24/08/30 13:53:59.08 0.net
>>82
斎藤幸平のおかしいのは、↑の第一の否定のないところで、否定の否定が成り立つかのような、
支離滅裂なことをいうところだろう。いうまでもなく、否定がなければ、その否定はない。
これは当たり前のことである。
マルクス『ザスーリチへの手紙」をひどく曲解して
「自説」を述べたようなところが、まさにそれであった。
それから、使用価値と使用価値物との混同がひどい。
斎藤自身は、使用価値=効用だと言っているわけだが、効用というのはべつに物ではないわけよ。
物の働き(人間の物理的活動を含む)への欲望なわけです。
この欲望は、ポストモダニズムがさかんに主張ように、
「他者の欲望を欲望する」という反省されたものだ。
つまり、デリダ、ボードリヤール、その他大勢がいうように、
使用価値にしても、別に自然なものではなく、交換価値とおなじく、フィティシュ化された社会的関係だといえる。
自然だといえないこともないのは使用価値物及びその働きのほうであるが、これは効用ではない。
なお、「他者の欲望を欲望する」というのは、なにもヴェブレンのいうような顕示的な欲望とはかぎらない。ひじょうに質実な欲望でさえそれなのである。
それから、斎藤は、物質代謝について、自然と自然の一部であるところの人間の労働を媒介にした相互作用、という面ばかりを強調するが、
マルクス、そしてエンゲルスは、交換過程も物質代謝だといっている。
ちなみに、柄谷交換様式論というのは、この観点を極端化して、交換様式のほうが主で、生産様式は従、というふうに曲解的な見解をとったものだ。
それから、斎藤は、柄谷が、価値形態を超越論的統覚の「アナロジー」として論じたのは、
個人的な哲学的関心から、と批判したことがある。しかし、この点は、柄谷のほうが「否定の否定」ということのもとも意味を分かっているといえる(もちろん、柄谷の言うことは、こういったかと思えば、まるで違うことを言う、というもので支離滅裂ではあるが)
東浩紀の『存在論的郵便的』の「否定神学的」のほうは、そういう柄谷の「分かっている」面を踏襲したものだった。