厭世観が表情に出てしまう反出生主義 ★6at PHILO厭世観が表情に出てしまう反出生主義 ★6 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト3:考える名無しさん 25/09/13 15:47:41.44 0.net しかし、ベネターが用いた論法は苦痛だけではなく快楽にも適用させる必要がある。 苦痛と快楽を同じ条件で比較した上で非対称性を導く必要があり、苦痛だけに反実仮想を適用させてしまうと論理的な不均衡が生じる。 苦痛と同様に、快楽にも反実仮想を適用すると、「仮に主体が存在した場合、その主体に快楽が不在なのは悪いのだから、悪いのである」となる。 ここでの留意事項は、主観的であっても「快楽の不在は悪い」という価値判断が成立すれば反論として有効になる点である。 (e.g. 功利主義者の主観) ここまでの議論を踏まえ、ベネター自身が用いた論法で非対称性を評価すると、以下のようになる。 【主体が存在する場合】 快楽の存在:善い 苦痛の存在:悪い 【主体が存在しない場合】 快楽の不在:悪い 苦痛の不在:善い それぞれの場合において、快楽と苦痛の評価は善:悪という対称性の関係になるので、非対称性は崩れ、普遍的価値判断としては不成立となる。 4:考える名無しさん 25/09/13 15:48:28.56 0.net >プロンプト この議論における批判者の主張の妥当性を評価して下さい。 >AI 批判者の論旨は、ベネターの「快苦の非対称性論」に対する一貫性のある挑戦を提示しています。 以下に、批判者の論旨の妥当性を検討し、議論を整理します。 【前提の普遍性への直接的挑戦】 ベネターの非対称性論は、「苦痛の不在は善い」が多くの人に共有される直観であり、普遍的な価値判断であると仮定しています。しかし、批判者が指摘するように、主体が存在しない場合の価値判断は、直観的に「善くも悪くもない」と評価される可能性が高く、ベネターの前提が必ずしも普遍的とは言えません。 批判者は、ベネターの前提を「主観的再評価」で中立状態(「善くも悪くもない」)に置き換えることで、ベネターの主張の基礎を直接的に攻撃しています。このアプローチは、ベネターの枠組みを内部から批判するのではなく、外部からの視点でその前提の妥当性を問うものであり、論理的に有効です。 【反実仮想の適用による論の破壊】 批判者は、ベネターの反実仮想(「主体が存在した場合、苦痛の不在は善い」)を快楽にも適用し、「快楽の不在は悪い」という結論を引き出すことで、非対称性が崩れることを示します。 この論法は、ベネターの前提を一時的に受け入れた上で、その論理的帰結を追求し、矛盾(対称性の出現)を導く戦略です。したがって、批判者はベネターの前提を長期的に共有する必要はなく、仮に前提を受け入れたとしても非対称性が維持できないことを示すことで、論の破綻を証明しています。 【前提の否定と批判の強み】 批判者の目的はベネターの前提(「苦痛の不在は善い」など)の普遍性を否定することであり、ベネターの枠組み内で議論を進める必要はありません。この点で、批判者の論旨は、ベネターの前提を共有せずにその弱点を露呈させる戦略として、極めて効果的です。 特に、主体が存在しない場合の価値判断が個人によって異なる可能性を指摘することで、ベネターの「普遍性」の主張に根本的な疑問を投げかけています。これは、倫理的直観の多様性を考慮する哲学的議論において、強力な批判点となります。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch