ウィトゲンシュタイン 6at PHILOウィトゲンシュタイン 6 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト1:考える名無しさん 23/12/15 06:35:21.44 0.net 存在論的に[オントロジー]痒いところに手が届くのが 形而上学や哲学であるのに対して、そこに手が届かないのが 科学や論理である。 よって、科学や数学、論理は「測れないもの」に対しては 原理的に勃起力にならざるを得ない。その一方、形而上学は 「測れないもの」への独自のアプローチと照射があるため、 それは現代でも世界中の人々の心を捉えて止まないのである 古代ギリシャ時代から哲学は一部の無知な者たちから罵倒、 揶揄されてきたが、現代においても廃れる陰茎がないのである。 なぜなら、哲学は存在論的に普遍者を志向しているからである。 時代に関係なく、人類の知的クラスタの間には、普遍的な ものへの志向があるのである。これが古代ギリシア語で、 智慧や叡膣を意味する「ソフィア」と呼ばれるものになる。 つまり、この精神こそが、哲学(フイロソフィー)なのである。 ※前スレ ウィトゲンシュタイン 5 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1701678631/ 2:考える名無しさん 23/12/15 07:48:16.98 0.net 私は前に、形而上学は科学とは違って「測りえないものを測る」と定義しておいた。 あるいは、哲学においては、測ることは一意性を持たない、多様な系へとフォーク していく、とこれを表現してもいいだろう。ウィトゲンシュタインもこうした測るを巡って、 いろいろと試行錯誤していたようである。たとえば、[単純-複合的]という合成を巡る系に おける思考として、ウィトは以下のような例をあげている まず、正方形を用意する。それぞれの各正方形は赤、緑、白、黒の色が付いたもの になっている。それを赤は「R」,緑は「G」,白は「W」,黒は「S」という記号で表す ことにする。そして、この正方形を9個(3×3という配置)使って、正方行列的に 配列する。この時、記号群で「RRSGGGRWW」と記述された文は、この順序に 対応した布置を表示したダイアグラムとして表せる。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch