意味の論理構造の哲学at PHILO
意味の論理構造の哲学 - 暇つぶし2ch450:考える名無しさん
22/04/30 09:41:45 0.net
ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』が、「『なほ(直)び』の書」
(ここで、「なほび」とは「な(萎)え」/「なや(悩)み」から回復する
ことであり、本居宣長の用いた用語であると考えて差し支えない)である
とすれば、ペソアの『不安の書/不穏の書』(ペソアの"desassosego"と
いう表現の用法に、「不安/不穏」という日本語が想起させるイメージ
はあまりうまく適合していないが、代替の適切な表現を見つけることも
そう容易ではない)は、「『侘(わ)び』の書」であると言えるだろうと
私には思える。

451:考える名無しさん
22/04/30 10:38:30 0.net
240 名前:考える名無しさん 2022/04/30(土) 09:14:48.15 0
>美しさとして評価される「侘(わ)び」とは、英語で説明的に表現するなら、
"art of adaptation by self-diminution of exigence"であって、
それは、自らの置かれた状況に適応する己の生きる「術(すべ)」/"art"の
自覚である。したがって、それを「禁欲主義の『をし(教)へ』」に変えて、
他者に「侘(わ)ぶ」ことを要求する/《exiger》ことは、文字通り
倒錯であり、その「術(すべ)」/"art"を実践することに悖(もと)る振舞ひ
であると言わなければならないだろう。<

URLリンク(arquivopessoa.net)
>ESTÉTICA DO DESALENTO
Já que não podemos extrair beleza da vida, busquemos ao menos
extrair beleza de não poder extrair beleza da vida.
Façamos da nossa falência uma vitória, uma coisa positiva e erguida,
com colunas, majestade e aquiescência espiritual.<

452:考える名無しさん
22/04/30 10:47:13 0.net
ニーチェとペソアの考へ方は、既に指摘したとおり、明らかに対照的な
表現を生成するのだが、そのいずれの思考も、生きることに対してリバース・
エンジニアリング的に働くという点でとてもよく似通っている。

453:考える名無しさん
22/04/30 15:40:51.31 0.net
>>262-265
日本語の「を(終)ふ」という表現は、「を」の発声によって指し示される
「空虚」を、メタ言語的な指示として用いられている「~ふ」によって
「ひっくり返す」ことにより、「満腔をもたらす」ことを意味すると
解釈されると指摘したが、このように「空虚」をひっくり返すことに
よって「満腔」がもたらされるという捉え方は、日本語の話者に限定される
ものではない。次の表現もやはり、前掲のペソアの著作からの引用である。
URLリンク(ldod.uc.pt)
>Gosei não ser nada com uma plenitude de bonança espiritual,
cahindo no regaço azul das minhas aspirações.

454:考える名無しさん
22/05/01 09:13:54.18 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
>橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等
>橘の本に我を立て下枝取りならむや君と問ひし子らはも
>たちばなの もとにわをたて しづえとり ならむやきみと とひしこらはも
「たちば『な(汝/己)』」の もとに「わ(我)」をたて しづえとり
「『な』らむ」や「きみ(君)」と とひしこらはも

455:考える名無しさん
22/05/01 09:28:54.52 0.net
こちらは、一年半ほど前の私自身の書込みであるが、この推論を裏付ける
例は、万葉集を検索によっても容易に裏付けることができる。
>587考える名無しさん2020/10/06(火) 09:33:41.340
話が横に逸れてしまったが、ここで問題にしているのは、指示詞の「あ」であり、
「あなた」の「あ」である。この「あ」は、中国語では「岸ピンイン àn」
(1(そそり立って)高い.2 尊大である.⇒傲岸 ào’àn ) として用いられた
表現の流用であると考えられることを、私は以前から指摘してきた。
URLリンク(en.wiktionary.org)
Old Chinese
(Baxter–Sagart): /*[ŋ]ˤa[r]-s/
(Zhengzhang): /*ŋɡaːns/
現代の日本語で用いられる「岸」という漢字からは少しイメージが湧きにくい
かもしれないが、関連する漢字として用いられてきた「崖」をイメージして
みるといいだろう。<
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3541番
>安受倍可良 古麻<能>由胡能須 安也波刀文 比<登>豆麻古呂乎 麻由可西良布母
>あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3539番
>安受乃宇敝尓 古馬乎都奈伎弖 安夜抱可等 比等豆麻古呂乎 伊吉尓和我須流
>あずの上に駒を繋ぎて危ほかど人妻子ろを息に我がする
ここで「あず」が意味しているのは、「あ(≒崖)ず(≒崩れ)」であると
考えられ、岩波古語辞典でも、「あず」の説明として「がけのくずれた所」
と記載されている。

456:考える名無しさん
22/05/01 09:48:06.53 0.net
誰でも容易に気づくはずのことに私以外の誰も気づかないということは、
まずあり得ないので、それを私以外の誰も指摘していないように見える
ことは、私にはとても「奇異に感じられる」だけでなく、このように
明示的に指摘してさえ、「誰もそれに気づく様子がない」。そのような
「違和感」は、私にとって、この特定の事例に限定されるものではなく、
毎日の生活における日常的なものである。私には、「不安/不穏」と
訳されているペソアの"desassosego"という表現は、そのように
奇異に感じられる、自らと世界の、また「な(汝/己)」と「な(汝/己)」
の「違和」の感覚を伝へようとしているように思われる。

457:考える名無しさん
22/05/01 09:55:40.44 0.net
"desassosego"という表現は、その語源的な解釈をそのまま直訳するなら、
安定感のない「す(据)わりの悪さ」である。
URLリンク(en.wiktionary.org)
Etymology
From Old Portuguese sessegar, from Vulgar Latin *sessicāre,
from Latin sessus, past participle of sedeō.

458:考える名無しさん
22/05/01 13:30:36.03 0.net
>>455
誤:容易に裏付けることができる。
正:容易に見出すことができる。

459:考える名無しさん
22/05/01 13:49:58.29 0.net
引き続き、ペソアの同じ著作からの引用である。
URLリンク(ldod.uc.pt)
>Ventos altos, chiando em coisas paradas, barulhando coisas presas,
arrastrando coisas moveis, erguiam, entre os brados irregulares da chuva,
palavras ausentes de protesto anonymo, sons tristes e quasi raivosos
de desespero sem alma.<
この一節を読んで、"chiando"の"chi"の発声に日本語の「ちはやぶる」の「ち」
や「こち(東風)」の「ち」と共通するものを感じないとすれば、むしろ、
誰にでも普通にあるはずの感覚が働いていないと言えるだろう。しかし、
その共通に働いている感覚を認めたとしても、多くの人々は、それは
「擬音語/擬態語」なのだからよくあることで、別に珍しくもない
という感想だけで済ませてしまう。ところが、そのように、共通に働いている
感覚を示す表現を「擬音語/擬態語」として分類して理解したことにして
しまうことこそが、そこにどのような感覚が働いているのかを省察する
ことなしに済ませようとする「物象化」なのである。そして、「ちはやぶる」
という古語の表現が意味不詳に感じられるようになることも、その物象化に
起因していると言うことができる。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第2巻 101番
>玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
>玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
>たまかづら みならぬきには ちはやぶる かみぞつくといふ ならぬきごとに

460:考える名無しさん
22/05/02 09:47:53.01 0.net
日本語の「を」を用いた表現法には、私にはまだ分からないと感じられる
ものがいくつもある。そのうちの一つが「をとこ/をとめ」の「をと」である。
現代語では、「おとこ(男)」と「おんな(女)」が対比されているが、
万葉集では、「をとこ/をみな」という対比も見られるものの、
大多数の事例では「をとこ」と対比されるのは「をとめ」である。
岩波古語辞典には、この「をと」を「若返りの水」を意味するように
用いられる「をちみづ」の「をち(「変若」という漢字が当てられることが
多い)」と同根としているが、これは、私には極めて疑わしく思える。
なぜなら、「をちみづ」の「をち」(これも私にはまだ分からない表現
だが)は、まさしく「若返る」という意味合いで用いられており、
「をち」の「ち」を「力(ちから)」に結び付けるなら、「力を取り戻す」
という解釈は成立しても、「若い力がある」という解釈は成立しないように
思われるからである。さらに、「をち」には、これとは別に、「をちこち」
という表現があり、こちらは、現代語では「あちこち」に吸収されたもの
と思われるが、「遠近」という漢字が当てられることもあり、現代語に
するなら「遠い方、近い方」のような意味合いで用いられている。さらに、
この「をち」の「を」には、「越」、「彼」などの漢字も当てられ、
その当てられる漢字に応じた想起されるイメージの揺れをともなっている
ように思われる。

461:考える名無しさん
22/05/02 10:03:34.87 0.net
「をとこ/をとめ」に戻ると、私には、これらの表現が、語源的に「若い男/女」
を意味していたという解釈自体が疑わしく思える。なぜなら、そのような
解釈をもたらす手続きは、暗黙の物象化に基づいているからだ。それは、
まず、ある対象が目の前に存在し、その対象には、「人」という属性が
あり、さらにその「人」に「男性/女性」という属性があり、そのうえ、
その「男性/女性」には、「若い」という属性があるという、物象化した
分類による命名法である。日常的な言葉遣いにおいて何かを指し示す
ように呼ぶとき、普通、人はそのような手続きに従うわけではないだろう。
誰かがそこに居たとして、その誰かを指す言葉は、普通、その指し示し
が自らのニュートラルな態度を反映するなら、「この人」、「あの人」
であり、見下しの態度を反映するなら、「こいつ」、「あいつ」であり、
敬意を反映するなら「この方」、「あの方」であり、そのような捉え方
は、その人物が男性であるか、女性であるかという分類より先である。
しかも、これは、制度的な身分による区別が明示的に排除されるべき
とされる現代の言葉遣いにおいてさえ当たり前のことであるのだから、
まずは制度的な身分を差別することが言葉遣いにおいて要求された
古語の日本語において、最初にニュートラルに対象を「人」として
分類し、それをさらに「男女」で分類し、そのうえで「老若」を
分類するという手続きに従った言葉遣いをしたと考えて、表現を
解釈するのは、あまりにも不自然だろう。

462:考える名無しさん
22/05/02 10:31:14.83 0.net
(他人に納得してもらうために当然、必要とされる)詳しい検討を省略して、
私の先入見による結論だけ述べれば、「をとこ/をとめ」は、無論、
「こ/め」の対比において男女の区別を伴うが、「をと」は、「若い」
ことを意味するのではなく、「『求め』の対象となる」イメージを
想起させるように用いられたのではないかという気がする。また、
この「をと」を「をち」と関連付けるなら、「若返りの水」である
「をちみづ」に関連付けるより、「を(遠/彼/越)ちこち」の
「を(遠/彼/越)ち」に関連付ける方が妥当だろうと思われる。
というのも、現代の日本語の用法でも、「彼氏/彼女」と表現すれば、
それは、単に三人称的に或る男性/女性を指し示すことになるだけ
ではなく、男女関係にある人を指すことにもなるからである。
ところが、ここで、「彼氏/彼女」の「彼」、つまり、「か(彼)の」が
含意しているのは、「を(遠/彼/越)ちこち」の「を(遠/彼/越)ち」が
そうであるように、話者と話者の相手から三人称的に離れている様態
の指し示しだろう。さらに、「をとこ/をとめ」が対比されるのは、
年寄りの男性/女性というよりも、「やつこ(奴)」ではないかと思われる。
「やつこ(奴)」は、この表現が語源的にどのように解釈されるにせよ、
現代語の「やつ(奴)」の用法にも反映されるとおり、見下される者であり、
使はれる者であり、軽くあしらわれる者であり、古語においては、
三人称的に用いられることも、卑下として自らを指し示すように用いられる
こともある。

463:考える名無しさん
22/05/02 10:44:41.43 0.net
「やつこ(奴)」が私に想起させる外国語の表現は、例えば、フランス語の
《racaille》であり、それに関連する英語の"rascal"である。
URLリンク(www.etymonline.com)
rascal (n.)
mid-14c., rascaile "people of the lowest class, the general mass;
rabble or foot-soldiers of an army" (senses now obsolete), also singular,
"low, tricky, dishonest person," from Old French rascaille "rabble,
mob" (12c., Modern French racaille), as Cotgrave's French-English
Dictionary (1611) defines it: "the rascality or base and rascall sort,
the scumme, dregs, offals, outcasts, of any company."

464:考える名無しさん
22/05/02 10:50:27.53 0.net
ところで、現代の社会思想において、「をとこ/をとめ」と「やつ(ら)」の
対比は消え去ったのだろうか。「男(おとこ)」と「女(おんな)」の対比ばかり
が議論されるが、実際の社会のイデオロギーにおいては、その表向きの
対立の陰に隠れて、今でも、「をとこ/をとめ」と「やつ(ら)」の対比の
方が意識に強く働きかけているのではないか。

465:考える名無しさん
22/05/03 10:26:15.22 0.net
>「をと」は、「若い」ことを意味するのではなく、「『求め』の
対象となる」イメージを想起させるように用いられたのではないか
という気がする。<
「をとこ/をとめ」の「をと」から私が想起するイメージを伝へるように
「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないかと思う。この「をと」を
「を(復/変若)つ」の活用形と考えて、「をち(復/変若)みず(水)」という
表現に関連付けるなら、それを、岩波古語辞典の記載のとおりに「をちみづ」
から「若い生命力が活動すること」と解釈するより、むしろ、逆に
「を(復/変若)つ」を英語の"to reclaim"に対応するものとしてメタ言語的に
記述して、「をちみづ」の方を"power reclaiming water"と解釈する方が
自然ではないかと思う。これについては、以前に同じようなことを書いたような
気もするが、検索しても見当たらないので、書き込んでおく。

466:考える名無しさん
22/05/03 10:51:50.17 0.net
>「をとこ/をとめ」の「をと」から私が想起するイメージを伝へるように
「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないかと思う。<
私には、「をとこ/をとめ」という表現がもともと伝へていただろうその
ような感覚は、現代の日本語にもある程度、引き継がれているのではないか
と思う。その表れであると思われるが、「男/女がすたる」という慣用句
である。岩波古語辞典の「すたれ【廃れ】」の項目には、「すたれもの
【廃者】」という表現について、「世の中から見捨てられた者。役に
立たない者。」と説明される。したがって、「男/女がすたる」と表現
されることは、逆に見れば、「男/女である」こと自体が、立派なこと
(≒"worthy of reclaim")であるとイメージされていることになるだろう。

467:考える名無しさん
22/05/03 11:09:14.63 0.net
「を(復)つ」に英語の"to reclaim"を対応させることの妥当性は、
次の万葉集の歌の「をち」の用法からも確かめることができる。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第17巻 4011番
>鷹はしも [中略] 手放れも をちもかやすき
URLリンク(www.etymonline.com)
reclaim (v.)
early 14c., reclaimen, "call back a hawk to the glove," from Old French
reclamer "to call upon, invoke; claim; seduce; to call back a hawk"
(12c., Modern French réclamer) and directly from Latin reclamare
"cry out against, contradict, protest, appeal," from re- "opposite,
against" (see re-) + clamare "cry out" (from PIE root *kele- (2)
"to shout").

468:考える名無しさん
22/05/03 11:34:25.09 0.net
古語の「をちこち【遠近・彼方此方】」という表現は、直訳するなら、
フランス語の《de près comme de loin》という表現の順序を逆にして、
《de loin comme de près》として理解することができ、現代の日本語の
「あちこち」に吸収されたものと考えられる。ところで、「あちこち」
という表現も「あち(遠方)こち(近方)」を表現し、「あち(彼方)こち(此方)」
を表現するのだから、「をちこち」と「あちこち」の両方は必要なく、
「あちこち」だけになっても、表現として伝へられるものは何も
失われていないように思えるかもしれない。しかし、そうではない。
おそらく、口語の発音上、「を」と「お」が区別されなくなったので、
「をちこち」によって本来、伝へられていたイメージを想起させる
ことが難しくなったので、「をちこち」は、「あちこち」に吸収される
ことになったのだろうが、それによって失われたのは、
「深度」(それを視覚的に捉えるにせよ、聴覚的に捉えるにせよ)
である。「あちこち」があちらにも、こちらにもという散在性を
イメージさせる表現であるのに対して、「をちこち」の「をち」は、
単に「あちら」に離れていることをイメージさせるのではなく、
そこからこちらまでの「深度」、《du fond》をイメージさせるのである。

469:考える名無しさん
22/05/03 11:43:41.32 0.net
>「をちこち」の「をち」は、単に「あちら」に離れていることをイメージ
させるのではなく、そこからこちらまでの「深度」、《du fond》を
イメージさせるのである。<
このことは、一般には、「以後」を表現していると説明される
「をち【遠・彼方】」の用法、また「うつつ(現)」の転として、(私に
言わせれば)誤って解釈される「をつつ/をつづ」という表現を見ても、
すぐに確認することができる。この「を」に英語を対応させるなら、
"ever since"の"ever"ということになるが、この場合も「を」は、
遠近法における「深度」を表現している。

470:考える名無しさん
22/05/03 12:03:59 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第18巻 4094番

>伊尓之敝欲 伊麻乃乎追通尓 奈我佐敝流 於夜<乃>子等毛曽 大伴等
佐伯乃氏者 人祖乃 立流辞立 人子者 祖名不絶 大君尓 麻都呂布物能等
伊比都雅流 許等能都可左曽
>いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と
佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと
言ひ継げる 言の官ぞ

この「いにしへよ 今のをつづに」が、メタ言語としてフランス語の表現を
用いて説明するなら、《depuis la nuit des temps》に相当し、「をつづに」
の「を」が、フランス語の場合には、《la nuit》によって表現される
遠近法における「深度」をイメージさせるように用いられていることは、
フランス語を知っている人には、一目瞭然だろう。言語表現は、
「近くから」/《de près》丹念に見ているだけでは、適切に解釈
することができないのである。重要なのは、その表現の働きを適切に
解釈することを可能にするネットワークを視野に入れることだ。

471:考える名無しさん
22/05/04 08:26:31.03 0.net
>この「をと」を「をち」と関連付けるなら、[...]「を(遠/彼/越)ちこち」
の「を(遠/彼/越)ち」に関連付ける方が妥当だろうと思われる
>「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないか
このように指摘したが、それが実際に歌の解釈に役立つかどうか確かめてみよう。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第7巻 1372番
>三空徃 月讀<壮>士 夕不去 目庭雖見 因縁毛無
>み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし
>みそらゆく つくよみをとこ ゆふさらず めにはみれども よるよしもなし

472:考える名無しさん
22/05/04 09:10:47.55 0.net
この歌では、夜の月の光に照らされてその姿が見え、別の女性のところに通って
ゆく男性が、「月読壮士(つくよみをとこ)」として月に喩えられている。
>み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし
「み空行く」が表現しているのは、「目の前の空間的な広がりを渡ってゆく」
ことであり、「月読(つくよみ)」には、日本書紀において「月夜見尊」として、
また古事記において「月読命」として神格化された月と、「月の出た夜に
(その姿が)見える」、つまり、「夜に月の光に照らされて見える」ことが
掛けられており、「壮士(をとこ)」は、夜ごとに出る月に喩えられると
同時に、夕闇のなかで月の光に照らされてその姿が見える存在である。
「夕さらず」とは、英語にすれば、"every evening without fail"であり、
現代の日本語にすると、「毎夕欠かさず」ということになる。したがって、
「夕さらず目には見れども」は、「毎夕欠かさず(その姿)を目にするけれども」
ということになる。「寄るよしもなし」とは、「自分のところに寄ってくる
わけ/理由もない」ということで、その「をとこ」が異性として自分のところ
に通ってきてくれたならよいのにと願う気持ちと、その願いがかなふことを
期待できる理由がないという自覚を表現している。したがって、この
歌において、「をとこ」は、空間的な遠近法の深度において自分から離れて
いる、つまり、「『そこからここまで』の空間的な離間を感じさせる」存在
であるとともに、「自分のところに来てくれることが願はれるように立派な」
(≒"worthy of reclaim")存在であるとイメージされていることになり、
「をとこ」の「をと」を、「を(遠/彼/越)ち」および「『求め』の対象となる」
ことに関連付ける、私の提示した語源的解釈は、少なくともこの場合には、
うまく適合していると言えるだろう。

473:考える名無しさん
22/05/04 10:53:36.29 0.net
>>467
「を(復)つ」に英語の"to reclaim"を対応させることが妥当である場合がある
にしても、「をとこ/をとめ」の「をと」に"worthy of reclaim"という訳を
当てて、"worthy of ~"という表現を導入するのは、語源解釈として恣意的
ではないかという批判はあり得るだろう。しかし、そのような意訳が恣意的に
見えて気に入らないなら、文法形式に拘って、「をと」に"to be reclaimed"を
割り当ててもよく、すると、「をとこ/をとめ」は、"man/women to be
reclaimed"ということになる。実際、私は、"man/women worthy of reclaim"
という意訳を導いたのは、そこからであり、"to be reclaimed"では、私が
どのようなイメージを想起しているのか伝はりにくいと考えたために言い換えた
に過ぎない。意訳によってそのイメージが伝へられたなら、今度は、元の
文法形式に拘った表現に戻っても何ら不都合はない。

474:考える名無しさん
22/05/04 11:10:40 0.net
ところで、今回、「をとこ/をとめ」の「をと」について検索して調べている
間に、少なくとも私には、とても重大に思へることに気づいてしまった。
それはあまりにも重大であるため、日本語を対象とした国語学、日本語学、
言語学の信頼性を根幹から揺るがすように私には思へるものである。

私は、専門の研究者ではなく、ネット検索と地元の図書館を利用する
一般人であり、国語学、日本語学、言語学関連の蔵書が自宅にある
わけでもなく、こららの分野を見渡すことのできるような知識がある
わけではない。自宅にはせいぜい、高校時代に利用した岩波古語辞典が
あるに過ぎない。それでも、今では、ネットで検索すれば、一般的な
日本語の表現であれば、それをキーワードとして検索すれば、代表的な
辞書に記載される簡潔な説明が検索結果としてヒットして、それを
参照することができる。

475:考える名無しさん
22/05/04 11:31:32 0.net
ここで私が「とても重大に思へること」というのは、日本語における「音(おと)」
という表現についてである。現代仮名遣いでは、口語の発音に合わせて表記が
簡略化されて、「を」の表記が、助詞として用いられる場合を除き、「お」に
変更されたことは、よく知られている。それでも、古語は、古語の表記において
読まれ、解釈されるのだから、古語の辞書では、当然、旧仮名遣いで項目が
立てられることになり、実際、岩波古語辞典でもそうなっている。

ところが、岩波古語辞典では、「おと(音)」の項目はあっても、「をと(音)」
の項目はない。このため、私は、今回、「をとこ/をとめ」について考察する
ために、「をと」をキーワードにして熱心に検索をするまで、「音」の読み
は、「おと」であることが確定していて、「音(おと)」であることに何の
疑いももっていなかった。しかし、とても奇妙なことに、「をと」で検索
すると、明白に「音」に対応するものとして用いられた「をと」が
おびただしい数で歌に詠まれていることに気づく。そこで、その表記
が用いられている文献がどのようなものであるのかを検索してみると、
それが単純な誤記ではなく、権威があるとされる歴史的に重要な文献
の記載に見られるものであることが判明した。例えば、それは、
次のような文献である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)群書類従
>古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。
寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。
歴史学・国学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。 <

476:考える名無しさん
22/05/04 11:44:54.77 0.net
にもかかわらず、既に述べたとおり、「をと(音)」については、岩波古語辞典
は一切触れておらず、それだけでなく、「をと」&「音」をキーワードとして
検索しても、「おと(音)」と「をと(音)」の表記の違いについて説明する辞書
の記載も、これについて解説しようとするサイトも、私が調べた限りでは、
まったく検索結果としてヒットしない。では、なぜそれが、
>日本語を対象とした国語学、日本語学、言語学の信頼性を根幹から揺るがす
ようなことであると私に感じられるのか。それは、「音」について
考えることは、これらの学問にとって中心的な課題なのだから、
「おと(音)」と「をと(音)」の関係を不問に付しているとすれば、それは
意図的な問題意識の抑圧であるとしか思へないからである。さらに、
「おと(音)」と「をと(音)」の違いが無視されて、表記が「音(おと)」に
まとめられていることは、古典文献の解釈に重大極まりない影響を及ぼす。

477:考える名無しさん
22/05/04 11:55:34 0.net
例えば、古今和歌集の次の歌を参照してみるといい。

>紀貫之
あふことは雲ゐはるかに 鳴る神の音にきゝつゝ恋ひわたるかな
読人しらず
片糸をこなたかなたによりかけて あはずは何をたまのをにせん
(古今和歌集巻第十一 恋歌一482.483)<

「鳴る神の音」と表記される「音」は、「おと」だろうか、「をと」だろうか。
検索すると、「をと」と読まれる事例がヒットし、「音」を「おと」と読むのと、
「をと」と読むのとでは、それによって想起されるイメージがまったく異なる。

478:考える名無しさん
22/05/04 12:06:52 0.net
さらに、現代の日本語においてもときとして慣用句として用いられる、
「音に聞く」という表現がある。

URLリンク(kotobank.jp)音に聞く-453239
>おと【音】 に 聞(き)く
? 人づてに聞く。うわさに聞く。
※万葉(8C後)七・一一〇五「音聞(おとにきき)
目にはいまだ見ぬ吉野川六田(むつだ)の淀を今日見つるかも」
? 世評が高い。有名である。
※金葉(1124‐27)恋下・四六四「音に聞く高師の浦のあだ波は
かけじや袖の濡れもこそすれ〈紀伊〉」<

この「おと(音)」と読まれるとされる「音」は、本来的に「おと」なのだろうか。
本来は「をと」と読まれるべきものではないのか。というのも、それを「をと」
と読まれるとした場合、これとはまったく無関係の文脈で検討して「をとこ/をとめ」
の「をと」に対応するとした英語の"to be reclaimed"から類推して、この場合の
「音(をと)」には、フランス語の《réclame》という表現がそのままぴったりと
当てはまると考えることができるからだ。偶々にしては出来過ぎてはいないだろうか。

479:考える名無しさん
22/05/04 12:09:43 0.net
人文学は反人文学の総本山なのか?

480:考える名無しさん
22/05/04 12:12:19 0.net
誤:こららの分野を
正:これらの分野を

481:考える名無しさん
22/05/04 15:13:40.43 0.net
>>476-478
これについて、現にそうなっているのとは逆の状況を想定してみれば、
これがどれほど重大な影響を及ぼしているのかに気づくはずである。
逆の状況とは、文献において「をと」と表記されているのを
「音(おと)」という表記にまとめて整理してしまうのではなく、
「をと(音)」と「音(おと)」の表記の揺れを許すことだ。
その場合、「音に聞く」という現代でも慣用句として用いられる
表現も、「音(をと)に聞く」と読まれる可能性が意識されることになる。
すると、その「音(をと)」という言葉の用法から、フランス語を知っている
人であれば直ちに《réclame》が対応する表現として想起されるはずである。
さらにそこで、日本語の「をと」とフランス語の《réclame》の対応関係
を想定したなら、「をとこ/をとめ」の「をと」、「をちみづ」の「をち」、
鷹を呼び戻す場合の「を(復)つ」という表現を解釈するのにも《réclame》
の動詞形である《réclamer》を応用できるのではないかという考えは、
誰にでもすぐに思い浮かぶことになるだろう。つまりは、「音」に対応する
「をと」という表記を無視し、それを「音」または「おと」の表記に変更
して消し去ることで、現代仮名遣いの規範は、そのような解釈が自然に
想起される可能性を、(その結果が意図されたものであるにせよ、そうで
ないにせよ)積極的に阻害していることになる。しかも、この場合、「をと」
という表記の存在の無視と消去は、積極的な変更としてしか行われ得ない
のだから、その説明が不在であることには、抑圧の意図が働いていると
疑わざるを得ないだろう。

482:考える名無しさん
22/05/04 15:46:22.19 0.net
「を」/《vouloir》に対する応(こた)へがない、あるいはその応(こた)へ
に効験(かひ)がないのであれば、それによりもたらされるのは、
似非数学モデルを利用するなら
-1(≒呼びかけの「~を」)・1(≒無効性)=-1(≒そこにある「欠如/空虚」)
ということになり、それでも、そのように捉えられること自体が、
そこに「欠落/空虚」があることに対する強い情動を喚起する。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第13巻 3344番
>嘆けども 験をなみと いづくにか 君がまさむと
天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿猪の 行きも死なむと 思へども
道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 哭のみし泣かゆ
しかし、「を」を無視して、それを消去するように「お」にまとめてしまう
ことは、文字通り、「を」/《vouloir》を「な(無)みす」る行為であり、
それをやはり似非数学モデルを用いて表現するなら、
-1(≒呼びかけの「~を」)・0(≒無化)=0(≒「~を」があったことの否認)
ということになり、まさしく「を」/《vouloir》の表出の抑圧以外の
なにものでもない。

483:考える名無しさん
22/05/04 19:28:35.30 0.net
>>466
>「男/女がすたる」と表現されることは、逆に見れば、「男/女である」
こと自体が、立派なこと(≒"worthy of reclaim")であるとイメージされて
いることになるだろう。<
「男/女がすたる」とは逆の表現として「男/女を上げる」という言い方が
ある。この場合、「男/女を上げる」の「上げる」は、英語を用いて
説明するなら、"to be highly acclaimed"という意味合いを表現している
はずである。

484:考える名無しさん
22/05/05 00:48:53.79 0.net
「男/女がすたる」と「男/女を上げる」の対比において問題にされている
のはどのようなことだろう。それは、「『男/女』としての『面目』に
かかわる」ということではないのか。
ここで「面目」について検索すると、次のように記載されている。
URLリンク(kotobank.jp)面目-643205
デジタル大辞泉「面目」の解説
>めん‐ぼく【面目】
1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。
めんもく。「面目を保つ」「面目をつぶす」
2 物事のありさま。ようす。めんもく。「従来と異なった面目を呈する」
[類語](1)メンツ・名誉・名・名聞・体面・一分・沽券・声価・信用・
信望・信・信頼・信任・人望・定評・評判・暖簾・覚え・名望・声望・
徳望・人気・魅力・受け<
ここに列挙される類語の大部分は、それらをフランス語をメタ言語として
用いて説明するなら、《ce qui est à réclamer》として記述できるはず
である。「すたる」/「~を上げる」は、《à réclamer》(≒「をと」)
を損なふことになるのか、強化されるのかを問題にしていると考える
ことができるだろう。

485:考える名無しさん
22/05/05 08:19:57.53 0.net
>>258において、私は次のように指摘した。
>数学を隠喩として用いるなら、日本語における「を」は、それが感覚として
空虚を示すことにおいて、日本語の表現を組織化するうえで、数学における
オイラーの等式、e^iπ=-1のように中核的な役割を果たしている。<
「音」という漢字が当てられる表現が「おと」であると考えられるのか、
それとも「をと」であると考えられるのかは、単に「単語」を区別する
弁別性の問題に過ぎないわけではなく、日本語の言語表現の解釈の根本に
かかわる問題である。例えば、「訪れ」は、「音連れ」であるとされる
のだから、その「音」が「おと」であるのか、「をと」であるのかは、
「春の訪(おとづ/をとづ)れ」と表現するときに、その言語表現自体において、
春が「を(復)つ」、つまり、「呼び戻されるように戻って来る」ものとして
イメージされているのか否かという解釈の根本にかかわることになる。
さらに、現代の日本語では、「おととし」、「おとつい/おととい」
と表記される「一昨年」、「一昨日」は、旧仮名遣いでは、
「一昨年(をと・とし)」、「一昨日(をと・つ・ひ/をと・と・ひ)」
であることを考えてみよう。岩波古語辞典では、この「をと」は、
「ヲチ(遠)の古形」であると説明されるが、それが正しいにしても、
ここまでの検討を踏まえれば、この「をと」は、「を(復)つ」という動詞の
活用形であることが明白である。「をと・とし」は、今を起点に年を
ひとつ「戻った(「を(復)と」)」年を指し、「をと・つ・ひ/をと・と・ひ」
も同様に、今を起点に日をひとつ「戻った(「を(復)と」)」日を指して
いる。すると、「二度と来るな」という意味で用いられる「をととひ来い」
という表現には、「今を起点に日をひとつ『戻った(『を(復)と』つ)』日
に(戻って)来い」という意味合いが明示されていることになるだろう。

486:考える名無しさん
22/05/05 08:27:58.07 0.net
>「春の訪(おとづ/をとづ)れ」と表現するときに、その言語表現自体において、
春が「を(復)つ」、つまり、「呼び戻されるように戻って来る」ものとして
イメージされているのか否かという解釈の根本にかかわることになる。<
URLリンク(kotobank.jp)男木-451432
>男木(読み)おとこぎ
精選版 日本国語大辞典「男木」の解説
おとこ‐ぎ をとこ‥【男木・御床おとこ木】
〘名〙 鳥取県などで、山から伐り出し、正月に軒先に立てる栗の木。
年神を迎えるためのもので、門松や若木、年木に当たる。<
この場合も、そのように立てられる木が、「『を』とこぎ」なのか
「『お』とこぎ」なのかは、その象徴としての意味合いを考えるうえで、
決して些細なことではないはずである。

487:考える名無しさん
22/05/05 09:40:00 0.net
『男はつらいよ』という映画シリーズがある。
Wikipediaの「男はつらいよ」の項目を参照し、そこからフランス語の
サイトに移動すると、『男はつらいよ』という題名は、
《C'est dur d'être un homme》と訳されている。
私自身はその一作品も見たことがないので、どのようなストーリーである
のかは全く知らないが、それでも、この仏語の表現は、「男」が「おとこ」
ではなく、「をとこ」であることを前提とした場合、
「男(をとこ)はつらいよ」という日本語の表現の直訳にすらなっていない
だろうと思う。というのも、この仏語訳であれば、別に「つらい」
のが「男(をとこ)」ではなく、(この仏語訳の解釈において現にそう
なっているとおり)「男(おとこ)」を「犬」に置き換えて
《C'est dur d'être un chien》にしたところで、何の問題もなく
そのまま通じるものとなるからである。しかし、「男」が「おとこ」
ではなく、「をとこ」であるとした場合、その仏語訳は、
《C'est dur d'être un homme》ではなく、《C'est dur revendiquer
d'être un homme》となるだろう。すると、「男(をとこ)」を「犬」に
置き換えて、《C'est dur revendiquer d'être un chien》とした
のでは、文法的には問題がなくても、意味をなさない表現となる。
なぜなら、「revendiquer d'être」に相当するのが、「をとこ(男)」
の「をと」であり、「犬」には、そのような表現の要素が含まれて
いないからである。

488:考える名無しさん
22/05/05 10:07:15.29 0.net
さて、このようなことを指摘している人は私以外に誰もいないように
私には見える。私が気づくようなことに専門家を含む大勢の人々の
誰も気づかないように見えるという私が置かれているこの状況には、
なにか私を「不安」にさせる(≒"disquieting")ものがある。それは、
私にとって、私が気づくようなことに人々がまったく気づかないように
見えるのが、人々が本当に気づいていないからなのか、それとも気づいて
いるのに、気づいていないふりをしている、もしくは気づいていないふりを
しなければならないという暗黙の規範に従っているからなのか定かではない
からである。フェルナンド・ペソアが"desassossego"と表現したのも、
そのような感覚ではないかと私には思える。私がほとんどつねに
そのような状況に置かれているのは、他の人々とは異なり、私の感性が
狂っているためだろうか、それとも、私が見渡す限りの大勢の他の人々の
感性がどのようにか麻痺させられているためだろうか。

489:考える名無しさん
22/05/05 10:13:04.76 0.net
私は、この最後の問ひについて、ペソアほど割り切った判断を下していないから
こそ、このような場所に書込みをつづけているのだろうと思う。というのも、
私の書込みは、私がそれを非公開の個人的なノートに記すだけなら、私にとって
すら完全に無意味な行為となるだろうからである。

490:考える名無しさん
22/05/05 15:12:13.43 0.net
万葉集で「おと」と読まれるものとされる「音」が詠まれた歌を検索してみると、
作者が大伴家持とされる歌が次々に検索結果としてヒットする。
その原文を確認してみると、この「おと」と読まれるとされる表現には、
「音」という表記の他に「於登」という表記も見られ、「於」が
一貫して「お」と読まれるものとされていることが分かる。
「音」や「於登」が平仮名でどう表記されるべきであるにしても、
大伴家持という人が、その表現に執着と言っていいほどの強い愛着を
抱いていたことが感じられる。ところで、万葉仮名における「於」の
読みについては、万葉仮名一覧を集計した以下のサイト
URLリンク(www1.kcn.ne.jp)
においても、
>「於」は普通オと発音し、ヲとは発音しない。
と記載されている。しかし、本当にこの「定説」は確実なのだろうか。
少なくとも、大伴家持が作者とされる歌においては、「音」は、一貫して
「をと」と読まれるものとするのでなければ、歌として意味をなさない
だろうと私には思われる。そんなものは私の個人的な感想に過ぎない
ということであれば、大伴家持が作者とされるすべての歌に関して、
私が「をと」と読まれるべきものとする「音」についてだけでなく、
その「音」と「をとめ」その他の「を」を用いた表現の用法との
関係について自分で検討してみるといい。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
>奴婆多麻<乃> 都奇尓牟加比C 保登等藝須 奈久於登波流氣之 佐刀騰保美可聞
>ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも
>ぬばたまの つきにむかひて ほととぎす なくおとはるけし さとどほみかも
例えば、ここでは、「ほととぎす なく『お』とはるけし」ではなく、
確実に「ほととぎす なく『を』とはるけし」だろうと私は考える。

491:考える名無しさん
22/05/05 15:17:43.16 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第20巻 4461番
作者 大伴家持
>保里江欲利 美乎左<香>能保流 <梶>音乃 麻奈久曽奈良波 古非之可利家留
>堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける
>ほりえより みをさかのぼる かぢのおとの まなくぞならは こひしかりける
「かぢの『お』との」ではなく、「かぢの『を』との」である。

492:考える名無しさん
22/05/05 15:28:20.77 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第15巻 3641番
>安可等伎能 伊敝胡悲之伎尓 宇良<未>欲理 可治乃於等須流波 安麻乎等女可母
>暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人娘子かも
>あかときの いへごひしきに うらみより かぢのおとするは あまをとめかも
この歌の作者は不詳とされ、「音」の原文表記は、「於等」であるが、
これもやはり「をと」と読まれなければ、歌として成立しないだろうと
私は考える。私は、国語学において「於」が「お」と読まれなければならない
とする専門家の間の定説がどのような根拠に基づいてるのかまったく知らない。
しかし、自分で万葉集の歌を確認してみるかぎり、この定説は完全に
誤っているとしか考えられない。

493:考える名無しさん
22/05/05 15:51:05.60 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第10巻 2072番
>渡守 船度世乎跡 呼音之 不至者疑 梶<聲之>不為
>渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ
>わたりもり ふねわたせをと よぶこゑの いたらねばかも かぢのおとのせぬ
「ふねわたせ『をと(乎跡)』」に対応する読みが「かぢの『をと』」で
なければ、掛詞にならず、言葉遊びとして成立しないだろう。
言葉遊びとして成立しないとすれば、この歌は、何を詠んだことになるのか。
まさか、専門の研究者でありながら、その程度のことにすら気づかないことは、
通常、考えられないと思うが。

494:考える名無しさん
22/05/05 16:52:10.47 0.net
世の中には、「気づかない方がよかった」、「知らない方がよかった」と
いう人々がかなり沢山いる。私自身は、無駄に好奇心が強いので、その
ように感じることはない。しかし、私が気づいたことについて、嬉々として
書き込んでいる、言いたい放題のことを言っていい気になっていると
思うのであれば、それもまた的外れである。もちろん、私にっとって、
自分が気づいたことについて沈黙しているのは、気詰まりであり、
気が重い。だから、それについて書き込むことには、気晴らしの効果がある
ことは確かである。しかし、私は、自分が書き込むことについて、
自分だけが気づいたのだと思い込むほどの世間知らずではなく、
それほどまでに己惚れているわけでもない。なぜ他の誰もやらないのに、
気晴らしの裏には、私がそれを指摘しなければならない「はめになって
いるのか」という思いが強くある。これは、本来であれば、私のような
者ではなく、専門の研究者が対処していなければならない課題であるはず
である。ただし、そのような課題に専門の研究者が取り組むはずがないこと、
他人に期待することが全くの無駄であることもよく知っているので、自分の
気晴らしを兼ねてそれをやっているだけだ。

495:考える名無しさん
22/05/05 16:53:37.13 0.net
誤:なぜ他の誰もやらないのに、気晴らしの裏には、
正:気晴らしの裏には、なぜ他の誰もやらないのに、

496:うさぎ跳びで校庭一周
22/05/07 23:13:45 0.net
>>482
>当時の歌詞は「なに見てはねる」の箇所が「なに"を"見てはねる」であったが、
1941年(昭和16年)の『ウタノホン (下) 』から、"を"の文字を抜いた歌詞
になったとされている。(by Wikipedia)

うさぎ うさぎ
なに見て はねる
十五夜 お月さま
見て はねる

「を」/《vouloir》/"want"/»wollen«は、なぜ消し去られたのか?

497:考える名無しさん
22/05/07 23:20:57 0.net
Wikipediaの「小槻氏」の項目から:
>小槻氏(おつきうじ/おづきうじ)は、「小槻」を氏の名とする氏族。
第11代垂仁天皇の皇子を祖とする皇別氏族で、平安時代から
小槻宿禰姓を称した。<

>『古事記』では落別王は小月之山公(小槻山君)の祖と記されており、
系図上はこの小槻山君が小槻氏につながる。また『新撰姓氏録』では
「於知別命之後也」と記されている。 <

『古事記』で用いられている表記は万葉仮名なので、「小月」は、
「『お』つき」ではなく、「『を』つき」と読まれるはずである。
さて、「於知別命之後也」の「於知」は、「おち」と読まれるのか、
それとも「をち」と読まれるのか。

498:考える名無しさん
22/05/07 23:25:01 0.net
>文化庁蔵本冷泉為相本「新古今和歌集」(承元三年〈1209〉
六月十九日定家書写本 日本古典文学会複製本)<

これを参照して検索すると、「をと」や「をとつれ」という表記が例外ではなく、
基本となっているように見受けられる。

499:考える名無しさん
22/05/07 23:34:33 0.net
>>496
>うさぎ うさぎ
なに見て はねる
十五夜 お月さま
見て はねる<

問ひが「なに見て はねる」ではなく、「なに見て『を』はねる」
であったとすれば、それに応へる「十五夜 お月さま」は、
「お月さま」ではなく、「を(復)つき(月)さま」、または
「をほ(於保)月さま」=《la pleine lune》であったと解釈できる
可能性があるのではないか。

500:考える名無しさん
22/05/07 23:46:14 0.net
万葉集 第7巻 1276番
柿本人麻呂(柿本人麻呂歌集)
(旋頭歌)
>池邊 小槻下 細竹苅嫌 其谷 <公>形見尓 監乍将偲
>池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ

この歌に与えられている現代語訳では、「をつき(小槻)」は、単に
「槻(ケヤキ)」とされ、「池邊 小槻下 細竹」は、「槻(ケヤキ)の
元に生えている細竹(しの)」であると解釈されている。しかし、
この歌が「旋頭歌」であると明示されていることから考えれば、
「をつき(小槻)」は、水面(みなも)に映った「月」で、その下に
生えているとされる「細竹」もやはり、その「月」に向かうように
水面に映っているものと解釈できる可能性もあるのではないか。

501:考える名無しさん
22/05/08 00:01:06.14 0.net
Wikipediaの「保食神」の項目には、次のように記載される。
>月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、
海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、
それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせる
とは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた
天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。<
「保食神」は、「うけもちのかみ」と読まれるとされるが、この読みは、
「食」に「うけ」を当て、「保」に「もち」を当てているはずだろう。
であるとすれば、万葉仮名では「食」は、「食(を)す」に当てられた漢字
でもあるのだから、「を(食)ほ(保)かみ(神)」という読みも可能なのではないか。
『古事記』において『日本書紀』の「保食神」に対応するとされるのが、
「オホゲツヒメ」である。

502:考える名無しさん
22/05/08 00:12:22.95 0.net
>「を(終)ふ」が、「空虚」を示すように用いられる「を」を再帰表現を
形成する「~ふ」によって「ひっくり返す」ことによって、
「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができる<
私は、先にこのような解釈を示したが、仮にこれが妥当であるとした場合、
「を(終)ふ」を活用すると、直ちに
「をふ」(≒"to complete")⇒「をほ」(≒"plenty")という関係性を
類推により導き出すことができるのだから、「於」が「お」と読まれること
に限定されず、「を」と読まれた可能性もあるとすれば、通常、「おほ」
と読まれるとされる表現に、そのような、つまり、「をほ」(≒"plenty")
に近い解釈を適用できる事例もあることが考えられるのではないか。

503:考える名無しさん
22/05/08 00:17:37.52 0.net
例えば、「オホゲツヒメ」の「ゲツ」は、「月」の音読みとしても
解釈され、「オホゲツヒメ」は、「満月/《la pleine lune》ヒメ」
である可能性もあるのではないか。
>plenty (n.)
mid-13c., "abundance; as much as one could desire; an ample supply,"
from Old French plentee, earlier plentet "abundance, profusion"
(12c., Modern French dialectal plenté), from Latin plenitatem
(nominative plenitas) "fullness," from plenus "full, filled, greatly
crowded; stout, pregnant; abundant, abounding; complete,"
from PIE root *pele- (1) "to fill."<

504:考える名無しさん
22/05/08 00:47:47.82 0.net
私は、ここに提示する可能性について、私自身、そうであると確信して
いるわけではない。ただし、日本語の古語の「お」と「を」の関係に
ついては、そのような可能性も含めて、全面的に再検討が必要だろう
と思っている。

505:考える名無しさん
22/05/08 01:02:04.01 0.net
ところで、万葉仮名では、「人(ひと)」も「一(ひと)」も等(ひと)しく、
「比等(ひと)」と表記されている。つまり、日本語において、「ひと」
とはもとから、「比べて等しい」ことを想起させる表現であること
が分かる。したがって、「他人(ひと)と自分を比べない」ように
するためには、自分を「人(ひと)」とは思わないようにすることが
要求される。

506:考える名無しさん
22/05/08 01:05:24.32 0.net
これこそ、国語の論理としてまず最初に覚えるべきことだろう。

507:考える名無しさん
22/05/08 01:13:47.37 0.net
万葉集 第11巻 2442番
>大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
>大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり
>おほつちは とりつくすとも よのなかの つくしえぬものは こひにしありけり

508:考える名無しさん
22/05/08 07:24:41.53 0.net
>「保食神」は、「うけもちのかみ」と読まれるとされるが、
[...]「を(食)ほ(保)かみ(神)」という読みも可能なのではないか。<
この解釈によれば、「保食神」は、「満月」/"full moon"を表象して
いることになり、これに対して、「保食神」(≒「満月」/"full moon")
を斬ってしまった「月夜見(つくよみ/つきよみ)(の)尊(みこと)」は、
太陰暦におけるひと月である「1朔望月」を表象する「月夜見(つくよみ/
つきよみ)」、すなわち、"moonligt nights(月夜) watching(見)"である
とともに、「つ(尽)き/くよみ(黄泉/闇)」、すなわち、
"exhausting(つ(尽)き/く) darkness(よみ(黄泉/闇))"であると
解釈することができるだろう。現代では、太陰暦の代わりに太陽暦が
使われるようになったので、女性の「月経」に関する以外では
忘れられがちだが、日本語の古語では、「月(つき)」が想起させた
のは、太陽や地球と対比される「物象化された月という天体」
ではなく、月の満ち欠けであり、その期間であったことを思い起こそう。

509:考える名無しさん
22/05/08 07:37:36.97 0.net
すると、定説では、「月(つき)立(た)ち」の音便変化であるとされる
朔日(ついたち)も、そのような月という天体もしくは月という日数を
最初から物象化した見方ではなく、「つ(尽)く」の再帰表現から
形成されたとみられる「終(つひ)」や「つひ(費)え」に結びつけて
「つひ(終)・た(立/発/絶)ち」として解釈することも可能だろう。

510:考える名無しさん
22/05/08 10:32:30.54 0.net
ところで、万葉集の歌に詠まれる「楫の音」は、何を表象しているのだろうか。
「楫の音」をその定説による読みである「かぢのおと」により検索した
だけでも19件のヒットがある。「楫の音」が間接的に含意されて詠まれている
歌の件数を含めれば、さらに数多くの歌があるだろう。
「楫(かぢ)」は、現代の日本語で言うところの、一般に船尾に取りつけられる
「舵」と混同されやすい表現だが、
舵(読み)かじ日本大百科全書(ニッポニカ)「舵」の解説にもあるとおり、
>『万葉集』には「カヂ」が頻出するが、そのほとんどは推進用のオールである。
「漕ぐ」という表現と併せて用いられている事例が多いことから分かるとおり、
「楫の音」とは、現代の日本語にすれば、直接的には「櫂/オールを漕ぐ音」と
いうことになる。

511:考える名無しさん
22/05/08 10:37:30.42 0.net
「舟を漕ぐ」ことに関しては、次の歌に見られるとおり、明白にかなり露骨な
隠喩として用いられている場合もあるが、「楫の音」をそのように限定して
イメージする必要はないし、そうすることは、解釈を無用に狭めてしまうので、
望ましくもない。
万葉集 第20巻 4313番
作者 大伴家持
>安乎奈美尓 蘇弖佐閇奴礼弖 許具布祢乃 可之布流保刀尓 左欲布氣奈武可
>青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか

512:考える名無しさん
22/05/08 11:00:21.79 0.net
万葉集 第20巻 4360番
作者 大伴家持
>御調の船は 堀江より 水脈引きしつつ 朝なぎに 楫引き上り 夕潮に 棹さし下り
この歌に見てとることができるとおり、船でオールを漕ぐ必要があるのは、
まずなによりもそれが流れに逆らうからであり、流れに沿って移動するなら、
現代の日本語の慣用句ともなっているとおり、「流れに棹さす」だけでよい。
さらに、ここで、「楫(かぢ)」は、「引く」ものとしてイメージされている
ことが分かり、ここで「引く」は、一般に水路を誘導することを意味する
ように用いられる「水脈引き」という表現に掛けられているが、それが同時に
想起させるのは、櫂/オールを「漕ぐ」動作がそうであるように「楫(かぢ)
を引く」ことが「『み(身)を引き』寄せる」ことにもなることだろう。
さらに説明するまでもなく、私が提示しようとしている「応へ」は、これ
であり、万葉集に詠まれる「楫の音」が表象しているのは、「櫂/オールを
身に引き寄せる」ときに水面から上がる「櫂/オールの音」であるとともに、
「『み(身)を引き』寄せる」作用そのものである。

513:考える名無しさん
22/05/08 11:03:09.83 0.net
このことからも、「をとめ」の「をと」に掛けられる事例も見られる
「楫の音」は、「かぢのおと」ではなく、「かぢの『をと』」と読まれる
べきものだろうと私は考える。

514:考える名無しさん
22/05/08 12:00:56.21 0.net
>>511
>「楫の音」をそのように限定してイメージする必要はないし、
そうすることは、解釈を無用に狭めてしまうので、望ましくもない。<
同じことは、直接的には「雄鹿」を意味するものとして用いられる
「さを(棹)しか(鹿)」の「さを(棹)」についても言える。無論、
「さを(棹)」は、「雄(を)」の性別を示すように用いられているのだから、
その表象を否認する必要はない。しかし、「さをしか」の「さを」を
そのように限定して捉えることは、解釈を無用に狭めて、多層的に
用いられている言語表現に対する感性を極端に貧しくするものでしかない。

515:考える名無しさん
22/05/08 13:13:35.43 0.net
「をとこ/をとめ」の「をと」の用法については、ポルトガル語の
"vaidade"という表現、および"vaidade"についてフェルナンド・ペソア
が述べていることを対応させて考えてみると、分かりやすくなるの
ではないかと思う。「をとこ/をとめ」であることが「つらい」なら、
「をとこ/をとめ」であることを「降りて」しまえばよいのである。
それは、「身を『やつす』」ことであり、それなりの身分のある
人々にとっては、制度的には、かつては「出家する」ことを意味する
ことになっただろう。
Vaidade e orgulho
O orgulho é a consciência (certa ou errada) de nosso próprio
mérito, a vaidade, a consciência (certa ou errada) da evidência
de nosso próprio mérito para os outros. Um homem pode ser
orgulhoso sem ser vaidoso, por ser ambas as coisas vaidoso e
orgulhoso, pode ser – pois tal é a natureza humana – vaidoso
sem ser orgulhoso.
É difícil à primeira vista compreender como podemos ter consciência
da evidência de nosso mérito para os outros, sem a consciência de
nosso próprio mérito. Se a natureza humana fosse racional, não
haveria explicação alguma. Contudo, o homem vive a princípio
uma vida exterior, e mais tarde uma interior; a noção de efeito
precede, na evolução da mente, a noção de causa interior desse
mesmo efeito. O homem prefere ser exaltado por aquilo que não é,
a ser tido em menor conta por aquilo que é. É a verdade em ação.

516:考える名無しさん
22/05/08 13:27:33.64 0.net
>>499
誤:「なに見て はねる」ではなく、「なに見て『を』はねる」
正:「なに見て はねる」ではなく、「なに『を』見てはねる」

517:考える名無しさん
22/05/08 22:55:04.45 0.net
大切なところで誤記になっている。
>>508
誤:"moonligt nights(月夜)
正:"moonlit nights(月夜)

518:塩なめくじ
22/05/09 08:31:21.10 F2KBW/780.net
moonlit moonlight 違い 検索

519:考える名無しさん
22/05/09 09:01:54.05 0.net
万葉集 第20巻 4317番
>秋野尓波 伊麻己曽由可米 母能乃布能 乎等古乎美奈能 波奈尓保比見尓
>秋野には今こそ行かめもののふの男女の花にほひ見に
>あきのには いまこそゆかめ もののふの をとこをみなの はなにほひみに
この歌では、「をとこ/をみな」という組合せだが、「をとこ/をとめ」の
「をと」を、ポルトガル語の"vaidade"に対応するものと考えるなら、
花咲き「ををる」などのように用いられる「ををる」という表現は
(その「を」をやはり「呼びかけの声」に関連付けるとしても)、
フランス語を用いて説明するなら、《se vanter》ということになる
のだろう。するとやはり、現代の日本語では、「花咲きほこ(誇)る」
という表現が、古語の「花咲きををる」を引き継いでいることになる。

520:考える名無しさん
22/05/09 09:20:06.45 0.net
万葉集 第20巻 4466番
作者 大伴家持
>之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
>磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ
>しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
このように見てくると、「名尓於布(名に負ふ)」のように間違いなく
「お(於/負)ふ」と読まれるとされる表現の場合でさえ、その「於/負」が
「を」と読まれた可能性があるのではないかと思えてくる。

521:考える名無しさん
22/05/09 09:31:23.42 0.net
古語の日本語の表現を解釈しようとするとき、現代の日本語を日常的に
使ふことに慣れている私たちは、それがどのように合理化されたにせよ、
歴史的に「を」が「お」にまとめられて消去されていることを意識せず
に言葉を理解しようとすることが習慣となっており、そのような理解
の方が自然であると感じるように機械的に導かれている(その導きの
意図をどのように考えるにせよ)ことを思い起こす必要があるだろう。

522:考える名無しさん
22/05/09 09:45:57.92 0.net
現代の日本語でもよく使われる「花咲く乙女(をとめ)」の「花咲く」という
形容は、おそらく、古語において「をとめ」の「をと」によって表現されていた
感性を引き継いでいる。というのも、現代の日本語においても、
「一花咲かせる」という表現の用法は、むしろ、「をとこ」としての男性に
関連して用いられることの方が多いように感じられるからである。

523:考える名無しさん
22/05/09 09:52:15.20 0.net
>現代の日本語においても、「一花咲かせる」という表現の用法は、
むしろ、「をとこ」としての男性に関連して用いられることの方が
多いように感じられるからである。<
これは、現代の日本における「男女不平等」が問題にさせるときの
感覚にも結び付いているはずである。しかし、そうであるとすれば、
その感覚が、歴史的は、そもそも「身分制度」と結び付いていること
も思い起こす必要があるだろう。

524:考える名無しさん
22/05/09 10:35:53.47 0.net
誤:歴史的は、
正:歴史的には、

525:考える名無しさん
22/05/09 11:47:29.60 0.net
『千載和歌集』序文
>やまと御言の歌は、ちはやぶる神世よりはじまりて、
楢の葉の名にをふ宮にひろまれり。<
楢の葉の「名に『を』ふ」と表記されている。
Wikipediaの「千載和歌集」の項目より。
>『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は、平安時代末期に編纂された
勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に
撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。<
これほど重要な和歌集の序文で歌の由来について説明する表現において
うかつに表記を間違え、しかも、ずっとそれが間違ったまま後世に
伝へ継がれるものだろうか。

526:考える名無しさん
22/05/09 13:01:05.30 0.net
於菟の尾をつかむことができていい気になっている愚か者

527:朔日/つひたち
22/05/09 15:02:43.26 0.net
>>509
>朔日(ついたち)も、[...]「つ(尽)く」の再帰表現から
形成されたとみられる「終(つひ)」や「つひ(費)え」に結びつけて
「つひ(終)・た(立/発/絶)ち」として解釈することも可能だろう。<
以下も前出のフェルナンド・ペソアの著作からの引用である。
>Mas o fim do mundo, desde que o mundo se consumou
dando-lhe a volta, é o mesmo Entepfuhl de onde se partiu.
Na realidade, o fim do mundo, como o princípio, é o nosso
conceito do mundo.<
ここで、Mas o fim do mundo, desde que o mundo
"se consumou"(≒「つひ(費)え」る) dando-lhe a volta, é o mesmo
Entepfuhl de onde se partiu(≒「た(立/発/絶)つ」)であることに注目しよう。

528:考える名無しさん
22/05/09 15:18:29.16 0.net
他の誰もまったく気にしない、どうでもいいと思っているように見える
ことに、そのような他人からすれば、「異様に」私が拘っているのは、
確かに私の「個人的な性格のせい」であるかもしれないが、その結果と
して、定説とは大きく異なる言語表現の解釈の可能性が示されてしまう
ことは、別に私の「性格が歪んでいるせい」ではない。
それに、本当にそのようなことに誰も拘っていないのなら、「うさぎ」
のわらべ歌の「なに"を"見てはねる」という元の歌詞から、なぜわざわざ
「を」が消し去られることになったのだろう。

529:考える名無しさん
22/05/09 16:06:32 0.net
>>528
なるほろ感覚。関心の側面が違うのに、相手に合わせることが、そもそもオーダーミスなのかも。時にTPOに過剰に合わせて楽しむのやろ。

そもそも「会話」は思い込みで成り立ってる。

530:考える名無しさん
22/05/10 13:20:38 0.net
こんなところにも歌に詠まれた日本語の古語の言語表現を解釈するための
ヒントが隠れている。

保美町(ほびちょう)は、愛知県田原市の地名。
旧渥美町中央部に位置する。東は福江町、南は小塩津町、
北は中山町に接する。

現行字 大原(おおはら)
明治15年当時 大原(をほはら)

531:考える名無しさん
22/05/10 13:31:11 0.net
むかし、二条の后の、まだ春宮の御息所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、
近衛府にさぶらひける翁、人々の禄たまはるついでに、御車よりたまはりて、
よみて奉りける。
  大原や小塩の山も今日こそは神代のこともおもひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし。

伊勢物語絵巻七六段

532:考える名無しさん
22/05/10 13:37:03 0.net
相生のをしほの山の小松原 いまより千代のかげをまたなん
(新古今和歌集 大貳三位)

あひをひのをしほの山のこ松はらいまよりちよのかけをまたなん
永保四年内裏子日に 大納言経信
>文化庁蔵本冷泉為相本「新古今和歌集」
(承元三年〈1209〉六月十九日定家書写本 日本古典文学会複製本)を翻刻した。

533:考える名無しさん
22/05/10 13:40:51 0.net
「本歌取り」に限らず、歌をやりとりすることそのものが、掛詞の解釈を
含め、詠まれた言葉の発音によって想起される解釈の可能性をメタ言語的に
捉え返す言語行為の実践である。

534:考える名無しさん
22/05/10 13:57:18.35 0.net
>>531-532
ここで私が注目するのは、「大原や小塩の山も」が、「『お』ほはらや
『を』しほのやまも」ではなく、「『を』ほはらや『を』しほのやまも」
と読まれた可能性であり、その読みを「あひ『を』ひの『を』しほの山の」
という表現が受け継いでいると考えられることであり、さらに、「あひをひ」
の「をひ」が、「をほはら」の「をほ」に発音の上で対応するだけでなく、
「あひをひ」の「あひ」が、「をほはら」の「を・ほ」の「ほ」、および
「をしほ)」の「ほ」を独立した表現要素としてメタ言語的に捉えて、
その表現作用を明示化しようとしていると考えることもできることである。
つまり、私には、>>532の歌は、日本語における「を」と「ふ」の
メタ言語的な理解を示そうとしているように見える。

535:考える名無しさん
22/05/10 15:47:30.56 0.net
話が逸れるが、これも前掲のフェルナンド・ペソアの著作からの
表現である。
>o privilégio de deveres cedidos
この"o privilégio de deveres cedidos"というペソアの表現は、
私には、万葉集の歌でよく詠まれている「まけ(任)のまにまに」
という表現によって伝はる感覚とうまく対応しているように見えて
おもしろい。

536:考える名無しさん
22/05/10 15:51:42.25 0.net
しかし、日常生活では、このような感覚を「メタ言語によって明確に
言語化しようとする」と、通常は、制度的に権限を付与された地位に
ある人々から厳しく罰せられるか、少なくとも疎まれることになる
のである。

537:考える名無しさん
22/05/10 16:02:32.67 0.net
哲学をしようとする者は、「言わぬが花」ということについては、
まったく「聞き分けがない」。

538:考える名無しさん
22/05/10 17:04:11.70 0.net
>>534
そのように見た場合、「あひをひ」は、「相(あ)ひ・生(を)ひ」では
あるが、「をほ(大)はら(原)」の「をほ」を「を(生)ふ」の活用形として
見るだけでなく、「を(生)ふ」の「ふ」を、「相(あ)ひ」によって表現
される相互性を表す言語要素として見ていることになるだろう。また、
それにつづく「をしほ(小塩)」の「をし」は、「を(惜)し」との掛詞
として用いられているはずであり、すると、「をしほ(小塩)」の「ほ」
も、それが「をし(教)ふ」の場合とは異なり、「をし・ふ」という
再帰表現との掛詞としての解釈は成立しないにしても、やはり、「ほ」
の発音が「ふ」の活用として「相(あ)ひ・を(惜)しむ」イメージを想起
させるように用いられているように見える。すると翻って、「を(生)ふ」
も同様に、「『~を』という求めの相互性」を「相(あ)ひ」によって
強調されて想起させることになっているように私には感じられる。

539:考える名無しさん
22/05/11 08:07:27.52 0.net
>>535
一般に、「特権」/"privilégio"を握った者による暴力は、「まけ(任)のまにまに」/
"o privilégio de deveres cedidos"に応じて、その「まけ(任)」、すなわち、
「任せられた責務」/"deveres cedidos"の遂行として行使される。それは、
その「まけ(任)」が「大君」という特定の人物によるものである場合に限定
されず、「天」によるものである場合も含めてであり、「特権」/"privilégio"
を握ることは、「命(みこと/詔)」を賜ることであると同時に/そのことと
表裏一体となって、自らの「命(いのち)」を預けていることでもある。
「任せられた責務」/"deveres cedidos"を遂行することができなければ、
当然、その代償を自らが支払うことになる。その、通常は「言わぬが花」
とされる関係性をしっかりと把握していなければ、社会における「特権」
や「平等」について議論することは空疎となる。

540:考える名無しさん
22/05/11 08:54:55 0.net
社会における「特権」や「平等」について行われる議論が実際に
そのように空疎なものとなっている限りにおいて、見方を変えれば、
そのような空疎な議論を展開している人々は、暗黙に「まけ(任)の
まにまに」/"o privilégio de deveres cedidos"に応じて、
実質的に「言わぬが花」が守られている状態が保たれるように
「任せられた責務」/"deveres cedidos"をきちんと遂行している
と考えることもできる。

541:考える名無しさん
22/05/12 09:49:27.75 0.net
「『まけ(任)のまにまに』/『"o privilégio de deveres cedidos"に応じて』」
というのは、それが個々の歌に明示的に詠まれているか否かにかかわらず、
万葉集の集められた歌を編纂する行為そのものの大枠としての意として働いて
いる。だからこそ、万葉集に歌において特徴的に強く表れるのは、主従関係
を確立する「を」の呼応関係に素直に従うことと、「しか(然)」して、その
ことによって「な(汝/己)」が互いに片糸として分かれることになり、
「いと(絲)を(惜)しさ」(ただし、「いとをし」という表現そのものは、
万葉集で用いられてはいない)がなげ(嘆)かれることの対比であり、
それでも「を・を」の呼応関係は、「汝(な)・己(な)」の「いと(絲)を(惜)しさ」
よりもつねに優位に立つのである。
ここで、「を」の呼応関係を成立させることによって確立される主従関係に
おける「主」を、国をを(治/食)す「大君」に限定することなく、そこに、
統治制度の違いにかかわらず、統治主権を代入するなら、"hero/heroine"
の表象のされ方は、時代と地域を超えて互いによく類似していると言うことが
できるだろう。

542:ヒーロー/ヒロインとしての「もののふ」
22/05/12 09:59:10.55 0.net
ここで過去にも繰り返し引用した、統治についてモンテーニュの語った
次の言葉を再び思い起こそう。
「『大海原で激しい風が波を逆立たせていて、他人がさんざん苦労している
のを、陸地から眺めるのは心地よい(ルクレティウス「事物の本姓について」
二の一-二)』人間から、このような性質の萌芽を取り去ってしまったならば、
人間の生き方の根本をなす存在様態を破壊しかねない。同じく、いかなる
統治体制にも、単に卑賤であるばかりか、悪徳な職務が必要とされる。
それらの悪徳は、そこにしかるべき場所を見出して、われわれ人間社会に
おける縫い目として活用される―あたかも毒が、人間の健康の維持に使われ
るように」
「そうした悪徳をわれわれが必要としているのだし、この共通の必要性なる
ものによって、悪という真の性質が捨象されているのだから、それは許容
されるべきだというのなら、その役目を、われわれなどより、もっと
たくましくて、臆病ではない市民たちに演じさせるべきだ。彼らならば、
祖国を救うために、自分の命を犠牲にした昔の人々のように、自分たちの
名誉も良心も犠牲にするはずだ。でも、われわれのような弱虫人間は、
もっと簡単で、危険の少ない役割を引き受けるとしよう。公共の利益が、
裏切りや、嘘や、殺戮を要求するのであり、こういう任務は、もっと従順で、
柔軟な人々にお任せしようではないか。」
モンテーニュ「エセー6」p.13 宮下志朗訳

543:考える名無しさん
22/05/12 10:13:45.99 0.net
「こういう任務は、もっと従順で、柔軟な人々にお任せしようではないか」
というのは、言い換えるなら、自らが「『まけ(任)のまにまに』/
『"o privilégio de deveres cedidos"に応じて』」 立振る舞ふことに
美意識を感じる人々にお任せしよう、ということである。

544:考える名無しさん
22/05/12 10:25:22 0.net
これを「牽強付会」と感じるような人々は、モンテーニュの『エセー』に
ついては言うまでもなく、ペソアやニーチェの著作、さらには『万葉集』
の歌についてさえ、まともに読めるだけの(知識ではなく)感性を備えている
のかどうか、私個人には極めて疑問である。

545:考える名無しさん
22/05/13 07:22:57.41 0.net
>>531
幸い手元に『伊勢物語』があったので、少しだけページを少しめくってみた。
『伊勢物語』は、この歌を含め、何かの出来事についての手短なエピソードが
記載され、そのエピソードの一環として歌が詠まれたという形式をとっている。
一読しただけでは気づかなかったが、見返してみると、詠まれている歌は、
単に歌のやりとりとして掛詞を駆使しているというより、意図的に「謎かけ」
として詠まれているという印象が強い。したがって、歌にまつわるエピソード
は、何かの実際の出来事の際にその歌が詠まれたという事実を伝えていると
いうよりも、歌の謎解きのヒントとして創作されているように私には考え
られる。特に、>>534に示したとおり、「お」と読まれた漢字が「を」
と読まれた可能性があることを踏まえ、歌の言語表現の要素がメタ言語的に
用いられている可能性に注目すると、歌の解釈は、従来に示されているもの
とはかなり異なったものとなり得るように思われる。

546:考える名無しさん
22/05/14 08:49:33.52 0.net
>>545
『伊勢物語』を、それぞれのエピソードを「物語の断片」と見なして
解釈しようとする大枠の見方そのものが、最初から「ボタンを掛け違えている」
ように私には思える。というのも、エピソードそのものが、通常の意味での
物語の体を成していないからであり、私には、そのどこまでが「言葉遊び」
なのか(私は、言語表現の意図的なメタ言語的な操作の実践を「言葉遊び」
と呼んでおり、「実効性がない」などという意味でこの表現を用いている
わけではない)としての表現なのか判然としない。逆に言えば、歌の背景
とされるエピソードそのものにかなりの程度の遊びが含まれているように
見える。

547:考える名無しさん
22/05/14 14:04:26.53 0.net
>>462-493
ところで、日本語の「を」は、呼びかけとしては、ドイツ語の»rufen«という
動詞に対応させて説明することができ、したがって、「音に聞く」という
表現に見られる日本語の古語における「音」も、それを「おと」ではなく、
「をと」と読まれるべきものとするなら、やはりドイツ語の»von Ruf«
という表現に対応させて考えることができ、その場合、「をとこ/をとめ」
の「をと」もそのような「を」の用法であると解釈することができる。
さらに、この解釈は、「をと」をポルトガル語の"vaiedade"に対応させた
上述の説明にもうまく適合する。
さて、ここで、現代において社会的な課題として議論されることの多い
男女平等の実現ということについて考えてみると、そこで中心的な問題
とされているのは、男女が同等の条件で継続的に»beruflich tätig sein«/
「職に就いている」ことのできる社会環境が整えられているかどうか
であるように私には見える。言うまでもなく、この»beruflich tätig sein«
という表現における»be・ruf・lich«の»ruf«は、上記の»rufen«や
»von Ruf«の»ruf«と共通である。私自身は、»beruflich tätig sein«/
「職に就いている」と他人から見做されなくても、そのことによって
家内で下働きすることを強制され、下される指示に応じるしかない
従属的な立場に追い込まれることなく、生活するのに十分な収入が
得られるなら、特に»beruflich tätig sein«/「職に就いている」必要性
は感じないのだが、そうでないことによって、「何らかの欠損」が生じて
いると評価するのが、世の中に普及しているより一般的な見方だろう。
そのような感覚がどのようにして生じているのかを理解するのに、
>>541で触れた「を」と「な」の関係が、万葉集の歌において
表現されるものと、現代でどのように変化しているのかを比較検討して
みることが有益ではないだろうか。

548:唯動論
22/05/15 02:07:31.26 0.net
動きそのものが意味 以上。

549:考える名無しさん
22/05/15 11:01:08.10 0.net
>>546
『伊勢物語』について
>エピソードそのものが、通常の意味での物語の体を成していない
と私は指摘したが、これは、部分的に物語として成立していないという
のではなく、初段からである。その一方で、各エピソードは、明示した
とおりの意味において、通常の歌詠みの掛詞の活用の度合をはるかに
超えて「言葉遊び」となっているように私には感じられる。
例えば、初段で印象的なのは、「射(い)る」ことと関連付けることの
できる「い」の発音の用い方であり、現代の日本語にすれば、
「矢継ぎ(古語では、「いやつぎ」または「いつぎ」と表現される)早に」
という表現を想起させる「言葉遊び」となっているのではないかと
私には感じらる。既に指摘したとおり、エピソードの登場する
「女はらから(姉妹)」を形容する「なまめいたる」という表現も、
言葉そのものとしては、初春の柳の枝のような「弾力性のある
しなやかさ」を表現するものであり、それが「狩」に関連づけ
られるなら、当然、弓のしなやかさが想起される。「しの(偲)ぶ」
ことと掛詞にされている狩衣の「しのぶずり」の「しの」も、
「しの(篠)」を想起させるものであり、「しの(篠)」とは、
岩波古語辞典によれば、「細く小さい竹の総称」であり、
「矢などにつくる」ものである。また、「しの(篠)を突く」
という表現は、「雨がはげしく降るさま」に用いられる隠喩である。
このエピソードのしめくくりの文句に用いられる「いちはやき」
という表現も、私には「矢のような速さ/勢い」を想起させる。

550:考える名無しさん
22/05/15 11:24:18.95 0.net
>>545で、『伊勢物語』について、
>「お」と読まれた漢字が「を」と読まれた可能性があることを踏まえ、
歌の言語表現の要素がメタ言語的に用いられている可能性に注目すると、
歌の解釈は、従来に示されているものとはかなり異なったものとなり
得るように思われる<
と指摘した。ここで、『伊勢物語』について検索してみると、図らずも
(実際に私はそのような議論について事前にまったく知らなかったので)、
初段から、「~となむをいつきていひやりける」という表現の解釈に
関して、それを「をいつきて」のままとするか、「おいつきて」に
変えて解釈するかが問題とされて、それによりこの箇所の現代語訳が
様々なものとなっていることが分かる。それをどう解釈することが
妥当であるか私にはまだはっきりと判断がつかないが、少なくとも
「をいつきて」の「いつき」は、現代語において「矢継ぎ早」の
「矢継ぎ」に対応する古語の「いつぎ」と掛詞になっているだろう
と私は考える。

551:考える名無しさん
22/05/17 18:04:15.11 0.net
『伊勢物語』について、
>各エピソードは、[...] 通常の歌詠みの掛詞の活用の度合をはるかに
超えて「言葉遊び」となっているように私には感じられる<
と指摘した。私が『伊勢物語』をそのように形容することに否定的な
評価のニュアンスはまったく込められていないが、一般的には、
「言葉遊び」というのは、「何の『効果/かひ』もない無駄な言葉遣いを
している」といった程度の意味で蔑みの評価であると考えられている。
実際、『伊勢物語』には、「歌の詠み手の心の動きを如実に表現して
相手に伝へる」ことに関しては、何の「効果/かひ」もないことに
おいて無意味/ナンセンスであると感じられる歌が少なくない。
では、なぜそのような無意味/ナンセンスとも思われる歌を詠み込んだ
エピソードを書き連ねているのだろうか。それを問はなければ、
『伊勢物語』に特徴的な言語表現の重要性に気づくことはできない
だろうと私は考える。

552:考える名無しさん
22/05/17 18:17:59.10 0.net
例えば、『伊勢物語』の第七十五段のエピソードは、男が女をつれて
いこうと誘ったが、つれなく断られたというだけのことで、そこに
詠み込まれた男と女の歌のやりとりにおいて女が詠んだ歌が、
次のとおりである。
>岩間より 生ふるみるめしつれなくは 潮干潮満ち かひもありなむ

553:考える名無しさん
22/05/17 21:32:33.55 0.net
この段のエピソードは、言い寄る男と、その男につれない態度をとる女の
関係を歌のやりとりによって伝へているだけで、その話の筋には、人の心を
動かすものはなにもなく、詠み込まれている歌にも、詠み手が自らの心の
動きを捉えて表現しようとするような動機が感じられない。例えば、上に
引用した歌にどうしても心の動きを見てとろうとするなら、そこに見られる
のは、「心の動きのなさ」としての「冷淡さ」ということになるだろう。
しかし、それでは、「言い寄る男を女が冷淡にあしらった」というだけの
ことになり、それがなぜわざわざエピソードを伴う歌のやりとりとして
提示される必要があるのか不明だろう。

554:考える名無しさん
22/05/17 21:57:40.53 0.net
その一方で、この歌の表現手法に注目すると、「かひ」という表現だけでも、
それが三重の掛詞として用ひられていることにすぐに気づく。歌は、
海に関連付けられているので、「かひ」はまず最初に「貝(かひ)」として
読まれるが、「『かひ』もありなむ」という表現において、「効験」
としての「かひ」と掛けられていることが明白であり、さらに「かひ」
は、「潮干潮満ち」につづくことによって、その語源的な用法どおり
に「か(交)ひ」を、つまり、「潮の干満」の「交替」とも掛けられている。
要するに、この歌は、相手とのやりとりにおいては、なぜわざわざ
相手に送られる必要があるのか不明な、詠み手の心を相手に伝へる
ことに関しては無効なもの、その「かひ/効験」がないことにおいて
無意味/ナンセンスなものでありながら、メタ言語的な表現法として
は、「かひ」という言葉の掛詞としての用法をこれ以上ないほどに
簡潔に明確に具体的な事例として提示している。そして、私には、
こちらの方が、そこに読まれる歌とエピソードを創作した主眼であり、
話の筋は、その口実に過ぎないものであるように思われるのである。

555:考える名無しさん
22/05/17 22:36:49 0.net
この「かひ」についてのメタ言語的な表現法の有効性は、それを日本語
以外の言語に対応させて考えてみれば、さらに明らかとなる。
無論、他の言語において「かひ(貝)」と「かひ(効験)」が掛詞に
なることはないが、「かひ(効験)」と「か(交)ひ」は、例えば、
ドイツ語の場合であれば、そのまま»Tausch«に対応させることができ、
「かひ(効験)」をマルクス主義的な用語である»Tauschwert«に
対応させることもできる。「生き甲斐」、「働き甲斐」と言えば、
それは、「生きること」、「働くこと」の»Tauschwert«と解釈
することができるだろう。さらに、「『かひ』がない」、
「ふ『がい』ない」という表現も、»tauschen«との関連性から
直ちに、»enttäuscht«という表現と関連させて考えることができる。
試しに、»enttäuscht«をキーワードにして検索すると、次のような
表現がヒットする。

>Fühlst du dich oft von dir selbst enttäuscht?

ここで、»enttäuscht«を辞書の記載により、「失望させられた」と
いったような訳語を当てはめて考えるより、『伊勢物語』の表現法にも
見てとることのできるメタ言語的な捉え方に応じて、
「あなたはよく自分を『ふがいない』と感じますか」とした方が、
はるかに自然で、ドイツ語の原文の表現にも近い解釈が導かれる
のではないだろうか。

556:考える名無しさん
22/05/19 20:19:38.82 0.net
>>555
言語表現をこのようにメタ言語的に捉えることができ、その捉え方が妥当である
ならば、すぐに応用が効く。
「この甲斐性なし!」という日本語の罵りの言葉を英語に訳すとしたら、
どのように表現するだろうか。「甲斐性なし」をネットの辞書で検索
すれば、いくらでも候補として提示される訳語はヒットする。しかし、
では、それらの候補とされる英語の表現は、「甲斐性なし」に適切に
対応するものであることはどのように保証されるのか。実際に提示
される英語の表現は、いずれも相手を罵る言葉なので、それなりに
適合しているようにも見えるが、それだけでは、「罵るために使われる
表現であることが共通しているに過ぎない」可能性がある。しかし、
私が上に示したメタ言語的な捉え方によれば、
>「この甲斐性なし!」⇔"You're such a disappointment!"
という対応関係を直ちに導くことができ、なおかつ、日本語、英語
それぞれの表現を構成している論理からその妥当性を容易に説明する
ことができる。

557:考える名無しさん
22/05/20 07:28:21.19 0.net
以下はWikipediaの"Enttäuschung"の項目からの引用
Das zugrundeliegende Verb enttäuschen wurde im 19. Jahrhundert als
erfolgreiches Ersatzwort für die aus der französischen Sprache entlehnten
Fremdwörter „detrompieren“ (détromper) und „desabusieren“ (désabuser)
gebildet.
Es hatte zunächst die positive Bedeutung „aus einer Täuschung
herausreißen“, „eines Besseren belehren“, eine Desillusion.
Der negativen Bedeutung von „täuschen“ folgend, entwickelte sich der
negative Sinngehalt als „einer Erwartung nicht entsprechen“.

558:考える名無しさん
22/05/20 07:44:43.64 0.net
「言葉遊び」という表現を、発言の無効性を非難する否定的な評価として
しかつか(仕/使)ふことのできない人々は、»Enttäuschung«についても、
いつでもその片面においてしか捉えることができないだろう。
しかし、理性とは、本来的に感性の働きを節約することに他ならず、
それは、臨機応変に目的に応じて「違いがないものと見做す」ことであり、
「意図的に『まがふ』」ことなのだ。それ故、理性に従ってそのように
「まがふ」ことにしたものを、単に惰性により「違いがないものと見做す」
ことにするならば、手酷い»Enttäuschung«に遭うことになるだろう。

559:考える名無しさん
22/05/20 07:55:24.20 0.net
生きることそのものが、試行錯誤による探索活動である。
袖振り合うも他生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)
《Vivre c'est le chassé-croisé de ceux qui pourraient être soi-même.》
(勝手な解釈による自己流の仏語作文なので、適切な訳になっているかどうか、
仏文として通用するものとなっているかどうかは知らない)

560:考える名無しさん
22/05/21 07:28:47.82 0.net
「互(た・が(交))ひ違(ち・が(交))ひ」だからこそ、その交叉において
触れ合いが生じる。そのような触れ合いの作用点("disappointment"の
"appointment"である)が、日本語においては、「か」の発音によって
代表される。

561:考える名無しさん
22/05/21 07:42:16.41 0.net
例えば、次の松尾芭蕉の表現を、「漢語」も含め、日本語として用いられる
「か」の発音に注目しながら、読んでみるといい。
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、
片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、
春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、
道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、
笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、
住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家
『おくのほそ道』

562:考える名無しさん
22/05/21 09:57:47.43 0.net
>>560
ここで、「か(交)ふ」において、「か」が「『交叉における』触れ合いの作用点」
として現れることは、この場合、「か(交)ふ」の「~ふ」が相互性を表すように
用いられている再帰性の指示であることにも留意しよう。すると、この場合も、
「か」そのものは、「かろ(軽)し」、「か(枯)れ」、「か(香)」、「か(蚊)」
などに関連して以前から説明してきたとおり、瞬間的に触れて離れる様態
としての"touch and go"としてイメージされることになる。

563:考える名無しさん
22/05/21 10:18:42.96 0.net
ここで、ドイツ語の»Enttäuschung«を形成する動詞の»täuschen«は、
「交換する」ことを意味する»tauschen«と同根の語とされ、»tauschen«
そのものはフランス語の《toucher》(英語の"touch"に対応する)の
借用に語源が求められるとされることにも注目される。
>Etymology
Borrowed in the 16th century from Middle French toucher (“touch”),
from Vulgar Latin *toccāre, *tuccāre (“to beat”).
Doublet of touchieren. Compare Italian toccare. < 
(Wiktionary, "tuschen"の項目から引用)

564:考える名無しさん
22/05/21 10:53:05.35 0.net
このように見てくると、日本語の表現を説明するために私が行っている
メタ言語的な記述は、何か独特の特殊な手続きではなく、辞書の記載が
通常、同一言語の枠内、またはせいぜい同系統とされる諸言語の枠内
で行っているような記述を、そのような枠組みを離れて、互いに関係
の明らかではない複数の言語の表現を用いて行っているに過ぎないこと
が分かるだろう。
日本語において「かむか(考)ふ」とは、「かむ(神)・か(交)ふ」こと
であり、「かむか(考)ふ」という行為そのものが、その発音からも
推察されるとおり、「『交叉における』触れ合いの作用点」を探索
することを要求する。この場合、「かむ(神)」は、以前から指摘して
きたとおり、鏡を意味する中国語の「鑒(Middle Chinese:/kˠamH/)」
の語末を開音節に移して借用したものであると私は考えている。
ただし、「かむ(神)」は、単に「鑒」の発音とそれに関連付けられた
概念を借用したに過ぎないものではなく、日本語として移植される
ことに伴って、「か・(ま、み、む、め、も)」の系列において「ま行」
の活用に関連付けられて、累加する内的な反響作用のようなイメージを
想起させる表現となっている。

565:考える名無しさん
22/05/21 11:56:04.99 0.net
>>562
誤:指示であることにも留意しよう
正:指示によるものであることにも留意しよう

566:考える名無しさん
22/05/22 10:08:31 0.net
>>562
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる。

このような記述をすると、必ずすぐに、「いくらでも例外が見つかるので、
そのような対応関係は認められず、恣意的に関連付けているだけだ」とか、
「別の言語では、同様の発音が別のイメージに関連付けれ、同様のイメージ
が別の発音に関連付けられているので、擬音語や擬態語を例外として、
そのような対応関係について推論することは意味がない」といった類の、
あたかも記述が発音とそれが想起させるイメージの1対1対応を主張して
いるかのように誤解しようとする人々が大勢出てくる。だが、
「1対1対応を主張」を前提としているのは、そのような人々の思い込み
の方にしかなく、しかも、自らが暗黙にそれを規範として前提として
しまっているからこそ、系統が異なるとされる別言語の間の、発音
を含めた表現上の類似性を見てとることができなくなるのである。

567:考える名無しさん
22/05/22 10:15:45.12 0.net
例えば、
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる
という具体例に関して、フランス語の表現について考えた場合、そのように
イメージされた日本語の「か」に対応するものとして私にすぐに想起される
のは、《sec》(クラウン仏和辞典から対応する訳語を引用すると、「乾いた」、
「乾燥した」、「かさかさの」、「(伴うべきものが)伴っていない」、
「素気ない」、「手加減のない」、「辛口の」など)という表現であり、
その発音である。

568:考える名無しさん
22/05/22 10:24:16.30 0.net
>>567
フランス語の《sec》という表現が想起させるイメージが、日本語では「か」を
用いた表現が想起させるイメージによく対応していることは、誰でも容易に見て
とることができるだろう。それでも《sec》という発音と「か」という発音が
特に互いによく似ているというわけではない。
ところで、《sec》は、ワインが「辛口」であることを形容することにも
使われるが、日本語では、酒について「キレの良い辛口」と表現すること
がよくある。

569:考える名無しさん
22/05/22 10:36:01.22 0.net
逆に日本語の「キレの良い辛口」という表現から、フランス語の《sec》に
ついて考えるなら、「キレの良い」イメージに関連して、《sec》と発音
が重なり、「切断」を意味して、英語にも取り込まれている《section》
という表現が直ちに連想される。
そこで、《sec》と《section》のそれぞれの語源を調べてみると、《sec》
の方は、ラテン語の"siccus"、印欧祖語として想定される"*seyk-"に由来
するとされ、《section》の方は、ラテン語の"secō (“to cut”) +&#8206; -tiō"、
印欧祖語として想定される"*sek-"に由来するとされ(Wiktionaryの記載に
よる)、これらの2つの語源は、互いに関連付けられてはいない。

570:考える名無しさん
22/05/22 10:44:44.64 0.net
では、《sec》と《section》は、想定される語源が異なるので、互いに
無関係なのだろうか。私にはそのようには思えない。なぜそのようには
思えないかと言えば、それは、日本語において「キレの良い辛口」という
表現が自然であると感じられるように、「キレの良さ」に関連づけられる
《section》と、「辛口」に関連付けられる《sec》は、その発音の重なり
からも、互いに自然に結びついてイメージされてきただろうと考えられる
からである。

571:考える名無しさん
22/05/22 10:58:08.70 0.net
さて、ここで
>ラテン語の"secō (“to cut”) +&#8206; -tiō"
に注目すると、例えば、スペイン語では、"seco"は、「乾いた」を表現
する形容詞として用いられ、語源的には、"secō (“to cut”) +&#8206; -tiō"から
ではなく、やはり"siccus"に由来するとされる。ところで、ラテン語の
"secō"にここで当てられている英語は、"to cut"であり、スペイン語の
"seco"に通常、当てられる英語は、"dry"であるが、英語にはそのまま
"cut-and-dry"というよく使われる常套句があり、問題が「単純に
割り切れる」かどうかという文脈でよく使われる。

572:考える名無しさん
22/05/22 11:40:51.10 0.net
>>567-571
日本語の「か」の発音のイメージから出発して、このようにフランス語、ラテン語、
フランス語、英語などの表現を参照してみると、そこで共通して用いられている
のが"k"の発音であることに気づく。「き(切)る」という日本語と英語の"to cut"
の場合でも、"k"の発音が共通している。これは、偶然に過ぎないのだろうか。
私はそうは思わない。日本語において、「く」や「こ」の発音の要素として
、暗い母音と一緒に"k"が用いられる場合には、"k"は「求心性」をイメージ
させることになるが、日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。
例えば、日本語の「か(交)ひ」とフランス語/英語の《intersection》/
"intersection"の対応関係を考えてみるといい。この場合、フランス語/
英語の《inter-》/"inter-"は、日本語の「~ふ」に対応するように
相互性を表現し、語源的には「切断」を表現する《section》/"section"
は、日本語の「か」に対応していることになるが、《section》/"section"
は、「切断」をイメージさせるだけでなく、互いに交差点で瞬間的に
交はる/"to cross"ことによって瞬間的に触れた後、再び離れることを
イメージさせているはずである。

573:考える名無しさん
22/05/22 11:49:05.74 0.net
誤:このようにフランス語、ラテン語、フランス語、英語などの表現を
正:このようにフランス語、ラテン語、スペイン語語、英語などの表現を

574:考える名無しさん
22/05/22 11:49:39.22 0.net
誤:スペイン語語
正:スペイン語

575:考える名無しさん
22/05/22 13:50:50.07 0.net
ある作用の様態のイメージを想起させるようにある発音が、異なる複数の
言語において互いに類似した用いられ方をしているという指摘が、
そのような対応関係の必然性(即ち、1対1の関係)は認められないという
批判を呼ぶことは、それ自体、興味深い問題である。そのような批判を
する人々は、なぜか、そのような対応関係の指摘は、自動的で、機械的
でなければならないという規範を前提としているのだ。しかし、例えば、
生物の身体が、共通性の認められる分子構造を用いている場合に、その
機能を特定するのにそのような規範が前提として成立しないことは言う
までもなく、共通性の見られる物理的な構造とその機能の場合ですら、
そのような前提は規範として成立しない。例えば、軸を中心に複数の
羽がついている構造が存在したとして、それが扇風機の羽に似ている
ことは、その構造体が必然的に扇風機の部品として使用されることなど
意味しない。そのような構造は、風速を測るための風車、風力を利用
して穀物を粉に挽くための風車、回転させて前進する推進力を得る
ためのプロペラ、上昇するためのローター、落下の速度を緩和する
ためのローターなど様々な用途に用いられ、軸を中心に複数の
羽がついている構造が共通しているからといって、それが使われる
機能が1つに決まるわけではない。また、逆にそれが使われる機能が
多用だからといって、その構造の作用の様態の共通性を探ることが
無意味になるわけでもないだろう。

576:考える名無しさん
22/05/25 09:26:57.71 0.net
Chloé
Chasser Croiser – Le Surréel et son écho (livre / CD)
この本、値段が高いから買おうとは思わないけど、面白そうな気がする。
気がするだけで、内容を見たわけではないので分からないが。

577:考える名無しさん
22/05/25 09:30:00.16 0.net
具体性、即ち、体(からだ)を具えた性質とは、
生きることの《chasser croiser》によって形成された意味の多層性である。

578:客人(たびびと)/"guest"としての各自(かくじ)
22/05/26 09:41:39.23 0.net
>>561
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。 <
日本で学校教育を受けた人ならば、その多くが触れたことがあり、
万葉集の歌などと比べれば、現代の日本語の表現との隔たりもそれほど
大きくないため、それなりに理解していると感じているものと思われる
この『おくのほそ道』 の序文の表現も、一般に、その解釈に根本的な
「捉え損ね」が潜んでいるだろうと、私には思われる。というのも、
私自身が、その「捉え損ね」を、これまで特に意識することのなかった
一般の人々のうちの一人だからである。この「捉え損ね」は、「たび」
とはどのような表現であるかにかかわり、また引用した文における
「過客」という表現の"k"の発音の用法にもかかわる。

579:考える名無しさん
22/05/26 10:05:50.00 0.net
現代の日本語の用法においてほぼ例外なく「旅」という漢字が当てられる「たび」
という表現に、現代の日本語を母語とする人々はどのようなイメージを思い浮か
べるだろうか。「旅立ち」や「旅と別れ」など「たび(旅)」は「立ち去る」こと
と結び付けてイメージされることが多く、「たび」という表現を聞いて一般に
人々が想起するのは、「旅(たび)に出かける」ことだろう。
しかし、古代からの日本語の「たび」の捉え方がそのようなものではなかった
ことは、まず間違いないことだろうと私には思われる。というのも、「たび」は、
「出かけて行く」ものとしてではなく、「たび」に「ある」ものとして
捉えられているからだ。私に言はせるなら、「旅(たび)」に「出かけて行く」
という捉え方がされるようになったことそのものが、「たび」の物象化
である。では、「『たび』に『ある』」とはどのようなことだろうか。
それは、芭蕉の表現にそのまま見られるとおり、「自らが『過客』としてある」
ことである。
まずは、万葉集の歌を確認してみるといい。多くの歌で「たび」が詠まれている
が、そのかなりの割合において、「たび」に当てられている漢字は、「客」、
つまり、英語で表現するなら"guest"である。したがって、「たび」の「別れ」
が詠まれている場合、それは「一時、訪れて、また離れる」ことを表現して
いるものと考えることができる。このことから私に直ちに推測されるのは、
「たび(客)」は、「~する『たび』に」という表現と語源を同じくする、
「た」によって「接触」を表現した「た・ふ」に由来する再帰表現ではないか
ということである。

580:考える名無しさん
22/05/26 10:19:45.16 0.net
無論、「『たび』に『ある』」ならば、妻子とは、離ればなれになった境遇
に置かれている。しかし、それを「たび」によって妻子と別れることになった
と理解するのは、誤りだろうと私は考える。なぜなら、「たび」を形容する
決まり文句として「草枕」が用いられることからも明白なとおり、「たび」
という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における『借りの滞在』」
だからである。
ここで私にすぐに連想されるのは、スペイン語の"tocar"という表現だ。
"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、
手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、
"te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として
回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は~」に対応する)
を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。

581:考える名無しさん
22/05/26 10:26:18.98 0.net
実際、「たび」という表現についてこのようにイメージすると、現代の
日本語においても、通常は、訪れるものとして意識される「月日」や
「年月」がなぜ、
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
として、「たびびと」、即ち、「客(たび)人(人)」に喩えられるのか、
よりよく理解できるようになるのではないだろうか。

582:考える名無しさん
22/05/26 10:27:08.69 0.net
誤:「客(たび)人(人)」
正:「客(たび)人(ひと)」

583:考える名無しさん
22/05/26 10:34:31.04 0.net
日本語の「か」の発音について、上で次のようにしてきした。
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる
>日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。<
これに関連して、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也 」という
表現において、芭蕉がいかにうまく、日本語の「か」の発音を活用しているか
についても、気づくはずである。


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