23/06/21 07:21:01.96 0.net
ドゥルーズに対するデリダ的脱構築のような博士論文を終えてから、僕が向かったのは、「思弁的実在論」という、人間の言語的認識の外部にただそれ自体としての実在があるということを主張する新思潮だった。ただ、僕はそのときに、言語相対的な認識を乗り越えたかったのかというと、おそらくそうでもない。言語によって無色透明に真理を提示することなどできないというデリダ的な他者の倫理の延長線上に、思弁的実在論が主題とするところの物質的あるいは非人間的な外部の問題を位置づけている。他者論という枠組みの更新である。
言語相対的ではなく、ただそれ自体としてある実在的世界が、しかし唯一必然的に定まったものなのではなく、それ自体偶然的にいくらでも変化し得る、というメイヤスーの主張は、言語相対的レベルよりもさらに過激化した相対主義だと言える、というのを僕は『現代思想入門』で書いた。その意味で、メイヤスーの思想は正しくフランス現代思想なのである。より徹底的に他者性ないし外部性を考えようとしたときに、メイヤスーは世界の根源的な偶然性に逢着した。そこから僕は九鬼周造の先駆性にも興味を持つことになった。
偶然的にありうる無数の宇宙のバリエーションにおけるひとつの有限化がこの世界である。それは、無数に可能な語の組み合わせのなかでのひとつの有限化がこの文章である、ということに似ている。ChatGPT的なガラガラポンにも似ている。
僕は特定の論点についてひとつの真理を導き出そうとする哲学研究をしてきたわけではない。だが、あえてひとつの真理という言い方を保持するのであれば、書くということの真理、人間はなぜ書くのかということの真理を求めてきたとは言えるだろう。だがそれは、書くことにおいては非真理との関わりが問題になる、という暫定的イデーを念頭に置きながらのことだった。