意味の論理構造の哲学at PHILO
意味の論理構造の哲学 - 暇つぶし2ch676:考える名無しさん
22/06/10 10:33:10.42 0.net
誤:支払ひつづけている自負しているとしても
正:支払ひつづけていると自負しているとしても

677:考える名無しさん
22/06/10 10:44:42.88 0.net
この罰ゲームに自発的に参加すると、最も重要なのは、理屈などではなく、
既に与えられているものとして機能している人脈と、承認/評価する
権限を付与されている個人にとっての自分の有用性を示すことが
できる具体的な人脈づくりであることになる。

678:考える名無しさん
22/06/10 11:09:36.20 0.net
>»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係を想定
「ちか(近)し」、「ちぢ(縮)む」の場合の「ち」はどうだろうか。
「ちか(近)し」は、ドイツ語をメタ言語として利用して記述するなら(翻訳ではなく)、
»ins Enge zu bringen lassend«という表現として解釈できるのではないか。
また、「ちぢ(縮)む」の「ちぢ」は、「ち」≒»ins Enge zu bringen«の
反復であり、日本語において同一の発音の反復は、「見す・見す」のように
一般に「継続性」を表現するための手法であり、「む」は、「累加性」を示す
ように用いられるのだから、「ちぢ(縮)む」という表現は、
「ち」≒»ins Enge zu bringen«の作用が継続的に累加することを表現して
いると解釈できるのではないか。

679:考える名無しさん
22/06/10 11:22:11.24 0.net
岩波古語辞典から「ちか(近)し」の項目で列挙される例文を抜粋してみよう。
①「妹が家路近くありせば」(万三六三五)
②「君に別れむ日近くなりぬ」(万四二四七)
③「山川を中に隔(へな)りて遠くとも心を近く思はせ吾妹」(万二七六四)
④「これなむその人のちかきゆかりなるを」(源氏 夢浮橋)
⑤「卯の花の垣根近う覚えて」(枕二二二)
⑥「中将なりける人の...七十近き親二人を持たるに」(枕二四四)

680:考える名無しさん
22/06/10 11:40:38.65 0.net
私が、日本語の表現をその構成において解釈可能となる記述するのに
英語、フランス語、ドイツ語などの日本語以外の言語をメタ言語と
して活用するのは、別にそれらの言語の方が哲学的な言語として
優れているからというわけではない。いずれの言語における表現
であれ、その言語の境界として規定される範囲内の表現をメタ言語
として用いて適切に記述することは、本来的に困難なのである。
Auch meinem Freunde Behrisch hatte ich manchmal zugesetzt,
er solle mir deutlich machen, was Erfahrung sei? Weil er aber
voller Torheiten steckte, so vertröstete er mich von einem Tage
zum andern und eröffnete mir zuletzt, nach großen Vorbereitungen:
die wahre Erfahrung sei ganz eigentlich, wenn man erfahre, wie ein Erfahrner die Erfahrung erfahrend erfahren müsse. Wenn wir ihn
nun hierüber äußerst ausschalten und zur Rede setzten,
so versicherte er, hinter diesen Worten stecke ein großes Geheimnis,
das wir alsdann erst begreifen würden, wenn wir erfahren hätten,
– und immer so weiter: denn es kostete ihm nichts,
viertelstundenlang so fortzusprechen; da denn das Erfahren immer
erfahrner und zuletzt zur wahrhaften Erfahrung werden würde.
Wollten wir über solche Possen verzweifeln, so beteuerte er,
daß er diese Art, sich deutlich und eindrücklich zu machen,
von den neusten und größten Schriftstellern gelernt, welche uns
aufmerksam gemacht, wie man eine ruhige Ruhe ruhen und wie die
Stille im Stillen immer stiller werden könnte.
Johann Wolfgang von Goethe, "Dichtung und Wahrheit"

681:考える名無しさん
22/06/11 08:53:20.08 0.net
>「湿(しほ)る」という表現に関連付けるなら、重要なのは、《s'infiltrant》
と表裏の関係において「自ずと生じる"absorption(吸収)"」の作用である。
ここで私が、別に何か私という個人に特有の感性による特殊な関係性の
捉え方を示そうとしているわけではないことは、例えば、湿気や臭いを
吸い取るように使はれる「備長炭」がどのような働きをしているのかを
考えてみれば、容易にイメージすることができるはずである。また、
そのような捉え方が、それを表現する発音との関係を含めて、別に
日本語に特有というわけでもないことは、「しほり」という表現が、
英語をメタ言語として利用するなら、「自ずと生じる"seep in"
(し(沁/染/凍/浸/滲)みる)の作用」の名詞化に過ぎないことからも
確認できる。

682:考える名無しさん
22/06/11 09:53:49.89 0.net
>閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
松尾芭蕉、『奥の細道』
Stillness – ah! / seeps into rocks / cicada's voice
(translation in Hiraga and Ross 2013, 26)
Such Stillness … The Cries of the cicadas / Sink into the rocks.
(Donald Keene)
"So still: into rocks it pierces̶ the locust-shrill"
(Harold Henderson)
The utter silence … cutting through the very stone / a cicada's rasp
(by Tim Chilcott)
the stillness … the voice of a cicada / seeping into the crags
(L.P. Lovee)
Ah, tranquility! / Penetrating the very rock, / a cicada's voice.
(Helen Craig Mccullough)
※順不同

683:考える名無しさん
22/06/11 10:24:39.27 0.net
これらは、一番上に引用した芭蕉の句の英訳を適当に拾ってきて並べた
だけで、特に何らかの基準に沿って選別して貼り付けているわけではない。
見比べてみると、他の訳と比べて、最初の"Stillness – ah! ..."はなるべく
直訳を心がけていることを見てとることができる。しかし、「声(こゑ)」
という表現に"voice"を「素直に」割り当てていることにはあまり感心
しない。「声(こゑ)」が、一般に、発音や発声による何らかの表明である
と理解されることを前提にしても、「蝉の声」が直ちに人々に想起させる
のは、それが何らかの表明であることよりも、聴き慣れた具体的な
何らかの種類の「蝉の声」である。他の多くの訳において、「しみ入る」
に、"sink into"、"pierces"、"cutting through"、"penetrating"などの
表現が当てられ、英語の表現上の慣習が優先されて、元の日本語の表現
の意味合いがまったく伝わらなくなってしまっているのに対して、
それを忠実に反映させるように"seeps into"と訳されていることは、
私にはとても好ましく感じられる。

684:考える名無しさん
22/06/11 10:41:03.65 0.net
私は、自分にとって「詩的」であると感じられる表現をとても好ましく感じるが、
それは、私が表現を反省的にメタ言語によって捉えることの助けとなるから
であって、自分で詩作をするわけでも、特に「詩の形式」で書かれたものを
好んで読むわけではない。むしろ、私にとても「詩的」であると強く感じ
られるのは、多くの場合、「散文の形式」で書かれたものであって、例えば、
私は、ペソアの散文の表現は興味深いと感じるが、その詩の表現にはあまり
関心がない。ニーチェ、プルースト、フローベールなどの著作において
私を惹きつけるのは、やはり散文において「詩的」であると感じられる表現
であって、詩人の表現に私が関心をもつのも、それが散文に応用できる場合
に限られる。

685:考える名無しさん
22/06/11 10:48:34.04 0.net
したがって、私は、引用した芭蕉の句をどのように英訳するのが適切である
かを自分で考えてみたとしても、その訳が「(英語の)詩の形式」において
優れたものとなるかどうかには関心がない。これは、私の関心の持ち方で
あって、他の誰かが、芭蕉の句に触発されて、それに対応させるような
形で優れた英語の詩を書こうとする取り組みの価値を否定しようとして
言っているわけではない。以上のことを踏まえたうえで、私が、英語を
メタ言語として利用するなら、この芭蕉の句をどのように理解するのか
を示してみることにしよう。

686:考える名無しさん
22/06/11 11:13:07.00 0.net
まず最初に「閑(しずか)さや」であるが、「や」が何らかの心の動きを
示す感嘆の声であることは間違いなく、貼り付けた英訳でも、
"the stillness …"として、それが「余白として」示されている事例を
以外では、それぞれ、"Stillness – ah!"、"Such Stillness …"、"So still:"、
"The utter silence …"、"Ah, tranquility!"としてそのことが明示されて
いる。それでも、私自身は、「閑(しずか)さや」という表現について、
そのような「読み方」はしない。私はこの句を詠んだ本人ではないので、
その「閑(しずか)さ」によって本人にどのような心の動きが生じたので
あれ、感嘆の声である「や」も、私には、それがどのような心の動きで
あるのかを探る必要があることを示す「問ひ」として作用するに過ぎない。
したがって、この時点ではまだ、私自身には、「閑(しずか)さ」によって
どのような心の動きが伝はることになるのか、判断を保留する他ない。

687:考える名無しさん
22/06/11 11:41:57.72 0.net
次に、「岩にしみ入る」であるが、「しみ入る」という日本語の表現の
意味合ひをそのまま反映させて、それを、引用した事例にも見られるとおり、
"seeps into"や"seeping into"と訳すことが私に好ましく感じられることは、
上に述べたとおりである。Donald Keeneの"Sink into"という表現は、
日本語としては「しず(沈/静/鎮)む」に対応する表現であり、もとの
表現が、"Stillness"/「閑(しずか)さ」に単刀直入に合致するものに
変えられてしまっているので、「しみ入る」によって想起される
イメージを削ぎ落してしまうことになる。それ以外の事例に見られる
"pierces"、"cutting through"、"penetrating"という表現は、日本語
「岩(いは)」の場合でもそうであるように"rock"や"stone"という硬い
物体には、「つらぬ(貫)く」、「き(切)る」、「つ(突)きぬ(貫)く」
というような仕方でしかその内部に入り込むことができないという
常識的なイメージに合わせることを前提としているので、「しみ入る」
によって想起されるイメージを「台無し」にしてしまっていると言える。

688:考える名無しさん
22/06/11 12:04:24.51 0.net
また、L.P. Loveeによる"seeping into the crags"という訳は、「しみ入る」
については日本語の表現に忠実でありながら、(英語においてあまり無理が
感じられないようにするためだろう、)「岩(いは)」を"rock"や"stone"と
訳すことを避けて、"crag"という表現を用いているが、"crag"を辞書で
調べてみると、
>a steep, rugged rock; rough, broken, projecting rock, especially
a sea-cliff," early 14c. < Online Etymology Dictionary
>1. a steep rugged rock or cliff,
2. archaic : a sharp detached fragment of rock< Merriam-Webster
ということで、「岩(いは)」というより「崖」のイメージで、これなら
「入り込む隙間」はいくらでもありそうなので、全体として訳を見れば、
妥協の産物であるように感じられる。

689:考える名無しさん
22/06/11 13:39:44.50 0.net
「岩(いは)」は、"stone"と訳すことも、"rock"と訳することもできるが、
「蝉の声」が「しみ入る」のは、あくまでもその"stone/rock"の内部で
あって、「断崖」のような石や岩が層状に集積しているところに
「しみ入る」わけではないので、「岩(いは)」を単数の"the stone/rock"
とするか、"the stones/rocks"とするかは、それほど大きな問題である
とは私には思えない。ただし、"the stones/rocks"とすれば、明確に
複数性が意識されるので、「岩(いは)」/"stone/rock"に「しみ入る」
作用のイメージも複数に分散されたものとなり、そのことが私には
好ましくないと感じられる。

690:考える名無しさん
22/06/11 13:59:37.54 0.net
最後に「蝉の声(こゑ)」であるが、引用した事例では、それぞれ、
"cicada's voice"、"The Cries of the cicadas"、"the locust-shrill"、
"a cicada's rasp"、"the voice of a cicada"、"a cicada's voice"
と訳されていて、「声(こゑ)」に対する訳語としては、"voice"が
最も多く見られる。しかし、既に述べたとおり、ここにおいて
「蝉の声(こゑ)」が想起させるのは、「岩にしみ入る」効果を感じ
させる「声(こゑ)」の具体的な性質であって、一般に、何らかの
意を表明するものとして理解される「声(こゑ)」/"voice"ではない。
また、英語の"voice"という表現は、私には呼びかけとしての日本語の
「を」の発声を想起させるものであり、「『蝉』が『を!』と呼び
かける」イメージは、私には著しく奇異で不適合なものに感じられる。

691:考える名無しさん
22/06/11 14:19:50.44 0.net
"The Cries"は、一般的には、日本語の「叫び」として理解され、語源的には、
フランス語の"crier"の用法に見ることができるとおり、「きしみ」などの
音も表現するが、この場合に適合しているとは思えない。"the locust-shrill"
については、昆虫そのものを変えてしまっていることが論外だが、"shrill"
は、「金切り声」と訳されることもあるように、この英訳では、"岩"を
「つらぬ(貫)く」ような鋭さがイメージされているのだろう。訳として
適合するものではないが、「蝉の声(こゑ)」をどのようにイメージすべき
かを考えるヒントにはなる。"rasp"は、やすりをかけるときの摩擦音など
表すのに用いられる表現であり、「『岩にしみ入る』効果を感じさせる」
こととは無関係に、一般的に「蝉の声(こゑ)」のイメージを伝えるのに
かなりよく合っていると言うことはできるだろう。ただし、「やすりを
かけるときの摩擦音」にある程度は近いと言うことができても、
そのような「声(こゑ)」が、どのようにして「『岩にしみ入る』効果を
感じさせる」のかを考える必要がある。

692:考える名無しさん
22/06/11 14:33:08.03 0.net
この芭蕉の句をWikipediaで参照すると、鳴いていた「蝉」が「アブラゼミ」
であったのか、「ニイニイゼミ」であったのかが論争の対象とされたことが
記載されている。確かに蝉の鳴き声は、種類ごとに特徴があり、異なるので、
「蝉の声(こゑ)」の蝉がどの種類であったのかを考えることには意味がある
だろう。それでも、この句において表現として重要なのは、その「声(こゑ)」
が「『岩にしみ入る』効果を感じさせる」ことであって、蝉の種類を特定
することでも、その蝉が単数であったか、複数であったかを特定すること
でもない。英訳では、単複のいずれかを選択することが要求されるので、
この句にまつわるエピソードに基づいて、蝉の数を単数として特定する
ことは、可能な選択ではあるが、私には、そのような表現解釈の手法は、
好ましいものとは思えない。例えば、梅とウグイスが詠まれた歌では、
実際に梅の花が咲く時期と、ウグイスが訪れる時期はずれるのだから、
そのような表現解釈の手法では、鳥の種類の認識が間違っている、
または歌が荒唐無稽であるといったような解釈が導き出されるが、
そのような歌の解釈の仕方が有益であるとは私には思えない。

693:考える名無しさん
22/09/19 16:01:50.85 0.net
生物学的視点に基づくオブジェクト指向生体機能シミュレーション
URLリンク(jglobal.jst.go.jp)
解剖学や生理学でもチンコの話になるとぐっと理解しやすくなるのはなんでなんだろ!
URLリンク(tottokotokoroten.hatenadiary.com)
ところで「チンポがシコシコする」という日本語表現は、学術的に正しいと言えるのか?
チンポ「を」シコシコするのではなくて、チンポ「が」シコシコする。この場合、「チンポ」は主語となる。
オブジェクト指向で言う「集約」は2種類あって、全体(俺)と部分(チンポ)が繋がっている場合と、
全体(俺)と部分(チンポ)が別々になっている場合とが考えられる。けれども「チンポ」はそれ自体
が独立した生き物であり、所有者の意思とは無関係に、自ら勃起して「シコシコする」。
例えば寝てる時にエロい夢みて朝起きてみたらチンコが勃起して射精してたとか。
違うか?
「胸がドキドキする」は良いが、「チンポがシコシコする」はダメな理由を、50字以内で述べろ!

694:考える名無しさん
22/09/22 17:36:24.13 0.net
しこしこ手でしごいてないチンポがシコシコするは誤りだからだめ
                                             

695:考える名無しさん
22/09/22 20:47:14.56 0.net
押忍

696:考える名無しさん
23/01/18 20:57:09.19 0.net
意味の構造を哲学しよう


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