彼の行く道は、浪漫的個性の窄狭な通路しかなかつた。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

410:名無しさん@社会人
11/04/26 11:31:01.84 .net
七月三十一日(日)
私はしばしば自分の中にさういふ悪癖を感じるのだが、人に笑はれまいと思ふ一念が、かへつて進んで自分を
人の笑ひものに供するといふ場合が、よくある。戒めなくてはならぬ。社会生活といふものは、相互に自分の
弱点を提供しあひ、相互にそれを笑ふことを許し合つて成立してゐる。(中略)意識家のお先走りは、自分の
意識しない滑稽さが人に笑はれることほど意識家の矜りを傷つけることはないから、もし新たな弱点、新たな
滑稽さを自分の中に意識し発見すると、それが人に発見されるよりさきに自分が発見したといふことを他人に
納得させるために、わざわざその弱点を公共の笑ひ物に供して安心するといふやうな悪癖に立ちいたる。
他人が私に対するとき、本当に彼にとつて興味のあるものは私の弱点だけだといふことも、たしかな事実であるが、
ふしぎな己惚れが、この事実を過大視させ、もう一つの同じ程度にたしかな事実、「他人にとつて私の問題などは
何ものでもない」といふ事実のはうを忘れさせてしまふことが、往々にしてある。さういふところに成立する
告白文学ほど、醜悪なものはない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

411:名無しさん@社会人
11/04/26 11:31:53.92 .net
人をして安心して笑はせるために、私も亦、私自身を客観視して共に笑ふやうな傾向も、戒めなくてはならぬ。
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に媚びることである。
他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。「御人柄」などと云つて世間が
喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。
意識家の陥りやすいあやまりは、自分を硝子の水槽のやうだと思ひ込んでしまふことだ。ところがやつぱり、
彼は硝子の水槽ではないのだ。この錯覚はなかなか複雑な構造をもつてゐて、実は意識家ほど、他人の目に決して
見えない自分を信じてゐる者はなく、しかしそのぎりぎりのところまでは、逆に他人にむかつて、自己解剖の
明察を誇りたく、このたえず千変万化する妥協を以て、自分の護身術と心得てゐるのである。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

412:名無しさん@社会人
11/04/26 11:32:19.63 .net
だから意識家は必ず看板をぶらさげ、その看板も亦、手のこんだ多様さを持つてゐるのであるが、自分を意識家と
して他人に印象づけることにぬかりがない。その一等見やすい看板が、自嘲とか自虐とかいふものなのである。
私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。
傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々この鎖帷子が自分の肌を
傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを
「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようとしてしてゐるところかもしれないのだ。
意識家の唯一の衛生法は他人を笑ふときに哄笑を以てすることである。ニイチェも言つてゐる、「吾が年若き友よ、
汝等若し徹底的に飽迄厭世家たらんと欲するならば、笑ひを学ばなければならない」(「自己批判の試み」)

三島由紀夫「小説家の休暇」より

413:名無しさん@社会人
11/04/26 11:37:07.44 .net
八月一日(月)
都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。或る作家たちが、小説のなかで、やすやすと
流行語をとり入れてゐるのを見ると、私はレオパルヂ伯の「流行と死との対話」といふ対話篇を思ひ出さずには
ゐられない。そこでは流行と死は姉妹分といふことになつてをり、この姉妹に共通な傾向、共通な作用は、
「たえず世界を新規にして行く」といふことなのである。


八月三日(水)
「葉隠」ほど、道徳的に自尊心を解放した本はあまり見当らぬ。精力を是認して、自尊心を否認するといふわけには
行かない。ここでは行き過ぎといふことはありえない。高慢ですら、(「葉隠」は尤も、抽象的な高慢といふ
ものは問題にしない)、道徳的なのである。「武勇と云ふ事は、我は日本一と大高慢にてなければならず」
「武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要なり」……正しい狂気、といふものがあるのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

414:名無しさん@社会人
11/04/27 10:32:51.54 .net
八月四日(木)
日本文化の感受性は稀有のものである。これこそ独自の、どんな民族にも見当らぬほどに徹底したものである。
私にはふと、第二次大戦における敗戦は、日本文化の受容的特質の宿命でもあり、また、人が決して自分に
ふさはしからぬ不幸を選ばぬやうに、もつともこの特質にふさはしく、自ら選んだ運命ではないか、と思はれる
ことがある。なぜなら、敗北は受容的なものである。しかし勝利は、理念であり、統一的法則でなければならぬ。
日本文化は、このやうな勝利の、理念的責務に耐へ得たかどうか疑はしい。しかしそれと同時に日本の敗戦は、
理念が理念に敗れたのではなく、感受性そのものが典型的態度をとつて敗れたにすぎなかつた。そこへゆくと、
ナチス・ドイツの敗北は、完全に理念の敗北であつて、日本の敗戦とその意味はまるでちがつてゐる。ナチスの
敗北は、勝利の理念と法則から、敗北の感受性と無法則性への、日本では想像も及ばぬ、堕地獄的顛落であつた。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

415:名無しさん@社会人
11/04/27 10:33:13.59 .net
さて日本文化の稀有な感受性のはたらきは、つねに、内への運動と、外への運動とを、交互に、あるひは同時に、
たゆみなくつづけて来たのである。内への運動は、その美的探究の、極度の求心性にあらはれた。この感受性は
かつて普遍的な方法論を知らず、また、必要とせず、感受性それ自らの不断の鍛錬によつて、文化の中核となるべき
一理念に匹敵する。まことに具体的な或るものに到達した。日本文化における美は、あたかも西欧文化の文化的
ヒエラルヒーの頂点に一理念が戴かれるやうに、理念に匹敵するほど極度に具体的な或るものとして存在してゐる。
そこでは、理念は不要なのである。なぜなら、抽象能力の助けを借りずに、むしろそれと反対な道を進んで、
個別から普遍へと向はず、むしろ普遍から個別へ向つて、方法論を作らずに体験的にのみ探究を重ねて、しかも
同じやうに絶対(この「絶対」といふ用語も、仮に比喩として使つたのだが)をめざして進む精神は、理念の
代りに、それの等価物たる或る具体的存在にぶつからざるをえない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

416:名無しさん@社会人
11/04/27 10:33:39.47 .net
私がこれを美と呼ぶのは、あくまで西欧的概念にすぎず、他に名付けやうのないものに、仮にその名称を借りたに
すぎぬ。私は、このことについては他所でもたびたび書いたのだが、日本の美は最も具体的なものである。
世阿弥がこれを「花」と呼んだとき、われわれが花を一理念の比喩と解することは妥当ではない。それはまさに
目に見えるもの、手にふれられるもの、色彩も匂ひもあるもの、つまり「花」に他ならないのである。
一方、日本文化の外への運動については、政治的措置にすぎぬ鎖国のかけで、その感受性の受容能力は、日本および
支那の古典と、現実の風俗のみに向けられて、これが今日、あやまつて「日本的」と呼びなされる、偏頗な特質、
似て非な独自性を形づくつた。もともと感受性といふものの無道徳性は、あらゆる他民族の文化の異質性をも
融解してしまふ筈のものなのだ。それはどんな放恣な娼婦よりも放恣であるべき筈なのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

417:名無しさん@社会人
11/04/27 10:33:57.96 .net
江戸文化は、かうした感受性の外への運動を制約


418:されて、日本の内部で、遠心力と求心力を働らかさざるを えなかつた。その前者は、西鶴、後者は、芭蕉に代表される。 今や、しかし日本文化がこれほど裸かの姿で、世界のさまざまな思潮のうちに、さらされたことはなく、現代日本の 文化的混乱は、私には、感受性の遠心力の極限的なあらはれと思はれる。 ローマ人テレンティウスの有名な一句「私は人間である。人間的なるものは何一つ私にとつて疎遠ではないと 思つてゐる」をもぢつて言へば、「私は感受性である。感じられるものは、何一つ私にとつて疎遠ではない」かの やうに、ギリシア思想も、キリスト教も、仏教も、共産主義も、プラグマティズムも、実存主義も、……また、 シェイクスピアの戯曲も、ドストエフスキーの小説も、ヴァレリイの詩も、ラシーヌ劇も、ゲーテの抒情詩も、 李白や杜甫の詩も、バルザックの小説も、また、トオマス・マンの小説も、……どれ一つとして、この稀有な、 私心なき感受性にとつて疎遠ではないのである。 三島由紀夫「小説家の休暇」より



419:名無しさん@社会人
11/04/27 10:34:20.87 .net
一見混乱としか見えぬ無道徳な享受を、未曾有の実験と私が呼ぶのは、まさにこんな極限的な坩堝の中から、
日本文化の未来性が生れ出てくる、と思はれるからだ。なぜならかうした矛盾と混乱に平然と耐へる能力が、
無感覚とではなく、その反対の、無私にして鋭敏な感受性と結びついてゐる以上、この能力は何ものかである。
世界がせばめられ、しかも思想が対立してゐる現代で、世界精神の一つの試験的なモデルが日本文化の裡に作られ
つつある、と云つても誇張ではない。指導的な精神を性急に求めなければこの多様さそのものが、一つの広汎な
精神に造型されるかもしれないのだ。古きものを保存し、新らしいものを細大洩らさず包摂し、多くの矛盾に
平然と耐へ、誇張に陥らず、いかなる宗教的絶対性にも身を委ねず、かかる文化の多神教的状態に身を置いて、
平衡を失しない限り、それがそのまま、一個の世界精神を生み出すかもしれないのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

420:名無しさん@社会人
11/04/27 10:35:57.55 .net
(中略)ここで私が、文化形式と呼ぶものは、内容を規定し、選択し、つひにはそれ自ら涸渇するところの、
死んだ形式ではなく、内容を富まし、無限に包摂するところの生きた形式である。日本文化の稀有な感受性こそは、
それだけが、多くの絶対主義を内に擁した世界精神によつて求められてゐる唯一の容器、唯一の形式であるかも
しれないのだ。なぜなら、西欧人がまさに現代の不吉な特質と考へて、その前に空しく手をつかねてゐる文化的混乱、
文化の歴史性の喪失、統一性の喪失、様式の喪失、生活との離反、等の諸現象は、日本文化にとつては、
明治維新以来、むしろ自明のものであつて、それ以前の、歴史性と統一性と様式をもち、生活と離反せぬ文化体験をも
持つ日本人は、この二つのものの歴史的断層をつなぐために、苦しい努力と同時に、楽天家の天分を駆使して
きたので、かういふ努力の果てに、なほ古い文化と新らしい文化との併存と混淆が可能であるやうな事情は、
新らしい世界精神といふものが考へられるときに、何らかの示唆を与へずには措かないからである。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

421:名無しさん@社会人
11/04/30 17:43:01.56 .net
大体、左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは世間一般の言葉に
飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。(中略)
私は大体、ファッシズムを純粋に西欧的な現象として、主にイタリーのその本家とドイツのナチズムとに限定して
考へるのが、本筋だと考へてゐる。(中略)
日本のいはゆるファッシストたちは廿世紀的現象としてのファッシズムとは縁が遠かつたといふほかはない。
何故なら戦前の日本の右翼は、悉く天皇主義者である。彼らの思想は極度に人工的な体系を欠いてゐた。つまり
議会制民主々義は技術的政治形態であるから、欽定憲法の下でも、いくばくの矛盾を容認しつつ、成立しうる。
しかしファッシズムは、人工的な世界観的政治形態であるから、実は自然発生的な天皇制とはもつとも相容れない
筈であつた。私は戦時中の日本のファッシズムといはれるものを、その言論統制その他におけるあらゆる
ナチス化をも含めて、技術的な政治の理論的混乱とより以上は考へないのである。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

422:名無しさん@社会人
11/04/30 17:44:03.67 .net
軍部独裁は歴史上にしばしば見られたところで何の新味もなく、統制経済と言論統制は世界観的政治の技術的
模倣にすぎず、かれらの犯した悪は、ファッシズムの悪といふより、人間悪、権力悪の表現であつた。(中略)
また日本のいはゆるファッシストは、インテリゲンチャの味方を持たなかつた。日本のハイカラなインテリゲンチャは、
日の丸の鉢巻や詩吟や紋付の羽織袴にはついて行かなかつた。しかるに西欧のファッシズムは、プチ・
ブゥルジョアジーの革命と考へられてゐる。(中略)ファッシズムが多数の自由職業者・専門家層に呼びかけ、
インテリゲンチャの人心を収攬したことはたしかであつた。
(中略)
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ関係を持つてゐる。
そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもないニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど
程遠いものはない。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

423:名無しさん@社会人
11/04/30 17:44:38.95 .net
(中略)
私は「自由世界」といふ言葉をきくたびに吹き出さずにはゐられない。本来相対的観念である「自由」なるものが、
このやうな絶対的な一理念の姿を装うてゐるのは可笑しいことである。絶対主義のかういふ無理な模倣のおかげで、
今日世界をおほうてゐるのは、政治における理想主義の害悪なのである。
(中略)
暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で売られてゐる雑誌に、
縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかにいたるところにサーディストが充満し、
そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに興じたりしてゐるかがわかるだらう。同様にファッシズムも
普遍的である。殊に廿世紀に於て、いやしくも絶望の存在するところには、必ずファッシズムの萌芽がひそんでゐると
云つても過言ではない。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

424:名無しさん@社会人
11/05/03 20:33:29.18 .net
先頃、妙心寺にお世話になつて、修行道場を拝見したり、霊雲院に一泊を許されたりして、大そう感銘が深く、
得るところが多かつた。
在家の者が、たつた一日のぞいただけで、何か得たやうな気のするのは思ひ上りであらうが、私にとつて興味の
あつたのは、生活全般にわたるその極度の簡潔さであつた。(中略)
典座にはもちろんガスもなく、朝の洗面の水もツルベで上げる。かういふことは殊更現代文明に白眼をむいて
ゐるやうにも見えるが、さうではない。ガスを引かぬこと、ツルベで水をくみ上げること、さういふことは皆、
思想の要請なのである。現代人は思想といふものを、ここまで徹底させる能力を失つて、思想といへば、活字の
中にしかないものだと思つてゐる。もしガスを引き、タイル張りのガス風呂を置けば、思想の一角は崩れ、
あらゆる妥協が、精神生活をも犯さずにはゐないといふことを、われわれは忘れてゐる。
さて、話にきくと、ある地方の、収入のよい禅寺に、電気洗濯機を置いてゐる寺があるといふことである。
電気洗濯機を置いた禅寺とは、もはや禅寺ではないのだ。

三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より

425:名無しさん@社会人
11/05/03 20:34:59.47 .net
それについて、英国の歴史家アーノルド・トインビーが面白い例をあげてゐる。
「文化の交流では次から次へと事件が起るに決つてゐる」
といふ法則をトインビーは立て、それを知らないで、誤算して失敗した十九世紀のトルコの例と、それを深く
知悉してゐたガンジーの例とをあげてゐるのである。
(中略)
「彼(ガンジー)は、もしインド教徒が西欧で西欧の機械によつて作られた服を着るのを止めなければ」、いづれは、
インドへ英国の機械を輸入し、田畑の仕事をやめ、工場へ働らきに行き、娯楽も西欧風になり、魂も西欧風に
なるだらうと考へた。彼はインド教徒の魂を救ふためには、西欧との経済的な紐帯を絶つほかはないとさとり、
自ら手本を示して、インドの綿を昔風の方法で手で紡いで織る仕事に従事した。かくてガンジーと糸車とは
切つても切れぬものになつた。
ガンジーは文化の交流の冷酷な法則と、思想を守る者の態度を知つてゐたのである。
ガンジーは、すべての禅寺に電気洗濯機をそなへるやうになれば、禅といふものは死滅する、といふことを、
予言してゐたやうに思はれる。

三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より

426:名無しさん@社会人
11/05/06 11:59:46.40 .net
私は西部劇の映画を殊に好んで見るといふのではない。このごろのやうな二流西部劇の氾濫では、どれもこれも
同じやうな題がついてゐて、うつかり入ると、前見たものと同じものを見かねない。しかし、少年時代からの
憧れはなかなか消えないもので、私は西部劇といふと、あのサボテンの生ひ茂つた土地と、強烈な日光と、馬と、
馬具の新らしい革の匂ひと、拳銃のきらめき、とをすぐに思ひうかべる。それは厳密に風土的な一つの世界の
イメージなのであつて、日本の股旅物と同じものだといふ考へは当らない。日本のチャンバラには、あのやうな
砂漠も強烈な日光も欠けてゐる。
谷川俊太郎氏の詩で、私の最も愛するものに、「ビリイ・ザ・キッド」といふ一篇がある。この自分の年の数と
同じ人数だけ殺して、廿一歳かそこらで殺された美少年に、氏は夭折の詩人の運命を託したものだらう。だから
西部劇の一少年悪漢は、ランボオや、サン・ジュストや、シェリイや、キーツや、あらゆる反逆的少年詩人の
イメージをその身に負ふのである。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

427:名無しさん@社会人
11/05/06 12:01:16.29 .net
ジェーン・ラッセルの大きな乳房を仄見せる映画「ならず者」に登場するビリイ・ザ・キッドはまだそれらしかつたが、
めつきり老け込んだロバート・テイラーの扮したビリイの映画は、大そうグロテスクで、この少年英雄の夢を
裏切ること甚だしいものがあつた。大体西部劇に分別くさい役者が出るのはまづい。「シェーン」のアラン・
ラッドのやうに、精悍だが、全然知的な味はひのない役者が適当である。もつとも多分その脳ミソの少ないところが
禍ひして、「シェーン」以外のアラン・ラッドは、見るもむざんな大根である。
私が馬が好きなのも、西部劇が原因であるかもしれない。ホース・オペラとは、西部劇の別称ださうである。
馬の匂ひ、厩の匂ひ、長靴の匂ひ、新らしい鞍のギシギシいふ音、光つた拍車、……かういふものは、皆
現実離れのした別の燦然たる行為の世界に属してゐた。馬はたしかに西部劇にディグニティーを与へてゐる。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

428:名無しさん@社会人
11/05/06 12:03:42.44 .net
(中略)
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるいものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに
対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの
伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人として
よりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと戦ひながら、
アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。いつかバート・ランカスターが
インディアンの血を引いた駿足の運動選手に扮した映画を見たことがあるが、そこではバート・ランカスターが
象徴するアメリカの精力と、インディアンに対する夢とが、はつきり一つものになつてゐた。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

429:名無しさん@社会人
11/05/06 12:05:03.10 .net
最近の「理由なき反抗」といふ映画における、チキン・ランといふ無意味な胆だめしなども、私にはアメリカ人の
インディアン・コムプレックスと関係のあるものに思はれた。日米戦争の相互的影響によつて、いつか日本人が
インディアン類型にあこがれ、アメリカ人がサムラヒ類型にあこがれるやうになるかもしれない。すでに映画の
「宮本武蔵」が、アメリカで上映されてゐる。
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的危険が
乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、あるひは
内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

430:名無しさん@社会人
11/05/10 11:27:13.13 .net
何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない。酒の上だと云つて、無礼を働らいたり、
厭味を言つたり、自分の劣等感をあらはに出したり、又、劣等感や嫉妬を根にもつてゐるから、いよいよ威丈高な
嵩にかかつた物言ひをしたり、……何分日本の悪習慣で「酒の上のことだ」と大目に見たり、精神鍛練の道場だ
ぐらゐに思つたりしてゐるのが、私には一切やりきれない。酒の席でもつとも私の好きな話題は、そこにゐない
第三者の悪口であるが、世の中には、それをすぐ御本人のところへ伝へにゆく人間も多いから油断がならない。
私は何度もそんな目に会つてゐる。要は、酒席へ近づかぬことが一番である。酒が呑みたかつたら、別の職業の
人間を相手に呑むに限る。
何かにつけて私がきらひなのは、節度を知らぬ人間である。一寸気をゆるすと、膝にのぼつてくる、顔に手を
かける、頬つぺたを舐めてくる、そして愛されてゐると信じ切つてゐる犬のやうな人間である。女にはよく
こんなのがゐるが、男でもめづらしくはない。

三島由紀夫「私のきらひな人」より

431:名無しさん@社会人
11/05/10 11:28:34.33 .net
(中略)
私が好きなのは、私の尻尾を握つたとたんに、より以上の節度と礼譲を保ちうるやうな人である。さういふ人は、
人生のいかなることにかけても聰明な人だと思ふ。
親しくなればなるほど、遠慮と思ひやりは濃くなつてゆく、さういふ附合を私はしたいと思ふ。親しくなつた
とたんに、垣根を破つて飛び込んでくる人間はきらひである。
お世辞を言ふ人は、私はきらひではない。うるさい誠実より、洗練されたお世辞のはうが、いつも私の心に触れる。
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
お節介な人間、お為ごかしを言ふ人間を私は嫌悪する。親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものが
あるものだが、お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。善意のすぎた人間を、いつも
私は避けて通るやうにしてゐる。私はあらゆる忠告といふものを、ありがたいと思つてきいたことがない人間である。

三島由紀夫「私のきらひな人」より

432:名無しさん@社会人
11/05/10 11:29:49.52 .net
どんなことがあつても、相手の心を傷つけてはならない、といふことが、唯一のモラルであるやうな附合を私は
愛するが、こんな人間が殿様になつたら、家来の諫言をきかぬ暗君になるにちがひない。人を傷つけまいと思ふのは、
自分が(見かけによらず)傷つき易いからでもあるが、世の中には、全然傷つかない人間もずいぶんゐることを
私は学んだ。さういふ人間に好かれたら、それこそえらいことになる。
……ここまできらひな人間を列挙してみると、それでは附合ふ人は一人もゐなくなりさうに思はれるが、世の中は
よくしたもので、私の身辺だつて、それほど淋しいとは云へない。荷風も、一時は無二の親友のやうに日記に
書いてゐる人間を、一年後には蛇蝎の如く描いてゐるが、それはあながち、荷風の人間観の浅薄さの証拠ではなく、
人間存在といふものが、固定された一個体といふよりも、お互ひに一瞬一瞬触れ合つて光り放つ、流動体に
他ならぬからであらう。好きな人間も、きらひな人間も、時と共に流れてゆくものである。

三島由紀夫「私のきらひな人」より


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