21/03/19 12:33:54.99 .net
先進国では異常犯罪者を周りに分かるように懲らしめると批判を浴びるから
単科精神科病院で表に出して懲らしめたくても懲らしめられない異常犯罪者を周囲に分からないように懲らしめるようにできている
単科精神科病院は異常犯罪者に懲罰を与えるところだから総合病院の精神科に行け
22:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:34:05.61 .net
精神科の看護師なんて視界に投影する医療技術で医師の指示通りに振る舞うだけだから
主治医と相性良ければ看護師全員が優しいのである
医師の指示は絶対でコメディカルは勝手な事はできない
23:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:34:30.38 .net
身体を対象にした制御
実は、これには、近代、特に18世紀の啓蒙の時代になって以降の医学の進歩が深く関係している。
バーバラ・スタフォードが「啓蒙された批評家の仕事は今や数学者のそれと似ていた。
この木立ちに剪定の鋏を入れて、永遠の原理に従って構想された秩序立ち、客観的で機械的な自然にと刈り込むのである。
身体が概念へ、蓋然が公式に変わるこの複雑な変化が完成するには丸一世紀を要した」と『ボディ・クリティシズム』などで論じているとおり、
18世紀を通じて身体はイメージを介して制御の対象となる(数値を用いてより科学的に制御が行われるようになるには、もうすこし待たなくてはならない)。
スタフォードが身体のイメージとその制御の例としてあげるのが、当時有名だった観相学者のラファーターが人の人相をコード化していく例だ。
身体は、要約され、コード化され、図式化されることで監視・制御の対象となっていく。医学の技術が政治的にも利用可能になる。
これが時代が降って19世期に入ると、ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』で論じているように、生理学という人体制御に使える分野も成立しはじめる。
医学がその計測能力を高めたことがアガンベンのいう生政治が可能な基盤を作ったのだといえる。
医学の分野における、こうした発展とともに、政治が身体を通じて剥き出しの生を管理・制御の対象とすることが可能になったのである。
収容所の出現を許すかどうか?
そのことは、アガンベンは本書でも指摘している。
実のところ、国民社会主義帝国は、医学と政治が、一つに統合されるという、近代の生政治の本質的特徴がその完成した形を引き受けはじめる瞬間をしるしづけている。
このことが含意するのは、剥き出しの生に関する主権的決定が厳密に政治的な動機や領域から離れ、
さらに両義的な領域へと移動していく、ということである。この領域では、医師と主権者が入れ替わっているように思われる。
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生/ジョルジョ・アガンベン
URLリンク(archive.is)
24:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:34:54.46 .net
■思想と政治体制について 精神医学と収容所について
立命館大学生存学研究センター 天田 城介
周縁的な人間の監視=矯正へ
「金持ちと貧乏人の断絶」から「民衆と周縁的な人間の断絶」への書き換え。18 世紀における資本主義体制の成立とともに、経済的規律が課
せられ、民衆は労働に従事し、多少なりとも財を蓄積するようになると、非合法的行為を容認できなくなっていくと同時に、精神医学・警察・
司法・刑法体系などが結合した統治システムによって「周縁的な人間の監視=矯正」が遂行されていく。こうして周縁的な人間たちが監獄や
精神病院といった施設へと分離的=差別的に収容されるようになると、かつては歓迎されることさえあった周縁的な人間は民衆と断絶させられ、
また他の下層民とも切り離されていく―プロレタリアートとプロレタリアート化されていない周縁的存在を分け隔てる分断―。そして、
こうした統治システムのもと「周縁的な人間の監視=矯正」が実効されるだけではなく、むしろその圧倒的な効果は、周縁的な人間と切り離さ
れた民衆に対する監視=矯正となって現れてくるのである。したがって、「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」よ
りもむしろ「民衆の保護と監視=矯正」の効果を生み出すのだ。
こうした権力システムのもと民衆は「社会階層」のイデオロギーを発展させた。犯罪者という「周縁的な人間」を切り離し、彼/女らに敵意
・憎悪を向けるようになった。警察による保護さえ求めるようになった。そのことで、民衆は警察から容易に監視されることになった。犯罪者
に対して厳罰を求めるようになった。「人種差別反対をしながらも犯罪者には極めて冷酷な対応をする」(Foucault 1994d=1999: 249)ように
なった。その社会的帰結として、権力はいとも簡単に民衆を統制することになったのだ8)。
25:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:35:15.13 .net
社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。
今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。
近代となって逸脱者への対応はより巧妙になりました。逸脱した者は排除されるのでなく、おもてむき、社会へ回復することになります。
社会は逸脱者を自己のうちに回収することで、逸脱者を無害なものとします。社会は逸脱者を「更生」・「治療」と称しつつ自分の管理下に集めるのです。
社会はもはや逸脱者から脅かされることもなければ、そこから学ぶこともありません。こうして社会にとって危険な逸脱者(犯罪者と精神病患者など)は、
排除されるのではなく、社会の内に、しかしその周辺に集められ、包み込まれて無害なものとされるのです。社会はその外部をみずからの内にとりこんだのです。
刑法は犯罪者をその違法行為においてとらえますが、監獄の技術は囚人をその生活態度においてとらえます。
前者では違法性が問題とされますが、後者ではその非行生が問題とされます。刑法の建前では、監獄は犯罪者を更正させることになっています。
しかし実際には監獄はその特殊な環境によってむしろ「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性を持つ者として社会に循環させているのです。
それゆえ、監獄制度の真の意義は、違法行為を減らし、抑制することではなく、
社会の転覆や不安につながるような犯罪の可能性を「非行性」として管理し安全なものとして閉じ込めることにあるのです。
[それはちょうど、精神病院のありかたに似ています。精神病院はたてまえとしては精神病患者の治療をするためにあります。
しかし患者を閉じ込めることでかえって患者の社会への不適合を生み出してしまいます。
実際には精神病院は、社会不安を引き起こす者たちの閉じ込めと管理をしているというべきでしょう]。
URLリンク(shakaigaku.exblog.jp)
URLリンク(archive.is)
26:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:35:31.17 .net
フーコー権力論における4つの諸相
1.言説編制体を経由した権力の行使:社会の権力行使のタイプ
2.系譜学的アプローチを使った「権力の意味理解」への反省:権力への系譜学的探究
3.権力行使を微視的に観察するミクロロジーという方法:権力行使の分析法
4.身体を規格・規範化を通して「従順な身体」へと構成すること:身体を統治する
「権力というものを、否定と拒否と排除のメカニズムの総体だと考えてはならないことを想起する必要があります。権力は実際に、作りだす力をもつ ものなのです」(フーコー2008[June, 1975]:30)
医療における権力論の研究は、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の、生権力や統治性の 議論が登場して根本的な変化を 遂げました。
それまで、医療について考えられてきた権力像は、患者をコントロールするむき出しの力、患者をモルモットにす る服従を強制する権力というのが定番でした。
今でも、このような権力論の図式にのっかって、「医者は権力を行使するからリベラルでなければならない」
「医 師の権力は神聖」(→医療聖職論)ということを主張する主に高齢者を中心としたお目出度いオールド・リベラストの方々がおられます。
ところが、権力の作用の多様なあり方や、統治性(governmentality)に かんする フーコーの議論に触れたものは、
権力というものは、我々が考えるほど(1)狭い範囲の出来事ではない、(2)容易に統御されるものではない、しかし、かと 言って
(3)人間をがんじがらめにする絶望的なものでもない、という認識に到達しつつあります。
「真理には権力が伴う」「私たちは誰もが、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです」(フーコー2008[June, 1975]
URLリンク(www.cscd.osaka-u.ac.jp)
27:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:36:52.45 .net
>>24
こうした統治システムのもと「周縁的な人間の監視=矯正」が実効されるだけではなく、むしろその圧倒的な効果は、周縁的な人間と切り離さ
れた民衆に対する監視=矯正となって現れてくるのである。したがって、「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」よ
りもむしろ「民衆の保護と監視=矯正」の効果を生み出すのだ。
>>25
社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。
今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。
>>26
「私たちは誰もが、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです」(フーコー2008[June, 1975]
精神科医は患者と関係する人物全員日本のどこに居ても心理を表示でき本人たちに無自覚に脳を操作し人間関係をコントロールすることもできるのである
患者と街中ですれ違っただけの他人の心理を表示するだけではなく脳を操作することもできる
精神科医と相性がよければ家族関係はもちろん良好だし近隣住民との人間関係も良好にできるのである
発達障害の人で何回職場を変えてもなぜか偉い役職の上司にばかり嫌われるなんて言う人がいるがこれは精神科医の仕業だろう
精神科医は人工衛星から日本中の人間の心理を表示し本人達に無自覚に脳を操作できるのである
人間への印象も精神科医は入れ替えることができるのだ
28:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:37:31.36 .net
精神科病院よりも総合病院の精神科のほうが治る見込みが大きい
なぜなら精神科病院から最も遠いところにあるのが総合病院の精神科だからだと精神科医の斉尾武郎の本に記してある
精神科医のkyupinのブログにも単科精神科病院よりも総合病院の精神科のほうが少しだけ治る期待が大きいと記してある
総合病院の精神科を10年以上経験している精神科医がもっとも当たりの先生である確率が高いと
和田秀樹の精神科医は信用できるかという本に記してある
29:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:39:55.10 .net
精神科医が病気を作っているので精神科医の人間性が患者の病気ひいては人生を左右する
名古屋大学医学部精神科のウェブサイトには
「サイエンスとアートの共存を目指して」と書いてある
これは科学技術により患者の心身から人間関係まで何もかも変えることが可能であり
そのため精神科医が精神医学の掟に則って患者の病気を細部までデザインすることをアートと言っているのである
30:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:41:54.06 .net
精神科医が患者の病気を機密医療技術で自由自在にコントロールしているので
当然重い患者が多い病院へ通院していたら自分が重い患者にされる危険性が高いし
軽そうな患者ばかりの病院へ通院していたら自分も軽い患者にされる可能性が高い
メンクリでもここは緊張している患者が多いなとかここは錐体外路症状が出ていてキワモノみたいな患者が多いなとか
ここは健常者のような普通の人しかいないなとか外来を見るだけでもそこの精神科医がどういう精神医療を行っているか分かるのである
31:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:44:18.39 .net
ウェーバー=他者をその意思に反しても行動させる
バクラックとバラッツ=非決定権力。ある争点を議題にのぼらせないようにする。
ルークス=三次元的権力。本人に意識させないまま認識や思考を形成する。
フーコー=監獄の誕生。権力作用を受ける者が自ら規律。
32:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:44:36.86 .net
フーコーの晩年
晩年のフーコーは、どの著作においても、西洋社会で「生の権力」という新しい権力、
つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することも想像することもできないような管理システムが発展しつつあることを示そうとした。
従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であった。
これに対して、この新しい「生の権力」は、抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。
たとえば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家という形態をとって出現する。
フーコーは、個人の倫理を発展させることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するよう呼びかけた。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
33:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:47:32.23 .net
精神科医に転院を申し出ると渋ったり中には怒り出す先生もいるだろう
何かしらの理由をつけて転院させないようにしたりする先生も多い
なぜ転院を精神科医は嫌がるのか?
主治医が変わってしまったらその患者の病気をコントロールする権限を失うからである
転院すれば新しい先生がその患者の病気をコントロールすることになるので
当然精神症状も薬の副作用の出方も変わってしまうし病気の予後も変わる
なので転院の話になると態度が豹変する精神科医が多いのである
34:没個性化されたレス↓
21/03/19 12:47:44.35 .net
精神科の薬を抜く上で最も重要なポイントはどの精神科医が主治医のときに薬を抜くかである
相性の悪い精神科医や相性の悪い病院で薬を抜こうとしても精神科医は再発させるだろう
相性の良い精神科医が主治医だとあっさり薬を抜けてしまったりするものである
35:没個性化されたレス↓
21/03/19 13:36:05.17 .net
医師・古川優樹を児童買春で逮捕
スレリンク(hosp板)
女児(5)に猥褻した容疑で医師、服部浩平を逮捕
スレリンク(doctor板)
風俗で働いていたことを隠している医師、牧野景子
スレリンク(psycho板)
風俗で働いていたのを隠している女医師 浅野美穂子
スレリンク(oversea板)
愛知県精神医療センター勤務の幼女レイプ医師高木宏
スレリンク(rongo板)
36:没個性化されたレス↓
21/03/27 18:32:42.22 .net
なぜ総合病院の精神科がいいのか?
単科精神科病院は逸脱者を精神病の症状で懲らしめて患者を悩ませる事に特化した精神科医の集まっている病院だから
患者にデタラメな精神症状や社会的構成を付加する精神科医がいても他の精神科医はスルーすることが多い
ところが総合病院の精神科は精神科医より立場が上の一般科の医師が沢山いて院長も一般科の医師である
一般科の医師の目があるので精神科医は患者をデタラメな精神症状にしたりできない
そのため断薬も総合病院の精神科の方が成功する確率は上がるだろう
断薬した後にどういう精神状態にするか断薬成功させてあげるかも主治医が決定しているからだ
37:没個性化されたレス↓
21/03/27 19:10:09.84 .net
Wikipediaに総合病院精神医学とリエゾン精神医学と心身医学は似ていると記してある
この3つは一般の患者が思う本当の意味で治すためにある精神医学に近いと言える
これらの医学は表に出して懲らしめたくても懲らしめられない逸脱者を
周囲に分からないように懲らしめることに特化した単科精神科病院とは根本的に違うのだろう
URLリンク(ja.wikipedia.org)
38:没個性化されたレス↓
21/04/03 11:26:27.34 .net
俺はタリウム殺人事件の犯人も精神鑑定した国立病院機構東尾張病院で院長回診を受けてから
精神科医が病気をコントロールしている=精神科医の人間性が大事=主治医との相性が大事ともう7年間知っている
学閥の違う名市大病院へ行っても精神科医が病気をコントロールしていると知り続けている
牧野景子が論外な精神状態にしたのは絶対に覚えているからな
いつか天罰が下ると覚悟しておけよ
39:没個性化されたレス↓
21/04/04 21:11:39.89 .net
医師には応召義務が法律で定められているのに
18歳以下しか診ないとかヤブ医者丸出しでワロタ
40:没個性化されたレス↓
21/04/13 18:42:39.73 .net
誹謗中傷では?
41:没個性化されたレス↓
21/04/18 20:21:34.31 .net
URLリンク(arch-crest.com)