▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼at SOCIOLOGY
▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼ - 暇つぶし2ch200:名無しさん@社会人
11/02/04 16:48:20 .net
―二・二六事件に関してどう考へてゐるか。
三島:十一歳のとき起きたあの事件は、私にたいへん大きな精神的影響を与へた。私がいまも持つてゐる英雄崇拝と
ざせつ感は、すべてあの事件に由来するものです。いふまでもなく私は反乱軍といはれた青年将校の味方で、
のちに反乱軍として糾弾した本がたくさん出たが、さういふたぐひの本を読むと、ハラがたつて破つて捨てた
ほどですよ。その後の軍閥政治であの挙兵が逆用され、すつかり汚されてしまつたが、青年将校たちの行動は、
いはば昭和維新になりうる可能性を持つたものであり、救国の信念に基づく純粋なものでした。
それが反乱軍の汚名を冠せられたのは、陛下を取り巻く卑怯で臆病でずる賢い老臣どもの策謀であり、ひいては
それを受け入れられた陛下ご自身の責任です。

三島由紀夫「“人間天皇”批判―小説『英霊の声』が投げた波紋」より

201:名無しさん@社会人
11/02/04 16:49:54 .net
―戦前の「天皇制国家」を唯一の国体と考へるのか。

三島:さうです。天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆるモラルの
混乱はそれが原因です。なぜ、天皇が人間であつてはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとつて神の存在で
なければならないのか。このことをわかりやすく説明すれば、結局「愛」の問題になるのです。
近代国家はかつての農本主義から資本主義国家へ必然的に移行していく。これは避けられない。封建的制度は崩壊し、
近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人生の絶望的状態である完全福祉国家とならざるをえないすう勢だ。
そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。
かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。

三島由紀夫「“人間天皇”批判―小説『英霊の声』が投げた波紋」より

202:名無しさん@社会人
11/02/04 16:51:39 .net
たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。逆にBのAに対する愛にしても
さうです。つまり、近代的社会における愛は相互間だけでは成立しないといふことなのです。愛し合ふ二人の他に、
二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ―いはば三角形の頂点がなければ、愛は永遠の懐疑に終はり、
ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。これはキリスト教の考へ方でもあるが、昔からわれわれ日本人には、
農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、一人々々が孤独に陥らない愛の原理を
持つてゐた。天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。私は天皇制についてきかれるたびに、
いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、さういふ意味です。

三島由紀夫「“人間天皇”批判―小説『英霊の声』が投げた波紋」より

203:名無しさん@社会人
11/02/04 17:20:10 .net
―現在の皇室について。
三島:私はもちろん天皇主義者だが、そのなかでいふべきことは、はつきりいふのが本当の愛国者だと思ふ。
いまの皇室あり方は非常な危機を内包してゐます。(中略)
皇太子殿下も、たまには防衛大にお出かけになつて、愛国心に燃える青年に菊のタバコをおすすめになつたらどうか。
いまの一本のタバコが将来一億円に値するんです。皇室がたよれるのは結局


204:彼らなんですよ。 陛下についてのご不幸は、まはりに争臣がゐなかつたことです。取り巻きの重臣はすべて英国で教育を受けた者ばかり。 英米の体制が悪いわけではないが、なぜか英国で教育を受けた日本人は日和見主義者で、現状維持にきふきふとする 弱い人間になつてしまふ。ただ一人、例外的人物は吉田茂氏で、占領時代の英米式体制のなかで、英国的思想を 逆用して抵抗したはじめての日本人として象徴的な人物でした。 第二に、青年層に接触される機会がなかつたことですね。(中略)もし、青年たちと接触があれば、あの事件 (二・二六事件)の底にはなにがあつたかわかつたはずだし、憂国の青年がいだいた真心をあんなに無残に じうりんなさるはずがなかつたと思ふんです。 三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より



205:名無しさん@社会人
11/02/06 13:09:44 .net
Q―クール・セックス時代とか、モノ・セックス時代とかいはれてをりますが、青年は男らしいと思ひますか?
たとへば、童貞が激増してゐるといふやうなこと。

三島:童貞がふえてるといふことと、男らしさといふものとは、あまり関係がないんぢやない?
だけど、ボクサーの場合、童貞の選手は強いですね。セックスをやつてるひとは弱いですね。それか、セックスを
ずーつと前に知つちやつてね、セックスといふものが、そんなに固定観念になつてないひとは、強いですね。
男らしさ、といふことをいへばいまは、女とやつてる奴の方が、女らしくなつてるかもしれない。
(中略)男の方がどうしても女のロマンチックな趣味に合はせるやうになりますからね。これは昔から変はらない
ことだけれども、若い女といふものは、あんまり男らしい男は、好きぢやないですよ、こはくて。
だから、いまの青年が男らしくないとすれば、それは女のせゐですよ。そんなの汚ならしい、カッコ悪いと
いはれれば、仕方がないからさうしちやふ。

三島由紀夫「青年論―キミ自身の生きかたを考へるために」より

206:名無しさん@社会人
11/02/06 13:11:31 .net
Q―青年にすすめたい本、十冊をあげて下さい。

三島:ゲーテの「ヘルマンとドロテア」、これは一番すすめたい。
それから、林房雄の「青年」もぜひ読んで欲しい。これは、ちよつと我田引水になるけれども、ぼくが最近書いた
「葉隠入門」。
若いひとにぜひ読んでもらひたいと思つて、あれは書いたものだからね。
それからフランス文学では、サン・テグジュペリの小説、アンドレ・マルローの初期のものね。ああいふのは
青年らしいですよ。
東洋には、日本も含めて、青年のための本といふのは、少ないですがね、ぼくが非常におもしろくて、好きなのは、
世阿弥の「花伝書」。これはすすめたいな。(中略)
それから、ヘルデルリーンの詩、「ヒュペリオン」、あれはいい。
トルストイ、ドストエフスキーなども、「罪と罰」なんかいいけど、別にぼくがとくにすすめる必要はないと思ふ。

三島由紀夫「青年論―キミ自身の生きかたを考へるために」より

207:名無しさん@社会人
11/02/07 20:26:03 .net
Q―泣かれたことがありますか?

三島:昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない。泣くほど感動的な事件がないからね。

Q―義理と人情をどうお考へですか?

三島:義理はマナーであつて、モラルではないと思ひます。わたしの場合でいふと、一度でも恩義を感じた人、
親しくした人の悪口は、口ではいつても、文字にはしません。わたしは物書きだからね。人情はほどほどがいいと
思つてゐますね。心の底からわきでて、涙がこぼれるといつたことはありません。またきらひですね。と、いつて、
ヨーロッパ流の我をむきだしにした対立も困る。人間関係の潤滑油としての人情は認めますし、持ちあはせてゐる
つもりですよ。

三島由紀夫「美を探究する非情な天才―三島由紀夫さんの魅力の周辺」より

208:名無しさん@社会人
11/02/07 20:30:40 .net
Q―サービス精神についてどう考へられますか。

三島:わたしはやりたいことをやつてゐるだけの話で、サービス精神だなんて考へたこともない。他人に
サービスするといふのは人生のムダですよ。ですから、わたしは、いつも、まじめな気持でいろいろなことを
やるわけです。しかし、実際には、それがピエロにみえる。自分がピエロだと自覚して、他人にサービスすると
いふのは、もう古いので、ピエロはピエロであるといふ自意識をすて、ひたすらまじめに行為をするべきなのです。
まじめであればあるほど、ピエロはいきてくる。だから、わたしがピエロにみえるのは当然。ピエロになるのが
いやなら文士などにならなきやいい。

Q―新しいものに、異常な好奇心をもやされるやうですが。

三島:時のはやりには適当に身をまかすべし、と「葉隠」はいつてますからね。ハッハッハ。

三島由紀夫「美を探究する非情な天才―三島由紀夫さんの魅力の周辺」より

209:名無しさん@社会人
11/02/07 20:34:32 .net
Q―賭けはおきらひなのですか?

三島:好きなのです。魅力がありすぎて、はじめれば、きつと溺れると思ひます。だから、やりません。

Q―それでは、人間の最高の徳目とは、なんでせう?

三島:義でせう。義は人間の本性からでたものではないだけに、最高の徳目になるのです。情感、情念を滅ぼして、
人間は義に生きねばならないときがある。義に生きなければ千載に悔いを残します。しかし、義ほどつかまへにくい
ものはない。客観的につかまへられないがゆゑに、義であるかどうか判断することがむづかしい。たとへば、
二・二六事件が義であつたかどうか、いまでもわからない。義はいつくるかわからない。しかし、もし、
つかまへそこなふと、人間としてダメになる。

三島由紀夫「美を探究する非情な天才―三島由紀夫さんの魅力の周辺」より

210:名無しさん@社会人
11/02/08 10:12:36 .net
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から生まれるものである。われわれが
危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を注いでゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。
もし、想像力がノイローゼの原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。あの時代には、どろぼうも少なく、犯罪も少なく、人々の想像力のかては、すべて戦争といふ、
一民族のあらゆる精力をつぎ込まねば成功できない事業に、集中してゐたのである。


われわれは、人生の第一歩から、人生に満足して始めるわけではない。満足してゐる人はごく例外的である。
これは、どんな社会革命が成功しても、同じことであらう。芸術は、そこから始まるのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

211:名無しさん@社会人
11/02/08 10:13:46 .net
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないと
いふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、合成された硬いルビーかサファイアと
すり合さなければ、ダイヤモンドであることが証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさに
ぶつからなければ証明されないのかもしれない。死によつて、たちまち傷ついて割れてしまふのは、そのやうな生は
ただのガラスにすぎないのかもしれない。


二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。
そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな
政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つて
ゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは
芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

212:名無しさん@社会人
11/02/08 10:14:55 .net
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかと
いふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に
拡大された形で、われわれ全部


213:が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。 危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、結婚し、子供を生み、 子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたいといふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、 その生活の必要のためには、何ものも犠牲にされてよいのだ。 しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が来るときに必要なのは 男の力であるが、いまの女性は自分の力で自分の平和を守れるといふ自信を持つてしまつた。それは一つには、 男が頼りにならないといふことを、彼女たちがよく見きはめたためでもあり、彼女たちが勇者といふものに一人も 会はなくなつたためでもあらう。 三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より



214:名無しさん@社会人
11/02/08 10:15:51 .net
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。


男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしてもくぐら
なければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に
通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を
隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に
だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
何故なら、野心家こそ作法を守るべきなのであり、また、人との関係に於ても、普段、作法を守つてゐればこそ、
いつたん酒が入つて裸踊りのひとつもやつてのけたときには、いかにも胸襟を開いたやうに思はれて、相手の信用を
かち得ることができる。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

215:名無しさん@社会人
11/02/08 10:16:43 .net
作法をひとつの扉とすると、言葉の小さな使ひ方はその扉の蝶番にさされる油のやうなものである。そして、
いまでは油もささずにギーギー、ガーガー扉のあけたてがひどくなりすぎる。


男の世界はスポーツに似てゐる。ルールを守つた上で勝敗は争はれるので、根底にある争ひがそれだけカバーされる
わけである。しかし、女の世界はこの点で根底的な争ひといふもの、権力の争ひといふものが少ないために、
かへつてスポーツのルールが乱される場合が多い。スポーツのルールが乱されることが自分の生存を脅かさない
からであらう。
在外公館の夫人連の間の厳しさは、女がやはり政府の辞令を受けて、外交官夫人として外国に行くところから生れて、
男の世界の模倣をつくつてしまふからであらう。これは最近流行の大奥の生活を描いた小説や芝居にもよく
見えるとほりである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

216:名無しさん@社会人
11/02/08 10:21:53 .net
これからますますテレビジョンが発達し、人間像の伝達が目に見えるもので一瞬にしてキャッチされ、それによつて
価値が占はれるやうな時代になると、大統領でさへ整形手術をしたり、テレビのメーキャップにうき身をやつす
やうになる。これはアメリカの肉体主義の当然の帰結であるが、好むと好まざるとにかかはらず、目に見える印象で
そのすべての人間のバリューがきめられてゆくやうな社会は、当然に肉体主義におちいつていかざるを得ないのである。
私は、このやうな肉体主義はプラトニズムの堕落であると思ふ。
目に見えるものがたとへ美しくても、それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。ギリシャのことわざに
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といはれてゐるのはギリシャ語の誤訳であつて、「健全なる精神よ、
健全なる肉体に宿れかし」といふのが正しい訳のやうである。それといふのも、ギリシャ以来、肉体と精神との
齟齬矛盾についての観察が、いつも人々を悩ましてゐたことの証拠である。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

217:名無しさん@社会人
11/02/08 10:22:43 .net
肉体主義は肉体を崇拝させると同時に、また肉体を侮蔑させ、売りものにさせるものである。肉体は崇拝の手続を
経ずに、美しいものは直ちに売られ、商業主義に泥だらけにされてしまふ。マリリン・モンローの悲劇は、
美しい肉体をそのやうに切り売りにされた一人の女性の生涯の悲劇であつた。
われわれは、いま二つの文化の極端な型のまん中に立つてゐる。われわれの心の中には、日本的な、肉体を
侮蔑する精神主義が残つてゐると同時に、一方では、アメリカから輸入されたあさはかな肉体主義が広がつてゐる。
そして、人間を判断するのに、そのどちらで判断していいか、人々はいつも迷つてゐる。私は、やはり男といへども
完全な肉体を持つことによつて精神を高め、精神の完全性を目ざすことによつて肉体も高めなければならないといふ
考へに到達するのが自然ではないかと思ふ。(中略)
そして、肉体が人に誤解されやすい最大の理由は、肉体美といふものはどうしても官能美と離れることができない
からであり、それこそは人間の宿命であるのみならず、人間が考へる美といふものの宿命だからであらう。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

218:名無しさん@社会人
11/02/08 11:58:55 .net
同じ本を出すのにも、私どもと日本の出版社との約束は口約束で済むものが、アメリカでは何ページにもわたつて
アリのはふやうな細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、起りうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を
予定して書きとめられてゐる。そもそも契約書がいらないやうな社会は天国なのである。契約書は人を疑ひ、
人間を悪人と規定するところから生れてくる。
そして相手の人間に考へられるところのあらゆる悪の可能性を初めから約束によつて封じて、しかしその約束の
範囲内ならば、どんな悪いことも許されるといふのは、契約や法律の本旨である。ところが別の考へ方もあるので、
ほんたうの近代的な契約社会は、何も紙をとりかはさなくても、お互ひの応諾の意思が発表された時期に契約が
成立するのだといふ学説もあるくらゐである。すなはち、契約社会の理想は、何も紙をとりかはさなくても
人間が契約を守るといふ根本精神が行きわたれば、それだけで安全に運行していくのであるが、そんなりつぱな
人間ばかりでないところからむづかしい問題が生ずるわけである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

219:名無しさん@社会人
11/02/08 15:26:34 .net
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は鳥の影のやうなもので、
一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふからである。
しかし、快楽のための約束として、もつとも普通な形がすなはち異性とのデートである。デートは、快楽のための
約束にもかかはらず、その快楽を刺激し、じらせ、かへつて高めるための技巧として、お互ひにちよつと時間を
ずらして、わざと約束の時間に来なかつたり、あるひは約束におくれてみせたりするローマのオヴィディウス以来の
愛のさまざまなウソの技巧が使はれる。しかしそれでさへも信義の上にあるのが本当だといふのは、私の考へであつて、
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、どんな快楽も
信儀の上に成り立つといふ考へだからである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

220:名無しさん@社会人
11/02/08 16:17:57 .net
男性の羞恥心は、あくまでも男らしさとつながつてゐた。男と女がそれぞれの領域をきちんと守り、心がどんなに
ひかれてゐても、それをまつすぐにあらはさないといふことが、恋愛の不可欠の要素であつた。これは、古い気質の
人間のあらゆる感情表現に影響を及ぼし、わざと嫌ひなふりをすることが、愛することの最大の表現と思はれてゐた。
いまでは、これが見られるのは小学生の間だけで、自分でもわからぬながら、心をひかれる女の子にやたらに
いぢわるをする男の子は、満六、七歳にしてすでに明治百年の男となつてゐるわけである。
男女関係自体が、新しいアメリカ風の、お互ひに愛を最大限に表現する形によつて、わざとらしい公明正大さを
得てきた。そして女の羞恥心すら、男女同権を破壊するやうな封建的遺習と考へられ、その女の羞恥心が薄れるに
従つて、男の羞恥心も、ガラスの表にはきかけた息のやうに、たちまち消え去つてゆき、そしていつの間にか、
かくも露骨に表現し合つた男と女は、お互ひの大切な性的表象を失つて、いま言はれるやうな中性化の時代が
来たのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

221:名無しさん@社会人
11/02/08 16:18:49 .net
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。男は伝統の意味を知つてゐるから、
ある意味で主体的にいつも伝統を守る側に立ち、自らその伝統をよしとし、あるひは悪いと思つても伝統を
守らなければならないといふ、強い義務感を感じてゐた。それが日本の男性を必要以上に保守的に見せてきた原因で
あると思ふ。しかし、いつも女性はこの男性に対抗して、伝統を破壊するといふ方向にのみ、自分の自由と解放の
根拠を求めた。しかし、ここにはパラドックスがある。もし伝統破壊の行動を続けるならば、その女性は自分が
伝統によつて受身に縛られてきたときの態度を、伝統が破壊されたあとも、そのまま押し通すといふことに
なるのである。しかし、何もないところでは、何の行動の基準もあり得ないので、今度は女性は、西洋式な伝統の
サルマネを始め、それを男性に強要するやうになつた。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

222:名無しさん@社会人
11/02/08 23:44:53 .net
女性の力ではなく、アメリカといふ男性の、占領軍の力によつて女性の自由と解放が成就されたとき、女性は
何によつて自分の力を証明しようとしたであらうか。それがいはゆる女性の平和運動である。その平和運動はすべて
感情を基盤にして、「二度と戦争はごめんだ」「愛するわが子を戦場へ送るな」といふ一連のヒステリックな叫びに
よつて貫かれ、それゆゑにどんな論理も寄せつけない力を持つた。しかし、女性が論理を寄せつけないことによつて
力を持つのは、実はパッシブな領域においてだけなのである。日本の平和運動の欠点は、感情によつて人に
訴へることがはなはだ強いのと同時に、論理によつて前へ進むことがはなはだ弱いといふ、女性的欠点を露呈した。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

223:名無しさん@社会人
11/02/09 10:54:58 .net
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。インド航空でいつも驚くのは、
スチュワーデスがサリーを着てゐることである。もしあれで事故でも起きたときには、どうするつもりだらうか。
サリーは足にまとはりつき、死なないでもよいものを、死ぬことになるかもしれない。日本航空で、スチュワーデスが
振袖を着てゐるときに感ずる危惧以上のものを、われわれは、インド航空のサリーに感じなければならない。
しかし飛行機会社が乗客にそのやうな危機感を抱かせることをもつて、彼女たちの美しさをいよいよ引き立てて
ゐるとすれば、これまた憎い計算ではある。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。明治時代の西洋崇拝から、日本人は不便の故を以て伝統的な
服装を放棄することに、何らの躊躇を感じなかつた。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

224:名無しさん@社会人
11/02/09 10:55:52 .net
服装のほんたうの楽しみは、自由自在に勝手気ままなものを、好きな場合に着て歩くことではないといふことを、
人々は経済状態の落着きと社会の安定とともに、徐々に学んできたやうに思はれる。服装は強ひられるところに
喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。これを最も端的にあらはすのが、軍人の軍服であるが、
それと同時にタキシードひとつでも、それを着なければならないといふことから着るところに、まづその着方の巧拙、
あるひは着こなしの上手下手があらはれる。


タキシードを着なければならない人たちは、決してGパンをは


225:くことができなかつた。また菜葉服を着てゐた人たちは、 決してタキシードを着ることができなかつた。それをわれわれは、無階級社会のおかげで、菜葉服からタキシードまで 自由自在に往来できる世の中に住んでゐる。(中略) しかし悲しいかな、その周りにゐる人たちは、いづれも贋物の上流階級にすぎない。そしてタキシードとイブニングで 楽しんでゐる人たちは、本物の上流階級でないかはりに、上流階級が苦しんでゐた古い、わづらはしい、封建的 桎梏をも、完全に免れてゐるのである。 三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より



226:名無しさん@社会人
11/02/09 10:57:13 .net
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、一たび努力の義務を
はづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、身の扱ひに困つてしまふ。何十年の間、会社や役所で
ぢみな努力を重ねてきて、そこにだけ自分の生き方のモラルを発見してゐた人は、定年退職となると同時に、
生ける屍になつてしまふ。われわれの社会は、さういふ残酷な悲劇を、毎日人に与へてゐるのである。(中略)
実は一番つらいのは努力することそのことにあるのではない。ある能力を持つた人間が、その能力を使はないやうに
制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らなければならない。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

227:名無しさん@社会人
11/02/09 10:58:05 .net
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、不思議な性格を
持つてゐる。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずつと低いことしかやらされないといふ拷問には、
努力自体のつらさよりも、もつとおそろしいつらさがひそんでゐる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いてゐる結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強ひるといふ、
社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も
次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま
使へるやうな戦争といふ機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががつちりとはめられ、このやうな世界で、
十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るやうに強ひられてゐる。私は、ここらに、努力と建設といふ
ことだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもつとつらい、もつと苦しいものを強ひる、社会の力といふ
ものを見出すのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

228:名無しさん@社会人
11/02/09 10:59:58 .net
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求して
ゐるのである。
これが現代日本の社会のひずみの、おそらく根本原因である。一方ではいくらでも長く走れるエネルギーが
あり余つてゐる。この連中は、若いがゆゑに軽視されてゐるだけだが、さうかといつて、彼らのすべてにすばらしい
才能があるとおだてるわけにはいかない。ただ、明治以来の日本の社会の特質に従つて、彼らも亦、「努力しろ、
努力しろ」と強ひられる。しかし、いくら努力しても、社会の壁が破られるわけではない。そこで実につらいことだが、
「百メートルを十五秒で駆けなければならぬ」といふ順応型モラルを身につけることになる。その瞬間に、
エネルギーはその真のフルな力の発揮の機会を、自ら放棄してしまつたのである。

三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

229:名無しさん@社会人
11/02/10 15:35:06 .net
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく
戦車だといふのが私の考へで、ファクトに携はらぬ人は往々歴史を見誤まるのである。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 原始戦に有効な剣道の哲理」より


人間の目と心は、どちらが先なのか? この人たちの心が何かを見るのか? 目が先に見て、心がそれを解釈し
分析するのか? 瞬間でも狼の目が借りられたら、すべてを投げ出しても悔いない、と言�


230:ツたのは、ポオル・ ヴァレリーだが、われわれは、ファクトをつかむには、そのとき、その人の見る世界を見ようと努めなければならない。 第一回は機動隊の目に映つた世界、あれは又明るく単純な戦闘行為の世界だつた。第二回は反戦青年委員会の目に 映つた世界、これは暗い現在と不可測の未来へひらかれた複雑な世界である。 ファクトはどちら側にあるのだらうか? 算術的にその中間にあるといふものではあるまい。反戦青年委員会の いはゆる「未来の閉ざされた世界」に住む機動隊が明るく、一方、未来に明るい光りを見ようとする者の世界は暗い。 三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 地についた怖るべき相手」より



231:名無しさん@社会人
11/02/10 15:36:49 .net
兜町―それは現在のこの一瞬だ。
現実といふのは、兜町のやうな姿をしてゐるのかもしれない。すなはち過去に対しても未来に対しても絶対に無責任な、
しかしものすごく確信のある、ものすごくいきいきとした現実。このかたはらに置いたら、ほかのいかなる現実も
色あせて、ニセモノめいてくるやうな本物の現実。
そこには、なるほど資本主義の枠はあるけれど、どんなイデオロギーにもゆがめられない、テコでも動かない
現在只今の生活感覚が充実してゐて、盲目でありながら透視力に充ち、どんな理窟もはねとばし、予想も論理も
役に立たない。よかれ、あしかれ、ありのままの素ッ裸。兜町を直視すれば、気取りも羞恥心も吹つ飛んでしまふ。
いかに壮大な革命理論をゑがいても、心のどこかに、「マイホームを建てる三十坪の土地がほしい」といふ気持が
あれば、その集積が、露骨に株式相場にあらはれてしまふ。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より

232:名無しさん@社会人
11/02/10 15:37:47 .net
ひどく敏感で、ひどく鈍感。(中略)
時代に対して徹底的に受身で、自己一身の利益しか考へてゐないといふ「心」が、集積されると、時代を
動かしてゆく一つの重要な動因になるといふそのふしぎ。
一九七〇年の危機が叫ばれ、ゲバ学生の襲撃の危険がささやかれる兜町の第一線の人々と親しく話してみて、
そこに世代の差による考へ方のちがひは当然ありながら、「どんな観念論も空しい」といふ一点で、逞しい合意に
達してはたらいてゐる人々の、一種強烈な自信に圧倒された。
しかし果して、どんな観念論も空しいだらうか?
それは歴史が決定する問題であり、「現実」がまだ最後の勝利を占めたわけではないのである。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より

233:名無しさん@社会人
11/02/10 15:38:49 .net
都市の問題を考へるとき、ゴミの問題を抜きにしては考へられない。パリの五月革命では、ゴミ処理のために軍隊が
出勤し、それが又いはゆる「後拠支援」の絶好の口実になつた。身に物理的危険が迫らなくても、ゴミの問題一つで、
大都市は力にすがらざるをえなくなるのである。都市の弱点とは、いはゆる重要施設ばかりではない。いかに
都市が近代化され機械化されても、その構成員が人間である以上、都市には動物的肉体的特徴が備はつてゐる。
それがすなはち、食物・飲料水と、排泄物の問題であり、この巨獣の排泄機能に故障が起れば、数日でダウンしてしまふ。
しかも消費経済の過剰な発達は、どんどん物を消費し廃品化して行かなければ、経済自体が成立たないといふ、
アメリカ経済的体質に変りつつある。もはや質素と倹約は、国家的見地からも美徳でなくなつたのである。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より

234:名無しさん@社会人
11/02/10 15:39:44 .net
かくて大都市は、毎日毎夜、狂ほしくゴミを製造しつづける大工場になつた。私有の財貨は、ゴミと化すると共に、
公有の厄介物になる。それはあたかも、私有財産制が、たえざる自己否定と自己破壊をくりかへすことによつてしか、
自らの持つ意味をたしかめられない時代に入つたかのやうである。
ゴミをつくり、屎尿を排出することだけが、人間の生きてゐるしるしであり、人生は自分がゴミと化することに
よつて終る。
私の会つた東京都清掃局の古いヴェテラン職員の顔には、何か哲学者のやうな翳があつた。人間をさういふところで
キャッチしてゐるといふ並々ならぬ自信がうかがはれた。かういふ人たちの前へ出ると、われわれは実に弱い。
何だか自分がゴミと屎尿の製造機にすぎぬやうな気がしてくるからだ。夢の島を見て、その厖大さに、気の遠くなる
思ひをしたすぐあとのことであつた。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より

235:名無しさん@社会人
11/02/12 15:17:34 .net
Q―あなたはブルジョアですか。
三島:日本にはブルジョアはゐない。サムラヒの末裔と百姓の末裔と商人の末裔だけだ。私は血すぢでは百姓と
サムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、生活のモラルではサムラヒである。

Q―あなたはまじめですか。サルバドール・ダリに近いと思ふか。
三島:何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。ダリは少しも滑稽ではない。
彼は崇高である。

Q―あなたは連帯的ですか、孤独を好みますか。あるひはこの両極端の間に平凡とは思はれない中庸がありえますか。
三島:孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。われわれは水晶の
数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には
中庸などといふものはありえない。バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。

三島由紀夫「フランスのテレビに初主演―文壇の若大将 三島由紀夫氏」より

236:名無しさん@社会人
11/02/13 12:48:57 .net
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞がこの
青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。かういふヒステリー症状は、
ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、かれらは何を隠さうと
したのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

237:名無しさん@社会人
11/02/13 12:50:05 .net
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の�


238:Z剣の乱闘場面があつた。 在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。 誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、 今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。 約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、 明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。 三島由紀夫「日本文化の深淵について」より



239:名無しさん@社会人
11/02/13 12:52:17 .net
電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に
反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された
西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、
敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

240:名無しさん@社会人
11/02/13 12:53:19 .net
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと
共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代ほど、
光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の歴史の中でも、
前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、
あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

241:名無しさん@社会人
11/02/13 12:54:22 .net
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例で
あつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

242:名無しさん@社会人
11/02/13 12:55:55 .net
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

243:名無しさん@社会人
11/02/14 17:45:22 .net
一月三日(火)
しかし、何といつても、ボクシングはあの場内の興奮に包まれて、ぢかに見るべきものだ。テレビだと、
十五ラウンドが、スカスカと機械的に運ばれる感じで、興味は半減する。(中略)
解説のアナウンサーの声が全くいやらしい。ボクシングの試合なのだから、もうちよつと粗野な、ボクサー風に
鼻のつまつたカスレ声のアナウンサーを連れて来るわけには行かないのか。そのはうがずつと気分が出るぢやないか。
いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、これこそ、ジャーナリズムの
いはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。

一月八日(日)
道場の冷え込み方はものすごく、むかしの寒稽古の寒さを思ひ出す。(中略)剣道の稽古も、飛び回るうちに
体はだんだん温まつてくるが、足の裏だけは寒餅みたいになつて感覚がない。そのうちやつと、その足も温まつてくる。
この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。

三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

244:名無しさん@社会人
11/02/14 17:47:59 .net
一月十日(火)
革命の機が熟したとき、文化人はあひもかはらず、女子供と同様に扱はれるであらう。それはいはばウサギの
役割なのだ。もしプラカードを持つてフラフラして、ぶち殺されれば、革命陣営は口をきはめてその「英雄的行動」を
ほめそやすであらう。しかしそれはウサギの英雄にすぎないのだ。
なぜなら、文化人知識人といふものは、老人か、女子供に類する肉体的弱者に決つてゐるから、「弱者が殺された」
といふ民衆的憤激をそそり立てるのに効果的であり、ただ弱者であるのみならず、その上、多少の知識や文化的
活動の経歴名声がプラスして、「尊敬すべき弱者が殺された」といふ政治的効果は多大なものだ。革命における
文化人の効用は、ウサギの肉の効用である。
私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を調味料で除去すれば、
うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉は
うまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を固めたのである。

三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

245:名無しさん@社会人
11/02/16 17:42:57 .net
われわれ日本人は本来派手好みなのである。少くとも室町時代までは、いかに色彩と金ピカを好んだかは、
金閣寺や能楽を見てもわかる。(中略)長い鎖国時代に、さびしい寒色の趣味が上品だとされるやうになり、
けばけばしい趣味は、上は御所、下は民衆の一部に残


246:るだけになつた。明治になつてからも、田舎者の文化が、 いよいよ日本人の趣味を窮屈にしてしまつた。 明治の開国以後、外国の趣味がとり入れられても、渋いイギリス趣味ばかりが上流階級で歓迎され、みんなが そのマネをした。 私は生来、明るい地中海文化が好きで、ラテン的な色彩を愛し、さらに中南米(ラテン・アメリカ)の植民地建築に 心酔して、その熱帯の色彩美とメランコリーを日本に移植しようと志し、スペイン植民地風の家を建て、その中を フランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた。(中略) 着るものについては、私は一切流行といふものを顧慮しない。信頼のおけるテイラーで、一旦「私の型」と いふものを決めてしまふと、それを変へず、寸法のはうは年中一定だから、生地さへ選べば、あとは簡単である。 三島由紀夫「男の美学」より



247:名無しさん@社会人
11/02/16 17:44:00 .net
(中略)
大体私は、熱帯好きでもあるし、北方風なキチンとしたお洒落はきらひである。できるなら一年中裸でゐたいのだが、
それもならず、庭の中央に、イタリーから持つてきて据ゑた大理石のアポロ像が、春夏秋冬、まつ裸で外気に
さらされてゐる姿をうらやむばかりだ。
美的生活と云つても、十九世紀のデカダンのやうな、教養と官能に疲れた憂鬱で病的な美的生活は、私は
まつぴら御免である。
このごろの気持の変化として、剣道などをはじめてから、日本刀が好きになつたり、紋付袴を着てみたくなつたり
しはじめた。やはり日本の男には、剣道着ほど、男らしくて、すがすがしくて、よく似合ふ服装はないと思ふ。
しかし、純西洋風な部屋で、吉田茂氏みたいに、上等の和服を着て、上等の葉巻をくゆらすのも乙である。
年をとつたら、きつとさういふ風になるだらう。
(中略)
「美しく生き、美しく死ぬ」といふのは、古代ギリシア人の念願だつた。生きるはうはまだしも、どうしたら
美しく死ねるのか。

三島由紀夫「男の美学」より

248:名無しさん@社会人
11/02/16 17:45:25 .net
古代ギリシア人の理想は、美しく生き、美しく死ぬことであつた。わが武士道の理想もそこにあつたにちがひない。
ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬことはもつとむづかしいといふ
ところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、
金が人生の至上価値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もつとも往生際のわるい病気である癌で
死ぬまで待つほかはない。
美しく生き美しく死なうとすれば、まづその条件を整へて行かねばならない。少くとも、自分の仕事に誠実に生き、
又、国や民族のためには、いさぎよく命を捨てる、といふのは美しい生き方であり死に方であるが、やりがひの
ある仕事がない、国家自体があやふやである、といふのでは、もう美しい生き方や死に方はありえないから、
わがためにも、国や民族の在り方を正して行くことが先決問題である。

三島由紀夫「美しい死」より

249:名無しさん@社会人
11/02/16 17:46:31 .net
(中略)
武の心持がなければ、人間は自分をいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も自己弁護する
ことができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り、最終的に身の安全は保証されよう。
ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、
一か八かといふときには、戦つて死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は
美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉に
できてゐる。
私は自衛官にはならなかつたけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは
国を護るために馳せ参じたいといふ気持になつてゐる。予備自衛官諸氏は、さういふ国民が私一人でないことを
信じていただきたいと思ふ。全国民の気持が、予備自衛官の気持と一つになつたとき、はじめて日本は、
国家としての美しい完成体になるのだと思はれる。

三島由紀夫「美しい死」より

250:名無しさん@社会人
11/02/17 20:14:18 .net
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、根底的にデラシネ
(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方ではその無用性に自立の根拠を置きながら、
一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。そこに知識人の複雑なコンプレックスがあり、こんなに
扱ひにくい人種はちよつと想像もできない。
知識人の自立を尊重するふりをしながら、その大衆操作の有用性をうまく利用し、かたがた彼らの有用性への
ひそかな憧れをみたしてやつた点では、政府よりも左翼のはうが何十倍も巧みであつた。戦後の知識人の役割が、
九割方、左翼の利用するところとなつたのは周知の事実であり、それなりに効果をあげたのである。
大学問題の勃発は、しかし、このやうな安定した進歩的知識人の天国に打撃を与へた。彼らの足もとに火がつき、
周章狼狽なすところを知らず、有用性の幻想は破壊されつつ、無用性の自立もすでに白昼夢となつた。進歩的知識人は
瓦礫と化した。

三島由紀夫「新知識人論」より

251:名無しさん@社会人
11/02/17 20:15:26 .net
(中略)
私はここでまたしても日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はないと思つてゐる。知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらゐは
弁へてゐなくてはならぬからである。
大学問題は、命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しないといふ、人間と思想とのもつとも重要な
「関係」に目をひらかせた。これは戦後もつとも軽視されてゐた問題であつた。(中略)
知識人はもはや国家有用の材ではありえないし、いはんや反国家有用の材でもありえない、といふ悲惨な現状を
直視して、そこから出発しないことには何もはじまらない。あらゆる有用性有効性の幻想をきつぱり捨て、
「いや、君だつて役に立つんだよ」
といふ甘言に一切耳を貸さず、有用性へのノスタルジアも己惚れも捨てなければならない。と同時に、無用性の
永遠の嘆き節からも訣別せねばならない。

三島由紀夫「新知識人論」より

252:名無しさん@社会人
11/02/17 20:16:34 .net
機動隊導入によつてやつと救はれながら、大学立法反対の面子を捨てかねてゐる、あの教授連の自己冒涜の轍を
踏んではならない。それはもう知識人としてでなく、人間としてダメになつた人たちなのだ。
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的もつとも根本的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。安保賛成や反対は足下に踏み破り、有用性と無用性を乗りこえた地点で、
ただ精神のもつとも純粋、正義のもつとも正しいものを開顕しようと日夜励んでゐればよいのである。権力も
反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐればよいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を
見詰めてゐればよいのである。断固として動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐれば
よいのである。私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より

253:名無しさん@社会人
11/02/19 12:18:45 .net
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。それだけをあまりに強く考へ
つめたために首切られちやつたんだと思ふんです。わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだと
いふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が日本で
あるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを考へて生きて
いきたいです。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

254:名無しさん@社会人
11/02/19 12:20:13 .net
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメントやる
ことによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことをやつた
ところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。昔のやうに爆弾三勇士、
あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、これはテレビにも写らなかつた、
なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、いまテレビに写つてるものは、どんなものが
出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系に
なにものも加へないままで消えていくんぢやないか。
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

255:名無しさん@社会人
11/02/19 12:21:57 .net
そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、
早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。紙くずでうづまつてしまふ。それで
情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん、どんどん処理してゐるんです。この東京といふもの、日本と
いふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。そのなかで人間はなにをすべきかと
いふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんですが、その精神が、それぢや、どうして行動に
結びつくか、といひますと、わたくし、やつぱり陽明学の信者なんです。(中略)日本の知識人はいままで、
知つて行なはなかつた人間ばつかりだつた。(中略)
自分の知つてることは、小さなことですが、知つてることだけ行つてみる。行なつてみた結果、失敗するかも
しれません。さういふところで、みなさんにつながる。

三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

256:名無しさん@社会人
11/02/20 12:31:58.82 .net
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
各々の軍といふのはどういふことか。その時になつて色んな人間が自衛隊の周りに群がつて�


257:�て、「私にも 手伝はせてくれ」つて言はれましても、御飯炊きをする奴がいつぱいゐても困る。普段の平時からそれぞれの 能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。 三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より



258:名無しさん@社会人
11/02/20 12:33:53.56 .net
どんなことかと申しますと、例へば自動車の免許であります。(中略)とにかくレジャー時代で、(中略)
今では子供から自動車持つやうになつちやつた。(中略)
私はこのライセンスといふものをですね、全て一種の軍事的な条件付きのライセンスにしたらいいんぢやないかと。
もし日本で戦争が起きた場合には、お前の自動車召し上げるぞ。或ひは、お前、自動車の運転手として徴集するぞ。
さういふ形にして自動車の免許証を取らせることにいたしますと、まあ、中曾根さんのお話では、それは
憲法違反ぢやないか、職業上の自由を阻害することになるぢやないかと言はれましたけれども、プロの運転手に
なるのは別として、今白ナンバーでヨタヨタ走つてゐるのは皆アマチュアで、遊ぶために自動車が欲しいんですから、
「遊びたいと思つたら軍事的義務を負ふ」といふことを日本中あらゆる所にくつつけておけば、その技術が
役に立つ場合が来るんぢやないか。(中略)さうすると日本中に自動車が減つて公害が少なくなつて、非常に
日本はいい国になるんです。どつち転んでもいいことなら、やつた方がいいぢやないか。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

259:名無しさん@社会人
11/02/20 12:35:03.45 .net
また、この新宿なんかいらつしやると、西口に副都心といふものがありますね。あの下の方へずつと入つて
らつしやると、相当な地下街があるんです。あれをどうしてシェルター基準にしないんだ。シェルターといふものは、
一メートル、あるひは一メートル二十位のコンクリート壁がまづ必要条件です。ところが、どの壁も薄くつて
そんなシェルター基準に合ふわけがない。さうしますと、この建築基準の中にですね、シェルター基準をすつと
混じり込ませればいいんです。美濃部さんにも黙つてうまくやれるんです。美濃部さん反対するでせうけど。
さういふふうにちよつとしたことで、基準を設ければ、いくらでも軍事施設といふものに転用ができるんです。
平和時代には、そこでネグリジェだのパンティだの売つてる。そして、戦時になれば、忽ち転換して市民を
とにかく安全な場所へ避難させるシェルターができるんです。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

260:名無しさん@社会人
11/02/20 12:35:55.77 .net
それから、高速道路ですね。あんなねえ、まあ、仮小屋みたいなもの作つてですね、あれは世界銀行から慌てて
金を借りて、オリンピックに間に合はせた一号線なんてのはもうガタが来てる。あんなもの作るくらゐなら、
初めから戦車一個大隊通れるくらゐの建築基準作ればよろしい。今の高速道路では、戦車一個大隊が無事に通れるか
はなはだ危ない。また方々の高速道路でも、まあゲリラかなんかに爆弾しかけられますと、一ヶ所が途切れれば
もう忽ち輸送ができなくなつてしまふ。
さういふ所に平和の時代から軍事的な配慮を入れて、「治に居て乱を忘れず」といふやうなものも、自主防衛の
一つで、国民がレジャーを楽しむ為に何かを我慢する。もう税金取られてるんですから、どうせ。少しぐらゐ
我慢すること、何でもない。さういふ形でギブ・アンド・テイクをやつていかないと、これからの日本はダメだと。
遊びたかつたら、何かちよつと辛いことが一つある。でも、それでも遊びたいつてのは、人間の本性ですから
遊ぶでせう。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

261:名無しさん@社会人
11/02/20 20:45:27.64 .net
(中略)
防衛とちよつと話がはづれますが、ある機動隊へ私は話しに行つたことがある。(中略)私は、この機動隊へ行つて、
機動隊諸君の熱情に非常に打たれた。私は実はおまはりさんてあまり好きぢやないんですけれども、機動隊員は
実に好きだ。といふのは、機動隊員は真つ直ぐに自分の行動に挺身するために身体を張つてゐる。さういふ
行動集団である。かういふ連中は実に気持ちがいい。私は彼等と話して非常にいい気持ちになつた。
ところが、その最後にそこのキャプテンみたいな、ちよつと年輩の人でした、私ぐらゐでせう、それが、私が
あまり話が合ふんで心配になつたんでせう。最後にかういふことを言つた。「えー、ミスマ先生、今のおハナス、
大変結構でしたけれども、どうかこの国民ソクンに誤解されないやうにお願ひしたいと思つてをります」
「誤解されないつて、あなた何を言ひたいんですか」「我々は、ミンススギを、デモクラスィを守るためにやつて
ゐるんで、デモクラスィ、守るのが機動隊だつつうことを忘れないやうにお願ひしたい」
私はその話を聞いて、非常に情けなかつた。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

262:名無しさん@社会人
11/02/20 20:46:31.05 .net
我々はデモクラシー守るために機動隊をやつてるんぢやないんだ。デモクラシーつていふものを、さういふふうに
簡単に考へて使ふ、そして、さういふふうな形でもつて機動隊といふものを教育してる。機動隊諸君には可哀想だ
けれども、諸君、デモクラシー守るためにどうしてそんな血を流すんだと。デモクラシーは外国からやつてきて、
外国の占領軍が日本に押しつけて去つた、何かはかない根無し草ぢやないか。
それも日本ていふのは、デモクラシーの良いところを明治時代からうんと認めてですね、徐々に徐々に国民の力で、
普通選挙法の成立まで、国民同士が血を流しながら作つてきたんだ。その中で政治制度にいろんな欠点はあつた
けれども、日本なりに一番日本人に適した形の民主主義を作らうと思つて、営々として努力してきたんだ。
それが、戦争に負けて一時御破算になつたけれども、そこの上に接木されたやうな、全くのアメリカのデモクラシー、
日本の風土に何も根ざさないやうな外国から来たデモクラシーを、何で守らなきやならんのだ。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

263:名無しさん@社会人
11/02/20 20:47:36.63 .net
日本人は日本人に一番適した政治制度を、我々の力で作つていくのが本当ぢやないか。外国から押しつけられた
ものをただ守るために、その武装集団が居てくれたつてしやうがないんだ。我々は外国人のお陰で生きてゐるつて
いふよりも、日本人なんだといふやうな反感を、私は感じたことがあるんです。
それと同じやうなことで、自衛隊も、デモクラシーを守るといふやうぢや困る。自衛隊が国連憲章の精神に忠実で
あることはいいんです。しかし、それは結局デモクラシーの方向において国連に繋がるだけであつて、本当に
国民精神の自発的な要求によつて国連に繋がるんぢやなければ、本当は意味がないんです。
その自発的な国民の意志といふものは国民精神からしか生まれない。しかも、その国民精神といふものがですね、
今、目前の色んな政治的事象の中にある、単なる政治化、国際協調主義から生まれるものぢやなくて、日本といふ
ものに対する本当の自信から生まれるものである。その自信は何かといふと、あくまでも文化価値、精神的価値で
あつて、政治的価値ではない。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

264:名無しさん@社会人
11/02/21 11:46:01.65 .net
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた
教育で、国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ
持つて行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に
残した、この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、
我々がいくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないと
いふことは、何を意味するんだといふことを考へないできたんです。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

265:名無しさん@社会人
11/02/21 11:47:14.83


266: .net



267:名無しさん@社会人
11/02/21 12:23:28.11 .net
(中略)
今この危機感が全然ないといふやうな時代になつてきて、今、世界中で一番呑気なのは日本かもしれないんですが、
日本に果たして、かういふ危機がもし生じた場合、対処するやうな大きな精神的基盤があるだらうか。いや、
日本人は大丈夫だ、日本人といふのは放つておいても、いざといふ時にやるさ。ところが、放つておくうちにですね、
お腹の脂肪が一センチづつだんだんだんだん膨らんでくるのが、皆さんの体験的事実としてご存じだと思ふんです。
そして、人間といふのは豚になる傾向もつてゐるんです。
私は今日人間だと思つても、明日自分が豚になるかもしれないといふ恐怖でいつも生きてきた。やつぱり豚に
ならないためには、そして脂肪が蓄積しないためには、絶えず精神を研ぎすまし、例へば日本刀を毎日磨くやうに、
磨いていかなきや人間てのはダメになると。日本人はその一日一日ダメになつていくといふことに気がつかないんぢや
ないか。さう思つてまゐりますと、今の世界情勢といひますか、この国際戦略上の日本といふ国の難しさといふ
ものが、だんだんに分かつてくるのであります。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

268:名無しさん@社会人
11/02/21 12:24:21.50 .net
(中略)
我々は国際戦略といふものの、一番渦が渦巻いてゐる日本といふ国にゐるんです。日本ていふ国はあたかも
実験室のやうなものです。ベトナムのやうな激しい戦争は戦はれてはゐないけれども、国民の心の一つ一つの
中にですね、さういふ二つの大きな勢力の渦が、どつちが勝つかといふ形で忍び込んできてゐる。その忍び込み方は
非常に巧妙で、騙されやすい。
(中略)
そして、日本ていふ国はですね、天皇陛下を中心にして、まあ、千年以上、二千年近い歴史を、とにかく
日本人独特のやり方によつて生きてきたんです。これが、日本といふものの大事な点であつて、それをどつか
棚の上に上げておいて、ヒューマニズムだとか、国連中心主義だとか、やれ平和尊重だとか、やれ民主主義擁護だとか
言つてみたところで、私は共産戦略に勝つことは絶対にできないと固く信じてゐるんです。
その日本人てことが、防衛の問題になつてどう出てくるか。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

269:名無しさん@社会人
11/02/21 12:25:12.32 .net
これは、防衛問題で一番難しいところで、うつかり日本人、日本人て言ひ過ぎると、また、軍国主義復活なんて
外国の新聞で叩かれちやふ。だから、さうも言へない。お前、自分で防衛を論ずる場合、何が一番大事だと思ふんだ、
日本を守ることであるつて言ふと、今や多少モンロー主義的になりつつあるアメリカはどう言ふか。よしやつてくれ。
頼もしい。諸君、是非自分で自分の国を守つてくれつて言ふでせう。
(中略)まあ、左翼側に言はせれば、アジア人をしてアジア人と戦はしめよといふやうなのが、アメリカ側の
軍事政策であると言はれてゐる。(中略)
我々は何もそのアメリカのおかげでもつて、民族同士、よその民族主義と戦ふ気持ちは毛頭ない。我々はただ、
日本といふものを守り、せつかく日本といふ国があるのに、それを侵さうとする勢力から守らうとしてゐるに
過ぎない。ただ、その日本人の守らうとする自主防衛の努力と、向うが、よし自分たちでやつてくれといふ
気持ちとは、本当にすつきりと合ふ時があるかどうかは、私は非常に疑問に思ふんです。

三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より

270:名無しさん@社会人
11/02/21 1


271:2:26:13.20 .net



272:名無しさん@社会人
11/02/25 16:43:37.91 .net
十年前の東京では、左翼と右翼の分れ目ははつきりしてゐた。平和憲法を守れ、といふスローガンを人生の
何ものよりも大切にし、政府のやることはすべて戦争へ一歩一歩国民を狩り立てることだと主張し、子供に戦車や
軍用機の玩具を買つてやることを拒否し、横文字の本をよく読みこなし、岩波書店と何らかの関係があり、
すこし甲高いなめらかな声で話し、にこやかで紳士的で、いささか植物的で、暴力には一ぺんで砕かれてしまふ
やうな肉体、ひどく肥つてゐるか、ひどく痩せてゐるかした肉体を持ち、眼鏡をかけ、ベレエ帽をかぶり、
その両わきから白髪が耳の上に垂れ、軽井沢に小さい別荘を持ち、決して冷静を失はないやうに見える紳士は、
みな左翼だつた。(中略)
右の如き左翼人は、多くは国立大学の教授たちで、一流新聞や一流出版社の論説欄を支配し、政府から月給を
もらひながら、一方ではその反政府的論説によつて、左派のジャーナリズムから稿料を支払はれ、しかも大学の
中では、封建的君主そのままで、権力主義を押し通してゐた。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

273:名無しさん@社会人
11/02/25 16:44:03.75 .net
これが新左翼の攻撃するところとなり、そのもつとも喜劇的な一例としては、次のやうなのがある。或る有名な
左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で人気を得てゐたが、
新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど暴虐でなかつた。
軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、他ならぬ彼の
学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

274:名無しさん@社会人
11/02/25 16:44:24.24 .net
(中略)
私は暴力の支配する大学に招かれて、ラジカル・レフティストの学生�


275:スちと論争したが、かれらは誇張した 言語表現では伝統的支那風であり、人民裁判方式の愛好者たる点では現代共産中国風であり、日本の伝統否定では インターナショナリストであり、テロリズム肯定では日本のサムラヒ風右翼風であり、論理愛好癖では西欧風であり、 しかもすべて共産主義者を以て自認してゐた。 日本のヤクザ映画と称する特殊な映画は、伝統的アウトローの世界を描き、古い日本的メンタリティーを押し売りし、 感傷主義とヒロイズム、暴力肯定と非論理性において、もつとも右翼的日本的心情主義に愬(うつた)へるものとして、 左翼文化人が頭から軽蔑してきたものであるが、その日本型ジョン・ウェインは学生たちのアイドルになり、 左派の学生は暴力デモに出かける前夜、必ずこの種の映画を見に行つて、熱情を心に充填するのである。 次第次第に日本では、誰が右翼、誰が左翼と簡単にレッテルを貼ることがむづかしくなつてきた。 三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より



276:名無しさん@社会人
11/02/25 16:44:51.74 .net
イデオロギーの相互循環作用が起り、極端な右と極端な左が近づくかと思ふと、現在穏健な議会主義的革命を
主張してゐる偽善的な日本共産党が、大学問題などで、政府自民党と利害を等しくするやうになつたりしてゐる。(中略)
かういふややこしいイデオロギーの循環作用は、日本で百数十年前に起つた現象とよく似てゐる。明治維新前の
日本には、四つのイデオロギーが、四つ巴になつてゐた。すなはち、佐幕、開国、尊皇、攘夷である。(中略)
尊皇開国、佐幕攘夷、尊皇佐幕、(さすがに開国攘夷だけはなかつたが)、などといふ各派があらはれ、しかも
この各派を、短期間に廻りあるく人間まであらはれた。そして明治維新の大変革によつて成立した新政府は、
はつきり「尊皇開国」のイデオロギーをかかげて、統一国家を形成したのである。
(中略)しかし日本の歴史が証明するところによると、日本といふ国は決して内発的な革命を敢行しない国であつて、
必ず日本に起るのは、外発的な革命、すなはち外国の軍事的政治的経済的思想的な衝撃力によつて、やむをえず
起された革命なのである。

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

277:名無しさん@社会人
11/02/26 11:03:57.21 .net
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふところに、
自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。現在只今の
政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」

三島由紀夫「二・二六事件について」より

278:名無しさん@社会人
11/02/26 11:04:18.50 .net
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつた
のである。そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の底流は、
ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を
含むところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立�


279:ネどといふ、言ひ古されたことを 言つてゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、 北一輝の死は、このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな死に すぎなかつた。 三島由紀夫「二・二六事件について」より



280:名無しさん@社会人
11/02/26 11:04:42.56 .net
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。又、
世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。政党政治は
腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を救はうとする
大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、
正義感の爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。

三島由紀夫「二・二六事件について」より

281:名無しさん@社会人
11/02/26 11:05:03.41 .net
もつとも悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そして
この錯誤悲劇のトラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握りつぶされて
ゐたのだつた。
二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、宮城包囲を敢へてしなかつた
ことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、左翼の革命理論から云へば、
これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、女子供を一人も殺さなかつた義軍の、
もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を
永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、
この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。

三島由紀夫「二・二六事件について」より

282:名無しさん@社会人
11/02/26 11:36:29.81 .net
二・二六事件によつて青年将校に裏切られたことも、北一輝は初めから覚悟してゐたことかもしれない。日蓮宗の
予言による決行日時の決定や、さまざまな神秘主義のひらめきは、フランス革命当時のジャコバン党員が、
フリー・メーソンのご託宣を仰ぐためにスコットランドの本部に参詣したのと大した変りはない。革命には
神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も激しい内的衝動は、同時に
現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と同居してゐるのである。
(中略)
遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、信頼する部下に
裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようとすることの、ほとんど楯の両面である。
なぜならその革命の理想像を現実が絶えず裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の裏切りの
一つの態様にすぎないからである。

三島由紀夫「北一輝論―『日本改造法案大綱』を中心として」より

283:名無しさん@社会人
11/02/26 11:36:


284:59.84 .net



285:名無しさん@社会人
11/03/01 14:29:50.51 .net
私はごく最近、「諸君!」七月号で、貴兄と高坂正尭氏の対談「自民党ははたして政党なのか」を読みました。
そして、はたと、これは士道にもとるのではないかといふ印象が私を搏ちました。私は何も自民党の一員では
ありませんし、この政党には根本的疑問を抱いてゐます。しかし社会党だらうと、民社党だらうと、士道といふ
点では同じだといふのが私の考へです。
実はこの対談の内容、殊に貴兄の政治的意見については、自民党のあいまいな欺瞞的性格、フランス人の記者が
いみじくも言つたやうに「単独政権ではなくそれ自体が連立政権」に他ならない性格、又、核防条約に対する態度、
等、ほとんど同感の意を表せざるをえないことばかりです。
貴兄に言はせれば、三島が士道だなどと何を言ふか、士道がないからこそ多数を擁して存立してゐる自民党なのだ、
といふことになるかもしれません。しかし、「ウエスト・サイド・ストーリイ」の不良少年の歌ではないが、
すべてを社会の罪とし、自分らの非行をも社会学的病気だと定義するとき、個人の責任と決断は無限に融解してしまふ。

三島由紀夫「士道について―石原慎太郎氏への公開状」より

286:名無しさん@社会人
11/03/01 14:30:15.97 .net
現代社会自体が、自民党のこの無性格と照応してゐることは、そこにこそ自民党の存立の条件があるといへるで
せうし、坂本二郎氏などはそんな意見のやうです。
しかし、貴兄が自民党に入られたのは、そのやうな性格を破砕するためだつた筈です。私はこの対談を二度読み
返してみて、貴兄がさういふ反党的(!)言辞を弄されること自体が、中共使節の古井氏のおどろくべき反党的
言辞までも、事もなげに併呑する自民党的体質のお蔭を蒙つてゐる、といふ喜劇的事実に気づかざるをえませんでした。
貴兄が自民党の参院議員でありながら、ここまで自民党をボロクソに仰言る、ああ石原も偉いものだ、一方それを
笑つて眺めてゐる佐藤総理も偉いものだ。いやはや。これこそ正に、貴兄が攻撃される自民党の、「政党といふ
ものの本体は、欺瞞でしかないといふことを、政党としての出発点から自分にいひ聞かせてゐるやうなところ」
そのものではありませんか。

三島由紀夫「士道について―石原慎太郎氏への公開状」より

287:名無しさん@社会人
11/03/01 14:31:05.74 .net
私の言ひたいのは、内部批判といふことをする精神の姿勢の問題なのです。この点では磯田光一氏のいふやうに、
少々スターリニスト的側面を持つ私は、小うるさいことを言ひます。党派に属


288:するといふことは、(それが どんなに堕落した党派であらうと)、わが身に一つのケヂメをつけ、自分の自由の一部をはつきり放棄することだと 私は考へます。 なるほど言論は自由です。行動に移されない言論なら、無差別に容認され、しかも大衆社会化のおかげで、 赤も黒も等しなみにかきまぜられ、結局、あらゆる言論は、無害無効無益なものとなつてゐるのが現況です。 ジャーナリズムの舞台で颯爽たる発言をして、一夕の興を添へることは、何も政治家にならなくても、われわれで 十分できることです。もちろん貴兄が政治の実際面になかなか携はれぬ欲求不満から、言論の世界で憂さ晴らしを されてゐるといふ心情もわからぬではありません。 三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より



289:名無しさん@社会人
11/03/01 14:31:46.09 .net
では、何のために貴兄は政界へ入られたか? 貴兄を都知事候補にすることに、ほとんどの自民党議員が反対し、
年功序列が狂ふのを心配してゐる、と貴兄は言はれるが、もともと文壇のやうな陰湿な女性的世界をぬけ出して、
権力争奪と憎悪と復讐が露骨に横行する政界に足を踏み入れた貴兄にとつては、そんなことは覚悟の前であつた
筈です。
私は貴兄のみでなく、世間全般に漂ふ風潮、内部批判といふことをあたかも手柄のやうにのびやかにやる風潮に
怒つてゐるのです。貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます。
昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙つて耐へました。何ものかに属する、とはさういふ
ことです。もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危ない一点にしか
ありません。
私は政治のダイナミズムとは、政治的権威と道徳的権威の闘争だと考へる者です。これは力と道理の闘争だと
考へてもよいでせう。

三島由紀夫「士道について―石原慎太郎氏への公開状」より

290:名無しさん@社会人
11/03/01 14:32:10.71 .net
この二つはめつたに一致することがないから相争ふのだし、争つた結果は後者の敗北に決つてゐますが、歴史が
永い歳月をかけてその勝敗を逆転させるのだ、と信ずる者です。もちろん楽天的な貴兄の理想は、この力と道理を
自らの手で一致させるところにあるのでせうし、悲観的な小生の行蔵は、道理の開顕にしかありません。しかし
今のところ貴兄の言説には、悲しいかな、その政治的権威も道徳的権威も、二つながら欠けてゐます。貴兄に
言はせれば、すべては自民党が悪いのでせうが、どうもこの欠如は、貴兄のケヂメを軽んずる姿勢に由来する
やうに思へてなりません。W・H・オーデンは、「第二の世界」の中で、「文学者が真実を言うために一身を
危険にさらしているという事実が、彼に道徳的権威を与える」と言つてゐますが、これは政治家でも同じことです。
「士道すでにみちたる上は、節によるこそよけれ」と、斎藤正謙が「士道要論」で言つてゐる「士節」とは、
この道徳的権威の裏附をなすものでもありませう。

三島由紀夫「士道について―石原慎太郎氏への公開状」より

291:名無しさん@社会人
11/03/07 20:41:46.21 .net
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。それと同時に、
小説といふものが存在するおかげで、人々は自分の内の反社会性の領域へ幾分か押し出され、そこへ押し出された以上、
もちろん無記名ではあるが、リスト・アップされる義務を負ふことになる。社会秩序の隠密な再編成に同意する
ことになるのである。
このやうな同意は本来ならば、きびしい倫理的決断である筈だが、小説の読者は、同意によつて何ら倫理的責任を
負はないですむといふ特典を持つてゐる。その点は芝居の観客も同様だが、小説が芝居とちがふ点は、もし単なる



292:受が人生における倫理的空白を容認することであれば、いくらでも長篇でありうる小説といふジャンルは、 芝居よりもずつと長時間にわたつて、読者の人生を支配するので、(あらゆる時間芸術のうちで、長篇小説は いちばん人生経験によく似たものを与へるジャンルである)、人々は次第に、その倫理的空白に不安になつて、 つひに自分の人生に対するのと同じ倫理的関係を、小説に対して結ぶにいたることがないではない。 三島由紀夫「小説とは何か 一」より



293:名無しさん@社会人
11/03/07 20:44:23.48 .net
世間一般では、小説家こそ人生と密着してゐるといふ迷信が、いかにひろく行はれてゐることだらう。何よりも
それを怖れて小説家になつた彼であるのに! 私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、
新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
人生に対する好奇心などといふものが、人生を一心不乱に生きてゐる最中にめつたに生れないものであることは、
われわれの経験上の事実であり、しかもこの種の関心は人生との「関係」を暗示すると共に、人生における
「関係」の忌避をも意味するのである。小説家は、自分の内部への関係と、外部への関係とを同一視する人種で
あつて、一方を等閑視することを許さないから、従つて人生に密着することができない。人生を生きるとは、
いづれにしろ、一方に目をつぶることなのである。

三島由紀夫「小説とは何か 二」より

294:名無しさん@社会人
11/03/07 20:48:33.09 .net
一面からいへば、神は怠けものであり、ベッドに身を横たへた駘蕩たる娼婦なのだ。働らかされ、努力させられ、
打ちのめされるのは、いつも人間の役割である。小説はこの怖ろしい白昼の神の怠惰を、そのまま描き出すことは
できない。小説は人間の側の惑乱を扱ふことに宿命づけられたジャンルである。そして神の側からわづかに
描くことができるのは、人間(息子)の愚かさに対する、愛と知的焦燥の入りまじつた微かな絶望の断片のみで
あらう。神は熱帯の泥沼に居すわつた河馬のやうだ。
「お前の母親は泥沼の中でしか落着けないのよ」
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その「本心」こそ、バタイユのいはゆる「エロティシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの
遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か 七」より

295:名無しさん@社会人
11/03/09 13:09:53.79 .net
バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく知られてゐるが、作家はしばしばこの二種の現実を
混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとつては重要な方法論、人生と芸術に関するもつとも
本質的な方法論であつた。(中略)
私のやうな作家にとつては、書くことは、非現実の霊感にとらはれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の
自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいはゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、
いついかなる時点においても、決然と選択しうるといふ自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづける
ことができない。選択とは、簡単に言へば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、といふことであり、その際どい
選択の保留においてのみ私は書きつづけてゐるのであり、ある瞬間における自由の確認によつて、はじめて
「保留」が決定され、その保留がすなはち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、
私は到底耐へられない。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

296:名無しさん@社会人
11/03/09 13:11:02.48 .net



297:暁の寺」を脱稿したときの私のいひしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基づくものであつた。何を大袈裟なと 言はれるだらうが、人は自分の感覚的真実を否定することはできない。すなはち、「暁の寺」の完成によつて、 それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の 現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私に とつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、 二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。それは私の自由でもなければ、 私の選択でもない。作品の完成といふものはさういふものである。それがオートマティックに、一方の現実を 「廃棄」させるのであり、それは作品が残るために必須の残酷な手続である。 三島由紀夫「小説とは何か 十一」より



298:名無しさん@社会人
11/03/09 13:12:17.08 .net
私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することが
ないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。この完結は、狐につままれたやうな
出来事だつた。「何を大袈裟な」と人々の言ふ声が再びきこえる。作家の精神生活といふものは世界大に大袈裟な
ものである。
(中略)
しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて
最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することが
イヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、
一方が作品の中へ閉ぢ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであらうか。唯一ののこされた自由は、その
作品の「作者」と呼ばれることなのであらうか。あたかも縁もゆかりもない人からたのまれて、義理でその人の子の
名付け親になるやうに。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

299:名無しさん@社会人
11/03/09 13:13:33.84 .net
(中略)
吉田松陰は、高杉晋作に宛てたその獄中書簡で、
「身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」
と書いてゐる。
この説に従へば、この世には二種の人間があるのである。心が死んで肉体の生きてゐる人間と、肉体が死んで
心の生きてゐる人間と。心も肉体も両方生きてゐることは実にむづかしい。生きてゐる作家はさうあるべきだが、
心も肉体も共に生きてゐる作家は沢山はゐない。作家の場合、困つたことに、肉体が死んでも、作品が残る。
心が残らないで、作品だけが残るとは、何と不気味なことであらうか。又、心が死んで、肉体が生きてゐるとして、
なほ心が生きてゐたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであらう。作家の人生は、
生きてゐても死んでゐても、吉田松陰のやうに透明な行動家の人生とは比較にならないのである。生きながら
魂の死を、その死の経過を、存分に味はふことが作家の宿命であるとすれば、これほど呪はれた人生もあるまい。
「何を大袈裟な」と笑ふ声が三度きこえる。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

300:名無しさん@社会人
11/03/09 19:50:17.54 .net
ドストエフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い類縁にあつた。
「小説と犯罪とは」と言ひ直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を受けてをり、「赤と黒」から
「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしてゐない名作の数は却つて少ないくらゐである。
それが現実の犯罪にぶつかると、うつかり犯人に同情しては世間の指弾を浴びるのではないか、といふ思惑が
働らくやうでは、もはや小説家の資格はないと云つてよいが、さういふ思惑の上に立ちつつ、世間の金科玉条の
ヒューマニズムの隠れ簑に身を隠してものを言ふのは、さらに一そう卑怯な態度と云はねばならない。そのくらゐなら
警察の権道的発言に同調したはうがまだしもましである。
さて、犯罪は小説の恰好の素材であるばかりでなく、犯罪者的素質は小説家的素質の内に不可分にまざり合つてゐる。
なぜならば、共にその素質は、蓋然性の研究に秀でてゐなければならぬからであり、しかもその蓋然性は法律を
超越したところにのみ求められるからである。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

301:名無しさん@社会人
11/03/09 19:51:30.95 .net
法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかつて、人間性といふ地獄の劫火の上の、餅焼きの網の比喩を
用ひたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになつた餅であり、芸術は適度に
狐いろに焼けた喰べごろの餅である、と説いたことがあつた。いづれにしても、地獄の劫火の焦げ跡なしに、
芸術は成立しない。
(中略)
悪は、抽象的な原罪や、あるひは普遍的な人間性の共有の問題であるにとどまらない。きはめて孤立した、
きはめて論証しにくい、人間性の或る未知の側面に関はつてゐる筈である。私はアメリカで行はれた凶悪暴力犯人の
染色体の研究で、男性因子が普通の男よりも一個多い異型が、これらの中にふつうよりもはるかに多数発見されたと
いふ記事を読んだとき、戦争といふもつとも神秘な問題を照らし出す一つの鍵が発見されたやうな気がした。
それは又裏返せば、男性と文化創造との関係についても、今までにない視点を提供する筈である。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

302:名無しさん@社会人
11/03/10 00:03:59.71 .net
文学と狂気との関係は、文学と宗教との関係に似たところがある。ヘルダーリンの狂気も、ジェラアル・ド・
ネルヴァルの狂気も、ニイチェの狂気も、ふしぎに昂進するほど、一方では極度に孤立した知性の、澄明な高度の
登攀(とうはん)のありさまを見せた。何か酸素が欠乏して常人なら高山病にかかるに決まつてゐる高度でも、
平気で耐へられるやうな力を、(ほんの短かい期間ではあるが)、狂気は与へるらしいのである。
(中略)
分裂病の進行が、往々あるやうに、殺人や自殺に終つても、それを厳密な意味でクライマックスと呼ぶことは
できないであらう。こちら側から見れば、危険な反社会性の現実化であり、一つの社会事件としてのクライマックスで
あつても、向う側から見れば、さらに進行する経過の上の偶発的事件であるにすぎないからである。
(中略)
しかるに、狂気は、その進行過程において、つひに必然的クライマックスを持たない。必然的クライマックスとは
「物化」「自己物質化」であつて、常人の側からは「死」と同じことである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

303:名無しさん@社会人
11/03/10 00:05:09.14 .net
狂人の自殺は二重の意味を持つ。すなはち、自己物質化を狂気が達成しうるのに、さらに死によつてその達成を
助けることだからである。一方、狂人の殺人は、その反社会性によつて社会とは一見対立関係に立つやうだけれども、
法も亦責任能力を免除してゐるやうに、厳密な一対一の対立関係は成立しない。「きちがひに刃物」とはよく
言つたもので、狂人に殺された人間は、社会の用語によれば「事故死」なのである。
このやうな偶然性の体現、自己の行為を偶然化されること、そのこと自体が、自己物質化の進行と浸潤を意味する。
なぜなら、偶然とは「物」の特質だからである。これを宗教の用語で言へば、偶然とは「神」の本質であらう。
すなはち人間的必然を超えたところにあらはれる現象は、神の領域に他ならないからである。
(中略)
狂気と正常な社会生活との並行関係乃至離反のプロセスだけが、小説の題材になりうる。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

304:名無しさん@社会人
11/03/10 00:06:23.30 .net
狂気の困つた特色は、その本質が反社会性にあるのではなくて、狂気の論理自体にしか本質がないのにもかかはらず、
狂人の幻想には社会生活の残滓が、(もつとも低俗なものをも含めて)、横溢してゐるといふことなのである。
このことは、前回の犯罪の問題と比べてみるとよくわかるだらう。犯罪的素因を先天性のものと考へるロムブロゾオ
などの諸説はともかく、犯罪はその本質を反社会性に持つてゐる。なぜなら犯罪を正当化する最高の論理は、
政治的犯罪と非政治的犯罪とにかかはらす、われわれが自己の社会を正当化する論理と同じ次元に立つてゐる
からである。このことが、小説の題材として、古来、狂気よりも犯罪が親しまれてきた一因であらう。
われわれが殺人を許容しない社会に住んでゐることは、一種の社会契約によつて、われわれ自身の殺人をも
許容されないものにしてしまつてゐるわけだが、狂気はあくまで病気の一種であり、人間の自由意志とは関係が
ないから、いかに狂気が危険でも、われわれ自身が発狂することは許されてゐるのである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

305:名無しさん@社会人
11/03/10 00:07:40.29 .net
これは一見ヘンな論理だと思はれるであらう。しかしここには小説の大切な問題がひそんでゐる。
なぜなら、小説も芸術の一種である以上、主題の選択、題材の選択、用語の選択、あらゆるものに、作者の意志が
かかり、精神がかかり、肉体がかかつてゐる。われわれはそれを不可測の神の意志、あるひは狂気の偶然の意志に
委ねるわけには行かないのである。なるほどソクラテスはその哲学をデエモンの霊感によつて得た。しかし、
ソクラテスは狂気には陥らなかつた。
選択それ自体が自由意志の問題を抱へ込んでをり、小説は、「自由意志」といふ信仰の極限的実験であつたとも
いへる。この社会の要求する社会契約も、倫理的制約も、すべて自由意志自身の責任において乗り超え踏み
破らうとする仮構であつた。
ひとたびここへ狂気の問題を導入すると、この根本的なメカニズムにひびが入つてしまふのである。自由意志が
否定されたところで、どうして小説世界の構築性といふ、自由意志の精華のやうなものが具現されるであらうか。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

306:名無しさん@社会人
11/03/10 00:08:58.04 .net
小説とは何か、といふ問題について、無限に語りつづけることは空しい。小説自体が無限定の鵺(ぬえ)のやうな
ジャンルであり、ペトロニウスの昔から「雑俎(サテュリコン)」そのものであつたのだから、それはほとんど、
人間とは何か、世界とは何か、を問ふに等しい場所に連れて行かれる。そこまで行けば「小説とは何か」を
問ふことが、すなはち小説の主題、いや小説そのものになるのであり、プルウストの「失はれし時を求めて」は、
そのやうな作品だつた。概して近代の産物である小説の諸傑作は、ほとんど「小説とは何か」の、自他への
問ひかけであつた、と云つても過言ではない。小説はかくて、永久に、世界観と方法論との間でさまよひつづける
ジャンルなのである。その彷徨とその懐疑とを失つた小説は、厳密な意味で小説と呼ぶべきでないかもしれない。
そこで小説とは、小説について考へつづける人間が、小説とは何かを模索する作業だ、と云つてしまへば、
技術的定義に偏して、重要な何ものかを逸してしまふ、といふところに、又、小説の怪物性がある。

三島由紀夫「小説とは何か 十四」より

307:名無しさん@社会人
11/03/10 12:38:16.89 .net
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をし、いい洋服を着て、いいアクセサリーをつけて、いよいよお出ましとなる。
そこで又仕上りを鏡で丹念にしらべる。……世間では、かういふのを、女のナルシシズムと呼んでをり、女の
第二の天性と信じてゐる。
しかし彼女は本当に、鏡の中に自分の顔を見てゐるのであらうか? 彼女が鏡の中に見てゐるのは、本当に
自分の姿なのであらうか? 私にはどうもそのへんがよくわからないのである。
私の見るところでは、「自然」は女に、彼女の本当の顔を見せないやうに見せないやうにと配慮してゐる。
その用意周到はおどろくばかりで


308:、ここには定めし、自然がさうせざるをえなかつた理由がひそんでゐるに ちがひない。さうとしか考へやうがないのである。 自意識といふものは全然男性的なもので、そこには精神と肉体の乖離が前提とされ、精神が肉体を離れてフラフラと 浮かれ出し、その浮かれ出した地点から、自分の肉体を客観的に眺め、又、自分の精神を以て自分の精神自体をも、 客観的に眺めるといふ離れ業を演じるのが、すなはち自意識である。 三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より



309:名無しさん@社会人
11/03/10 12:39:30.80 .net
もちろんこんな離れ業は、いつも巧く行くと限つたわけではないが、自意識とは、さういふ離れ業をともすると
演じようとする、精神の不可思議な衝動である、と定義してよからう。
しかるに、女の精神は、子宮が引きとどめる力によつて、男の精神ほど自由にふらふらと肉体を離れることが
できない。男には上部構造である頭脳と、下部構造である生殖器とが、全然関係のない別行動をとることも
できるけれど、女にはどうも、古代の爬虫類のやうに、頭と下半身と両方に脳があるらしいのである。脳と言つて
わるければ、女の精神を支配する中枢は二つあつて、一つは頭脳であり、もう一つは子宮であつて、この二つが
実に密接に共同して働くから、精神はいつも、この二つに両方から引つぱられてゐて、肉体から離脱できない。
ヒストリーの語源が子宮にあることは周知のとほりである。
簡単に言ふと、男性の精神構造は、一つの中心点をもつ円であり、女性の精神構造は二つの中心点をもつ楕円で
あるらしい。

三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より

310:名無しさん@社会人
11/03/10 12:40:24.56 .net
女の精神はかくて存在に帰着し、男の精神はともすると非在に帰着するが、自意識とは、非在に関する精神の、
もつとも生粋な、もつとも非在的なものである。
女の精神とて、もちろん自意識に似たものは持つことができる。しかし、自意識が自意識を生み、みるみる無数の
合せ鏡の生む鏡像のやうに増殖する、自意識の自己生殖は、決して女性のものではない。自意識が彼女を本当に
喰ひつぶすまでに行かないならば、それは結局、「擬自意識」の部類に属するだらう。女のもつ「自意識めいたもの」
には、肉体(子宮)といふ安全弁がついてをり、男の自意識のやうに、ブレーキが利かなくなつて暴走して、
崖から真逆様に顛落するといふやうな事態は起りえない。(さういふとき、奇妙にも、その男の自意識の暴走車は、
彼自身の自意識の海の中へ顛落するのであるが……)。

三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より

311:名無しさん@社会人
11/03/10 12:41:30.85 .net
ここではじめて、私には、自然が、女に対して、彼女の本当の顔を見せまい見せまいとしてゐるその配慮の理由が
呑み込めるやうに思ふ。それは明らかに生物学的要請であり、女の妊娠の責務を守るためであらう。
鏡とあんなにしよつちゆう深く附合つてゐる女が、みんな鏡の中へ投身して破滅してしまつたのでは、人類は
絶滅してしまふ。そこへ行くと、妊娠のつとめを持たない男はさうなつても一向構はない。水鏡に映るおのが
美貌に惚れ抜いて、水へ身を投げて死ぬナルシスが、決して女でなくて、男であることは、ギリシア人の知恵と
言へるであらう。ナルシスは、どうしても男でなければならないのである。
かくて、女たちが、鏡の中に見つめてゐる像が、彼女自身の姿でないことは、ほぼ確実になつた。自分でないものの
姿に見とれることを、ナルシシズムと呼ぶのは、言葉の誤用である。私見によれば、女にはナルシシズムは
存在しえないのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より

312:名無しさん@社会人
11/03/10 23:20:27.41 .net
女が自分のことを語るときの拙劣さには定評があり、どんなにえらい女でも、彼女が自分の正確な像をつかんで
ゐると感じられることはめつたにない。どんなに苦労し、どんなに世間智を積んでも、女は自分のこととなると
概して盲目で、不可避の愚かしさが、背中の糸屑みたいに必ずついてゐる。そして知的な女ほど、己惚れも
ひがみも病的にひどくなつてゐる場合が多い


313:。彼女の理性にはえてして混濁したものがつきまとひ、論理は決して 泉の水のやうに明らかに澄み渡ることがない。どうしてであらうか? 私が女と議論することが死ぬほどきらひ なのはそのためなのだ。 (中略) 精神が肉体から分離されなければ、そこに客観性といふものも生じえず、従つていかなる意味の自己批評も 生じえない。そして自己批評こそ、他に対する批評の唯一の基準であるから、そこには真の公正な批評が 成立しないことになる。女性の盲点はこのやうな自己批評の永遠の欠如であり、又、他に対する永遠の不公正な 批評癖である。 三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より



314:名無しさん@社会人
11/03/10 23:21:43.66 .net
「A子さんつて、自分のバカさにどうしても気がついてゐないのね」
といふ批評が成立するためには、さういふ御本人が自分のバカさに気がついてゐなければならない。しかし女が、
「ええ、どうせ私はバカだわよ」
と言ふときには、彼女は決して自分のバカさをみとめてゐないのである。それは、すなはち、「あなたのやうな
不公正な目から見れば、どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ意味である。
「私つて目が小さいでせう」
と女に言はれて、
「ああ、小さいね」
と答へる男は、完全に嫌はれる。
もう少し思ひやりに富んだ男でも、同様に嫌はれる。それは、
「私つて鼻ペチャだから」
と言はれて、
「でも、とんがつた鼻より魅力があるよ」
と答へるやうな男である。
私がかうして徐々に、女性の内面的な顔から外面的な顔へと移行してゆくところに、注意していただきたい。
思ふにそこには確たる境界線がないのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

315:名無しさん@社会人
11/03/10 23:23:18.45 .net
「私つてどうせバカだわよ」といふ言葉と「私つてどうせ不美人よ」といふ言葉との間の懸隔を、たとへば、
男の同じやうな発言、「俺はどうせバカなのさ」と「俺は二枚目ぢやないからな」といふ二つの言葉の間の懸隔と
比べてみれば、前者の懸隔はほとんどゼロに等しくなるであらう。つまり、男の発言には、自嘲のなかに必ず
アイロニーと批評が含まれるのが通例で、それが自意識の表徴なのである。
さつきも言つたやうに、女が「どうせ私つてバカだわよ」といふ場合、「あなたのやうな不公正な目から見れば、
どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ風に、判断の主体が故意にぼやかされてゐる。判断の主体及び
基準が自分にあるかのやうに一応装はれてゐるが、実は、相手に半ば判断の主体が預けられてゐる。男が「俺は
どうせバカなのさ」といふときは、自分の判断によつて自分のバカさ加減が痛烈に意識されてゐるのと同時に、
自らがその判断の主体であつて、他人の判断はゆるさないといふ強烈な自負がある。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

316:名無しさん@社会人
11/03/10 23:24:22.63 .net
次に、女が「私つてどうせ不美人よ」といふ場合は、判断の主体が故意にぼかされてゐる点において、「私つて
どうせバカだわよ」といふ場合と、ほとんど径庭がないが、男が「俺は二枚目ぢやないからな」といふときには、
明らかに、判断の主体は、痛恨を以て、遠い遠い、見えざる第三者の手に全的に預けられてゐるのである。
なぜなら男は、人間の顔、容姿等の外観は、もともと社会的な価値であつて、他人の判断によつてしか評価されない
といふ苦い知恵を、(自意識の鍛練によつて)、夙(はや)くから自得してゐるからである。ここに男の、
劣等感や優越感の早い形成が見られるので、男は比較対照による客観的価値判断を早くから身につけてしまふのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より

317:名無しさん@社会人
11/03/10 23:25:37.40 .net
もちろん男といへども、少女が最初の男に愛されてはじめて自分の美に目ざめるやうに、最初の女に愛されて
はじめて自分の魅力を知ることも多い。しかし、彼の内面性は、それによつて鼓舞され、あるひはそれによつて
歪められることがあつても、決して彼の外面性と一直線につながらないのである。
かくて、男が鏡を見てゐるとき、何を見てゐるかが明らかになる。すなはちそこに見てゐるものは、彼の顔、
彼の純粋な外面に他ならない。女のやうに、内面から外面へ、さらに、化粧によつて変容した第二の外面へ、
一つながりにつながる複雑なイマジネーションの複合としての顔ではない。彼は髭は剃るが、化粧をする必要はない。
このやう�


318:ノ、純粋な外面としての顔が鏡面に出現し、こちらから見る主体は、純粋自意識として作用するとき、 そこにはじめてナルシシズムが、ナルシスの神話の恋が成立するのである。 三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より



319:名無しさん@社会人
11/03/15 12:09:38.53 .net
鏡はそもそも、客観に奉仕するものなのであらうか? それとも主観に奉仕するものなのであらうか?
世にはさまざまな鏡がある。純粋客観としての鏡は、自意識の鏡であり、男の鏡である。純粋主観としての鏡は、
自意識の欠如した鏡であり、女の鏡である。前者はナルシシズムの鏡であり、後者は、化粧のための、変容の
ための鏡である。
自分の外面が自分であるといふ発見は、まづ一種の社会的発見であつた。そこに映つてゐる像こそ、正しく
自分自身でありながら、自意識とは劃然と分離された純粋存在であるといふ発見が、ナルシスの恋の端緒であつた。
もし鏡像と精神との間に、このやうに隔然たる分離がないならば、鏡像と意識、外面と内面とは一つながりの
ものとなり、そこには容易に妥協が生れ、馴れ合ひが生れ、つひには不自然な化粧が必要となるであらう。
女の友である鏡とはこのやうなものであり、鏡は女にとつては本質的に「油断ならない友」であり、男にとつては、
「敵あるひは恋人」である。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

320:名無しさん@社会人
11/03/15 12:10:54.13 .net
鏡を敵として、一日中その顔を見ずにゐたければ、男にはそれも可能である。朝は、手さぐりで電気髭剃り器で
髭を剃り、鏡を見ずに顔を洗ひ、手さぐりでネクタイを締め、出勤の電車に乗ればよいのだ。
それではさういふ男が男らしい男かといへば、さうとも言ひきれないのである。自分の写真を見るのをきらひ、
鏡を見るのをきらひな男たちには、深いニューロティック(神経症的)な劣等感を持つた人間が多く、又その多くは、
別の知的優越感や社会的優越感で補償されてゐる。そしてこれらの優越感へのどんな些細な批評にも、ヒステリックな
反応を呈する場合が多い。鏡をきらふ男を、バンカラで豪傑肌の男と勘違ひすると、とんでもないまちがひに陥る。
彼らは、ただ、鏡を怖れてゐるのである。
もともと鏡は、純男性的世界の必需品であつた。むかしの海軍兵学校や機関学校には、階段の下に必ず大鏡があつて、
軍装の威儀を正すために用ひられた。ラフなプルオーヴァーのスウェーターをひつかぶるのとちがつて、端正な
軍装の、四角四面な外観を維持するためには、どうしても鏡が必要とされる。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

321:名無しさん@社会人
11/03/15 12:12:10.65 .net
軍人の世界は、男性的外観が厳密に規定され、その外観によつて、内面の自意識を規正し、自意識の暴走を抑圧し、
以て、劃一化され単純化された自意識のエネルギーを、超自我(スーパー・エゴ)に従属せしめる世界である。
従つてそこは男にとつては、自意識の永遠の休暇が約束される世界なのだ。
しかし、外部から軍人の世界へあこがれる少年の心理には、明らかにナルシシズムが含まれてゐたことを、私は
戦時中の経験によつてよく知つてゐる。海軍士官の軍服と短剣にあこがれて、海軍兵学校へ入つた少年は数知れぬ
ほどをり、それによつて戦死した若者は、ナルシスの死を死んだのだつた。(中略)
そしてこの種の少年のナルシシズムは、英雄類型への同一化の傾向を強く持つてをり、ひいては彼自身が英雄と
なるための原動力となる。アレキサンダー大王は、少年時代から叙事詩中のアキレスにあこがれ、アキレスとの
同一化を策して、アレキサンダー大王その人になつたのであるが、彼のナルシシズムは後年まで色濃く残つてゐて、
決して自分の三十歳以上の肖像彫刻は作らせなかつた。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より

322:名無しさん@社会人
11/03/15 12:13:33.56 .net
私はナルシシズムが、決して偏奇な知的一傾向ではなく、おどろくほど普遍的な衝動であることを、ボディ・
ビルディングのジムで学んだ。そこには多くの鏡があるが、鏡の前は�


323:蛯トい混雑してをり首をさし出してネクタイを 結ぶのも容易ではなかつた。(中略)青年たちが、自分の育成した二頭膊筋や大胸筋を鏡に映して、その光り かがやく新しい筋肉に、時の移るのも忘れて見とれてゐるのを見て、私はナルシシズムが、男のもつとも本源的な 衝動であり、今まで社会的羞恥心から隠蔽されてゐたにすぎないのではないか、といふ考へをいよいよ強めた。 ボディ・ビルディングは、いかにもナルシシズムの範例的形態である。その自己完結性にはあらゆる逆説が ひそんでゐて、鏡に映る自分の新しい逞しい筋肉は、自分でありながら純粋な「他者」であり、考へられるかぎりの 純粋な外面であるのと同時に、しかもそれは自分の意志とエネルギーによつて創造したものなのである。 三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より



324:名無しさん@社会人
11/03/15 12:15:05.80 .net
鏡に映るその筋肉ほど、ナルシシズムにとつて、といふのは、男性の自意識にとつて、恰好な対象はあるまい。
しかし、そこには同時に、ナルシシズムの重要な一要素が欠如してゐる。ここには自意識が自意識を喰ひ、鏡が鏡を
蝕むところの、あの不可思議な自己生殖の運動と、それによつて起るナルシスの投身、すなはち自己破壊の衝動が、
ふしぎなほど欠けてゐる。ボディ・ビルダーたちは、大好きな家畜をいたわるやうに自分の逞しい肉体をいたはり、
ヴィタミンやカロリーの摂取に余念がない。男のナルシシズムには、死の衝動へ促す行動性が必要なのである。
そしてこのやうな行動的ナルシシズムは、鏡への投身による鏡の破壊をめざして、拳闘、レスリング、柔道、
剣道等の格技や、自動車レース、モーター・サイクルなどのスピードへ向ふのである。

三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より


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