23/07/15 15:54:19.10 0.net
自殺とは、人生は「苦労するまでもない」というひとつの告白です。
生きるために世の中から要求される様々な行為、生存に不可欠というよりは社会的な習慣といえるそれら行為の虚しさを、認めたということになります。
時に生物としての生存に必要な睡眠すら奪ってしまう、この虚しさの感覚とは、祖国を奪われた「異邦人」の意識であり、親しみの世界とは反対の宇宙の暗闇に放り出されたような孤絶の感覚です。
これがまさに「不条理」の感覚です。
3:考える名無しさん
23/07/15 15:56:31.08 0.net
そもそも本質的な問題は、生存の不条理性が、希望をもつことや自殺することによって、人をその絶望から逃避することを導くのかということです。
いわば不条理は死を命ずるのか、ということです。
それは自殺にいたるまでの一貫した論理は存在するかという問いでもあり、それを私は「不条理の論証」と名付けます。
多くの思想家も不条理までたどり着きはしますが、それを前にしてすぐさま脱出を試み、最も貴重なものを放棄してしまいました。
真に重要なことは、この不条理の中に可能な限り踏みとどまり、この奇怪な化け物を明晰な観察によって描き出すことです。
4:考える名無しさん
23/07/15 15:58:43.74 0.net
何気なく流れる日々の中で、ある時ふいに「なぜ」という人生に対する問いが浮かんでくると共に、日常生活という舞台装置が崩壊し、ある意識の目覚めが起こります。
その不条理の気付きに続く行動がどうあるのか、習慣的な動作の繰り返しである日常生活への回帰なのか、それとも実存への決定的な目覚めなのか。
そしてそれが目覚めなのであれば、それは自己再建か自殺かのどちらへ決着するのか。
日常の生の倦怠とは、不条理の問題を自覚する前触れ、何かがおかしいと感じるための兆候なのです。
5:考える名無しさん
23/07/15 15:59:50.15 0.net
日常的な人間は、時間(未来)を頼りにしながら生きています。
「明日があるさ」「いずれ分かるさ」などとと言い、明日という希望を臨みながら、今をやりくりしています。
しかし、ある日、自分の年齢を反省的に見る年になると、もう若くないと、自分の人生の時間の放物線における自分の位置を確認し、それを怖れ、時間は敵となり対峙してきます。
時間に支えられていた私は、今度は私の方で時間を支えなければならなくなります。
6:考える名無しさん
23/07/15 16:01:13.29 0.net
次いで、外部世界というものがいかによそよそしく、自分の世界のものとして拾い上げるには、不可能なほどぶ厚いものだということに気付きます。
慣れ親しんだ風景は、私に着せられていた意味のヴェールを脱ぎ、のっぺりとしたよそよそしい非人間的なものとして横たわります。
他者の動作は意味を失った機械仕掛けの人形の動きようで、なにゆえにその他者は生きているのかが分からなくなります。
この世界の生(なま)の姿に感じるめまいと、嘔吐感(サルトル)。
世界は世界自体へと戻ってしまい、私の想像によってこしらえた秩序世界である楽園(現実生活)は失われます。
残るものは不条理な世界の厚み(深淵)と奇怪さ、そしてそこにぽつねんと残される異邦人としての私だけです。
7:考える名無しさん
23/07/15 16:03:05.07 0.net
世間の人々が死に対し、知らないふりして生きているのは、そもそも「死」という経験が存在しないからです。
死ぬ瞬間に人の意識はなくなるので、死は決して経験できないものであり、せいぜい他人の死についての経験を考えることができるだけです。
しかし、それは哲学的観念としての死であり、死の代用品に過ぎず、本物だと思わせる力はありません。
人を撃つ死の恐怖は、死の数学的側面(いわばカウントダウンの恐怖)からきます。
魂についての美しい論証にも、この現実が反証します。
この死という予測不能だが確実にやってくる宿命の破滅的な側面が、人間に虚無感をもたらします。
そしてこれこそが、不条理という感情の本質的な構成要素となっています。
8:考える名無しさん
23/07/15 16:07:33.77 0.net
人は「人間は死すべき存在である」という、本当に感得すれば人生をひっくり返すような観念を持ちながらも、それを知らぬふりして生きています。
それは人間の精神構造にある種のズレと乖離があるからです。
人は、「知っているつもりのもの(明知の姿をした無知)」と「実際的に本当は知っているもの(無知の姿をした明知)」を同時に持っています。
精神が実際に動きもせず机上で思い描く不動の世界では、一者が世界を統合しますが、いったん精神が少しでも現実の中で動き出すと、その知っているつもりの平安な世界はひび割れ崩れ落ち、リアルな世界が露呈します。
9:考える名無しさん
23/07/15 16:11:15.55 0.net
草のにおいや樹の幹の荒い肌触り、夕日の光をしみじみと感じる時、世界は否定しようがないほどその存在を主張します。
しかし、この世界の確実性を、その世界を私が本当に所有しているかの確実性を、確信しようとして自分と向き合った時、すべては不確実性と懐疑の波にさらわれていきます。
また、世界を統一性と確実性によって所有しようとする科学の営みは、単なる仮説の更新として(クーンおよびポパーの項を参照)、万華鏡のように刻々と変化していきます。
世界を原子の比喩に還元する壮大な詩作の中で、人は世界を「知っているつもり」になるのです。
自然科学の諸法則もある限界までは有効ですが、その限界点を越えると、ぐるりと反転し、その法則自体に対立し、不条理を生じさせます。
10:考える名無しさん
23/07/15 16:12:15.11 0.net
そんなものより、いま私が手にもつコップの冷たさの方が、より世界について多くを教えてくれます(現象学の項を参照)。
だからといって、世界のすべてを手で撫でまわって(現象の総和)も、世界についてより一層理解できるわけではありません。
結局、人は「確実ではあるが何も教えてくれない叙述(実体験)」と、「何かを教えてくれると称しながらそれ自体少しも確実ではない仮説(科学)」との間にはさまれて、世界(の確実性)からも断絶されます。
人間は自己とも世界とも断絶した「異邦人」なのです。
11:考える名無しさん
23/07/15 16:14:04.94 0.net
そんな人間が平和を得るためには、知ることと生きることを拒否するしかない状態に陥ります。
統一や帰郷への本能的な欲求を持ちながらも、絶対に破れない壁の前に跳ね返されます。
希望を持った瞬間、絶望が同時に出現するよう運命付けられ、人は無関心や諦めや心の麻酔による毒のこもった平和(ニーチェの批判する消極的ニヒリズム、宗教や観念論など)を求めるようになるのです。
12:考える名無しさん
23/07/16 16:02:14.68 0.net
ちょっと長くて読めんけどとりま俺らは身体を所有してるわけではないから、不可処分性であるが故魂と身体の分離がない以上自殺したら終わりでなだけわかるわ
13:考える名無しさん
23/07/16 16:57:19.30 0.net
鬱の経験があるとまた違うだろうか
俺は死にたくなくなった、それは「絶対に生きる」のような覚悟ではなく、単に ふー、生きていようかあ という風呂上がりのような境地だ
14:考える名無しさん
23/07/16 19:23:16.39 0.net
「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえ
ば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存していないからである。そこで、死は、
生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他
方、死んだものはもはや存しないからである。
。」
エピクロス『メノイケウス宛の手紙』より
15:考える名無しさん
23/07/16 20:36:54.43 0.net
もし「我」が存在しなかったら、全ての問題は解決する。
というか問題は存在しなくなる。
そして「我」の存在は確かでないことも知っている。
16:考える名無しさん
23/08/14 13:15:49.90 0.net
機械論では人間は超高性能な内界を持つ機械です
故に死んでも(壊れても)また超高性能な機械に転生できます
17:考える名無しさん
23/08/18 03:08:18.23 0.net
いまこの瞬間という時は、生まれて初めて経験するものだ。
そして、すべての人間は、生まれてから死ぬまで、ずっと
「初めての経験」をし続けながら生きているのだ。
同じ経験は2つとない。似ていることはあっても同じではない。
18:考える名無しさん
23/09/11 12:14:02.50 0.net
82歳の老人・宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』 見る者にもっとも必要な「覚悟」とは何か(堀井憲一郎) URLリンク(news.yahoo.co.jp)