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子供の頃、夏はこんなに暑かっただろうか。そのことだけに今は留めたいのである。両親が育った頃に比べ、子の時代には暑くなったとすでに言われていた。そうだとしても、あの頃、ビニールプールをベランダに置いて、水鉄砲で遊んだのはそれほどの炎天下ではなかったと思う。
僕は夏が好きだ。そう言って思い浮かぶのは、生まれ育った家の南の方、線路を渡った向こう側の地域にある、そこへ行くのは遠出だと子供には感じられる距離にある公営プールであり、そして、その帰りに寄った駄菓子屋である。三人くらいでそこでスポーツドリンクを飲んだ。ゲーム機があった。たぶん木陰で、涼しかった。冷房で冷やされた店内の空気が外へと漏れ出してくる、その範囲に立っていたからだろうか。あるいは冷房などなくて、それでも十分涼しかったのだろうか。
この数年、夏がしんどいと感じる。夏が暑くなかったのは客観的にそうで、それに加えて僕は中年になり、体力が落ちたと思う。だから、体の外と内の両面から夏がしんどくなっているわけだ。
気候変動に対しどういう想像力を持って臨むべきなのか、僕にはまだわからない。変化はずっと前から始まっていたにしても、僕の子供の頃は、まだ「戦後」と呼ばれた時代の夏だったと思うし、その記憶を持つこの身体が、今、変化を感じているというこの「感じ」を、ひとまずは大切にしたいと思うのだ。
人の世も変わり、災害もあった。疫病もある。地球まで変わっていく。何を基準とすればいいのか。ただ、そう感じ考えている視点、つまり精神だけが時代を超えている。それはデカルトにおけるコギト、「我考える」である。地球まで変わっていくときに、なお存在する定点は、涼やかに観察する精神である。