意味の論理構造の哲学at PHILO
意味の論理構造の哲学 - 暇つぶし2ch397:考える名無しさん
22/04/23 15:03:47.59 0.net
> [中略] しかし、自分自身にむかって話しかけ、自分自身を形づくり、
自分を創造する神のような役割を自分自身で行う実体として存在することを
言いたければ、動詞、「存在する(セール)」を突如、他動詞に変える以外に
どのような使い方があるだろうか?すると、意気揚揚と、反文法的に気高く
言うだろう。「わたしはわたし自身を存在させる(ソウ・メ)」と。
短い言葉ふたつでひとつの哲学を述べたことになろう。これは、むやみ
に言葉を連ねて何も言わないよりも好ましくなかろうか?哲学と表現法から、
これ以上に何を要求できよう。< p.111
ここで、ペソアがポルトガル語の表現について述べていることを、日本語の
「駿河(するが)なる富士」/「『す(為)る=な(成)る』不死(ふし)」という
「言葉遊び」の表現と比べてみるといい。「す(為)るがな(成)る」の「が」
を、私は、数学記号である等号「=」で置き換えているが、これも、
以前から再三指摘してきたとおり、日本語の助詞の「が」は、「我」を
同一性を示すように流用したものと考えられるからである。すると、
「す(為)る=な(成)る」という表現は、日本語において「する」という
他動詞を「なる」という自動詞と等号で結んでいることになり、「富士/不死」
が、ペソアの言う「自分自身にむかって話しかけ、自分自身を形づくり、
自分を創造する神のような役割を自分自身で行う実体として存在する」
ものとして表象されていることになるだろう。


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