22/05/22 10:58:08.70 0.net
さて、ここで
>ラテン語の"secō (“to cut”) +‎ -tiō"
に注目すると、例えば、スペイン語では、"seco"は、「乾いた」を表現
する形容詞として用いられ、語源的には、"secō (“to cut”) +‎ -tiō"から
ではなく、やはり"siccus"に由来するとされる。ところで、ラテン語の
"secō"にここで当てられている英語は、"to cut"であり、スペイン語の
"seco"に通常、当てられる英語は、"dry"であるが、英語にはそのまま
"cut-and-dry"というよく使われる常套句があり、問題が「単純に
割り切れる」かどうかという文脈でよく使われる。
572:考える名無しさん
22/05/22 11:40:51.10 0.net
>>567-571
日本語の「か」の発音のイメージから出発して、このようにフランス語、ラテン語、
フランス語、英語などの表現を参照してみると、そこで共通して用いられている
のが"k"の発音であることに気づく。「き(切)る」という日本語と英語の"to cut"
の場合でも、"k"の発音が共通している。これは、偶然に過ぎないのだろうか。
私はそうは思わない。日本語において、「く」や「こ」の発音の要素として
、暗い母音と一緒に"k"が用いられる場合には、"k"は「求心性」をイメージ
させることになるが、日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。
例えば、日本語の「か(交)ひ」とフランス語/英語の《intersection》/
"intersection"の対応関係を考えてみるといい。この場合、フランス語/
英語の《inter-》/"inter-"は、日本語の「~ふ」に対応するように
相互性を表現し、語源的には「切断」を表現する《section》/"section"
は、日本語の「か」に対応していることになるが、《section》/"section"
は、「切断」をイメージさせるだけでなく、互いに交差点で瞬間的に
交はる/"to cross"ことによって瞬間的に触れた後、再び離れることを
イメージさせているはずである。
573:考える名無しさん
22/05/22 11:49:05.74 0.net
誤:このようにフランス語、ラテン語、フランス語、英語などの表現を
正:このようにフランス語、ラテン語、スペイン語語、英語などの表現を
574:考える名無しさん
22/05/22 11:49:39.22 0.net
誤:スペイン語語
正:スペイン語
575:考える名無しさん
22/05/22 13:50:50.07 0.net
ある作用の様態のイメージを想起させるようにある発音が、異なる複数の
言語において互いに類似した用いられ方をしているという指摘が、
そのような対応関係の必然性(即ち、1対1の関係)は認められないという
批判を呼ぶことは、それ自体、興味深い問題である。そのような批判を
する人々は、なぜか、そのような対応関係の指摘は、自動的で、機械的
でなければならないという規範を前提としているのだ。しかし、例えば、
生物の身体が、共通性の認められる分子構造を用いている場合に、その
機能を特定するのにそのような規範が前提として成立しないことは言う
までもなく、共通性の見られる物理的な構造とその機能の場合ですら、
そのような前提は規範として成立しない。例えば、軸を中心に複数の
羽がついている構造が存在したとして、それが扇風機の羽に似ている
ことは、その構造体が必然的に扇風機の部品として使用されることなど
意味しない。そのような構造は、風速を測るための風車、風力を利用
して穀物を粉に挽くための風車、回転させて前進する推進力を得る
ためのプロペラ、上昇するためのローター、落下の速度を緩和する
ためのローターなど様々な用途に用いられ、軸を中心に複数の
羽がついている構造が共通しているからといって、それが使われる
機能が1つに決まるわけではない。また、逆にそれが使われる機能が
多用だからといって、その構造の作用の様態の共通性を探ることが
無意味になるわけでもないだろう。
576:考える名無しさん
22/05/25 09:26:57.71 0.net
Chloé
Chasser Croiser – Le Surréel et son écho (livre / CD)
この本、値段が高いから買おうとは思わないけど、面白そうな気がする。
気がするだけで、内容を見たわけではないので分からないが。
577:考える名無しさん
22/05/25 09:30:00.16 0.net
具体性、即ち、体(からだ)を具えた性質とは、
生きることの《chasser croiser》によって形成された意味の多層性である。
578:客人(たびびと)/"guest"としての各自(かくじ)
22/05/26 09:41:39.23 0.net
>>561
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。 <
日本で学校教育を受けた人ならば、その多くが触れたことがあり、
万葉集の歌などと比べれば、現代の日本語の表現との隔たりもそれほど
大きくないため、それなりに理解していると感じているものと思われる
この『おくのほそ道』 の序文の表現も、一般に、その解釈に根本的な
「捉え損ね」が潜んでいるだろうと、私には思われる。というのも、
私自身が、その「捉え損ね」を、これまで特に意識することのなかった
一般の人々のうちの一人だからである。この「捉え損ね」は、「たび」
とはどのような表現であるかにかかわり、また引用した文における
「過客」という表現の"k"の発音の用法にもかかわる。
579:考える名無しさん
22/05/26 10:05:50.00 0.net
現代の日本語の用法においてほぼ例外なく「旅」という漢字が当てられる「たび」
という表現に、現代の日本語を母語とする人々はどのようなイメージを思い浮か
べるだろうか。「旅立ち」や「旅と別れ」など「たび(旅)」は「立ち去る」こと
と結び付けてイメージされることが多く、「たび」という表現を聞いて一般に
人々が想起するのは、「旅(たび)に出かける」ことだろう。
しかし、古代からの日本語の「たび」の捉え方がそのようなものではなかった
ことは、まず間違いないことだろうと私には思われる。というのも、「たび」は、
「出かけて行く」ものとしてではなく、「たび」に「ある」ものとして
捉えられているからだ。私に言はせるなら、「旅(たび)」に「出かけて行く」
という捉え方がされるようになったことそのものが、「たび」の物象化
である。では、「『たび』に『ある』」とはどのようなことだろうか。
それは、芭蕉の表現にそのまま見られるとおり、「自らが『過客』としてある」
ことである。
まずは、万葉集の歌を確認してみるといい。多くの歌で「たび」が詠まれている
が、そのかなりの割合において、「たび」に当てられている漢字は、「客」、
つまり、英語で表現するなら"guest"である。したがって、「たび」の「別れ」
が詠まれている場合、それは「一時、訪れて、また離れる」ことを表現して
いるものと考えることができる。このことから私に直ちに推測されるのは、
「たび(客)」は、「~する『たび』に」という表現と語源を同じくする、
「た」によって「接触」を表現した「た・ふ」に由来する再帰表現ではないか
ということである。
580:考える名無しさん
22/05/26 10:19:45.16 0.net
無論、「『たび』に『ある』」ならば、妻子とは、離ればなれになった境遇
に置かれている。しかし、それを「たび」によって妻子と別れることになった
と理解するのは、誤りだろうと私は考える。なぜなら、「たび」を形容する
決まり文句として「草枕」が用いられることからも明白なとおり、「たび」
という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における『借りの滞在』」
だからである。
ここで私にすぐに連想されるのは、スペイン語の"tocar"という表現だ。
"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、
手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、
"te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として
回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は~」に対応する)
を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。
581:考える名無しさん
22/05/26 10:26:18.98 0.net
実際、「たび」という表現についてこのようにイメージすると、現代の
日本語においても、通常は、訪れるものとして意識される「月日」や
「年月」がなぜ、
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
として、「たびびと」、即ち、「客(たび)人(人)」に喩えられるのか、
よりよく理解できるようになるのではないだろうか。
582:考える名無しさん
22/05/26 10:27:08.69 0.net
誤:「客(たび)人(人)」
正:「客(たび)人(ひと)」
583:考える名無しさん
22/05/26 10:34:31.04 0.net
日本語の「か」の発音について、上で次のようにしてきした。
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる
>日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。<
これに関連して、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也 」という
表現において、芭蕉がいかにうまく、日本語の「か」の発音を活用しているか
についても、気づくはずである。
584:考える名無しさん
22/05/26 10:43:48.54 0.net
↑
不法侵入
585:考える名無しさん
22/05/26 10:53:54.46 0.net
人に休みを与えない
首無しのデブ
こいつは何様なんだろう
支配者ごっこでもしてるのかな
586:考える名無しさん
22/05/26 11:58:28.28 0.net
passerby as oneself
587:考える名無しさん
22/05/26 12:09:53.40 0.net
This is good thing.
588:考える名無しさん
22/05/26 13:18:39.57 0.net
人はコンテンツでもなければ
イノベーションを産み出すツールでもない
相手の中にそれを探すこと自体が
人間に対する冒涜である
人は想いでしか動かない
589:考える名無しさん
22/05/27 07:54:58.99 0.net
>>578
>その解釈に根本的な「捉え損ね」が潜んでいるだろう
「捉え損ね」は、表現の語源が明らかとなっている場合にさえ、容易に生じ得る。
例えば、英語の"visitor"の語源をonline etymology dictionaryで検索してみると、
次のように記載されている。
>visit (v.)
c. 1200, "come to (a person) to comfort or benefit," from Old French
visiter "to visit; inspect, examine; afflict" (12c.) and directly from
Latin visitare "to go to see, come to inspect," frequentative of visere
"behold, visit" (a person or place), from past participle stem of videre
"to see, notice, observe" (from PIE root *weid- "to see").
Originally of the deity, later of pastors and doctors (c. 1300),
general sense of "pay a call" is from mid-13c.
590:考える名無しさん
22/05/27 08:22:14 0.net
"visitor"についてのこの語源説明では、それを「視察する」、「査察する」
といったような文脈で用いられたラテン語の"visitare"に関連付けて、
"visitor"を「視察者」もしくは「査察者」として限定して解釈している。
しかし、そのような限定した解釈は妥当だろうか。無論、"visitare"が
そのような文脈で使われた場合、それを「視察者」もしくは「査察者」
として理解することは妥当である。日本語でも、訪れる人を「物見遊山」
の「見物客」とする捉え方がある。しかし、「一見さん」と表現する
場合はどうだろうか。「一見さん」という表現がやはり「見る」行為に
語源を辿ることは間違いないものの、「見る」行為の主体がどちらの側
にあるのかはそれほどはっきりしない。さらに、訪問客を「お見えの方」
と表現する場合にはもやは、「客」は、「見る」行為の主体ではなく、
そこに「見ゆ」存在である。
私はここでなにも、"visitor"の語源としての「見る」行為を、原理的に
「見ゆ」という中動態に戻して解釈すべきであるというようなことを
主張したいわけではない。しかし、この場合も、「見る」行為の主体を
一方的に訪問してくる側に帰するように限定することはできないだろう
と思われる。上に引用した"visitor"の語源説明では、"Originally of the
deity"と明記されている。するとその場合、やはり、その"deity"を、
「見に来る」存在として捉えるより、訪れて「姿を『見せる』」存在、
もしくは「姿が『見える』」存在、つまり、「お見えになる方」として
捉える方が自然ではないかと私には思われる。
591:考える名無しさん
22/05/28 10:17:52.18 0.net
万葉集の歌に詠まれた「たび」には、その多くの事例において「客」と
いう漢字が当てられている。だから、現代語の日本語の「旅(たび)」
という表現も、その語源を辿るなら、「客人(きゃくじん/たびびと)」が
「この『たび(度)』はお世話になります」と挨拶するときの「たび(度)」
と同じであると説明したら、人々はどのように反応するだろうか。
人文学系の専門家を含め、その多くは、そんなものはただの語呂合わせ
による「言葉遊び」に過ぎず、根拠が不明で何の意味もないと反発する
人が多いのではないだろうか。それでも引き下がらずに、スペイン語で
「接触する」ことを意味する"tocar"という動詞の"tocar (a+人)"という
形で「(人に)番が回る」ことを意味する用法を説明したとしても、
「たび」の"ta"の"t"と"tocar"の"t"の発音が重なっているだけで、
スペイン語と日本語に何の関係があるのかと、多くの人はそのような
説明に対して不満を露わにして、何の理解も示そうとはしないだろう。
592:考える名無しさん
22/05/28 10:31:30.72 0.net
ところで、「旅(たび)」に対応する英語の表現はなんだろうか。
「旅」の漢字でWiktionaryの項目を参照すると、日本語の「旅(たび)」に
対応する英語として、以下のように記載されている。
a journey; travel
(archaic) a temporary time spent in a place
(more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”)
spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”)
during a 祭り (matsuri, “festival”)
また、その語源について、
>May be cognate with 度 (tabi, “the time when something happens”);
both terms have the same pitch accent, the same ancient vowel values,
and some semantic overlap. <
と記載され、私の指摘と同じく(私は、事前にこの記載について知っていた
わけではない)「たび(旅)」と「たび(度)」が語源的に関係している可能性が示唆
されているが、その示唆は、これらの表現の発音が重なっているという理由に
依るものにとどまっている。
593:考える名無しさん
22/05/28 10:39:10.46 0.net
さらに、この項目では、「旅(たび/りょ)」を用いる熟語がその英訳とともに
次のとおり列挙されている。
旅先 (tabisaki, “destination”)
旅路 (tabiji, “route, itinerary; journey”)
旅立ち (tabidachi, “departure (on a trip)”)
旅券 (ryoken, “passport”)
旅行 (ryokō, “trip, travel, voyage”)
旅団 (ryodan, “brigade”)
594:考える名無しさん
22/05/28 10:49:35.67 0.net
しかし、「旅」の漢字のWiktionaryの項目における記載からは、私に言は
せれば、日本語の「たび(旅)」という表現に対して、簡潔でありながらも、
最も適切である、そのまま対応する英語の表現の記載が欠落している。
それは、旅行を表すのに最も一般的な和製英語として日本語としても
完全に定着している「ツアー」、即ち、"tour"である。
したがって、逆に言えば、その表現の用法にどのような限定を加える
にせよ、「ツアー」/"tour"が日本語の「たび(旅)」という表現に対応する
ことを否認できる日本語の話者はいないはずだろう。
595:考える名無しさん
22/05/28 11:03:09.85 0.net
さて、では、ここで"tour"の語源をonline etymology dictionaryで検索して
みよう。すると、次のように記載されている。
>tour (n.)
c. 1300, "a turn, a shift on duty," from Old French tor, tourn,
tourn "a turn, trick, round, circuit, circumference," from torner,
tourner "to turn" (see turn (v.)).
もう誰もが気づくはずである。それは、私が既に次のように指摘して
いることだ。
>"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、
手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、
"te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として
回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は~」に対応する)
を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。<
そう、スペイン語の"tocar (a+人)"という形における"tocar"は、
英語の"turn"に対応するように「巡(めぐ)り合はせ」/"turn"において、
「この『たび(度)』は」当(="tocar")番/"turn"となることを表現して
いるのである。
596:考える名無しさん
22/05/28 11:24:54.38 0.net
「たび(旅/客)」と「たび(度)」が語源的に共通であることを示すのに、
これ以上の説明はもはや必要ないだろう。またそれと同時に、
「旅(たび)に出かける」という表現がなぜ、「たび(旅/客)」の本来的な
捉え方であるよりも、むしろ、その物象化であると考えられるのかも、
もはや容易に理解できるはずである。英語の"a tour"が「各所を巡ること」
を表現しているのだから、「ツアー/旅(たび)に出かける」とは、
本来は、"go for a tour"に対応しているはずであり、"to tour"/「各所
を巡る」ことの方が、もともとの「「ツアー/旅(たび)する」行為である
と考えられるはずのものなのである。そして、「たびびと(旅/客人)」
とは、「ツアー/旅(たび)に出かける人」であるよりも先にまず、
それが本人であっても、「巡って来る人」としてあることなのである。
597:考える名無しさん
22/05/28 11:42:23.85 0.net
ここで、より一般的で重要なこととして、「旅」の項目でWiktionaryに
記載される説明と照らし合わせると、私を導いた推論が極めて強力で
有効なものであったことにも気づかされる。それは、私が次のように
指摘したことと関連している。
>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における
『借りの滞在』」だからである。 <
私は、「たび」についての推論を書き込むにあたり、事前にWiktionaryの
記載を参照していたわけではなかった。したがって、そこに記載される
日本語の「たび」という表現の以下の用法についても知らなかった。
>(archaic) a temporary time spent in a place
(more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”)
spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”)
during a 祭り (matsuri, “festival”)<
にもかからわず、「たび」という発音からその表現の用法の検討は、推論により、
この用法にもそのまま適合するイメージに私を導く結果となっている。
このことは、方法論的にとても重要であると私には思われる。
598:考える名無しさん
22/05/28 13:16:00.72 0.net
ちなみに、「トラベル」/"travel"は、「わた(渡)り」であって、「たび」ではない。
599:考える名無しさん
22/05/28 14:13:38.35 0.net
人文系の何らかの研究分野を職業的に専門としているわけでもない一般人
として私は、この場合の「たび」のように、普通、人が当たり前に理解でき
ているものと感じている言葉の表現についても、尋常でないほどよく
辞書を調べる。ただし、それは、例えば、「たび」の項目の辞書の記載を
網羅的に調べるということではなく、「たび」によって「私に連想される
表現」を、それが日本語であるか他の外国の言語であるかに否かに
かかわらず、思いつくままに検索して参照するということである。
その一方で、私は、英語で書かれたものは言うまでもなく、自分が教育を
受けたことのない言語で書かれた原書でも、ほとんどまったく辞書を
引くことなしに読む、というより、目を通すことを習慣としている。
「読む、というより、目を通す」というのは、私はそれらの書物で
用いられている言語をまともに学習していないので、当然のことながら、
辞書を引かない以上、その多くの部分は、まったくその内容が不明な
場合も多く、私には、読んでいると言えるほどよく理解できないから
である。だったら、その原書が日本語に翻訳されて出版されている場合
には、無理をせずに日本語の翻訳で読めばいいではないか、と思われる
かもしれないが、ことはそう単純ではない。なぜなら、原書で読んで
分からないものを日本語で読めばよく分かるかと言えば、必ずしも
そうはならないからだ。そこには、万葉集の歌を現代語訳で読めば、
歌に何がどのように詠まれているかがよく分かるようになるか、という
のと同じ問題がある。
600:考える名無しさん
22/05/28 14:40:42.63 0.net
例えば、私は、ドイツ語の教育を受けたことがないので、私のドイツ語の
能力は初歩的なものに過ぎない。それでも、私は、ニーチェの著作を
だいぶ以前に日本語の翻訳だけで読んだときには、その表現が支離滅裂に
感じられ、全体として何を言いたいのかさっぱり理解できず、途中で
読むことを放棄してしまった。しかし、その著作を翻訳で読もうとした
ことがあったことさえ忘れるほど時がたってから、原著のドイツ語に
目を通して見ると、多くの記述は、私自身の言語能力の不足から不明
のままでありながら、所々、あたかも最初から私の母語としての日本語
で書かれているかのように、何をどのように表現しているのかが
よく伝わるように感じられた。ところが、私の理解が適切であるのか
どうかを確かめようと、日本語訳を借りてきて当該の箇所を確認して
みると、やはり私にはさっぱり分からない日本語で表現されている
のである。
601:考える名無しさん
22/05/28 15:14:16.06 0.net
ここには、方法論的に重大な問題がある。私は、英語を学習するのにも、
ごくたまにしか辞書を引くことがなかった中学生時代を別にして、
英和辞典を使ったことがほとんどない。高校、大学時代のまた一冊の本を
読み通すことが難しいほどの英語力しかない頃から、辞書を引くとすれば、
専ら英英辞典しか参照することがなかった。
基本的な英単語の知識すら不十分なのに、英和辞典を引こうとしないことは、
はるかに英語力のある人々から見れば、「怠惰」、「反抗」、「思い上がり」
の現れである「不遜な態度」であると評価されるのが普通だろう。しかし、
私自身の感覚では、英和辞典を使用することに「拒否反応」が生じること
は、その当時は、言葉でうまく説明できなかったとしても、そのようなもの
ではなかった。学習の初歩の段階で、英和辞典を引くことは、英語の表現に
対応するものとされる日本語の表現を参照することであり、その対応関係
を記憶する作業を要求されることになるのである。これは、「たび」という
表現を例にとって、逆方向で考えるなら、その表現の意味と用法を理解する
のに、「たび」⇔"trip", "travel", "journey", "voyage"を対応関係として
暗記するようなことであり、あらゆる表現について、これを反復作業として
繰り返して、対応関係の知識を蓄積することに他ならない。しかし、
この作業をいくら熱心に繰り返したところで、
>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における
『借りの滞在』」<であるというような理解はもたらされない。
したがって、「行かふ年も又旅人也」のような極めて単純な表現を適切に
解釈するのにさえ役には立たないことになる。言い換えるなら、
どう理解してよいのかまだよく分からない表現に、既に理解されている
明確な表現を対応させて暗記することにより、「よく分からないことが
既によく分かっていることにされてしまう」のであり、「よく分からない」
という感覚を表明すること自体が抑圧されるのだ。
602:考える名無しさん
22/05/28 15:32:46.48 0.net
しかし、一般の人々は、「よく分からないことが既によく分かっている
ことにされてしまい」、「よく分からない」という感覚を表明すること
自体が抑圧されることを、むしろ、好ましいと感じているように私には
見える。その一方で、「よく分からないことを、よく分からないこと
として明確に認識して、その認識をそのまま保つ」ことを著しく嫌う。
これに対して、私自身の性格は、その真逆なのである。私は、
「よく分からないことが既によく分かっていることにされてしまう」
のを嫌い、「分からない」という感覚を表明するのを抑圧される
ことに対する耐性が低く、「よく分からないことを、よく分から
ないこととして明確に認識して、その認識をそのまま保つ」ことが
できることを、むしろ好ましいと感じるのである。だからこそ、
ろくに学習したこともない言語で書かれ、その多くの部分がまるで
理解できない内容の本に、まるでその本が読めるかのように、
分からないことは分からないままに目を通すことに何の苦痛も
感じないのだ。世の中のほとんどのことは、私にはよく分からない
ことが定常であると認識しているので、何らかの手がかりに遭遇
して、時たま、よく分かるという状況が生じるなら、私にとって
は、それでよいのである。
603:考える名無しさん
22/05/28 15:47:28.68 0.net
古語辞典の記載に対する私の不満も、英和辞典を使用することに対する
拒否反応と同じ類のものである。「梅を『をく』」という表現のおける
「をく」に「招(まね)く」という現代語が与えられても、私には少しも
「をく」という表現がよく理解できるようになったとは感じられないの
である。「をく」が、「梅の木の花を咲かせようとする意」に対する
「誘い」、つまり、「~したくありませんか」と呼びかけること、
この場合には、「花を咲かせたくありまんせんか」と呼びかけること
とメタ言語的に記述することができて初めて、私にはその表現が
理解できるようになったと感じられる。そのようなメタ言語的な記述
がうまく行われているのが、優れた英英辞典である。
604:塩なめくじ
22/05/28 16:11:21 iemXpYDa0.net
誤:「花を咲かせたくありまんせんか」
正:「花を咲かせたくありませんか」
605:考える名無しさん
22/05/28 16:45:11.06 0.net
訂正してくれてありがとう。でも、私は「塩なめくじ」ではありません。
606:考える名無しさん
22/05/31 11:06:59.11 0.net
万葉集の歌で日本語の古語の「たび」という表現に「客」という漢字が
当てられていることからも窺い知ることができるように、「たび」は、
漢語の「客」にそれなりに対応する表現として意識されたのだろうと
思われる。
ここで中国における漢字の「客」の用法を漢語詞典で検索してみると、
「客鳥」という表現があり、その「詳細釋義」として次のように記載
されている。
>外地飛來的鳥。多喻旅人。
>晉 王贊 《雜詩》:“人情懷舊鄉,客鳥思故林。” 唐 鮑溶 《鳴雁行》
私は中国語も漢語も読めないので、適当な憶測だが、「多喻旅人」
というのは、おそらく「客鳥」という表現が「旅人」の喩えとして
用いられることが多いということだろう。「外地飛來的鳥」は、
現代の普通の日本語では、「渡(わたり)り鳥(どり)」と呼ばれること
になるのではないかと思うので、「客鳥」は、現代の日本語では、
「渡り鳥」と訳されることになるのだろう。
607:考える名無しさん
22/05/31 11:11:00.43 0.net
ところで、日本語における鳥類の分類としては、「渡(わた)り鳥(どり)」
とは区別されて用いられる「旅(たび)鳥(どり)」という分類があるらしい。
日本大百科全書(ニッポニカ)「旅鳥」の解説
>旅鳥 たびどり transient passage migrant
ある一つの地域でみられる鳥のなかで、毎年規則的にある季節にのみ現れて、
その地域では繁殖も越冬もしないものをいう。旅鳥は、普通は春と秋、
またはその片方だけに出現する。
[浦本昌紀]<
608:考える名無しさん
22/05/31 11:26:33.57 0.net
>「客鳥」は、現代の日本語では、「渡り鳥」と訳されることになるのだろう。
このように指摘したが、「渡り鳥」の「渡(わた)り」という表現は、元の
漢語の「客」が表現しているイメージにそれほどうまく対応しているわけではない。
無論、「渡(わた)り」は、古くからよく、「離れたところから渡って来る」ことを
想起させるように用いらてきたわけだが、その意味の中核は、「距離をまたぐ」
ことにあるのであって、「渡り鳥」は、「客」のように訪れないで「上空を渡り
ゆく」だけでも、「渡り鳥」であることに違いはない。これに対して、「客鳥」
という表現の方は、明らかに「客のように飛来してきて一時的に留まる」
イメージを想起させるはずである。そのように考えた場合、日本語ので鳥類
の分類に用いられる「旅(たび)鳥(どり)」という表現の方が、漢語の「客鳥」
にうまく対応していると言える。私は、この「旅(たび)鳥(どり)」という表現
がいつからどのように用いられるようになったものなのか知らないが、
この表現における「旅(たび)」の用法は、古語の日本語の「たび(客)」
の用法をそのままうまく受け継いでいる/反映していると見ることができる。
609:考える名無しさん
22/05/31 11:31:37.89 0.net
誤:用いらてきた
正:用いられてきた
610:客/旅(たび)鳥(どり)のように行き来する
22/05/31 11:36:17 0.net
vogelfrei
Etymology
15th century, from Vogel (“bird”) +‎ frei (“free”). The earliest use was of
persons who were free from feudal obligation and thus enjoyed freedom
of movement. It seems plausible that the use for “outlawed” may be
based on this, in the sense that the outlaw is forced ever to move from
place to place.
611:外れ者
22/06/01 07:55:29.97 0.net
ドイツ語の»Vogelfreiheit«は、日本語としては、
「たび(客/旅)『どり(鳥)』のように『ゆ(往』く『つれない身』としてある」
ことになることを表現しているものと解釈することができる。そのように
理解すると、万葉集において「『たび(客/旅)』にある」ことを形容する
決まり文句として詠まれる「草枕(くさまくら)」が、案外、ドイツ語の
»vogelfrei«によって想起されるイメージと近い感覚を伝へようとしている
ことが分かる。「たび(客/旅」の途中で命を落とした人の姿を見て詠まれた
次の歌は、その「草枕」のイメージの応用である。
万葉集 第13巻 3336番
鳥が音の 聞こゆる海に 高山を 隔てになして 沖つ藻を 枕になし
ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は
母父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言伝てむやと 家問へば
家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず 泣く子なす 言だにとはず
思へども 悲しきものは 世間にぞある 世間にぞある
612:考える名無しさん
22/06/01 09:58:51 0.net
»vogelfrei«を日本語のサイトで検索すると、以下の辞書の記載がヒットする。
>vo・gel•frei, [fóːɡəlfraI]
>[形] (付)(述)〔歴史〕 法の保護を奪われた,アウトローの.
出典 プログレッシブ 独和辞典
私自身はTwitterのアカウントをもっていないが、以前にTwitterを眺めていると、
辞書を引かず、きちんとした教師の指導を受けることなく外国語を読んで
分かったつもりでいると、例えば、ドイツ語で»vogelfrei«は、
「法の保護を奪われた」を意味するように用いられているのに、それを
「鳥のように自由」として完全に間違って理解してしまうようなことがある
のでとても危ういといったような「助言」を見かけたことがある。
私自身は、既に述べたとおり、まともに学習したこともない言語で書かれた
外国の本をまるで辞書を引くことなく「読んでいるつもりで目を通す」ことを
習慣としているので、そのような「助言」に、「月明かりのない暗い夜道
を歩くときには、せいぜい気を付けることだな」といった類の「助言」
だか「忠告」だかよく分からない言葉をかけられるのに似た「気味の悪さ」
を覚えたものである。しかし、私は、そのような「助言」は、それを
その言葉通りに「善意」として受け取るとしても、正直に言わせてもらえば、
とても「浅はか」だと思う。
613:考える名無しさん
22/06/01 10:21:55 0.net
なぜそのような考え方が「浅はか」であると思うのかといえば、それは、
そのような「助言」に従うことによって導かれるのが、»vogelfrei«という
ドイツ語の表現に「法の保護を奪われた」という日本語の表現を「自動的/
機械的に対応させることを覚える」ことに他ならないからである。
その結果、»vogelfrei«という表現が、「法の保護を奪われた」
といった文脈で用いられている場合、確かにそれを「正しく訳す」ことが
できるようになるだろう。しかし、そのように「正しく訳す」ことを何度、
繰り返したところで、ドイツ語の»vogelfrei«が表現として想起させる
イメージが、日本語の「草枕」が想起させるものと類似していることなど、
まったく思いも寄らないということになり、それどころか、その類似性
を明示的に指摘されても、何がどのように類似していると指摘しているのか
見当もつかないということになる。そのような結果に導かれることは、
»vogelfrei«に「法の保護を奪われた」という日本語訳が対応するという
説明に対する反応として、(「鳥の自由」と直訳できる)»vogelfrei«が
「法の保護を奪われた」という意味になるなんて「日本(語)の常識と
はまったく考え方が違う」といったような感想がそのまま受け入れられ
ていたことにもはっきりと見てとることができる。
614:考える名無しさん
22/06/01 10:40:57 0.net
簡単なことを長々と説明することはやめておこう。
>ドイツ語の»Vogelfreiheit«は、日本語としては、
「たび(客/旅)『どり(鳥)』のように『ゆ(往)』く『つれない身』としてある」
ことになることを表現しているものと解釈することができる<
ここで「ゆ」くの「ゆ」には、「往」の漢字を当てたが、この場合も、もともと
中国語の表現を流用したものであると考えられる日本語としての「ゆ」は、
古語の「~ゆ(由)」の「ゆ」、「自由」の「由」と同じものである。
したがって、ドイツ語の»vogelfrei«に「たび(客/旅)どり(鳥)のようにゆ(由)く」
を対応させた場合、違っているのは、ドイツ語の表現では暗黙の前提と
なっている「たび(客/旅)」が省略されているか否かだけということになり、
そのように「つれない身」であるという感覚は、万葉集の時代の日本語に
おいてであれ、現代の日本語においてであれ、そのまま通用するものであり、
何らドイツ語の表現に限定されるものではない。
言語表現の意味を理解しようとするのに辞書の記載による説明と対応関係に
ばかり拘っている人は、言葉の意味とは、或る言葉と別の言葉の自動的/
機械的な対応関係を確定することだと思い込んでいる。しかし、
言語表現の意味を適切に解釈するとは、そのようなことではなく、
言葉による表現を手掛かりとして利用して、自らにとっての世界の在り方を
探求して、手応えを探り当てることなのである。
615:考える名無しさん
22/06/01 10:47:43 0.net
誰もがいずれはこの世で「客死」する。
616:考える名無しさん
22/06/02 15:08:52.14 0.net
「梅を『をく』」という表現において用いられる日本語の古語の「をく」
という動詞は、それを日本語の別の言葉でメタ言語的に説明することが
必要とされるにしても、まずは、ドイツ語の»hervorrufen«に対応する
ものと考えると、とても分かりやすい。
her・vor|ru・fen*, [..ruːfən]
[動] (200) (他) (h)
❶ ((j4))(…4を)呼び出す;(演奏者・俳優など4に)カーテンコールをする.
❷ ((et4))(ある結果4を)呼び〈引き〉起こす
Empörung hervorrufen\憤激を招く.
出典 プログレッシブ 独和辞典
617:考える名無しさん
22/06/02 15:20:43 0.net
>>611
万葉集 第13巻 3343番
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
618:考える名無しさん
22/06/02 15:45:38 0.net
>>616
そのような解釈の妥当性は、それを実際に言語表現として適用してみることで
直ちに検証することができる。
言語表現において発音はまずなによりも、発話の意にそ(沿)ふような
感性の働き「を」「をく」/»hervorrufen«ためにつか(使/仕)はれる。
619:考える名無しさん
22/06/02 15:48:39 0.net
死者を蘇らせることはできないが、死語に働いていたはずの感性を
妥当な解釈を通じて呼び覚ますことにより、死語を蘇らせることはできる。
620:考える名無しさん
22/06/02 15:58:01.77 0.net
だからこそ、新たに古文書を発見するまでもなく、既に残されている言語表現を
よりよく分かるように解釈しようとする試みは、歴史修正主義の批判などを
持ち出すまでもなく、本来的に「ゆゆ(忌々/由々)しき」ふるま(振舞)ひである。
621:神し恨めし
22/06/03 08:57:36.46 0.net
>>611
第13巻 3346番
>見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽の松原 童ども いざわ出で見む
こと放けば 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし
草枕 この旅の日に 妻放くべしや
622:考える名無しさん
22/06/03 09:23:22.56 0.net
>>617
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
これは、入り江の浜の波打ち際に屍(しかばね)が横たわっている
情景を詠んだ歌である。この歌の表現に働いている感性の論理は、
次のようなものだろうと私には思える。
入り江の浜の波打ち際に(死体として)横たわっている君が(=)
家路を知らない旅人であるとすれば、(それを目にしながら
通り過ぎる)旅人である我は、(我も家路を知らないとすれば)
君であり得る存在である。
623:考える名無しさん
22/06/04 07:52:33.08 0.net
>>597
>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における『借りの滞在』」
万葉集 第20巻 4348番
>たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも
624:考える名無しさん
22/06/04 09:38:10.43 0.net
ゲーテの著作のドイツ語の原書に目を通していて、そこに見られる表現から
ふと日本語の古語の不明な表現の可能な解釈が思い浮かんだ。その日本語の
古語の表現というのが、上に引用した万葉集の歌にも詠まれている
「たらちねの」である。その解釈が妥当なものであるかどうかは別として、
なぜ、私がまともに学んだことすらないドイツ語の表現を見て、直接には
何の関係もない日本語の古語の表現の解釈を思い浮かべることになるのか、
その連想のプロセスそのものが、私にとってはごく自然に感じられる、
言語表現の解釈を探求する手続きの具体例となるので、それを詳しく
記述してみよう。
625:考える名無しさん
22/06/04 10:00:02.64 0.net
当該のゲーテの著作とは、"Dichtung und Wahrheit"であり、この著作は、
『詩と真実』として日本語に訳されている。私は、以前にこの『詩と真実』
を岩波文庫で読み通したことがあるので、その訳文は覚えていないものの、
どのようなことが書かれていたかについてはある程度の記憶が残っている。
したがって、この場合は(いつものことではない)、ドイツ語の原文に「目を
通している」と言っても、ドイツ語で書かれた内容についてまったく何の
手がかりもない状態でそれを眺めているわけではない。ただし、私は、
ドイツ語については、辞書というより、初心者用の英語-ドイツ語の
基礎語彙集としてのとても小さなポケット辞書を所持しているだけで、
それ以外に辞書を所有していない。また、インターネット上でドイツ語の
無料の辞書を利用することは可能だが、そのような辞書を検索しながら
ドイツ語の原文を読んでいるわけではない。
断っておくが、私は、ドイツ語を学習するのに他人がそのような方法を真似る
べきだなどと主張しているのではなく、ただ単に事実を述べているだけである。
ドイツ語をまともに身に付けたいなら、利用できる辞書が手元にあることが
望ましく、分からないと感じたことは、辞書であれ、ネット検索であれ、
何でも利用して、片っ端から調べた方が良いことは言うまでもない。
ただし、私は、辞書に記載される表現の対応関係を暗記するような学習法が、
表現の適切な解釈を導き出すのに役に立たないだろうという見解をもって
いることに変わりはない。
626:考える名無しさん
22/06/04 10:15:14 0.net
さて、私がそれを見て、「たらちねの」という日本語の古語の表現の
解釈をふと思い浮かべた、ゲーテの"Dichtung und Wahrheit"で用いられている
表現であるが、それは次のとおりだ。
>Mein Freund ließ mich ungern in dieser Einseitigkeit hingehen, von der
er mich nicht abzuziehen vermochte: denn ohngeachtet seiner
mannigfaltigen Studien wußte er doch die Hauptfrage nicht
ins Enge zu bringen.<
Quelle: Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden.
Band 9, Hamburg 1948 ff, S. 217-258.
誰がどうみても、ここに書かれていることは、「たらちねの」とはまったく
無関係である。では、この文の何が「たらちねの」の解釈を私に思い浮かべさせる
ことになったのか。それは、この文中の»ins Enge zu bringen«という表現
であり、より詳細には、この表現が、「たら『ち』ねの」の「ち」を含め、
「『ち』はやふる」、「『ち・ち』(父)」、「ち(血)」、「ち(乳)」、
「『ち』から(力)」、「いの『ち』(命)」、「こ『ち』ら」、「こ『ち』(東風)」
などで用いられる「ち」の発音によって想起されることになるイメージを
メタ言語的に記述するのにとてもうまく適合するように私には感じられたことである。
627:考える名無しさん
22/06/04 10:42:48.19 0.net
私は、引用したドイツ語の文が日本語訳においてどのように訳されていたのか
覚えていない。また、それをどのように訳すことが適切であるのか、私自身、
よく判断がついているわけではない。それでも、自分が知っている英語の
表現からの類推により、»ins Enge zu bringen«の»ins«の»in«を"in"に、
»Enge«を"England"や"angle"に、»zu«を"to"に、»bringen«を"bring"
に関係付けて解釈しようとすることができる。そして、その解釈によって
もたらされるイメージは、それほど大きくずれたものではないだろうことを
当てにしている。では、その程度のいい加減な解釈によってもたらされる
イメージが、なぜ日本語において「ち」の発音によって想起させられる
イメージとうまく対応するように私に感じられるのだろうか。ここで
留意してもらいたいのは、私は、そのような感じ方を、「私という個人に
特有の感性によるもの」であるなどとはまったく考えていないことである。
そこで、»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係が想起される理由
を反省してみると、私が、「ち」という発音によって想起されるイメージ
を、それを一文字の漢字で置き換えるなら、「注(ちゅう)」によって代表
され得るようなものとして捉えていることに気づく。私は、最近は、
日本語の語源を探るのに、よく中国語辞典や漢詞辞典なども参照するが、
中国語ができるわけでも、漢文が読めるわけでもないので、専ら現代の
日本語において使われる漢字の用法とその発音を手掛かりに、
中国語辞典や漢詞辞典を参照している。「ち」の場合には、その語源を
「注」の発音の流用に求めることができるといったようなことを主張
したいわけではない(ただし、可能性自体は否定しない)が、このように
「ち」の発音から、日本語において漢字として用いられる「注(ちゅう)」
を想起するようなことは、私にとっては、いつもの連想パターンの
一部である。
628:考える名無しさん
22/06/04 10:52:48.04 0.net
ここで、»ins Enge zu bringen«を辞書で検索しても、またそれがどのように
訳されるのか、それに対応する訳文を検索しても、ヒットはなかった。
その代わりとして、記述がヒットする。
Deutsches Worterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm: ...
1862
... studien waste er doch die 4 ) in die enge treiben ,
in angustum cogere ( vgl . das stärhauptfrage nicht ins enge zu bringen
( zu concentrieren ) .
629:考える名無しさん
22/06/04 10:57:55.39 0.net
では、「注(ちゅう)」の方は、どうだろうか。Wiktionaryを参照してみる。
注
1. to pour into; to fill
注射 ― zhùshè ― injection
注入 ― zhùrù ― to pour into
2. to concentrate; to pay attention
注視 / 注视 ― zhùshì ― to look attentively
專注 / 专注 ― zhuānzhù ― to concentrate completely
注意 ― zhùyì ― to pay attention
3. (gambling) stake
賭注 / 赌注 ― dǔzhù ― stake
注 - ウィクショナリー日本語版
意義編集 · (水などの液体を)そそぐ。 注水、注入 · 意識などを集中させる。
注意、注目、注視 · (註の代用字)書きとめる。 注記(←註記)、注文(←註文) ..
630:考える名無しさん
22/06/04 11:14:38.08 0.net
このように見てくると、日本語において「ち」によって想起させられる
イメージを「注(ちゅう)」によって代表させることが可能であるとするなら、
その「注(ちゅう)」に媒介させることにより、
»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係を想定しても
よいように私には感じられる。実際、日本語で「ち」を発音するとき、
その行為は、自らが吐く息を»ins Enge zu bringen«として記述できる
ようなものとなっていないだろうか。
さて、問題は、そのような「いい加減な」対応関係を想定することにより、
「たらちねの」という古語の表現がどのように解釈されることになるか
である。その適切な解釈は、この表現の用法を離れてはもたらされ得ない
はずなのだから、「たらちねの」の「ち」も、ドイツ語の
»ins Enge zu bringen«に対応すると考えるだけで済ませるわけにはいかない。
631:考える名無しさん
22/06/04 11:32:50.05 0.net
ところで、岩波古語辞典で「ちか(盟/誓)ひ」の項目を引くと、
>日本語のチカヒも「血交ひ」に起源をもつという。
と記載されている。しかし、「『ち』かひ」の「ち」が「血(ち)」の「ち」
と共通であり、「ちかひ」が「血」を想起させたとしても、より一般的に
日本語の「ち」が»ins Enge zu bringen«に対応すると考えるなら、
「ち」を「血」に限定することなく、
「ちか(盟/誓)ふ」⇔»ein anderen ins Enge zu bringen«のように
解釈しても問題はないのではないかと私には思える。
632:考える名無しさん
22/06/04 14:06:44 0.net
万葉集 第11巻 2364番
>原文 玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
>訓読 玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ
「たらちねの」という表現において、語義が不明であると考えられているのは、
「~の」を除く「たらちね」であるが、万葉集には「たらちね」に直接に関連する
表現として「たらち・し」があること、また、「たらちね」から、「たらち・め」、
「たらち・を」という表現が派生させられているから考えて、「たらちね」は、
「たらち・ね」と分けることが可能であるものと意識されたことは間違いないだろう。
さらに、万葉集では「たらち」に様々な漢字が万葉仮名として当てられるが、
「多良知祢」のように1つの音節に1つの漢字が当てられるのではない場合、
「たら・ち」の「たら」には、「垂(たら)」または「足(たら)」が当てられている。
633:考える名無しさん
22/06/04 14:22:07 0.net
したがって、「たら・ち」の「たら」は、「垂(たら)」もしくは「足(たら)」
という作用としてイメージされていた可能性が考えられるわけだが、ここで、
「たら・ち」を、そのように「たら(垂/足)ち」としてイメージされたものと
想定すると、私にはすぐに連想される和製漢語がある。それは、
「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」である。Wikipedieaの「本地垂迹」の項目には、
以下のとおり記載される。
>仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、
実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた
権現(ごんげん)であるとする考えである。<
634:考える名無しさん
22/06/04 14:28:28 0.net
「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という表現は、「本地(ほんぢ」と
「垂迹(すいぢゃく)」から構成されるとされ、Wikipediaには、さらに
次のように説明される。
>本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れる
という意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのもの
である法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。
また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、
仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。 <
635:考える名無しさん
22/06/04 14:58:50.65 0.net
私は、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という考え方についての詳細や、
歴史上の文献に基づく研究についてまったく知らない。しかし、「矛の
先」(私には、「茅(ち)」が想起される)から「しほ」を「た(垂)らす」こと
によって、島が「自ずと生成される」というエピソードは、『古事記』にも
見られ、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」も基本的には、英語で表現するなら、
"bring into being"を表現しているのだろうと思われる。
ところで、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という表現と、上に引用した
万葉集の歌
>玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
を比べて見ると、「地」を「ぢ」はたは「つ『ち』」として見るならば、
「乳(ち)」との重なりが意識されるほか、「玉垂」(古語において「たま」は、
つねに「魂(たま)」を想起させるものでもある)と「垂迹」において「垂」
が重なっていることとともに、「垂迹」の「迹」と「風跡」の「迹/跡」が
重なっていることも私には意識される。
636:考える名無しさん
22/06/04 15:31:50.48 0.net
あまり長くなっても、「たらちねの」という表現についての私の連想による
解釈がどのようなものであるのか分かりにくくなってしまうだけなので、
省略しよう。
>たまだれの をすのすけきに いりかよひこね たらちねの ははがとはさば
かぜとまをさむ<
私には、この歌は、「たらちねの」という表現によって伝わるイメージを
うまく逆手にとって利用しているように思える。「たら・ち」の「ち」に
よって想起されるイメージが、ドイツ語の»ins Enge zu bringen«に
それなりに対応するものとしてメタ言語的に記述されるものと考えたとして、
「たら」が「垂(たら)」であるのか、「足(たら)」であるのかを確定しよう
とすることには、あまり意味がないだろう。なぜなら、このような言語
表現は、掛詞による解釈の多重性を利用することを最初から意図している
からである。私により重要であると思えるのが、「垂(たら)」であれ、
「足(たら)」であれ、それが「何かを生じさせる行為の様態」として
イメージされているだろうことである。現代の日本語でも「血(ち)を分けた兄弟」
という表現はよく用いられるが、「たらちねの」は、「ち(『いのち(命)』、
『ちから(力)』、『ち(血)』、『ち(乳)』の『ち』)」を「た(垂/足)ら」す
ように我が身に「注(そそぎ)ぎ込む」/»ins Enge zu bringen«ことによって
我が身を存在させた/"brought into being"のが「たらちねの」母であり、
父であり、親ではないのか、というのが私の推測である。現代語でも
「心血を注ぐ」という表現がある。
637:考える名無しさん
22/06/04 15:54:52.23 0.net
私には、上の歌において、「入通来根」と「足乳根之」は、表現として
意識的に対比させられているように見える。万葉集において「たらちねの
はは」が詠まれている歌にひととおり目をとおして見るといい。
母親は、単に子供を「見守る」存在として捉えられているのではなく、
一瞬の「隙もなく」/»eng«、我が子の振舞いひに注意を向けている
存在として認識されている。上の歌は、そのように母親の注意が
向けられている子である女性の立場から詠まれた歌である。
男性が自分のところに通ってくるのに、「玉垂の小簾のすけきに
入り通ひ来」る「風」のように振る舞ふ必要があるのは、「たらちねの
はは」が「我が身」に対して、極めて緊密な/»eng«である関係にある
からに他ならず、そうであるのは、「我が身」そのものが(母)親との関係に
おいて、そもそもそのように生成されているものであるからである。
638:考える名無しさん
22/06/04 16:37:51.55 0.net
ゲーテの著作のドイツ語の原書に目を通していて、私に連想された日本語の古語の
解釈について長々と、その連想のプロセスを記述してきたが、これによって
私の「たらちねの」という表現の意味解釈の妥当性が検証されたなどとは
言っていないことに注意してもらいたい。
639:考える名無しさん
22/06/04 23:50:30.46 0.net
>>632
誤:いるから考えて
正:いることから考えて
640:考える名無しさん
22/06/05 00:11:02.01 0.net
日本語の古語の「たらちねの」という表現が伝える緊密さは、案外、
パウル・ツェランの「テネブレ」という詩が表現する近さの感覚と近いのではないかという気もする。
Paul Celan ‘Tenebrae’
Nah sind wir, Herr,
nahe und greifbar.
Gegriffen schon, Herr,
ineinander verkrallt, als wär
der Leib eines jeden von uns
dein Leib, Herr.
Bete, Herr,
bete zu uns,
wir sind nah.
Windschief gingen wir hin,
gingen wir hin, uns zu bücken
nach Mulde und Maar.
Zur Tränke gingen wir, Herr.
Es war Blut, es war,
was du vergossen, Herr.
Es glänzte.
Es warf uns dein Bild in die Augen, Herr.
Augen und Mund stehn so offen und leer, Herr.
Wir haben getrunken, Herr.
Das Blut und das Bild, das im Blut war, Herr.
Bete, Herr.
Wir sind nah.
641:考える名無しさん
22/06/05 09:16:02.61 0.net
>たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)り
いぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして
巻十二 二九九一番歌
>「たらちね」の語義は不詳ですが、監視者である母に多用される形容で
あることが指摘されています。
この歌はそんな監視の目が厳しくて恋人に逢うことができなかったの
でしょうか。「いぶせく」すなわち胸のなかが煙でいぶされたように、
心がふさがれて晴れない心理状態にある、恋の辛さを詠んだ一首です。
(本文 万葉文化館 小倉久美子)
642:考える名無しさん
22/06/05 09:21:03 0.net
>>640
主によって注がれたち(血)を飲む「ち(乳)のみ(呑)ご(児)」
643:考える名無しさん
22/06/05 10:29:28.45 0.net
ところで、現代の日本語に「『て(手)しお』にかけて育てた」という慣用句が
あるが、「て(手)『しお』」は、本来は、「て(手)『しほ』」と表記される
べきものであり、「しほ」が表現しているのは、「塩」ではなく、
「喜びも『ひとしお』である」と表現されるときの「しほ」、つまり、
漢字としては「入」が当てられてきた「しほ」だろう。
ひと-しほ 【一入】
学研全訳古語辞典
[一]名詞
染め物を、一回染め汁に浸すこと。
[二]副詞
一段と。いっそう。
出典古今集 春上
「常磐(ときは)なる松の緑も春来れば今ひとしほの色まさりけり」
644:考える名無しさん
22/06/05 10:42:47.54 0.net
この場合、「しほ」に「入」という漢字が当てられていることにも
明白に見てとることができるとおり、「しほ」は、「『し』み入っている」
ことを表現している。そのように考えと、現代の日本語では、まず
なによりも物象化された調味料としての「塩(しほ)」を想起させる、
名詞として用いられる「しほ(塩/汐/潮)」という表現そのものが、
「し・ふ」という再帰表現、すなわち、「自ずと『し(浸)』み入る」
作用を表現する動詞から派生させらたものではないかと推測される。
645:考える名無しさん
22/06/05 10:56:38.01 0.net
つまり、「しほ(入/塩/汐/潮)」とは、英語を用いてメタ言語的に
記述するなら"let-oneself-in"である。
このことは、槍の穂を柄に接合する部分である「しほくび(潮頸・塩首・入首)」
の構造を画像検索で確認することによっても検証することができるだろう。
精選版 日本国語大辞典「潮頸・塩首・入首」の解説
>しお‐くび しほ‥【潮頸・塩首・入首】
〘名〙 槍(やり)の穂先と柄が接した部分。けらくび。ほくび。
※言継卿記‐天文二年(1533)一一月四日「予鑓之さや袋
さかわに口、塩頸、青貝等之事、沢路へ申付候了」
646:考える名無しさん
22/06/05 11:14:10.53 0.net
このような簡単なことにあらためて気づいたとき、私が喜びに浸っている
わけではない。むしろ、私は、それを「とても残念なこと」と感じざるを
得ない。なぜなら、私は、日本語を研究してきた専門の国語学者や
言語学者がこの程度の簡単なことにこれまで気づくことがなかったなど
ということは、あり得ないと確信しているからである。ここにある
大きな問題は逆に、なぜ、その「気づかない状態を正常化する」
ために多くの専門家が、私には「常軌を逸していると感じられる」ほどの
多大な労力は日々費やしているのかである。
647:考える名無しさん
22/06/05 11:15:06.36 0.net
誤:私が喜びに浸っている
正:私は喜びに浸っている
648:考える名無しさん
22/06/05 16:23:07.61 0.net
>>645
最近は、リンクを貼ると、すぐに規制で書き込めなくなるので、
興味のある人は、以下のサイトを自分で検索して、
槍の「しほくび(潮頸・塩首・入首)」がどのような仕組みであるのか
を確認してみるといい。
>刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 刀の種類「矛とは」
>柄への固定方法
槍と矛は、柄へ固定する際にも違いが見られます。槍は、
茎(なかご:刀身の中でも柄に収める部分)を柄の内部へ差し、
蔓などを巻いて固定。
>あさひ刀剣
>さて、Cを見てください。C-1は柄の先端部で、ここに口金(くちがね)が
嵌め込まれて、槍の塩首(けらくび)の下部が入ります。
また、C-2は柄を切り落した切断面です。そこに槍の中心を入れた後に
A-1・B-1・C-3・C-4として写っている割箸状の一つの木片が
嵌め(埋め)込まれる構造です。
649:考える名無しさん
22/06/05 17:24:22.92 0.net
>>646
誤:多大な労力は日々費やしている
正:多大な労力を日々費やしている
650:考える名無しさん
22/06/05 17:43:02.87 0.net
本来であれば、多くの人が容易に気づくことになるはずの日本語について
の基本的な事実について、誰も気づかないことが正常であるように思わせる
ように保っている専門家の個々人および集団の命がけの血の滲むような
日々の取り組みには、大いに同情にあたひするものがある(とは、私は
これっぽっちも思ってはいない)。なぜなら、それらの人々の多くは、
事実上の「人生の達人」であり、そのような自認がない場合でも、少なくとも
そのような取組みに協力することによって、それに協力することを拒む
愚か者に対して自分たちが社会的に優位に立っていることをはっきりと
自覚しているからだ。確かにそれらの人々は、「公的善」
(M.メルロ=ポンティ、『ヒューマニズムとテロル』、p.31)
のために自らの骨身を削っているのかもしれないが、それは私に
言わせれば、本人の勝手であり、私としては、モンテーニュに倣って、
「そういう任務は、もっと従順で、柔軟な人々にお任せしよう
ではないか」と言う他ない。
651:考える名無しさん
22/06/06 16:23:04.25 0.net
「しほくび(潮頸・塩首・入首)」≒"a neck to be introduced"
652:考える名無しさん
22/06/06 16:28:30.90 0.net
「しほ(潮・塩・入)」≒《s'infiltrant》
気づかないふりをする方が難しい。
653:考える名無しさん
22/06/06 16:33:45.48 0.net
エビデンスがどうのと言ったところで、所詮、世の中の「専門家」が
やっていることも、自覚的な「錯乱坊のチェリー・ピッキング」に過ぎない。
654:考える名無しさん
22/06/06 17:04:37.43 0.net
こういう発言を誰に気兼ねすることもなく書き込めるようになったことは、
感慨も「ひとしほ(一入)」≒《d'autant plus s'infiltrant》である。
655:考える名無しさん
22/06/07 00:26:45 0.net
>手塩にかけて育て上げた花や樹木たち
花や樹木に「塩」をかけたら枯れてしまいますが、「てしほにかける」とは、
「『手入れ』が行き届いているようにする」ことでしょう。
>手入れ(読み)テイレ
デジタル大辞泉「手入れ」の解説
て‐いれ【手入れ】
[名](スル)
1 よい状態を保つために、整備・補修などをすること。
「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」
656:考える名無しさん
22/06/07 00:33:38 0.net
>手が込む(読み)てがこむ
精選版 日本国語大辞典「手が込む」の解説
て【手】 が 込(こ)む
細工、技巧などが緻密である。また、物事が、こみいっている。複雑である。
※虎寛本狂言・鬼瓦(室町末‐近世初)「あの欄間の彫物などは、
殊之外手のこうだ事じゃなあ」
657:考える名無しさん
22/06/07 13:37:10.35 0.net
汐留(しほどめ)&地名&由来 Google検索
>「汐留」の名は、江戸城外堀に潮の干満が及ばないよう海と堀とを
仕切る堰があったため、この地域が潮溜りとなっていたことに由来する。
汐留 - Wikipedia
「汐留」の地名の由来
>汐留川に由来し、「汐留川が土橋で堀止まりとなるので潮汐の干満が
外堀に通じず、汐が止まる」ため汐留と呼ばれるようになった。
東京都港区 「汐留」の由来
>この「汐留」の地名の由来は、江戸幕府の祖となった徳川家康が
天下普請を行なった際に江戸城の堀に潮の干満が影響しないように
堰を設けたのが元だそう
658:考える名無しさん
22/06/07 13:46:26.72 0.net
「ひとしほ(一入)」とは、思ひが「『し』み・『じ』み」と「身に『し』みる」こと。
さて、食用に使はれる「塩(しほ)」は、もともと、どのようなものとして認識されたのか。
659:塩なめくじ
22/06/07 13:53:27.65 1mrOKtbn0.net
呼んだ?
660:考える名無しさん
22/06/07 14:00:23.20 0.net
浸透圧は?
661:考える名無しさん
22/06/07 14:06:49.67 0.net
切身(きりみ)に塩(しほ)
精選版 日本国語大辞典「切身に塩」の解説
※浄瑠璃・加賀見山旧錦絵(1782)二「されば其事、
私も切身(キリミ)に塩(シホ)が染(し)み、思ひ当った今日此頃」
662:the elephant in the room
22/06/07 14:14:00.32 0.net
さてね、日本語を長年、専門に研究してきた言語学や国語学の専門家
とされる人々は、本当に「しほ(入/塩/汐/潮)」がどのような表現である
のかについて気づくことなく、またこのように明示的に指摘されて
さえも気づかないのか?「エビデンス」とは何か?w
663:塩なめくじ
22/06/07 14:33:36.80 1mrOKtbn0.net
呼んだ?
664:塩なめくじ
22/06/07 14:39:27.38 1mrOKtbn0.net
浸透圧は溶液と溶液の間に発生する力であって
溶液単体を指して「浸透圧が高い(低い)」と
言うことはできないと思ってたけど、間違ってたっぽい。
665:エビデンスであるとは、どのようなことか
22/06/08 07:27:08.12 0.net
さて、「塩(しほ)」が「『塩(しほ)』に見える」とはどのようなことか。
現代の日本語にも語源的な「しほ(入/塩/汐/潮)」の用法が慣用句となって
そのまま引き継がれて示されている表現がある。その表現とは、
「しほ(入/塩/汐/潮)らし(い)」である。
精選版 日本国語大辞典「しおらしい」の解説
① 上品で優美な様子である。
※禅鳳雑談(1513頃)上「謡はすげなく候ては悪しく候。匂ひの候て、
しほら敷、ぼけやかなるがよく候」
② ひかえめで従順な様子である。
※応永本論語抄(1420)雍也第六「祝はしをらしき者にて、弁舌あり」
③ かわいらしい。可憐(かれん)である。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※虎明本狂言・枕物狂(室町末‐近世初)「ゑくぼが、両のほに、
七八十百ばかりいって、ようあらしほらしやと思ふて」
④ けなげな様子である。感心である。殊勝である。
相手を見くびっていうこともある。
※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)二「ヤアがきも人数、しほらしい事ほざいたり」
666:エビデンスであるとは、どのようなことか
22/06/08 07:40:06.03 0.net
ここで、「しほ(入/塩/汐/潮)らし」を、フランス語をメタ言語として
用いて説明するなら、それが表現しているのは、
《~ semble être s'infiltrant》である(ただし、これは、フランス語
をメタ言語として用いた記述であって、このような表現がフランス語訳
として通用するという意味ではないので、誤解のないよう)。
C'est l'évidence même.
667:浸透圧/血は水よりも濃し
22/06/08 08:46:06.66 0.net
さて、「塩(しほ)には、自ずと浸透する作用がある」と述べたとき、
いったい何を言ったことになるのだろうか。
「水臭(みづくさ)い」とは、どのようなことか。
668:証拠隠滅とは、どのようなことか
22/06/08 08:58:39.30 0.net
さて、旧仮名遣ひの廃止/新仮名遣いの規範化は、日本語をつか(使/仕)ふ
人々に何をもたらし、またもたらしつづけているのか。
669:熱き血潮(ちしほ)
22/06/08 10:36:55.78 0.net
血のつながり、あるひは浸透圧としての人情
ち(血)しほ(入/塩/汐/潮)に染まる⇒手(て)しほ(入/塩/汐/潮)にかける
※歌舞伎・心謎解色糸(1810)
大切「他人の手汐(テシホ)に育てられ、二親恋しと尋ねるを」
出典 精選版 日本国語大辞典
670:考える名無しさん
22/06/08 10:43:03.96 0.net
冷血漢の体に流れているのは、血潮(ちしほ)ではなく、血塩(ちしお)でしょうね。
671:考える名無しさん
22/06/08 15:58:53.62 0.net
「エビデンス主義」とは、提示するエビデンスの有効性を否定される側に、
それが否定される根拠を考えさせて、否定されるべき正当な理由を
自己責任で案出させるようにあらかじめ意図的に仕組まれた罰ゲームである。
672:Exception that proves the rule
22/06/10 09:13:12.02 0.net
>>668証拠隠滅とは、どのようなことか2022/06/08(水) 08:58:39.300
>さて、旧仮名遣ひの廃止/新仮名遣いの規範化は、日本語をつか(使/仕)ふ
人々に何をもたらし、またもたらしつづけているのか。<
興味深いことに、表現の表記に旧仮名遣ひが意識的に用いられている例外もある。
その表現とは、国語学の規範によれば、「撓」という漢字が当てられるべきもの
とされる「しをり」である。しかし、ここで注目すべきことは、
この「しをり(撓)」という表記が、この表現を後世に残すことに寄与した
人々の用いた、今では旧仮名遣ひとされる表記を保存するものではなく、
それを「た『わ』(撓)める」ものであることだ。ここで「た『わ』(撓)める」
という表現を使ふとき、私には、これに対応する英語の表現として
"to pervert"( (from PIE root *wer- (2) "to turn, bend"),
Online Etymology Dictionar参照)という動詞が思ひ浮かぶ。
しをり(読み)しおり
日本大百科全書(ニッポニカ)「しをり」の解説
芭蕉(ばしょう)俳諧(はいかい)の美的理念。「さび」の類縁美の一つ。
芭蕉、および芭蕉の弟子たちは、「しほり」と表記した。「あはれ」が、
「あはれ」などの感情表現語を用いずに「姿」として一句に具象され、
そこに余情として「あはれ」を感得できるような句が、
「しほり」のある句といえる。
世界大百科事典 第2版「しをり」の解説
〈萎(しを)る〉の連用形というのが通説であるが,近年〈湿(しほ)る〉
の意に解すべきだという説がある。蕉門俳論では〈しほり〉と表記するのが
一般的。去来は〈しほり〉は〈一句の句がら〉〈一句の姿〉〈一句の余情〉
にあるという。また《俳諧問答》では〈しほりと憐れなる句は別なり。
ただ内に根ざして外にあらはるゝものなり〉とも言っている。
673:考える名無しさん
22/06/10 09:59:16.87 0.net
「しほり」と表記されてきたものを、わざわざ「しをり」と書き換へる
のだから、その行為は明らかに意図的であり、その表記が規範として
示される以上、その意図は、明示されるか否かにかかわらず、もとの
「しほり」という表記は、訂正されるべき誤りであるという判断を
示していることになる。
なせこの書き換へが、もとの表現を「た『わ』(撓)める」/"to pervert"
ものであるのかは、もはやさらなる説明を要さないだろう。なぜなら、
既に示したとおり、「しほ(潮・塩・入)」≒《s'infiltrant》である
と考えるなら、この「しほり」も、「自ずとし(浸)み入る」作用を
示す名詞化に過ぎないからである。上の引用では、「近年〈湿(しほ)る〉
の意に解すべきだという説がある」と記載されているが、重要なのは、
「湿っているか否か」ではない。そうではなく、「湿(しほ)る」という
表現に関連付けるなら、重要なのは、《s'infiltrant》と表裏の関係
において「自ずと生じる"absorption(吸収)"」の作用である。
>閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声)
松尾芭蕉、『奥の細道』
674:考える名無しさん
22/06/10 10:12:09.09 0.net
>本来であれば、多くの人が容易に気づくことになるはずの日本語について
の基本的な事実について、誰も気づかないことが正常であるように思わせる
ように保っている専門家の個々人および集団の命がけの血の滲むような
日々の取り組み<
私は、そのような取組みが、個々人および集団としてどれほど大変な労力
を要しているのかを否定する気はさらならない。しかし、それは、私に
とっては、少しも有り難くないものなのだ。というのも、いくらそれら
の人々が「公的善」のために身を切るような犠牲を支払ひつづけている
自負しているとしても、それに私が敬意を表して、おとなしく従わ
なければならないとすれば、私は、「容易に分かるはずのことを、
分からないことにしなければならない正当な理由を自己責任で案出し
つづける」という終わることのない罰ゲームに自発的に参加することを
余儀なくされるからである。
675:考える名無しさん
22/06/10 10:26:48 0.net
その根底において「いくらつべこべ言ったところで、
あなたも上から承認/評価してもらえなければ不都合でしょう」
という脅しに支えられているだけで、なぜどのような理由で
その罰ゲームに自発的に参加して競い合はなければならないのか、
私にとっては意味不明なのです。
676:考える名無しさん
22/06/10 10:33:10.42 0.net
誤:支払ひつづけている自負しているとしても
正:支払ひつづけていると自負しているとしても
677:考える名無しさん
22/06/10 10:44:42.88 0.net
この罰ゲームに自発的に参加すると、最も重要なのは、理屈などではなく、
既に与えられているものとして機能している人脈と、承認/評価する
権限を付与されている個人にとっての自分の有用性を示すことが
できる具体的な人脈づくりであることになる。
678:考える名無しさん
22/06/10 11:09:36.20 0.net
>»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係を想定
「ちか(近)し」、「ちぢ(縮)む」の場合の「ち」はどうだろうか。
「ちか(近)し」は、ドイツ語をメタ言語として利用して記述するなら(翻訳ではなく)、
»ins Enge zu bringen lassend«という表現として解釈できるのではないか。
また、「ちぢ(縮)む」の「ちぢ」は、「ち」≒»ins Enge zu bringen«の
反復であり、日本語において同一の発音の反復は、「見す・見す」のように
一般に「継続性」を表現するための手法であり、「む」は、「累加性」を示す
ように用いられるのだから、「ちぢ(縮)む」という表現は、
「ち」≒»ins Enge zu bringen«の作用が継続的に累加することを表現して
いると解釈できるのではないか。
679:考える名無しさん
22/06/10 11:22:11.24 0.net
岩波古語辞典から「ちか(近)し」の項目で列挙される例文を抜粋してみよう。
①「妹が家路近くありせば」(万三六三五)
②「君に別れむ日近くなりぬ」(万四二四七)
③「山川を中に隔(へな)りて遠くとも心を近く思はせ吾妹」(万二七六四)
④「これなむその人のちかきゆかりなるを」(源氏 夢浮橋)
⑤「卯の花の垣根近う覚えて」(枕二二二)
⑥「中将なりける人の...七十近き親二人を持たるに」(枕二四四)
680:考える名無しさん
22/06/10 11:40:38.65 0.net
私が、日本語の表現をその構成において解釈可能となる記述するのに
英語、フランス語、ドイツ語などの日本語以外の言語をメタ言語と
して活用するのは、別にそれらの言語の方が哲学的な言語として
優れているからというわけではない。いずれの言語における表現
であれ、その言語の境界として規定される範囲内の表現をメタ言語
として用いて適切に記述することは、本来的に困難なのである。
Auch meinem Freunde Behrisch hatte ich manchmal zugesetzt,
er solle mir deutlich machen, was Erfahrung sei? Weil er aber
voller Torheiten steckte, so vertröstete er mich von einem Tage
zum andern und eröffnete mir zuletzt, nach großen Vorbereitungen:
die wahre Erfahrung sei ganz eigentlich, wenn man erfahre, wie ein Erfahrner die Erfahrung erfahrend erfahren müsse. Wenn wir ihn
nun hierüber äußerst ausschalten und zur Rede setzten,
so versicherte er, hinter diesen Worten stecke ein großes Geheimnis,
das wir alsdann erst begreifen würden, wenn wir erfahren hätten,
– und immer so weiter: denn es kostete ihm nichts,
viertelstundenlang so fortzusprechen; da denn das Erfahren immer
erfahrner und zuletzt zur wahrhaften Erfahrung werden würde.
Wollten wir über solche Possen verzweifeln, so beteuerte er,
daß er diese Art, sich deutlich und eindrücklich zu machen,
von den neusten und größten Schriftstellern gelernt, welche uns
aufmerksam gemacht, wie man eine ruhige Ruhe ruhen und wie die
Stille im Stillen immer stiller werden könnte.
Johann Wolfgang von Goethe, "Dichtung und Wahrheit"
681:考える名無しさん
22/06/11 08:53:20.08 0.net
>「湿(しほ)る」という表現に関連付けるなら、重要なのは、《s'infiltrant》
と表裏の関係において「自ずと生じる"absorption(吸収)"」の作用である。
ここで私が、別に何か私という個人に特有の感性による特殊な関係性の
捉え方を示そうとしているわけではないことは、例えば、湿気や臭いを
吸い取るように使はれる「備長炭」がどのような働きをしているのかを
考えてみれば、容易にイメージすることができるはずである。また、
そのような捉え方が、それを表現する発音との関係を含めて、別に
日本語に特有というわけでもないことは、「しほり」という表現が、
英語をメタ言語として利用するなら、「自ずと生じる"seep in"
(し(沁/染/凍/浸/滲)みる)の作用」の名詞化に過ぎないことからも
確認できる。
682:考える名無しさん
22/06/11 09:53:49.89 0.net
>閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
松尾芭蕉、『奥の細道』
Stillness – ah! / seeps into rocks / cicada's voice
(translation in Hiraga and Ross 2013, 26)
Such Stillness … The Cries of the cicadas / Sink into the rocks.
(Donald Keene)
"So still: into rocks it pierces̶ the locust-shrill"
(Harold Henderson)
The utter silence … cutting through the very stone / a cicada's rasp
(by Tim Chilcott)
the stillness … the voice of a cicada / seeping into the crags
(L.P. Lovee)
Ah, tranquility! / Penetrating the very rock, / a cicada's voice.
(Helen Craig Mccullough)
※順不同
683:考える名無しさん
22/06/11 10:24:39.27 0.net
これらは、一番上に引用した芭蕉の句の英訳を適当に拾ってきて並べた
だけで、特に何らかの基準に沿って選別して貼り付けているわけではない。
見比べてみると、他の訳と比べて、最初の"Stillness – ah! ..."はなるべく
直訳を心がけていることを見てとることができる。しかし、「声(こゑ)」
という表現に"voice"を「素直に」割り当てていることにはあまり感心
しない。「声(こゑ)」が、一般に、発音や発声による何らかの表明である
と理解されることを前提にしても、「蝉の声」が直ちに人々に想起させる
のは、それが何らかの表明であることよりも、聴き慣れた具体的な
何らかの種類の「蝉の声」である。他の多くの訳において、「しみ入る」
に、"sink into"、"pierces"、"cutting through"、"penetrating"などの
表現が当てられ、英語の表現上の慣習が優先されて、元の日本語の表現
の意味合いがまったく伝わらなくなってしまっているのに対して、
それを忠実に反映させるように"seeps into"と訳されていることは、
私にはとても好ましく感じられる。
684:考える名無しさん
22/06/11 10:41:03.65 0.net
私は、自分にとって「詩的」であると感じられる表現をとても好ましく感じるが、
それは、私が表現を反省的にメタ言語によって捉えることの助けとなるから
であって、自分で詩作をするわけでも、特に「詩の形式」で書かれたものを
好んで読むわけではない。むしろ、私にとても「詩的」であると強く感じ
られるのは、多くの場合、「散文の形式」で書かれたものであって、例えば、
私は、ペソアの散文の表現は興味深いと感じるが、その詩の表現にはあまり
関心がない。ニーチェ、プルースト、フローベールなどの著作において
私を惹きつけるのは、やはり散文において「詩的」であると感じられる表現
であって、詩人の表現に私が関心をもつのも、それが散文に応用できる場合
に限られる。
685:考える名無しさん
22/06/11 10:48:34.04 0.net
したがって、私は、引用した芭蕉の句をどのように英訳するのが適切である
かを自分で考えてみたとしても、その訳が「(英語の)詩の形式」において
優れたものとなるかどうかには関心がない。これは、私の関心の持ち方で
あって、他の誰かが、芭蕉の句に触発されて、それに対応させるような
形で優れた英語の詩を書こうとする取り組みの価値を否定しようとして
言っているわけではない。以上のことを踏まえたうえで、私が、英語を
メタ言語として利用するなら、この芭蕉の句をどのように理解するのか
を示してみることにしよう。
686:考える名無しさん
22/06/11 11:13:07.00 0.net
まず最初に「閑(しずか)さや」であるが、「や」が何らかの心の動きを
示す感嘆の声であることは間違いなく、貼り付けた英訳でも、
"the stillness …"として、それが「余白として」示されている事例を
以外では、それぞれ、"Stillness – ah!"、"Such Stillness …"、"So still:"、
"The utter silence …"、"Ah, tranquility!"としてそのことが明示されて
いる。それでも、私自身は、「閑(しずか)さや」という表現について、
そのような「読み方」はしない。私はこの句を詠んだ本人ではないので、
その「閑(しずか)さ」によって本人にどのような心の動きが生じたので
あれ、感嘆の声である「や」も、私には、それがどのような心の動きで
あるのかを探る必要があることを示す「問ひ」として作用するに過ぎない。
したがって、この時点ではまだ、私自身には、「閑(しずか)さ」によって
どのような心の動きが伝はることになるのか、判断を保留する他ない。
687:考える名無しさん
22/06/11 11:41:57.72 0.net
次に、「岩にしみ入る」であるが、「しみ入る」という日本語の表現の
意味合ひをそのまま反映させて、それを、引用した事例にも見られるとおり、
"seeps into"や"seeping into"と訳すことが私に好ましく感じられることは、
上に述べたとおりである。Donald Keeneの"Sink into"という表現は、
日本語としては「しず(沈/静/鎮)む」に対応する表現であり、もとの
表現が、"Stillness"/「閑(しずか)さ」に単刀直入に合致するものに
変えられてしまっているので、「しみ入る」によって想起される
イメージを削ぎ落してしまうことになる。それ以外の事例に見られる
"pierces"、"cutting through"、"penetrating"という表現は、日本語
「岩(いは)」の場合でもそうであるように"rock"や"stone"という硬い
物体には、「つらぬ(貫)く」、「き(切)る」、「つ(突)きぬ(貫)く」
というような仕方でしかその内部に入り込むことができないという
常識的なイメージに合わせることを前提としているので、「しみ入る」
によって想起されるイメージを「台無し」にしてしまっていると言える。
688:考える名無しさん
22/06/11 12:04:24.51 0.net
また、L.P. Loveeによる"seeping into the crags"という訳は、「しみ入る」
については日本語の表現に忠実でありながら、(英語においてあまり無理が
感じられないようにするためだろう、)「岩(いは)」を"rock"や"stone"と
訳すことを避けて、"crag"という表現を用いているが、"crag"を辞書で
調べてみると、
>a steep, rugged rock; rough, broken, projecting rock, especially
a sea-cliff," early 14c. < Online Etymology Dictionary
>1. a steep rugged rock or cliff,
2. archaic : a sharp detached fragment of rock< Merriam-Webster
ということで、「岩(いは)」というより「崖」のイメージで、これなら
「入り込む隙間」はいくらでもありそうなので、全体として訳を見れば、
妥協の産物であるように感じられる。
689:考える名無しさん
22/06/11 13:39:44.50 0.net
「岩(いは)」は、"stone"と訳すことも、"rock"と訳することもできるが、
「蝉の声」が「しみ入る」のは、あくまでもその"stone/rock"の内部で
あって、「断崖」のような石や岩が層状に集積しているところに
「しみ入る」わけではないので、「岩(いは)」を単数の"the stone/rock"
とするか、"the stones/rocks"とするかは、それほど大きな問題である
とは私には思えない。ただし、"the stones/rocks"とすれば、明確に
複数性が意識されるので、「岩(いは)」/"stone/rock"に「しみ入る」
作用のイメージも複数に分散されたものとなり、そのことが私には
好ましくないと感じられる。
690:考える名無しさん
22/06/11 13:59:37.54 0.net
最後に「蝉の声(こゑ)」であるが、引用した事例では、それぞれ、
"cicada's voice"、"The Cries of the cicadas"、"the locust-shrill"、
"a cicada's rasp"、"the voice of a cicada"、"a cicada's voice"
と訳されていて、「声(こゑ)」に対する訳語としては、"voice"が
最も多く見られる。しかし、既に述べたとおり、ここにおいて
「蝉の声(こゑ)」が想起させるのは、「岩にしみ入る」効果を感じ
させる「声(こゑ)」の具体的な性質であって、一般に、何らかの
意を表明するものとして理解される「声(こゑ)」/"voice"ではない。
また、英語の"voice"という表現は、私には呼びかけとしての日本語の
「を」の発声を想起させるものであり、「『蝉』が『を!』と呼び
かける」イメージは、私には著しく奇異で不適合なものに感じられる。
691:考える名無しさん
22/06/11 14:19:50.44 0.net
"The Cries"は、一般的には、日本語の「叫び」として理解され、語源的には、
フランス語の"crier"の用法に見ることができるとおり、「きしみ」などの
音も表現するが、この場合に適合しているとは思えない。"the locust-shrill"
については、昆虫そのものを変えてしまっていることが論外だが、"shrill"
は、「金切り声」と訳されることもあるように、この英訳では、"岩"を
「つらぬ(貫)く」ような鋭さがイメージされているのだろう。訳として
適合するものではないが、「蝉の声(こゑ)」をどのようにイメージすべき
かを考えるヒントにはなる。"rasp"は、やすりをかけるときの摩擦音など
表すのに用いられる表現であり、「『岩にしみ入る』効果を感じさせる」
こととは無関係に、一般的に「蝉の声(こゑ)」のイメージを伝えるのに
かなりよく合っていると言うことはできるだろう。ただし、「やすりを
かけるときの摩擦音」にある程度は近いと言うことができても、
そのような「声(こゑ)」が、どのようにして「『岩にしみ入る』効果を
感じさせる」のかを考える必要がある。
692:考える名無しさん
22/06/11 14:33:08.03 0.net
この芭蕉の句をWikipediaで参照すると、鳴いていた「蝉」が「アブラゼミ」
であったのか、「ニイニイゼミ」であったのかが論争の対象とされたことが
記載されている。確かに蝉の鳴き声は、種類ごとに特徴があり、異なるので、
「蝉の声(こゑ)」の蝉がどの種類であったのかを考えることには意味がある
だろう。それでも、この句において表現として重要なのは、その「声(こゑ)」
が「『岩にしみ入る』効果を感じさせる」ことであって、蝉の種類を特定
することでも、その蝉が単数であったか、複数であったかを特定すること
でもない。英訳では、単複のいずれかを選択することが要求されるので、
この句にまつわるエピソードに基づいて、蝉の数を単数として特定する
ことは、可能な選択ではあるが、私には、そのような表現解釈の手法は、
好ましいものとは思えない。例えば、梅とウグイスが詠まれた歌では、
実際に梅の花が咲く時期と、ウグイスが訪れる時期はずれるのだから、
そのような表現解釈の手法では、鳥の種類の認識が間違っている、
または歌が荒唐無稽であるといったような解釈が導き出されるが、
そのような歌の解釈の仕方が有益であるとは私には思えない。
693:考える名無しさん
22/09/19 16:01:50.85 0.net
生物学的視点に基づくオブジェクト指向生体機能シミュレーション
URLリンク(jglobal.jst.go.jp)
解剖学や生理学でもチンコの話になるとぐっと理解しやすくなるのはなんでなんだろ!
URLリンク(tottokotokoroten.hatenadiary.com)
ところで「チンポがシコシコする」という日本語表現は、学術的に正しいと言えるのか?
チンポ「を」シコシコするのではなくて、チンポ「が」シコシコする。この場合、「チンポ」は主語となる。
オブジェクト指向で言う「集約」は2種類あって、全体(俺)と部分(チンポ)が繋がっている場合と、
全体(俺)と部分(チンポ)が別々になっている場合とが考えられる。けれども「チンポ」はそれ自体
が独立した生き物であり、所有者の意思とは無関係に、自ら勃起して「シコシコする」。
例えば寝てる時にエロい夢みて朝起きてみたらチンコが勃起して射精してたとか。
違うか?
「胸がドキドキする」は良いが、「チンポがシコシコする」はダメな理由を、50字以内で述べろ!
694:考える名無しさん
22/09/22 17:36:24.13 0.net
しこしこ手でしごいてないチンポがシコシコするは誤りだからだめ
695:考える名無しさん
22/09/22 20:47:14.56 0.net
押忍
696:考える名無しさん
23/01/18 20:57:09.19 0.net
意味の構造を哲学しよう