22/01/28 09:51:25.34 .net
>>267
それは三平の父の七代正蔵が弟子である七代圓蔵を冷遇した結果による報復。
七代正蔵死後、三平は父の元弟子なら自分を悪いようにはするまいとの算段で圓蔵に弟子入りしたが、
どっこい昔の恨みを返されただけだった。
その反省か三平は自身の弟子達を大事にし、落語協会分裂騒動の時にも一門から脱落者を出さず結束の硬さを見せつけた。
人格者云々という説はその辺に由来する。
そのため自身が父親同様早死にした時も、確かに残された息子たちが冷遇されるような事はなかった。
しかし何事も物には程度問題と言うものがある。
こん平は先代三平への恩義を必要以上に感じてしまったせいか、こぶ平、いっ平兄弟を「弟子」ではなく
常に「師匠の遺児」と見て、厳しく指導するのはおろかごく常識的な稽古すら付けられなかった模様。
そもそも稽古場がこん平の家ではなく師匠三平の家、すなわちこぶ平、いっ平の実家と言う時点で常軌を逸しており
まともな修行ができる訳がない。何しろ四六時中先代の未亡人が目を光らせているのだ。
逆にこん平の公私混同で海老名家住み込み修行をする羽目になったたい平こそいい迷惑で、
こちらは6年の間泰助(入門前のいっ平)の宿題やらされるわ腐ったメロン食わされるわ、泰葉のパンツ洗わされるわと、
初代三平もここまではされなかっただろうパワハラセクハラの数々を受け散々な目に遭わされた。