22/04/23 14:40:40.02 0.net
例えば、
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を<
出典万葉集 三一七
という歌の句について、「駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を」
の「駿河(するが)なる富士」が、「『す(為)る=な(成)る』不死(ふし)」
と解釈される掛詞、つまりは、「言葉遊び」であることを以前から指摘
してきた。ここで、この「言葉遊び」の表現法を、ポルトガル語の作家、
フェルナンド・ペソアの表現法と比較してみよう。ここで問題にするのは、
以下のサイト、URLリンク(arquivopessoa.net)
において引用される文の、
>A gramática, definindo o uso, faz divisões legítimas e falsas.
から
>Que mais se pode exigir da filosofia e da dicção?
までである。(これについては、以前に別スレで、それに続く箇所、
>Obedeça à gramática quem não sabe pensar o que sente.
を引用して提示したことがある。)
396:考える名無しさん
22/04/23 14:48:29.84 0.net
図書館からこの文の出典であるペソアの著作の訳本、『不安の書』(高橋郁彦訳)
を借りてきたので、少し長くなるが、以下に引用させてもらうことにする。
>文法は語法を確立し、正当と不正確とを区別する。例えば、動詞を他動詞
と自動詞に分ける。しかしながら、ものの言い方を知っている人は、普通の
多くの人間のようにやみくもに見るのではなく、感じるものを写真に撮る
ように表現するために、しばしば他動詞を自動詞に変えなければならない。<
p.111
― 続く
397:考える名無しさん
22/04/23 15:03:47.59 0.net
> [中略] しかし、自分自身にむかって話しかけ、自分自身を形づくり、
自分を創造する神のような役割を自分自身で行う実体として存在することを
言いたければ、動詞、「存在する(セール)」を突如、他動詞に変える以外に
どのような使い方があるだろうか?すると、意気揚揚と、反文法的に気高く
言うだろう。「わたしはわたし自身を存在させる(ソウ・メ)」と。
短い言葉ふたつでひとつの哲学を述べたことになろう。これは、むやみ
に言葉を連ねて何も言わないよりも好ましくなかろうか?哲学と表現法から、
これ以上に何を要求できよう。< p.111
ここで、ペソアがポルトガル語の表現について述べていることを、日本語の
「駿河(するが)なる富士」/「『す(為)る=な(成)る』不死(ふし)」という
「言葉遊び」の表現と比べてみるといい。「す(為)るがな(成)る」の「が」
を、私は、数学記号である等号「=」で置き換えているが、これも、
以前から再三指摘してきたとおり、日本語の助詞の「が」は、「我」を
同一性を示すように流用したものと考えられるからである。すると、
「す(為)る=な(成)る」という表現は、日本語において「する」という
他動詞を「なる」という自動詞と等号で結んでいることになり、「富士/不死」
が、ペソアの言う「自分自身にむかって話しかけ、自分自身を形づくり、
自分を創造する神のような役割を自分自身で行う実体として存在する」
ものとして表象されていることになるだろう。
398:考える名無しさん
22/04/24 13:05:28.82 0.net
>>263
ところで、その序文の「初春令月 氣淑風和」からら元号「令和」が考案されたと
言われる万葉集の以下の歌における「乎倍米(をへめ)」という表現について、
私は長い間、どう解釈することが適切なのか判断がつかずにいた。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第5巻 815番
>武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎<岐>都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿]
>正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
>むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ
しかし、今では、>>263に示したとおり、「を(終)ふ」が、「空虚」を示す
ように用いられる「を」を再帰表現を形成する「~ふ」によって「ひっくり返す」
ことによって、「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができることが分かり、
この「乎倍米(をへめ)」は、やはり「終(を)へめ」と理解され、「楽しき『終へめ』」
という句は、「楽しさを『満喫しよう』」と現代語訳することが妥当であるもの
と考えている。
399:考える名無しさん
22/04/24 13:12:44.35 0.net
引用したサイトにおいて、この「楽しき『終へめ』」にもともと当てられている
現代語訳は、「楽しいひとときの限りを尽くそうぞ」とされているので、
私が妥当と考える現代語訳とほぼ同じであり、この場合、私が提示した独自の
表現解釈の取り組みによって得られたものは何もないようにも見える。
だが、本当にそうだろうか。
400:考える名無しさん
22/04/24 13:23:49.10 0.net
この「たのしきをへめ」と読まれる原文の「多努之岐乎倍米」をどのように
解釈することが妥当であると考えられるかについては、歴史的に揺れが
見られることが知られている。「をへめ」は、「終へめ」と読まれるべき
ものではなく、「~を経(へ)め」と読まれるべきであるとする解釈が
その代表であり、その場合、「多努之岐乎倍米(たのしきをへめ)」は、
「楽しい時を過ごそう」と現代語訳されるされることになる。
次の新聞記事は、「令和」の年号と万葉集について話題にしたものである。
URLリンク(www.asahi.com)
「令和」考案?の中西進さん 語った万葉集と「風土」
>―正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ
梅を招(を)きつつ楽しきを経(へ)め
(正月になって春が来たら、このように梅を折ってかざして、
楽しみの限りを尽くして遊ぼうよ)<
401:考える名無しさん
22/04/24 13:31:07.40 0.net
ここで、奇妙なことに気づくはずである。それは、この記事では、
歌の「乎倍米(をへめ)」という表現に「を経(へ)め」という読みを当てている
にもかかわらず、その現代語訳の方は、「楽しみの限りを尽くして遊ぼうよ」
となっている、つまり、「終へめ」という読みによる解釈を示しているのだ。
これは、そのことに気づかずに偶々そうなってしまったのでなければ、
歴史的な揺れに見られる2つの解釈の両方を提示して、暗黙に、揺れを
そのままにして折衷案として示したことになるだろう。
402:考える名無しさん
22/04/24 13:41:05.69 0.net
そのように考えたとき、先のサイトに提示される、「楽しいひとときの
限りを尽くそうぞ」という現代語訳においても、「ひとときの」という
原文には対応する表現が見当たらない言葉が挿入されていることに気づく。
ところで、「ひととき」というのは、現代の日本語において、通常、
その後には「~を過ごす」とつづくのが普通で、「ひととき」の後に
「の限りを尽くそう」とつづくことはまずないだろう。したがって、
この現代語訳もやはり、それを基本的には「終へめ」という読みに
対応させながらも、暗黙に折衷案を示している、もしくは、少なくとも
折衷案の名残りをとどめているように私には見える。
403:考える名無しさん
22/04/24 14:09:53.86 0.net
それが折衷案であったとして、いずれにしても、もたらされる現代語訳に
大差はないのだから、何をそんな細かいことを気にしているのだろう、
と思うかもしれない。しかし、そのように感じるとすれば、それは私が
ここで指摘しようとしている問題を捉え損ねている。私が問題としている
のは、「楽しき『終へめ』」という読みにそれなりに意味が通り、
分かりやすい現代語訳を当てることが可能かどうかではなく、
あくまでも「乎倍米(をへめ)」が「終へめ」と読まれる場合の「言語表現
としての解釈」なのだ。
「楽しき『終へめ』」という表現が与えられて、それが饗宴を盛り上げる
歌として詠まれたことが分かっていれば、「終へめ」がどのような表現
であるのかがよく分からなくても、「楽しいことを終わらせよう」と
いう意味ではあり得ないことが常識的に分かる。すると、「終える」
という現代の日本語の用法から、「終へめ」に対して、「最後まで
やり尽くそう」に相当するような表現が、「原文の『乎倍米(をへめ)』
とは無関係に」自然に推察されて思い浮かぶことになる。すると、
「乎倍米(をへめ)」が表現としてどのように生成されているのかに
ついては全く無関心であっても、この歌を解釈することに関する限り
は、それを「(楽しいひとときの)限りを尽くそうぞ」という現代語訳
を当てて、表現を適切に解釈できたと思い込んで満足してしまうこと
になるのだ。しかし、そのような手続きがもたらすのは、言語表現
についてのより一般的な理解ではなく、場当たり的な解決策である。
404:考える名無しさん
22/04/24 14:25:07.91 0.net
場当たり的な解決策は、想定される文脈に依存した現代語訳をアドホックに、
それなりに適切に見えるように当てはめることで、言語表現を解釈することを
回避する。これに対して、連想により言語表現を解釈しようとすることは、
連想によって想起される限りの表現のネットワークの範囲で整合性をとろう
とすることを自動的に要求されることになるのだ。すると、ネットワークに
おいて整合性のとれない表現の解釈は、たとえ、その表現が用いられる
特定の文脈においては、うまく当てはまるように感じられても、疑わしさ
がつきまとうことになる。だからこそ、上の歌における「乎倍米(をへめ)」
という表現は、「を(終)ふ」という表現がどのように生成されているのか
について、私自身に納得できるような解釈に達するまで、その読みも含めて、
よく分からないものと感じられていたのである。「連想は、ただの思いつき
に過ぎないので、そんなものは無意味だ」という人はよくいるが、
私には、そのような人々の考え方、感じ方こそが倒錯しているのではないか
と思える。
405:ささがにのいとかくまでは思はざりしを
22/04/24 23:22:09.25 0.net
「を(終)ふ」という表現が、「を」によって示される「空虚」をひっくり返す
ことによって「満腔がもたらされる」ことを想起させるように用いられると
いう解釈を示したところで、そもそも、現代の日本語でも「終わる」は、
一般に「満了する」ことを意味するように用いられるのだから、「それが
いったいどうしたと言うのか」というのがごく普通の反応だろう。
しかし、ここまでたどり着いたことには、私にとっては、なかなか感慨深い
ものがある。というのも、ちょうど7年ほど前から書込みを始めた連想の
働きによる暗中模索での日本語の表現についての考察が、「を(終)ふ」という
表現の私にとって納得のゆく解釈にまで達したことで、ごく初期の
「をかし」という表現についての検討から蜘蛛の巣のようにネットワーク
を展開することになったからである。
406:考える名無しさん
22/04/24 23:57:01.00 0.net
書き込み始めた当初は、日本語の生成の「起源」を特に意識することすらなく、
単に学校の古文の教科書で教えられたような古語の表現の意味解釈が、
私にはまったく納得のいくようなものではなかったという不満に
別の解釈の可能性を探る試みが動機づけられていただけだった。
そのための方法論として採用したのが、日本語の古語を単に現代の
日本語の表現に置き換えようとするのではなく、英語やフランス語など
の日本語とは別の言語を記述のためのメタ言語として利用すること
であった。
407:考える名無しさん
22/04/25 00:23:29.56 0.net
当初は、様々に生じる連想をどのようにつなげることが妥当なのか、
まったく暗中模索であったため、今から見れば、まったく信憑性のない
トンデモ説を展開しているサイトの記述を手掛かりにしようとする
ことさえあり、また、岩波古語辞典に朝鮮語の語彙との同根説が
数多く記載されていることもあり、朝鮮語が表現解釈の参考になる
かもしれないとも漠然と思っていた。しかし、実際に手続きとして、
日本語の古語の表現を欧米の言語でメタ言語的に記述しようと試みる
ことで浮かび上がってきたのが、日本で使われる漢字の発音を
手がかりとした、日本語の古語と中国語の表現の奇妙な類似だった。
ここで「奇妙な」というのは、その類似は、現代の日本語の漢字の
用法から直接に現れてくるものではなく、あくまでも古語の
表現を欧米の言語をメタ言語として記述することによって
見えてくる、中国語の表現との類似だったからである。
それでも、中国語の読めない私には、中国語辞典や漢語詞典を
自分で参考にしようとはほとんど考えてもいなかった。
408:考える名無しさん
22/04/25 00:53:55 0.net
欧米の言語をメタ言語として用いた記述の試みによって、相互性を表現する
「あふ」が再帰表現だろうという思ひを強くもっていたが、その時点では、
まだ、「~ふ」が独立の表現要素として用いられているという一般的な
説明を受け入れることもなく、ましてや、それが反復継続の助動詞として
用いられているという通例の説明は、私には納得できるものではなかった。
その時点では、日本語の再帰表現は、「~あふ」によって形成されている
と考えた方がいいのではないかと思っていた。
文字通りの転換点は、メタ言語的な記述によって「~ふ」が「~」を、
通例の説明のように「反復継続」ではなく、私が「~あふ」によって
考えていた「相互性」に限定されるものでもなく、「~ふ」の「~」を
反転させるように用いられていることに気づいたことによる。
しかも、その「反転」は、狭義の方向転換ではなく、「~」によって
表現される様態に応じた「ひっくり返し」であるという極めて特徴的
なものだった。すると、日本語として使われる漢字の発音との
類似から、ただちに「復/覆」が連想されることになり、「~ふ」は、
中国語では「復/覆」として用いられている表現の、日本語独特の
流用ではないかという疑念が生じることになった。これが、日本語が、
中国語の表現をピジン語として流用することによって生成されている
のではないかという思ひが浮かんで、その可能性を頻繁に探るように
なったきっかけである。
409:考える名無しさん
22/04/25 01:14:56.25 0.net
「を」が日本語においてどれだけ中心的な役割を果たしているかは、
万葉集や古今和歌集の歌を見ても、枕草子の「をかし」の多用を見ても
一目瞭然だが、それだけでなく、日本語の「を」がニーチェの著作の
「力への意志」や「ルサンチマン」と訳される表現を理解するのにも
そのまま役立つことを、フランス語をメタ言語として利用すること
によって示した。また、「を」が統治を成立させるのに、さらには
生きることに欠かせないことも示してきた。その「を」を「~ふ」
によってひっくり返すことが「を(終)ふ」という表現を生成し、
それが、「『満腔』/"completion"がもたらされる」ことを意味する
表現となっているのだから、そこにたどり着いた私の感慨も
少しは理解してもらえるのではないだろうか。
410:考える名無しさん
22/04/25 01:26:14.59 0.net
>>397
>動詞、「存在する(セール)」を突如、他動詞に変える
ところで、このペソアの表現を、ニーチェの、通常は「力への意志」と
訳される»Wille zur Macht«に相当する日本語の表現として私が当てた訳、
「できること(=《ce qui est à venir》)を」と比べてみるのも
おもしろいのではないだろうか。
411:考える名無しさん
22/04/25 09:48:30 0.net
>>410
ここで、ペソアに倣って、「できること(=《ce qui est à venir》)を」に
フランス語でこの発話の主体を一人称として導入し、日本語の「~を」に、
これまでの説明どおり、フランス語の《vouloir》を対応させると、
「できること(=《ce qui est à venir》)を」は、
《Je veux ce qui est à venir》となり、
いかにもニーチェの「永劫回帰」風の表現となる。
412:塩なめくじ
22/04/25 15:38:44.22 aDaOS/qZ0.net
>>407
山本哲士か?
413:考える名無しさん
22/04/25 16:52:12.76 0.net
山本哲士という名前は、図書館の雑誌の本棚でよく見かけたことが
あるが、その人が書いたものを読んだことはないな。
この人に関するWikipediaで一緒に名前が上げられている金谷武洋、
藤井貞和の著作については、ざっと目を通したことがあるものの、
私にはまったくの期待外れだった。自分の関心を他人が追求して
実現してくれることを期待すること自体が、土台、無理な話だが。
414:考える名無しさん
22/04/25 17:12:39.96 0.net
>>411
誤解のないように付け加えておくと、私は、ペソアの論述をニーチェの
表現に結び付けて説明したが、ここで問題にしているのは、表現法の
共通性であって、ペソアとニーチェの思考法が類似していると言いたい
わけではない。ロマン主義的な思想を提唱するエマソンと、ロマン主義
に対して批判的な立場をとるニーチェが、その思考法において、案外、
互いに親密な関係にあるのに対して、ペソアは、革命家や改革者に
醒めた目線を向けることにおいてニーチェと考え方が共通しながらも、
その思考の方向性は、むしろ、ニーチェとは対照的である。
415:考える名無しさん
22/04/25 17:24:03.68 0.net
少し長くなるが、私には、とてもペソア的であると感じられる一節を
『不安の書』(高橋郁彦訳)(pp.142-143)から引用させてもらうことにしよう。
>いつだったか、ある日わたしは自分がこの世界にいるのに気付いた。それまでは、
むろん生まれ落ちてこのかた、感じることなく生きてきたのだった。わたしが
ここはどこなのかと尋ねると、誰もがわたしを欺き、みんなの言うことは矛盾
していた。どうしたらいいのか言ってくれと頼むと、みんなわたしに嘘を言い、
それぞれ自分のことを言った。わたしが分からないので途中で立ち止まると、
みんなは、何があるのか誰も知らない場所に向かってわたしが進まない、
あるいは後戻りしないのを見て驚いた ー <
― 続く
416:考える名無しさん
22/04/25 17:28:13 0.net
>わたしは四辻で目覚め、自分がどこからきたのか分からなかった。わたしは
自分が舞台に立っているのに気づいたが、演ずべき役割が分からなかった。
ほかの人たちはやはり何も分からぬまますぐに演じ始めたのだが。わたしは
自分が小姓の衣装を着ているのに気づいたが、女王は与えられず、それなのに
仕える女王がいないと責められた。わたしは手に渡すべき伝言を持っている
のに気づき、それが白紙だと言うと、笑われた。そして、笑われた理由が、
紙はすべて白いからなのか、伝言はどれも推測されるものだからなのか、
いまだに分からない。<
417:考える名無しさん
22/04/25 17:29:03 0.net
誤:気付いた
正:気づいた
418:考える名無しさん
22/04/25 17:45:42 0.net
ここで似非数学的な喩えを用いてニーチェとペソアの思考パターンの関係を
説明すると(私は、数学そのものをまともに理解していないので、それを
真に受ける必要はない。あくまでも、それは私に思い浮かぶイメージを
説明するものに過ぎないので、他人にはまったく無意味であることも
充分にあり得る)、ニーチェの言説が、絶えず、虚数iに喩えることの
できる「な(汝/己)」の「なつかしさ」と、i*i=-1に喩えることの
できる「~を!」の間の関係性について語っているのに対して、
ペソアの言説は、ほとんどいつも、-i、すなわち、「な(汝/己)」の
「なつかしさ」とは逆の、「な(汝)」に対する「な(己)」の、または
「な(己)」に対する「な(汝)」の「つれなさ」と、-i*i=1に
喩えることのできる人(「ひと」としての自分/他人)の間の関係性に
ついて語っているように、私には感じられる。
419:考える名無しさん
22/04/25 17:59:40 0.net
>ペソアは、革命家や改革者に醒めた目線を向けることにおいてニーチェと
考え方が共通しながらも<
その考え方も引用しておこう。前掲書、p.144
>革命家であれ改革者であれ、誤りは同じだ。生きること(すべてはこれに尽きる)
に対する自分自身の姿勢を、あるいは自分自身の存在(ほとんどこれに尽きる)を
支配し改革することができないので、人は他人と外界を変えようと逃げる。
あらゆる革命家、あらゆる改革者は逃避者なのだ。戦うのは、自分と戦えない
からなのだ。改革するのは、自分を改める気がないからだ。
真の感性と正しい理性を持つ人は、世界の害悪と不正に心を痛めるなら、
当然のことながら、もっとも身近に見られることから始めて、それを
修正しようとする。そして、それは自分自身の存在だと気づく。その
事業は一生かかるだろう。<
420:考える名無しさん
22/04/25 18:02:02 0.net
誤:改革者
正:改革家
421:考える名無しさん
22/04/26 00:38:44 0.net
ニーチェの言説に特徴的に強く表れている感覚を、最も短い日本語の
表現で言い表そうとするなら、やはり「(~)を」ということになる
だろうけれども、ペソアの場合には、それは「わ(侘)び」なのだろう
と私は思う。「わ(侘)び」とは、人(「ひと」としての自分/他人)の
「つれなさ」によってもたらされる感覚である(例えば、現代の
日本語においても普通に使われる「待ち『わび』る」の「わび」も
その応用である)。
422:考える名無しさん
22/04/26 01:02:06.71 0.net
>白露のうへはつれなくおきゐつつ萩の下葉の色をこそ見れ 〈後撰・秋中〉
こちらの歌は、私の似非数学の隠喩を用いると、「うへ」の「つれなさ」
を"-i"とするなら、「した」の「なぐさめ」は"i"として作用して、
-i*i=1となり、人(「ひと」としての自己)の両面性を表現している
ものとイメージできる。
万葉集 第13巻 3343番
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
>うらなみの きよするはまに つれもなく ふしたるきみが いへぢしらずも
こちらの歌の「君」は、死体であり、歌の詠み手がいくらその「つれなさ」
に寄り添ふ気持ちを示しても、もはや甲斐がないことが明白であり、
「つれなさ」が募って、-i*-i=-1という操作による「空虚さ」
のイメージが生じる。
この似非数学の計算は、私が個人的にイメージするためのものなので、
真に受ける必要はまったくない。
423:考える名無しさん
22/04/26 01:09:43.66 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第12巻 3094番
>物思ふと寐ねず起きたる朝明にはわびて鳴くなり庭つ鳥さへ
>ものもふと いねずおきたる あさけには わびてなくなり にはつとりさへ
>物を思って寝られず起きた朝明けはわびしいが、庭の鳥さえわびしく鳴いている。
以下は、『不安の書』(高橋郁彦訳)、p.149からの引用である。
>一晩ろくに寝ていないと、われわれは誰にも好かれなくなる。失われた眠り
とともに、われわれを人間的にする何かが運び去られたのだ。あたりの同じく
無生物的な空気にさえ、われわれに対するひそかな苛立ちがあるように思われる。
結局、われわれを見放すのは、自分自身であり、ひそかに火花を散らす駆引きは、
われわれとわれわれ自身との間に行われるのだ。<
424:考える名無しさん
22/04/26 09:19:44.39 0.net
>>423
ここで「何かが運び去られた」と表現される「何か」とはなんだろうか。
その「何か」を、上記の似非数学操作の隠喩を利用して示すなら、
「運び去られた」のは、人(「ひと」としての自己)を人間的にして
いた、虚数iの作用に喩えられる「なつかしさ」であり、「うへ(上)」
の「白露」の「つれなさ」と「した(下)」の「葉の色」の「なつかしさ」
の両面性により、-i*i=1として導き出されていた自己の「人となり」
から、「なつかしさ」の作用をするiが脱去されて、1/i=-iという
操作により-iが導き出されて、人からその両面性が失われ、自己と
他人の「つれなさ」ばかりが自覚されるようになり、その「つれなさ」
によってもたらされる感覚が、認識される対象(その対象が自己であれ、
自己の周囲の事物であれ)の「わび」として反映されて現れるのだろう、
と説明することができる。
無論、この場合も、示した似非数学操作は、私が個人的に想起する
イメージを整理するのを容易にするために用いているのであって、
他人がそれを公式として機械的に適用することを求めているわけ
ではない。
425:考える名無しさん
22/04/26 09:30:29.43 0.net
>>423
>わびて鳴くなり庭つ鳥さへ
「庭つ鳥(にはつとり)」は、いつもそこにて常日頃、自らが「な(慣)れ」
親しんでいる自らをとりまく環境の代表であることに留意しよう(つまりは、
偶々、または時々、自宅の庭を訪れる野鳥ではない)。
426:考える名無しさん
22/04/26 10:22:34 0.net
訳書からあまりに多くを引用するのはよくないので、ペソアの訳文の引用は
これを最後にしよう。ペソアの散文には哲学的な考えが深く浸透している
いるが、それを読んで理解するのに、哲学(学)を知識として身に付けて
いなければならないというようなことはまったくない。古典の和歌を読んで、
そこに詠まれている感性が自らのものとして分かるなら、優れた訳文の日本語を
介して、ペソアの言語表現に働いている感性も容易に感じ取れるはずである。
>もっとも痛ましい感情、もっとも苦しい想いは、ばかげたものだ ―
まさしく不可能だからこそ不可能なものへの切望、一度も存在しなかった
ものに対する懐かしさ、ありえたかもしれないことに対する願望、
別人でない苦悩、世界の存在に対する不満だ。このような心のなかの
意識のハーフトーンはどれもこれもわれわれのなかに痛ましい光景、
われわれの存在の永遠の落日を描いてみせる。すると、自分自身に
関する感覚は、遠い両岸の間をくっきりと流れていゆく。船の姿も
ない暗い川のほとり、葦の茂みのうら悲しい暮れゆく人気のない野になる。<
『不安の書』(高橋郁彦訳)、p.157
427:考える名無しさん
22/04/26 10:24:58 0.net
誤:流れていゆく
正:流れてゆく
428:考える名無しさん
22/04/26 11:58:17.98 0.net
「流(なが)れ」は、日本語では、「『な(羅、汝/己)』か(離)れ」
として構成されていると解釈することができる(この場合、
「/」は数学記号として用いているわけではないので、誤解のないよう)。
429:考える名無しさん
22/04/26 20:15:31.75 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第17巻 3997番
原文 安礼奈之等 奈和備和我勢故 保登等藝須 奈可牟佐都奇波 多麻乎奴香佐祢
訓読 我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね
430:考える名無しさん
22/04/26 20:26:07.94 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第4巻 717番
原文 都礼毛無 将有人乎 獨念尓 吾念者 惑毛安流香
訓読 つれもなくあるらむ人を片思に我れは思へばわびしくもあるか
431:考える名無しさん
22/04/26 22:55:33.54 0.net
>>428
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第11巻 2838番
原文 河上尓 洗若菜之 流来而 妹之當乃 瀬社因目
訓読 川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ
かな かはかみに あらふわかなの ながれきて いもがあたりの せにこそよらめ
432:侘び/solace
22/04/27 09:19:59.22 0.net
美として評価される「侘(わ)び」が、特に日本に独特のものであるなど
ということはない。仮にそのように感じるとすれば、それは、「侘(わ)び」
の感覚をメタ言語的にうまく捉えることができていないだけの話である。
人(「ひと」としての自分/他人)の「つれなさ」がもたらす効果が
「わび」であって、それは、「な(汝/己)」に「かひ(甲斐/効験)」が
ないという感覚である。美として評価される「侘(わ)び」とは、
「な(汝/己)」がその「かひ(甲斐/効験)のなさ」と「宥和する
(≒"reconcile")」ことができるように導く、「な(汝/己)」みづから
(身づ柄/自ら)によるその感覚の認知であり、その認知が、「な(汝/己)」
みづから(身づ柄/自ら)を「なだ(宥)め(≒"comfort")」、
「なぐさ(慰め)(≒"console")」ること(即ち、"solace")になるのだ。
433:考える名無しさん
22/04/27 09:23:02.99 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第15巻 3759番
原文 多知可敝里 奈氣杼毛安礼波 之流思奈美 於毛比和夫礼弖 奴流欲之曽於保伎
訓読 たちかへり泣けども我れは験なみ思ひわぶれて寝る夜しぞ多き
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第15巻 3727番
原文 知里比治能 可受尓母安良奴 和礼由恵尓 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐
訓読 塵泥の数にもあらぬ我れゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ
434:考える名無しさん
22/04/27 09:35:44.16 0.net
ハチやアリなどの「社会性昆虫」を例にだすまでもなく、生物の個体は、
あらかじめ「わぶ」ように仕組まれているとも言える。
435:考える名無しさん
22/04/27 17:06:47.65 0.net
「~を」という何かを求める呼びかけが、本来、そこに認められる
何らかの「空虚」を指し示すものであるとするなら、その呼びかけ
が無効に終わることは、「空虚さ」をそこにあると認めざるを得ない
ものとして現出させる。その無効さによって生じた「空虚さ」から
人々を救うものとして唱えられたのが、「空虚さ」こそを呼び
求める禁欲主義だが、その救済策が結局は、生きることに反する
ことになるとして批判したのが、ニーチェである。これに対して、
ペソアは、すべての「空虚さ」を受け入れることにおいて、一見、
ニーチェが批判する禁欲主義に近いように見えるが、表現の論理
から見れば、むしろ、ペソアの思索は、ニーチェの禁欲主義の
批判を裏返しにしたような関係にあると見る方が、ペソアの言説を
うまく解釈することができる。
436:考える名無しさん
22/04/27 17:16:35.77 0.net
他人にとって意味を成すかどうかは別として、私の似非数学的な隠喩を
用いるなら、「~を」を-1に喩え、「な(汝/己)」の「なつかしさ」
の働きを虚数iに喩えるとすると、「欲望」/「空虚さ」について、
ニーチェの言説が、(-1)^(1/2)=iという関係性を中心に議論を
展開しているのに対して、ペソアの言説は、(-1)^(-1/2)=1/i=-i
という関係性を中心に思索を巡らせているように私には見える。
437:いな(否)を(応)なし
22/04/28 08:22:59.47 0.net
不在(absence)とは、求めである呼びかけに対して応へがないことである
(例えば、授業で出欠(attendance/absence)をとるときのことを
思ひ浮かべてみるといい。)。したがって、呼びかけがなければ、
不在(absence)もない。逆に云へば、存在するとは、呼応関係が成立する
ことに他ならない。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3470番
原文 安比見弖波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加<母> 安礼也思加毛布 伎美末知我弖尓
訓読 相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちがてに
かな あひみては ちとせやいぬる いなをかも あれやしかもふ きみまちがてに
438:否乎鴨
22/04/28 08:33:34.83 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第11巻 2539番
原文 相見者 千歳八去流 否乎鴨 我哉然念 待公難尓
訓読 相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちかてに
439:考える名無しさん
22/04/29 09:27:38.27 0.net
以下の歌の引用した句の表現を、「を」と「な」の用法に注目して読んでみるといい。
「をす」こと、即ち、「統治する」ことがどのようなこととしてイメージされて
いるのか、よりよく分かるようになるはずである。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第19巻 4254番
>神奈我良 吾皇乃 天下 治賜者 物乃布能 八十友之雄乎 撫賜 等登能倍賜 食國毛
>神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば もののふの 八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食す国も
>かむながら わがおほきみの あめのした をさめたまへば もののふの やそとものをを なでたまひ ととのへたまひ をすくにも
「神『な』がら」我が大君の天の下「『を』さ(治)め」たまへば、もののふの
八十伴の「を(男)」「を」「 『な(撫)』で」たまひ整へたまひ 「『を(食)』す」国も
440:考える名無しさん
22/04/29 10:07:33.55 0.net
私は、ペソアの言説の特徴について、次のように指摘した。
>ペソアの言説は、ほとんどいつも、-i、すなわち、「な(汝/己)」の
「なつかしさ」とは逆の、「な(汝)」に対する「な(己)」の、または
「な(己)」に対する「な(汝)」の「つれなさ」と、-i*i=1に
喩えることのできる人(「ひと」としての自分/他人)の間の関係性に
ついて語っている<
ところで、それでも、ペソアは、しばしば、自らが感じる「なつ(懐)かしさ」
について語る。しかし、その「なつ(懐)かしさ」は、>>426に引用した
>一度も存在しなかったものに対する懐かしさ
という表現にも典型的に見られるとおり、いつでも「な(汝/己)」に
対して裏返っているのである。このため、その「なつ(懐)かしさ」は、
自己が「な(汝)」に対する「な(己)」の関係として捉えられる場合ですら、
決して「な(汝)」と「な(己)」の「縒(よ)り合ひ」をもとにした
「いと(絲)を(惜)しさ」を生じることはなく、
>自分自身に関する感覚は、遠い両岸の間をくっきりと流れてゆく
と表現されるとおり、「な(汝/己)」は、「流れる」/「な(汝/己)か(離)れる」
河(ここでは、「感覚」の働きに喩えられる)の両岸のように並行に分かれる
のである。
441:考える名無しさん
22/04/29 10:26:12.94 0.net
このように見ると、ペソアの言説の特徴は、ニーチェのそれとは
まったく対照的であるという私の指摘も容易に理解できるはずである。
>しかし、場合によっては、持続する愛なるものも世の中には生じうる。
二人の人間相互の所有願望が、新たな欲求と所有欲に場所を空け、
彼らを超えた理想を目指す共通の気高い渇望に道を譲るようなことも
ありうるのだ。―しかし、このような愛を知っている者があるだろうか?
このような愛を経験した者があるだろうか。その真の名は、友情である。<
ニーチェ、『喜ばしき知恵』、(pp.82-85)
442:考える名無しさん
22/04/29 10:34:26 0.net
ところが、まさしくそのように明白に対照的であることこそが、ペソアと
ニーチェのそれぞれの言説の特徴を、似非数学モデルを隠喩として用いて
互いに関係付けて理解することを容易にするのだ。
443:考える名無しさん
22/04/29 13:55:53 0.net
以前から公然と認めているが、私自身は、数学も算数もとても苦手と
している。教養レベルの数学の技法を使いこなせるどころか、
日常生活に必要なレベルでの簡単な足し算や引き算でもすぐに
計算を間違えるし、トランプのゲームで数を足すことが要求される
なら、それだけで面倒に感じる。ではなぜ、それでも私は、似非
数学モデルを勝手に作り上げて、それを自らの考察に利用しようと
するのだろうか。
私は別に、哲学の考察よりも数学の方に権威があって、数式を
用いて説明すれば、自分の説明に数学によるお墨付きが与え
られる、またはそのように偽装できると思っているわけではない。
それどころか、明白に「計算そのものとして認識される行為」ですら、
数式の機械的な適用によっては、適切に説明することができない
と考えている。
444:考える名無しさん
22/04/29 14:24:02.25 0.net
具体例で考えてみよう。
人物Aが人物Bに何らかの物品の代金として600円を支払ってその物品を
譲り受けることに、その両者が合意する。Aは、1000円札しか持ち合わせ
がないので、Bに1000円札を渡し、Bは、600円で譲り渡しを合意した
物品と、渡された1000円紙幣の価値と物品の代金である600円の差額に
相当する400円をAに渡す。
この場合、BがAに差額の400円を渡す行為は、「¥1000-¥600=\400」
を計算する行為である、あるいは、Aに差額を渡す行為に、少なくとも
そのように計算することが伴っているのだろうか。無論、そのように
計算することにより、Aに渡されるべき差額は適切に導き出すことが
できる。しかし、そのことは、「BがAに差額の400円を渡す行為」を、
「¥1000-¥600=\400」として表現し、そのような計算として
解釈することが「必然的に」適切であることは、まったく意味しない。
それどころか、そのように表現し、解釈することが「必然的に」不適切
となることさえあり得る。
445:考える名無しさん
22/04/29 14:41:54.83 0.net
海外に旅行に行って、買い物をしてその代金を支払ったときに、
売り手側が、お釣りの金額を足し算しながら返してくるのを経験した
ことがある人も少なくないだろう。そのようにお釣りを返すときに
行われている行為は、明らかに「¥1000-¥600=\400」 のような
引き算の計算ではない。その行為は、足し算の結果として最終的に
「¥1000=¥600(商品の代金)+\400」という結果がもたらされた
ことを、売り手と買い手が双方で確認するものである。
算数、あるいは数値上の計算としては、1000-600=xという形で
引き算として計算しようと、1000=600+xという形で足し算として
計算しようと、結果として求まるxである400には何も変りはないの
だから、同じことではないか、と考えるかもしれないが、
この足し算による行為は、引き算による行為とは、表現され、
解釈される行為の意味が明白に異なっているのである。
446:考える名無しさん
22/04/29 14:58:24.44 0.net
フランス語で《donnant-donnant》という表現がある。これに英語で一般に
当てられている訳は、"give and take"であるが、英語の"give and take"の
用法は、「互恵関係」としてのニュアンスが強いので、実は、その用法は
ずれている。フランス語の《donnant-donnant》を英語の"give and take"
と理解して、さらにその「互恵関係」のイメージから、それを日本語の
「(困ったときは)お互い様」に変換してしまうと、元のフランス語の表現
の意味合いをまったく捉えられなくなってしまう。日本語の日常表現として
それにうまく当てはまる表現を見出すことができなかったのだろうと
思われる以下のサイトに引用される辞書の記述では、英語からのカタカナ語である
「ギブ・アンド・テイク」をそのまま当てている。
URLリンク(kotobank.jp)
donnant-donnant
ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版(仏和の部)の解説
[男]((不変))[話]ギブ・アンド・テイク.
447:考える名無しさん
22/04/29 15:11:13.60 0.net
ここで、フランス語の辞書のフランス語による記述を参照してみよう。
URLリンク(www.larousse.fr)
donnant-donnant
>Transaction dans laquelle chacune des parties accorde une compensation à l'autre.
URLリンク(fr.wiktionary.org)
> Exprime que l’on n’accepte de donner une chose uniquement contre une autre.
要するに、《donnant-donnant》とは、その取引きに関与する双方の間で
どちら側にも平等であると感じられるように交換条件を成立させることを意味している。
448:考える名無しさん
22/04/29 15:33:53.62 0.net
このように見ると、数値の計算としては同じ結果をもたらす引き算の
「¥1000-¥600=\x」によって400円をお釣りとして渡す行為と、
足し算の「¥1000=¥600(商品の代金)+\x」によって等しさが
成立するまで買い手に確認させるように釣銭を手渡して、売り手と
買手の双方が等しい価値を手に入れたことを双方で確認する行為が、
互いに異なるように表現され、解釈される意味をもつことが直ちに
理解できるはずである。それと同時に、この場合も、数式を数学
の計算として理解するのではなく(そのように理解するなら、引き算
も足し算も互いに変換可能であり、同じ結果を求める同じ手続きの
別の表現となる)、似非数学モデルとして利用するなら、多くの言葉
を費やして説明するより、「1000=600+x」という数式の具体例で
足し算によって、天秤が等しくなるように結果としての平等を
双方が確認する行為として、フランス語の《donnant-donnant》
という表現を説明することが可能となる。また、その結果としての
平等を双方が確認する行為が、《on est quite》と表現されることも
容易に納得がゆくものとなるだろう。このようにして、多くの
言葉を費やす代わりに、数学記号の勝手な活用により、はるかに
簡潔に関係性を表現できるようになることが、似非数学モデルの
効用である。また、似非数学モデルの表現によって誤解が生じるなら、
節約していた言葉の表現を補足していくだけで済むことになる。
449:考える名無しさん
22/04/29 15:51:35.42 0.net
ところが、そのような表現法には、数学に慣れ親しんだ側からは、
「そんなものは数学ではない」という的外れな批判が向けられ、
数式など、データの数理的な処理以外に解釈には無関係であると
考えている文系の研究者の側からは、「物事はそんなに単純ではない」、
「そんなものは数学の権威を借りるだけの偽物だ」というやはり
的外れな批判が向けられて、拒絶されることになる。
それでも、例えば、「ひっくり返す」という表現は、それが
逆方向にすることを意味するのではない場合、言葉を尽くす
よりも、x^-1=1/xという似非数学表現を借りた方が、簡単に
その関係性のイメージを伝へることが可能となるのだ。
450:考える名無しさん
22/04/30 09:41:45 0.net
ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』が、「『なほ(直)び』の書」
(ここで、「なほび」とは「な(萎)え」/「なや(悩)み」から回復する
ことであり、本居宣長の用いた用語であると考えて差し支えない)である
とすれば、ペソアの『不安の書/不穏の書』(ペソアの"desassosego"と
いう表現の用法に、「不安/不穏」という日本語が想起させるイメージ
はあまりうまく適合していないが、代替の適切な表現を見つけることも
そう容易ではない)は、「『侘(わ)び』の書」であると言えるだろうと
私には思える。
451:考える名無しさん
22/04/30 10:38:30 0.net
240 名前:考える名無しさん 2022/04/30(土) 09:14:48.15 0
>美しさとして評価される「侘(わ)び」とは、英語で説明的に表現するなら、
"art of adaptation by self-diminution of exigence"であって、
それは、自らの置かれた状況に適応する己の生きる「術(すべ)」/"art"の
自覚である。したがって、それを「禁欲主義の『をし(教)へ』」に変えて、
他者に「侘(わ)ぶ」ことを要求する/《exiger》ことは、文字通り
倒錯であり、その「術(すべ)」/"art"を実践することに悖(もと)る振舞ひ
であると言わなければならないだろう。<
URLリンク(arquivopessoa.net)
>ESTÉTICA DO DESALENTO
Já que não podemos extrair beleza da vida, busquemos ao menos
extrair beleza de não poder extrair beleza da vida.
Façamos da nossa falência uma vitória, uma coisa positiva e erguida,
com colunas, majestade e aquiescência espiritual.<
452:考える名無しさん
22/04/30 10:47:13 0.net
ニーチェとペソアの考へ方は、既に指摘したとおり、明らかに対照的な
表現を生成するのだが、そのいずれの思考も、生きることに対してリバース・
エンジニアリング的に働くという点でとてもよく似通っている。
453:考える名無しさん
22/04/30 15:40:51.31 0.net
>>262-265
日本語の「を(終)ふ」という表現は、「を」の発声によって指し示される
「空虚」を、メタ言語的な指示として用いられている「~ふ」によって
「ひっくり返す」ことにより、「満腔をもたらす」ことを意味すると
解釈されると指摘したが、このように「空虚」をひっくり返すことに
よって「満腔」がもたらされるという捉え方は、日本語の話者に限定される
ものではない。次の表現もやはり、前掲のペソアの著作からの引用である。
URLリンク(ldod.uc.pt)
>Gosei não ser nada com uma plenitude de bonança espiritual,
cahindo no regaço azul das minhas aspirações.
454:考える名無しさん
22/05/01 09:13:54.18 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
>橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等
>橘の本に我を立て下枝取りならむや君と問ひし子らはも
>たちばなの もとにわをたて しづえとり ならむやきみと とひしこらはも
「たちば『な(汝/己)』」の もとに「わ(我)」をたて しづえとり
「『な』らむ」や「きみ(君)」と とひしこらはも
455:考える名無しさん
22/05/01 09:28:54.52 0.net
こちらは、一年半ほど前の私自身の書込みであるが、この推論を裏付ける
例は、万葉集を検索によっても容易に裏付けることができる。
>587考える名無しさん2020/10/06(火) 09:33:41.340
話が横に逸れてしまったが、ここで問題にしているのは、指示詞の「あ」であり、
「あなた」の「あ」である。この「あ」は、中国語では「岸ピンイン àn」
(1(そそり立って)高い.2 尊大である.⇒傲岸 ào’àn ) として用いられた
表現の流用であると考えられることを、私は以前から指摘してきた。
URLリンク(en.wiktionary.org)岸
Old Chinese
(Baxter–Sagart): /*[ŋ]ˤa[r]-s/
(Zhengzhang): /*ŋɡaːns/
現代の日本語で用いられる「岸」という漢字からは少しイメージが湧きにくい
かもしれないが、関連する漢字として用いられてきた「崖」をイメージして
みるといいだろう。<
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3541番
>安受倍可良 古麻<能>由胡能須 安也波刀文 比<登>豆麻古呂乎 麻由可西良布母
>あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3539番
>安受乃宇敝尓 古馬乎都奈伎弖 安夜抱可等 比等豆麻古呂乎 伊吉尓和我須流
>あずの上に駒を繋ぎて危ほかど人妻子ろを息に我がする
ここで「あず」が意味しているのは、「あ(≒崖)ず(≒崩れ)」であると
考えられ、岩波古語辞典でも、「あず」の説明として「がけのくずれた所」
と記載されている。
456:考える名無しさん
22/05/01 09:48:06.53 0.net
誰でも容易に気づくはずのことに私以外の誰も気づかないということは、
まずあり得ないので、それを私以外の誰も指摘していないように見える
ことは、私にはとても「奇異に感じられる」だけでなく、このように
明示的に指摘してさえ、「誰もそれに気づく様子がない」。そのような
「違和感」は、私にとって、この特定の事例に限定されるものではなく、
毎日の生活における日常的なものである。私には、「不安/不穏」と
訳されているペソアの"desassosego"という表現は、そのように
奇異に感じられる、自らと世界の、また「な(汝/己)」と「な(汝/己)」
の「違和」の感覚を伝へようとしているように思われる。
457:考える名無しさん
22/05/01 09:55:40.44 0.net
"desassosego"という表現は、その語源的な解釈をそのまま直訳するなら、
安定感のない「す(据)わりの悪さ」である。
URLリンク(en.wiktionary.org)
Etymology
From Old Portuguese sessegar, from Vulgar Latin *sessicāre,
from Latin sessus, past participle of sedeō.
458:考える名無しさん
22/05/01 13:30:36.03 0.net
>>455
誤:容易に裏付けることができる。
正:容易に見出すことができる。
459:考える名無しさん
22/05/01 13:49:58.29 0.net
引き続き、ペソアの同じ著作からの引用である。
URLリンク(ldod.uc.pt)
>Ventos altos, chiando em coisas paradas, barulhando coisas presas,
arrastrando coisas moveis, erguiam, entre os brados irregulares da chuva,
palavras ausentes de protesto anonymo, sons tristes e quasi raivosos
de desespero sem alma.<
この一節を読んで、"chiando"の"chi"の発声に日本語の「ちはやぶる」の「ち」
や「こち(東風)」の「ち」と共通するものを感じないとすれば、むしろ、
誰にでも普通にあるはずの感覚が働いていないと言えるだろう。しかし、
その共通に働いている感覚を認めたとしても、多くの人々は、それは
「擬音語/擬態語」なのだからよくあることで、別に珍しくもない
という感想だけで済ませてしまう。ところが、そのように、共通に働いている
感覚を示す表現を「擬音語/擬態語」として分類して理解したことにして
しまうことこそが、そこにどのような感覚が働いているのかを省察する
ことなしに済ませようとする「物象化」なのである。そして、「ちはやぶる」
という古語の表現が意味不詳に感じられるようになることも、その物象化に
起因していると言うことができる。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第2巻 101番
>玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
>玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
>たまかづら みならぬきには ちはやぶる かみぞつくといふ ならぬきごとに
460:考える名無しさん
22/05/02 09:47:53.01 0.net
日本語の「を」を用いた表現法には、私にはまだ分からないと感じられる
ものがいくつもある。そのうちの一つが「をとこ/をとめ」の「をと」である。
現代語では、「おとこ(男)」と「おんな(女)」が対比されているが、
万葉集では、「をとこ/をみな」という対比も見られるものの、
大多数の事例では「をとこ」と対比されるのは「をとめ」である。
岩波古語辞典には、この「をと」を「若返りの水」を意味するように
用いられる「をちみづ」の「をち(「変若」という漢字が当てられることが
多い)」と同根としているが、これは、私には極めて疑わしく思える。
なぜなら、「をちみづ」の「をち」(これも私にはまだ分からない表現
だが)は、まさしく「若返る」という意味合いで用いられており、
「をち」の「ち」を「力(ちから)」に結び付けるなら、「力を取り戻す」
という解釈は成立しても、「若い力がある」という解釈は成立しないように
思われるからである。さらに、「をち」には、これとは別に、「をちこち」
という表現があり、こちらは、現代語では「あちこち」に吸収されたもの
と思われるが、「遠近」という漢字が当てられることもあり、現代語に
するなら「遠い方、近い方」のような意味合いで用いられている。さらに、
この「をち」の「を」には、「越」、「彼」などの漢字も当てられ、
その当てられる漢字に応じた想起されるイメージの揺れをともなっている
ように思われる。
461:考える名無しさん
22/05/02 10:03:34.87 0.net
「をとこ/をとめ」に戻ると、私には、これらの表現が、語源的に「若い男/女」
を意味していたという解釈自体が疑わしく思える。なぜなら、そのような
解釈をもたらす手続きは、暗黙の物象化に基づいているからだ。それは、
まず、ある対象が目の前に存在し、その対象には、「人」という属性が
あり、さらにその「人」に「男性/女性」という属性があり、そのうえ、
その「男性/女性」には、「若い」という属性があるという、物象化した
分類による命名法である。日常的な言葉遣いにおいて何かを指し示す
ように呼ぶとき、普通、人はそのような手続きに従うわけではないだろう。
誰かがそこに居たとして、その誰かを指す言葉は、普通、その指し示し
が自らのニュートラルな態度を反映するなら、「この人」、「あの人」
であり、見下しの態度を反映するなら、「こいつ」、「あいつ」であり、
敬意を反映するなら「この方」、「あの方」であり、そのような捉え方
は、その人物が男性であるか、女性であるかという分類より先である。
しかも、これは、制度的な身分による区別が明示的に排除されるべき
とされる現代の言葉遣いにおいてさえ当たり前のことであるのだから、
まずは制度的な身分を差別することが言葉遣いにおいて要求された
古語の日本語において、最初にニュートラルに対象を「人」として
分類し、それをさらに「男女」で分類し、そのうえで「老若」を
分類するという手続きに従った言葉遣いをしたと考えて、表現を
解釈するのは、あまりにも不自然だろう。
462:考える名無しさん
22/05/02 10:31:14.83 0.net
(他人に納得してもらうために当然、必要とされる)詳しい検討を省略して、
私の先入見による結論だけ述べれば、「をとこ/をとめ」は、無論、
「こ/め」の対比において男女の区別を伴うが、「をと」は、「若い」
ことを意味するのではなく、「『求め』の対象となる」イメージを
想起させるように用いられたのではないかという気がする。また、
この「をと」を「をち」と関連付けるなら、「若返りの水」である
「をちみづ」に関連付けるより、「を(遠/彼/越)ちこち」の
「を(遠/彼/越)ち」に関連付ける方が妥当だろうと思われる。
というのも、現代の日本語の用法でも、「彼氏/彼女」と表現すれば、
それは、単に三人称的に或る男性/女性を指し示すことになるだけ
ではなく、男女関係にある人を指すことにもなるからである。
ところが、ここで、「彼氏/彼女」の「彼」、つまり、「か(彼)の」が
含意しているのは、「を(遠/彼/越)ちこち」の「を(遠/彼/越)ち」が
そうであるように、話者と話者の相手から三人称的に離れている様態
の指し示しだろう。さらに、「をとこ/をとめ」が対比されるのは、
年寄りの男性/女性というよりも、「やつこ(奴)」ではないかと思われる。
「やつこ(奴)」は、この表現が語源的にどのように解釈されるにせよ、
現代語の「やつ(奴)」の用法にも反映されるとおり、見下される者であり、
使はれる者であり、軽くあしらわれる者であり、古語においては、
三人称的に用いられることも、卑下として自らを指し示すように用いられる
こともある。
463:考える名無しさん
22/05/02 10:44:41.43 0.net
「やつこ(奴)」が私に想起させる外国語の表現は、例えば、フランス語の
《racaille》であり、それに関連する英語の"rascal"である。
URLリンク(www.etymonline.com)
rascal (n.)
mid-14c., rascaile "people of the lowest class, the general mass;
rabble or foot-soldiers of an army" (senses now obsolete), also singular,
"low, tricky, dishonest person," from Old French rascaille "rabble,
mob" (12c., Modern French racaille), as Cotgrave's French-English
Dictionary (1611) defines it: "the rascality or base and rascall sort,
the scumme, dregs, offals, outcasts, of any company."
464:考える名無しさん
22/05/02 10:50:27.53 0.net
ところで、現代の社会思想において、「をとこ/をとめ」と「やつ(ら)」の
対比は消え去ったのだろうか。「男(おとこ)」と「女(おんな)」の対比ばかり
が議論されるが、実際の社会のイデオロギーにおいては、その表向きの
対立の陰に隠れて、今でも、「をとこ/をとめ」と「やつ(ら)」の対比の
方が意識に強く働きかけているのではないか。
465:考える名無しさん
22/05/03 10:26:15.22 0.net
>「をと」は、「若い」ことを意味するのではなく、「『求め』の
対象となる」イメージを想起させるように用いられたのではないか
という気がする。<
「をとこ/をとめ」の「をと」から私が想起するイメージを伝へるように
「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないかと思う。この「をと」を
「を(復/変若)つ」の活用形と考えて、「をち(復/変若)みず(水)」という
表現に関連付けるなら、それを、岩波古語辞典の記載のとおりに「をちみづ」
から「若い生命力が活動すること」と解釈するより、むしろ、逆に
「を(復/変若)つ」を英語の"to reclaim"に対応するものとしてメタ言語的に
記述して、「をちみづ」の方を"power reclaiming water"と解釈する方が
自然ではないかと思う。これについては、以前に同じようなことを書いたような
気もするが、検索しても見当たらないので、書き込んでおく。
466:考える名無しさん
22/05/03 10:51:50.17 0.net
>「をとこ/をとめ」の「をと」から私が想起するイメージを伝へるように
「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないかと思う。<
私には、「をとこ/をとめ」という表現がもともと伝へていただろうその
ような感覚は、現代の日本語にもある程度、引き継がれているのではないか
と思う。その表れであると思われるが、「男/女がすたる」という慣用句
である。岩波古語辞典の「すたれ【廃れ】」の項目には、「すたれもの
【廃者】」という表現について、「世の中から見捨てられた者。役に
立たない者。」と説明される。したがって、「男/女がすたる」と表現
されることは、逆に見れば、「男/女である」こと自体が、立派なこと
(≒"worthy of reclaim")であるとイメージされていることになるだろう。
467:考える名無しさん
22/05/03 11:09:14.63 0.net
「を(復)つ」に英語の"to reclaim"を対応させることの妥当性は、
次の万葉集の歌の「をち」の用法からも確かめることができる。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第17巻 4011番
>鷹はしも [中略] 手放れも をちもかやすき
URLリンク(www.etymonline.com)
reclaim (v.)
early 14c., reclaimen, "call back a hawk to the glove," from Old French
reclamer "to call upon, invoke; claim; seduce; to call back a hawk"
(12c., Modern French réclamer) and directly from Latin reclamare
"cry out against, contradict, protest, appeal," from re- "opposite,
against" (see re-) + clamare "cry out" (from PIE root *kele- (2)
"to shout").
468:考える名無しさん
22/05/03 11:34:25.09 0.net
古語の「をちこち【遠近・彼方此方】」という表現は、直訳するなら、
フランス語の《de près comme de loin》という表現の順序を逆にして、
《de loin comme de près》として理解することができ、現代の日本語の
「あちこち」に吸収されたものと考えられる。ところで、「あちこち」
という表現も「あち(遠方)こち(近方)」を表現し、「あち(彼方)こち(此方)」
を表現するのだから、「をちこち」と「あちこち」の両方は必要なく、
「あちこち」だけになっても、表現として伝へられるものは何も
失われていないように思えるかもしれない。しかし、そうではない。
おそらく、口語の発音上、「を」と「お」が区別されなくなったので、
「をちこち」によって本来、伝へられていたイメージを想起させる
ことが難しくなったので、「をちこち」は、「あちこち」に吸収される
ことになったのだろうが、それによって失われたのは、
「深度」(それを視覚的に捉えるにせよ、聴覚的に捉えるにせよ)
である。「あちこち」があちらにも、こちらにもという散在性を
イメージさせる表現であるのに対して、「をちこち」の「をち」は、
単に「あちら」に離れていることをイメージさせるのではなく、
そこからこちらまでの「深度」、《du fond》をイメージさせるのである。
469:考える名無しさん
22/05/03 11:43:41.32 0.net
>「をちこち」の「をち」は、単に「あちら」に離れていることをイメージ
させるのではなく、そこからこちらまでの「深度」、《du fond》を
イメージさせるのである。<
このことは、一般には、「以後」を表現していると説明される
「をち【遠・彼方】」の用法、また「うつつ(現)」の転として、(私に
言わせれば)誤って解釈される「をつつ/をつづ」という表現を見ても、
すぐに確認することができる。この「を」に英語を対応させるなら、
"ever since"の"ever"ということになるが、この場合も「を」は、
遠近法における「深度」を表現している。
470:考える名無しさん
22/05/03 12:03:59 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第18巻 4094番
>伊尓之敝欲 伊麻乃乎追通尓 奈我佐敝流 於夜<乃>子等毛曽 大伴等
佐伯乃氏者 人祖乃 立流辞立 人子者 祖名不絶 大君尓 麻都呂布物能等
伊比都雅流 許等能都可左曽
>いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と
佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと
言ひ継げる 言の官ぞ
この「いにしへよ 今のをつづに」が、メタ言語としてフランス語の表現を
用いて説明するなら、《depuis la nuit des temps》に相当し、「をつづに」
の「を」が、フランス語の場合には、《la nuit》によって表現される
遠近法における「深度」をイメージさせるように用いられていることは、
フランス語を知っている人には、一目瞭然だろう。言語表現は、
「近くから」/《de près》丹念に見ているだけでは、適切に解釈
することができないのである。重要なのは、その表現の働きを適切に
解釈することを可能にするネットワークを視野に入れることだ。
471:考える名無しさん
22/05/04 08:26:31.03 0.net
>この「をと」を「をち」と関連付けるなら、[...]「を(遠/彼/越)ちこち」
の「を(遠/彼/越)ち」に関連付ける方が妥当だろうと思われる
>「をとこ/をとめ」という表現を英語にするなら、"man/woman worthy
of reclaim"といったようなものになるのではないか
このように指摘したが、それが実際に歌の解釈に役立つかどうか確かめてみよう。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第7巻 1372番
>三空徃 月讀<壮>士 夕不去 目庭雖見 因縁毛無
>み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし
>みそらゆく つくよみをとこ ゆふさらず めにはみれども よるよしもなし
472:考える名無しさん
22/05/04 09:10:47.55 0.net
この歌では、夜の月の光に照らされてその姿が見え、別の女性のところに通って
ゆく男性が、「月読壮士(つくよみをとこ)」として月に喩えられている。
>み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし
「み空行く」が表現しているのは、「目の前の空間的な広がりを渡ってゆく」
ことであり、「月読(つくよみ)」には、日本書紀において「月夜見尊」として、
また古事記において「月読命」として神格化された月と、「月の出た夜に
(その姿が)見える」、つまり、「夜に月の光に照らされて見える」ことが
掛けられており、「壮士(をとこ)」は、夜ごとに出る月に喩えられると
同時に、夕闇のなかで月の光に照らされてその姿が見える存在である。
「夕さらず」とは、英語にすれば、"every evening without fail"であり、
現代の日本語にすると、「毎夕欠かさず」ということになる。したがって、
「夕さらず目には見れども」は、「毎夕欠かさず(その姿)を目にするけれども」
ということになる。「寄るよしもなし」とは、「自分のところに寄ってくる
わけ/理由もない」ということで、その「をとこ」が異性として自分のところ
に通ってきてくれたならよいのにと願う気持ちと、その願いがかなふことを
期待できる理由がないという自覚を表現している。したがって、この
歌において、「をとこ」は、空間的な遠近法の深度において自分から離れて
いる、つまり、「『そこからここまで』の空間的な離間を感じさせる」存在
であるとともに、「自分のところに来てくれることが願はれるように立派な」
(≒"worthy of reclaim")存在であるとイメージされていることになり、
「をとこ」の「をと」を、「を(遠/彼/越)ち」および「『求め』の対象となる」
ことに関連付ける、私の提示した語源的解釈は、少なくともこの場合には、
うまく適合していると言えるだろう。
473:考える名無しさん
22/05/04 10:53:36.29 0.net
>>467
「を(復)つ」に英語の"to reclaim"を対応させることが妥当である場合がある
にしても、「をとこ/をとめ」の「をと」に"worthy of reclaim"という訳を
当てて、"worthy of ~"という表現を導入するのは、語源解釈として恣意的
ではないかという批判はあり得るだろう。しかし、そのような意訳が恣意的に
見えて気に入らないなら、文法形式に拘って、「をと」に"to be reclaimed"を
割り当ててもよく、すると、「をとこ/をとめ」は、"man/women to be
reclaimed"ということになる。実際、私は、"man/women worthy of reclaim"
という意訳を導いたのは、そこからであり、"to be reclaimed"では、私が
どのようなイメージを想起しているのか伝はりにくいと考えたために言い換えた
に過ぎない。意訳によってそのイメージが伝へられたなら、今度は、元の
文法形式に拘った表現に戻っても何ら不都合はない。
474:考える名無しさん
22/05/04 11:10:40 0.net
ところで、今回、「をとこ/をとめ」の「をと」について検索して調べている
間に、少なくとも私には、とても重大に思へることに気づいてしまった。
それはあまりにも重大であるため、日本語を対象とした国語学、日本語学、
言語学の信頼性を根幹から揺るがすように私には思へるものである。
私は、専門の研究者ではなく、ネット検索と地元の図書館を利用する
一般人であり、国語学、日本語学、言語学関連の蔵書が自宅にある
わけでもなく、こららの分野を見渡すことのできるような知識がある
わけではない。自宅にはせいぜい、高校時代に利用した岩波古語辞典が
あるに過ぎない。それでも、今では、ネットで検索すれば、一般的な
日本語の表現であれば、それをキーワードとして検索すれば、代表的な
辞書に記載される簡潔な説明が検索結果としてヒットして、それを
参照することができる。
475:考える名無しさん
22/05/04 11:31:32 0.net
ここで私が「とても重大に思へること」というのは、日本語における「音(おと)」
という表現についてである。現代仮名遣いでは、口語の発音に合わせて表記が
簡略化されて、「を」の表記が、助詞として用いられる場合を除き、「お」に
変更されたことは、よく知られている。それでも、古語は、古語の表記において
読まれ、解釈されるのだから、古語の辞書では、当然、旧仮名遣いで項目が
立てられることになり、実際、岩波古語辞典でもそうなっている。
ところが、岩波古語辞典では、「おと(音)」の項目はあっても、「をと(音)」
の項目はない。このため、私は、今回、「をとこ/をとめ」について考察する
ために、「をと」をキーワードにして熱心に検索をするまで、「音」の読み
は、「おと」であることが確定していて、「音(おと)」であることに何の
疑いももっていなかった。しかし、とても奇妙なことに、「をと」で検索
すると、明白に「音」に対応するものとして用いられた「をと」が
おびただしい数で歌に詠まれていることに気づく。そこで、その表記
が用いられている文献がどのようなものであるのかを検索してみると、
それが単純な誤記ではなく、権威があるとされる歴史的に重要な文献
の記載に見られるものであることが判明した。例えば、それは、
次のような文献である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)群書類従
>古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。
寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。
歴史学・国学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。 <
476:考える名無しさん
22/05/04 11:44:54.77 0.net
にもかかわらず、既に述べたとおり、「をと(音)」については、岩波古語辞典
は一切触れておらず、それだけでなく、「をと」&「音」をキーワードとして
検索しても、「おと(音)」と「をと(音)」の表記の違いについて説明する辞書
の記載も、これについて解説しようとするサイトも、私が調べた限りでは、
まったく検索結果としてヒットしない。では、なぜそれが、
>日本語を対象とした国語学、日本語学、言語学の信頼性を根幹から揺るがす
ようなことであると私に感じられるのか。それは、「音」について
考えることは、これらの学問にとって中心的な課題なのだから、
「おと(音)」と「をと(音)」の関係を不問に付しているとすれば、それは
意図的な問題意識の抑圧であるとしか思へないからである。さらに、
「おと(音)」と「をと(音)」の違いが無視されて、表記が「音(おと)」に
まとめられていることは、古典文献の解釈に重大極まりない影響を及ぼす。
477:考える名無しさん
22/05/04 11:55:34 0.net
例えば、古今和歌集の次の歌を参照してみるといい。
>紀貫之
あふことは雲ゐはるかに 鳴る神の音にきゝつゝ恋ひわたるかな
読人しらず
片糸をこなたかなたによりかけて あはずは何をたまのをにせん
(古今和歌集巻第十一 恋歌一482.483)<
「鳴る神の音」と表記される「音」は、「おと」だろうか、「をと」だろうか。
検索すると、「をと」と読まれる事例がヒットし、「音」を「おと」と読むのと、
「をと」と読むのとでは、それによって想起されるイメージがまったく異なる。
478:考える名無しさん
22/05/04 12:06:52 0.net
さらに、現代の日本語においてもときとして慣用句として用いられる、
「音に聞く」という表現がある。
URLリンク(kotobank.jp)音に聞く-453239
>おと【音】 に 聞(き)く
? 人づてに聞く。うわさに聞く。
※万葉(8C後)七・一一〇五「音聞(おとにきき)
目にはいまだ見ぬ吉野川六田(むつだ)の淀を今日見つるかも」
? 世評が高い。有名である。
※金葉(1124‐27)恋下・四六四「音に聞く高師の浦のあだ波は
かけじや袖の濡れもこそすれ〈紀伊〉」<
この「おと(音)」と読まれるとされる「音」は、本来的に「おと」なのだろうか。
本来は「をと」と読まれるべきものではないのか。というのも、それを「をと」
と読まれるとした場合、これとはまったく無関係の文脈で検討して「をとこ/をとめ」
の「をと」に対応するとした英語の"to be reclaimed"から類推して、この場合の
「音(をと)」には、フランス語の《réclame》という表現がそのままぴったりと
当てはまると考えることができるからだ。偶々にしては出来過ぎてはいないだろうか。
479:考える名無しさん
22/05/04 12:09:43 0.net
人文学は反人文学の総本山なのか?
480:考える名無しさん
22/05/04 12:12:19 0.net
誤:こららの分野を
正:これらの分野を
481:考える名無しさん
22/05/04 15:13:40.43 0.net
>>476-478
これについて、現にそうなっているのとは逆の状況を想定してみれば、
これがどれほど重大な影響を及ぼしているのかに気づくはずである。
逆の状況とは、文献において「をと」と表記されているのを
「音(おと)」という表記にまとめて整理してしまうのではなく、
「をと(音)」と「音(おと)」の表記の揺れを許すことだ。
その場合、「音に聞く」という現代でも慣用句として用いられる
表現も、「音(をと)に聞く」と読まれる可能性が意識されることになる。
すると、その「音(をと)」という言葉の用法から、フランス語を知っている
人であれば直ちに《réclame》が対応する表現として想起されるはずである。
さらにそこで、日本語の「をと」とフランス語の《réclame》の対応関係
を想定したなら、「をとこ/をとめ」の「をと」、「をちみづ」の「をち」、
鷹を呼び戻す場合の「を(復)つ」という表現を解釈するのにも《réclame》
の動詞形である《réclamer》を応用できるのではないかという考えは、
誰にでもすぐに思い浮かぶことになるだろう。つまりは、「音」に対応する
「をと」という表記を無視し、それを「音」または「おと」の表記に変更
して消し去ることで、現代仮名遣いの規範は、そのような解釈が自然に
想起される可能性を、(その結果が意図されたものであるにせよ、そうで
ないにせよ)積極的に阻害していることになる。しかも、この場合、「をと」
という表記の存在の無視と消去は、積極的な変更としてしか行われ得ない
のだから、その説明が不在であることには、抑圧の意図が働いていると
疑わざるを得ないだろう。
482:考える名無しさん
22/05/04 15:46:22.19 0.net
「を」/《vouloir》に対する応(こた)へがない、あるいはその応(こた)へ
に効験(かひ)がないのであれば、それによりもたらされるのは、
似非数学モデルを利用するなら
-1(≒呼びかけの「~を」)・1(≒無効性)=-1(≒そこにある「欠如/空虚」)
ということになり、それでも、そのように捉えられること自体が、
そこに「欠落/空虚」があることに対する強い情動を喚起する。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第13巻 3344番
>嘆けども 験をなみと いづくにか 君がまさむと
天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿猪の 行きも死なむと 思へども
道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 哭のみし泣かゆ
しかし、「を」を無視して、それを消去するように「お」にまとめてしまう
ことは、文字通り、「を」/《vouloir》を「な(無)みす」る行為であり、
それをやはり似非数学モデルを用いて表現するなら、
-1(≒呼びかけの「~を」)・0(≒無化)=0(≒「~を」があったことの否認)
ということになり、まさしく「を」/《vouloir》の表出の抑圧以外の
なにものでもない。
483:考える名無しさん
22/05/04 19:28:35.30 0.net
>>466
>「男/女がすたる」と表現されることは、逆に見れば、「男/女である」
こと自体が、立派なこと(≒"worthy of reclaim")であるとイメージされて
いることになるだろう。<
「男/女がすたる」とは逆の表現として「男/女を上げる」という言い方が
ある。この場合、「男/女を上げる」の「上げる」は、英語を用いて
説明するなら、"to be highly acclaimed"という意味合いを表現している
はずである。
484:考える名無しさん
22/05/05 00:48:53.79 0.net
「男/女がすたる」と「男/女を上げる」の対比において問題にされている
のはどのようなことだろう。それは、「『男/女』としての『面目』に
かかわる」ということではないのか。
ここで「面目」について検索すると、次のように記載されている。
URLリンク(kotobank.jp)面目-643205
デジタル大辞泉「面目」の解説
>めん‐ぼく【面目】
1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。
めんもく。「面目を保つ」「面目をつぶす」
2 物事のありさま。ようす。めんもく。「従来と異なった面目を呈する」
[類語](1)メンツ・名誉・名・名聞・体面・一分・沽券・声価・信用・
信望・信・信頼・信任・人望・定評・評判・暖簾・覚え・名望・声望・
徳望・人気・魅力・受け<
ここに列挙される類語の大部分は、それらをフランス語をメタ言語として
用いて説明するなら、《ce qui est à réclamer》として記述できるはず
である。「すたる」/「~を上げる」は、《à réclamer》(≒「をと」)
を損なふことになるのか、強化されるのかを問題にしていると考える
ことができるだろう。
485:考える名無しさん
22/05/05 08:19:57.53 0.net
>>258において、私は次のように指摘した。
>数学を隠喩として用いるなら、日本語における「を」は、それが感覚として
空虚を示すことにおいて、日本語の表現を組織化するうえで、数学における
オイラーの等式、e^iπ=-1のように中核的な役割を果たしている。<
「音」という漢字が当てられる表現が「おと」であると考えられるのか、
それとも「をと」であると考えられるのかは、単に「単語」を区別する
弁別性の問題に過ぎないわけではなく、日本語の言語表現の解釈の根本に
かかわる問題である。例えば、「訪れ」は、「音連れ」であるとされる
のだから、その「音」が「おと」であるのか、「をと」であるのかは、
「春の訪(おとづ/をとづ)れ」と表現するときに、その言語表現自体において、
春が「を(復)つ」、つまり、「呼び戻されるように戻って来る」ものとして
イメージされているのか否かという解釈の根本にかかわることになる。
さらに、現代の日本語では、「おととし」、「おとつい/おととい」
と表記される「一昨年」、「一昨日」は、旧仮名遣いでは、
「一昨年(をと・とし)」、「一昨日(をと・つ・ひ/をと・と・ひ)」
であることを考えてみよう。岩波古語辞典では、この「をと」は、
「ヲチ(遠)の古形」であると説明されるが、それが正しいにしても、
ここまでの検討を踏まえれば、この「をと」は、「を(復)つ」という動詞の
活用形であることが明白である。「をと・とし」は、今を起点に年を
ひとつ「戻った(「を(復)と」)」年を指し、「をと・つ・ひ/をと・と・ひ」
も同様に、今を起点に日をひとつ「戻った(「を(復)と」)」日を指して
いる。すると、「二度と来るな」という意味で用いられる「をととひ来い」
という表現には、「今を起点に日をひとつ『戻った(『を(復)と』つ)』日
に(戻って)来い」という意味合いが明示されていることになるだろう。
486:考える名無しさん
22/05/05 08:27:58.07 0.net
>「春の訪(おとづ/をとづ)れ」と表現するときに、その言語表現自体において、
春が「を(復)つ」、つまり、「呼び戻されるように戻って来る」ものとして
イメージされているのか否かという解釈の根本にかかわることになる。<
URLリンク(kotobank.jp)男木-451432
>男木(読み)おとこぎ
精選版 日本国語大辞典「男木」の解説
おとこ‐ぎ をとこ‥【男木・御床おとこ木】
〘名〙 鳥取県などで、山から伐り出し、正月に軒先に立てる栗の木。
年神を迎えるためのもので、門松や若木、年木に当たる。<
この場合も、そのように立てられる木が、「『を』とこぎ」なのか
「『お』とこぎ」なのかは、その象徴としての意味合いを考えるうえで、
決して些細なことではないはずである。
487:考える名無しさん
22/05/05 09:40:00 0.net
『男はつらいよ』という映画シリーズがある。
Wikipediaの「男はつらいよ」の項目を参照し、そこからフランス語の
サイトに移動すると、『男はつらいよ』という題名は、
《C'est dur d'être un homme》と訳されている。
私自身はその一作品も見たことがないので、どのようなストーリーである
のかは全く知らないが、それでも、この仏語の表現は、「男」が「おとこ」
ではなく、「をとこ」であることを前提とした場合、
「男(をとこ)はつらいよ」という日本語の表現の直訳にすらなっていない
だろうと思う。というのも、この仏語訳であれば、別に「つらい」
のが「男(をとこ)」ではなく、(この仏語訳の解釈において現にそう
なっているとおり)「男(おとこ)」を「犬」に置き換えて
《C'est dur d'être un chien》にしたところで、何の問題もなく
そのまま通じるものとなるからである。しかし、「男」が「おとこ」
ではなく、「をとこ」であるとした場合、その仏語訳は、
《C'est dur d'être un homme》ではなく、《C'est dur revendiquer
d'être un homme》となるだろう。すると、「男(をとこ)」を「犬」に
置き換えて、《C'est dur revendiquer d'être un chien》とした
のでは、文法的には問題がなくても、意味をなさない表現となる。
なぜなら、「revendiquer d'être」に相当するのが、「をとこ(男)」
の「をと」であり、「犬」には、そのような表現の要素が含まれて
いないからである。
488:考える名無しさん
22/05/05 10:07:15.29 0.net
さて、このようなことを指摘している人は私以外に誰もいないように
私には見える。私が気づくようなことに専門家を含む大勢の人々の
誰も気づかないように見えるという私が置かれているこの状況には、
なにか私を「不安」にさせる(≒"disquieting")ものがある。それは、
私にとって、私が気づくようなことに人々がまったく気づかないように
見えるのが、人々が本当に気づいていないからなのか、それとも気づいて
いるのに、気づいていないふりをしている、もしくは気づいていないふりを
しなければならないという暗黙の規範に従っているからなのか定かではない
からである。フェルナンド・ペソアが"desassossego"と表現したのも、
そのような感覚ではないかと私には思える。私がほとんどつねに
そのような状況に置かれているのは、他の人々とは異なり、私の感性が
狂っているためだろうか、それとも、私が見渡す限りの大勢の他の人々の
感性がどのようにか麻痺させられているためだろうか。
489:考える名無しさん
22/05/05 10:13:04.76 0.net
私は、この最後の問ひについて、ペソアほど割り切った判断を下していないから
こそ、このような場所に書込みをつづけているのだろうと思う。というのも、
私の書込みは、私がそれを非公開の個人的なノートに記すだけなら、私にとって
すら完全に無意味な行為となるだろうからである。
490:考える名無しさん
22/05/05 15:12:13.43 0.net
万葉集で「おと」と読まれるものとされる「音」が詠まれた歌を検索してみると、
作者が大伴家持とされる歌が次々に検索結果としてヒットする。
その原文を確認してみると、この「おと」と読まれるとされる表現には、
「音」という表記の他に「於登」という表記も見られ、「於」が
一貫して「お」と読まれるものとされていることが分かる。
「音」や「於登」が平仮名でどう表記されるべきであるにしても、
大伴家持という人が、その表現に執着と言っていいほどの強い愛着を
抱いていたことが感じられる。ところで、万葉仮名における「於」の
読みについては、万葉仮名一覧を集計した以下のサイト
URLリンク(www1.kcn.ne.jp)
においても、
>「於」は普通オと発音し、ヲとは発音しない。
と記載されている。しかし、本当にこの「定説」は確実なのだろうか。
少なくとも、大伴家持が作者とされる歌においては、「音」は、一貫して
「をと」と読まれるものとするのでなければ、歌として意味をなさない
だろうと私には思われる。そんなものは私の個人的な感想に過ぎない
ということであれば、大伴家持が作者とされるすべての歌に関して、
私が「をと」と読まれるべきものとする「音」についてだけでなく、
その「音」と「をとめ」その他の「を」を用いた表現の用法との
関係について自分で検討してみるといい。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
>奴婆多麻<乃> 都奇尓牟加比C 保登等藝須 奈久於登波流氣之 佐刀騰保美可聞
>ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも
>ぬばたまの つきにむかひて ほととぎす なくおとはるけし さとどほみかも
例えば、ここでは、「ほととぎす なく『お』とはるけし」ではなく、
確実に「ほととぎす なく『を』とはるけし」だろうと私は考える。
491:考える名無しさん
22/05/05 15:17:43.16 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第20巻 4461番
作者 大伴家持
>保里江欲利 美乎左<香>能保流 <梶>音乃 麻奈久曽奈良波 古非之可利家留
>堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける
>ほりえより みをさかのぼる かぢのおとの まなくぞならは こひしかりける
「かぢの『お』との」ではなく、「かぢの『を』との」である。
492:考える名無しさん
22/05/05 15:28:20.77 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第15巻 3641番
>安可等伎能 伊敝胡悲之伎尓 宇良<未>欲理 可治乃於等須流波 安麻乎等女可母
>暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人娘子かも
>あかときの いへごひしきに うらみより かぢのおとするは あまをとめかも
この歌の作者は不詳とされ、「音」の原文表記は、「於等」であるが、
これもやはり「をと」と読まれなければ、歌として成立しないだろうと
私は考える。私は、国語学において「於」が「お」と読まれなければならない
とする専門家の間の定説がどのような根拠に基づいてるのかまったく知らない。
しかし、自分で万葉集の歌を確認してみるかぎり、この定説は完全に
誤っているとしか考えられない。
493:考える名無しさん
22/05/05 15:51:05.60 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第10巻 2072番
>渡守 船度世乎跡 呼音之 不至者疑 梶<聲之>不為
>渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ
>わたりもり ふねわたせをと よぶこゑの いたらねばかも かぢのおとのせぬ
「ふねわたせ『をと(乎跡)』」に対応する読みが「かぢの『をと』」で
なければ、掛詞にならず、言葉遊びとして成立しないだろう。
言葉遊びとして成立しないとすれば、この歌は、何を詠んだことになるのか。
まさか、専門の研究者でありながら、その程度のことにすら気づかないことは、
通常、考えられないと思うが。
494:考える名無しさん
22/05/05 16:52:10.47 0.net
世の中には、「気づかない方がよかった」、「知らない方がよかった」と
いう人々がかなり沢山いる。私自身は、無駄に好奇心が強いので、その
ように感じることはない。しかし、私が気づいたことについて、嬉々として
書き込んでいる、言いたい放題のことを言っていい気になっていると
思うのであれば、それもまた的外れである。もちろん、私にっとって、
自分が気づいたことについて沈黙しているのは、気詰まりであり、
気が重い。だから、それについて書き込むことには、気晴らしの効果がある
ことは確かである。しかし、私は、自分が書き込むことについて、
自分だけが気づいたのだと思い込むほどの世間知らずではなく、
それほどまでに己惚れているわけでもない。なぜ他の誰もやらないのに、
気晴らしの裏には、私がそれを指摘しなければならない「はめになって
いるのか」という思いが強くある。これは、本来であれば、私のような
者ではなく、専門の研究者が対処していなければならない課題であるはず
である。ただし、そのような課題に専門の研究者が取り組むはずがないこと、
他人に期待することが全くの無駄であることもよく知っているので、自分の
気晴らしを兼ねてそれをやっているだけだ。
495:考える名無しさん
22/05/05 16:53:37.13 0.net
誤:なぜ他の誰もやらないのに、気晴らしの裏には、
正:気晴らしの裏には、なぜ他の誰もやらないのに、
496:うさぎ跳びで校庭一周
22/05/07 23:13:45 0.net
>>482
>当時の歌詞は「なに見てはねる」の箇所が「なに"を"見てはねる」であったが、
1941年(昭和16年)の『ウタノホン (下) 』から、"を"の文字を抜いた歌詞
になったとされている。(by Wikipedia)
うさぎ うさぎ
なに見て はねる
十五夜 お月さま
見て はねる
「を」/《vouloir》/"want"/»wollen«は、なぜ消し去られたのか?
497:考える名無しさん
22/05/07 23:20:57 0.net
Wikipediaの「小槻氏」の項目から:
>小槻氏(おつきうじ/おづきうじ)は、「小槻」を氏の名とする氏族。
第11代垂仁天皇の皇子を祖とする皇別氏族で、平安時代から
小槻宿禰姓を称した。<
>『古事記』では落別王は小月之山公(小槻山君)の祖と記されており、
系図上はこの小槻山君が小槻氏につながる。また『新撰姓氏録』では
「於知別命之後也」と記されている。 <
『古事記』で用いられている表記は万葉仮名なので、「小月」は、
「『お』つき」ではなく、「『を』つき」と読まれるはずである。
さて、「於知別命之後也」の「於知」は、「おち」と読まれるのか、
それとも「をち」と読まれるのか。
498:考える名無しさん
22/05/07 23:25:01 0.net
>文化庁蔵本冷泉為相本「新古今和歌集」(承元三年〈1209〉
六月十九日定家書写本 日本古典文学会複製本)<
これを参照して検索すると、「をと」や「をとつれ」という表記が例外ではなく、
基本となっているように見受けられる。
499:考える名無しさん
22/05/07 23:34:33 0.net
>>496
>うさぎ うさぎ
なに見て はねる
十五夜 お月さま
見て はねる<
問ひが「なに見て はねる」ではなく、「なに見て『を』はねる」
であったとすれば、それに応へる「十五夜 お月さま」は、
「お月さま」ではなく、「を(復)つき(月)さま」、または
「をほ(於保)月さま」=《la pleine lune》であったと解釈できる
可能性があるのではないか。
500:考える名無しさん
22/05/07 23:46:14 0.net
万葉集 第7巻 1276番
柿本人麻呂(柿本人麻呂歌集)
(旋頭歌)
>池邊 小槻下 細竹苅嫌 其谷 <公>形見尓 監乍将偲
>池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ
この歌に与えられている現代語訳では、「をつき(小槻)」は、単に
「槻(ケヤキ)」とされ、「池邊 小槻下 細竹」は、「槻(ケヤキ)の
元に生えている細竹(しの)」であると解釈されている。しかし、
この歌が「旋頭歌」であると明示されていることから考えれば、
「をつき(小槻)」は、水面(みなも)に映った「月」で、その下に
生えているとされる「細竹」もやはり、その「月」に向かうように
水面に映っているものと解釈できる可能性もあるのではないか。
501:考える名無しさん
22/05/08 00:01:06.14 0.net
Wikipediaの「保食神」の項目には、次のように記載される。
>月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、
海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、
それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせる
とは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた
天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。<
「保食神」は、「うけもちのかみ」と読まれるとされるが、この読みは、
「食」に「うけ」を当て、「保」に「もち」を当てているはずだろう。
であるとすれば、万葉仮名では「食」は、「食(を)す」に当てられた漢字
でもあるのだから、「を(食)ほ(保)かみ(神)」という読みも可能なのではないか。
『古事記』において『日本書紀』の「保食神」に対応するとされるのが、
「オホゲツヒメ」である。
502:考える名無しさん
22/05/08 00:12:22.95 0.net
>「を(終)ふ」が、「空虚」を示すように用いられる「を」を再帰表現を
形成する「~ふ」によって「ひっくり返す」ことによって、
「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができる<
私は、先にこのような解釈を示したが、仮にこれが妥当であるとした場合、
「を(終)ふ」を活用すると、直ちに
「をふ」(≒"to complete")⇒「をほ」(≒"plenty")という関係性を
類推により導き出すことができるのだから、「於」が「お」と読まれること
に限定されず、「を」と読まれた可能性もあるとすれば、通常、「おほ」
と読まれるとされる表現に、そのような、つまり、「をほ」(≒"plenty")
に近い解釈を適用できる事例もあることが考えられるのではないか。
503:考える名無しさん
22/05/08 00:17:37.52 0.net
例えば、「オホゲツヒメ」の「ゲツ」は、「月」の音読みとしても
解釈され、「オホゲツヒメ」は、「満月/《la pleine lune》ヒメ」
である可能性もあるのではないか。
>plenty (n.)
mid-13c., "abundance; as much as one could desire; an ample supply,"
from Old French plentee, earlier plentet "abundance, profusion"
(12c., Modern French dialectal plenté), from Latin plenitatem
(nominative plenitas) "fullness," from plenus "full, filled, greatly
crowded; stout, pregnant; abundant, abounding; complete,"
from PIE root *pele- (1) "to fill."<
504:考える名無しさん
22/05/08 00:47:47.82 0.net
私は、ここに提示する可能性について、私自身、そうであると確信して
いるわけではない。ただし、日本語の古語の「お」と「を」の関係に
ついては、そのような可能性も含めて、全面的に再検討が必要だろう
と思っている。
505:考える名無しさん
22/05/08 01:02:04.01 0.net
ところで、万葉仮名では、「人(ひと)」も「一(ひと)」も等(ひと)しく、
「比等(ひと)」と表記されている。つまり、日本語において、「ひと」
とはもとから、「比べて等しい」ことを想起させる表現であること
が分かる。したがって、「他人(ひと)と自分を比べない」ように
するためには、自分を「人(ひと)」とは思わないようにすることが
要求される。
506:考える名無しさん
22/05/08 01:05:24.32 0.net
これこそ、国語の論理としてまず最初に覚えるべきことだろう。
507:考える名無しさん
22/05/08 01:13:47.37 0.net
万葉集 第11巻 2442番
>大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
>大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり
>おほつちは とりつくすとも よのなかの つくしえぬものは こひにしありけり
508:考える名無しさん
22/05/08 07:24:41.53 0.net
>「保食神」は、「うけもちのかみ」と読まれるとされるが、
[...]「を(食)ほ(保)かみ(神)」という読みも可能なのではないか。<
この解釈によれば、「保食神」は、「満月」/"full moon"を表象して
いることになり、これに対して、「保食神」(≒「満月」/"full moon")
を斬ってしまった「月夜見(つくよみ/つきよみ)(の)尊(みこと)」は、
太陰暦におけるひと月である「1朔望月」を表象する「月夜見(つくよみ/
つきよみ)」、すなわち、"moonligt nights(月夜) watching(見)"である
とともに、「つ(尽)き/くよみ(黄泉/闇)」、すなわち、
"exhausting(つ(尽)き/く) darkness(よみ(黄泉/闇))"であると
解釈することができるだろう。現代では、太陰暦の代わりに太陽暦が
使われるようになったので、女性の「月経」に関する以外では
忘れられがちだが、日本語の古語では、「月(つき)」が想起させた
のは、太陽や地球と対比される「物象化された月という天体」
ではなく、月の満ち欠けであり、その期間であったことを思い起こそう。
509:考える名無しさん
22/05/08 07:37:36.97 0.net
すると、定説では、「月(つき)立(た)ち」の音便変化であるとされる
朔日(ついたち)も、そのような月という天体もしくは月という日数を
最初から物象化した見方ではなく、「つ(尽)く」の再帰表現から
形成されたとみられる「終(つひ)」や「つひ(費)え」に結びつけて
「つひ(終)・た(立/発/絶)ち」として解釈することも可能だろう。
510:考える名無しさん
22/05/08 10:32:30.54 0.net
ところで、万葉集の歌に詠まれる「楫の音」は、何を表象しているのだろうか。
「楫の音」をその定説による読みである「かぢのおと」により検索した
だけでも19件のヒットがある。「楫の音」が間接的に含意されて詠まれている
歌の件数を含めれば、さらに数多くの歌があるだろう。
「楫(かぢ)」は、現代の日本語で言うところの、一般に船尾に取りつけられる
「舵」と混同されやすい表現だが、
舵(読み)かじ日本大百科全書(ニッポニカ)「舵」の解説にもあるとおり、
>『万葉集』には「カヂ」が頻出するが、そのほとんどは推進用のオールである。
「漕ぐ」という表現と併せて用いられている事例が多いことから分かるとおり、
「楫の音」とは、現代の日本語にすれば、直接的には「櫂/オールを漕ぐ音」と
いうことになる。
511:考える名無しさん
22/05/08 10:37:30.42 0.net
「舟を漕ぐ」ことに関しては、次の歌に見られるとおり、明白にかなり露骨な
隠喩として用いられている場合もあるが、「楫の音」をそのように限定して
イメージする必要はないし、そうすることは、解釈を無用に狭めてしまうので、
望ましくもない。
万葉集 第20巻 4313番
作者 大伴家持
>安乎奈美尓 蘇弖佐閇奴礼弖 許具布祢乃 可之布流保刀尓 左欲布氣奈武可
>青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか
512:考える名無しさん
22/05/08 11:00:21.79 0.net
万葉集 第20巻 4360番
作者 大伴家持
>御調の船は 堀江より 水脈引きしつつ 朝なぎに 楫引き上り 夕潮に 棹さし下り
この歌に見てとることができるとおり、船でオールを漕ぐ必要があるのは、
まずなによりもそれが流れに逆らうからであり、流れに沿って移動するなら、
現代の日本語の慣用句ともなっているとおり、「流れに棹さす」だけでよい。
さらに、ここで、「楫(かぢ)」は、「引く」ものとしてイメージされている
ことが分かり、ここで「引く」は、一般に水路を誘導することを意味する
ように用いられる「水脈引き」という表現に掛けられているが、それが同時に
想起させるのは、櫂/オールを「漕ぐ」動作がそうであるように「楫(かぢ)
を引く」ことが「『み(身)を引き』寄せる」ことにもなることだろう。
さらに説明するまでもなく、私が提示しようとしている「応へ」は、これ
であり、万葉集に詠まれる「楫の音」が表象しているのは、「櫂/オールを
身に引き寄せる」ときに水面から上がる「櫂/オールの音」であるとともに、
「『み(身)を引き』寄せる」作用そのものである。
513:考える名無しさん
22/05/08 11:03:09.83 0.net
このことからも、「をとめ」の「をと」に掛けられる事例も見られる
「楫の音」は、「かぢのおと」ではなく、「かぢの『をと』」と読まれる
べきものだろうと私は考える。
514:考える名無しさん
22/05/08 12:00:56.21 0.net
>>511
>「楫の音」をそのように限定してイメージする必要はないし、
そうすることは、解釈を無用に狭めてしまうので、望ましくもない。<
同じことは、直接的には「雄鹿」を意味するものとして用いられる
「さを(棹)しか(鹿)」の「さを(棹)」についても言える。無論、
「さを(棹)」は、「雄(を)」の性別を示すように用いられているのだから、
その表象を否認する必要はない。しかし、「さをしか」の「さを」を
そのように限定して捉えることは、解釈を無用に狭めて、多層的に
用いられている言語表現に対する感性を極端に貧しくするものでしかない。
515:考える名無しさん
22/05/08 13:13:35.43 0.net
「をとこ/をとめ」の「をと」の用法については、ポルトガル語の
"vaidade"という表現、および"vaidade"についてフェルナンド・ペソア
が述べていることを対応させて考えてみると、分かりやすくなるの
ではないかと思う。「をとこ/をとめ」であることが「つらい」なら、
「をとこ/をとめ」であることを「降りて」しまえばよいのである。
それは、「身を『やつす』」ことであり、それなりの身分のある
人々にとっては、制度的には、かつては「出家する」ことを意味する
ことになっただろう。
Vaidade e orgulho
O orgulho é a consciência (certa ou errada) de nosso próprio
mérito, a vaidade, a consciência (certa ou errada) da evidência
de nosso próprio mérito para os outros. Um homem pode ser
orgulhoso sem ser vaidoso, por ser ambas as coisas vaidoso e
orgulhoso, pode ser – pois tal é a natureza humana – vaidoso
sem ser orgulhoso.
É difícil à primeira vista compreender como podemos ter consciência
da evidência de nosso mérito para os outros, sem a consciência de
nosso próprio mérito. Se a natureza humana fosse racional, não
haveria explicação alguma. Contudo, o homem vive a princípio
uma vida exterior, e mais tarde uma interior; a noção de efeito
precede, na evolução da mente, a noção de causa interior desse
mesmo efeito. O homem prefere ser exaltado por aquilo que não é,
a ser tido em menor conta por aquilo que é. É a verdade em ação.
516:考える名無しさん
22/05/08 13:27:33.64 0.net
>>499
誤:「なに見て はねる」ではなく、「なに見て『を』はねる」
正:「なに見て はねる」ではなく、「なに『を』見てはねる」
517:考える名無しさん
22/05/08 22:55:04.45 0.net
大切なところで誤記になっている。
>>508
誤:"moonligt nights(月夜)
正:"moonlit nights(月夜)
518:塩なめくじ
22/05/09 08:31:21.10 F2KBW/780.net
moonlit moonlight 違い 検索
519:考える名無しさん
22/05/09 09:01:54.05 0.net
万葉集 第20巻 4317番
>秋野尓波 伊麻己曽由可米 母能乃布能 乎等古乎美奈能 波奈尓保比見尓
>秋野には今こそ行かめもののふの男女の花にほひ見に
>あきのには いまこそゆかめ もののふの をとこをみなの はなにほひみに
この歌では、「をとこ/をみな」という組合せだが、「をとこ/をとめ」の
「をと」を、ポルトガル語の"vaidade"に対応するものと考えるなら、
花咲き「ををる」などのように用いられる「ををる」という表現は
(その「を」をやはり「呼びかけの声」に関連付けるとしても)、
フランス語を用いて説明するなら、《se vanter》ということになる
のだろう。するとやはり、現代の日本語では、「花咲きほこ(誇)る」
という表現が、古語の「花咲きををる」を引き継いでいることになる。
520:考える名無しさん
22/05/09 09:20:06.45 0.net
万葉集 第20巻 4466番
作者 大伴家持
>之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
>磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ
>しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
このように見てくると、「名尓於布(名に負ふ)」のように間違いなく
「お(於/負)ふ」と読まれるとされる表現の場合でさえ、その「於/負」が
「を」と読まれた可能性があるのではないかと思えてくる。
521:考える名無しさん
22/05/09 09:31:23.42 0.net
古語の日本語の表現を解釈しようとするとき、現代の日本語を日常的に
使ふことに慣れている私たちは、それがどのように合理化されたにせよ、
歴史的に「を」が「お」にまとめられて消去されていることを意識せず
に言葉を理解しようとすることが習慣となっており、そのような理解
の方が自然であると感じるように機械的に導かれている(その導きの
意図をどのように考えるにせよ)ことを思い起こす必要があるだろう。
522:考える名無しさん
22/05/09 09:45:57.92 0.net
現代の日本語でもよく使われる「花咲く乙女(をとめ)」の「花咲く」という
形容は、おそらく、古語において「をとめ」の「をと」によって表現されていた
感性を引き継いでいる。というのも、現代の日本語においても、
「一花咲かせる」という表現の用法は、むしろ、「をとこ」としての男性に
関連して用いられることの方が多いように感じられるからである。
523:考える名無しさん
22/05/09 09:52:15.20 0.net
>現代の日本語においても、「一花咲かせる」という表現の用法は、
むしろ、「をとこ」としての男性に関連して用いられることの方が
多いように感じられるからである。<
これは、現代の日本における「男女不平等」が問題にさせるときの
感覚にも結び付いているはずである。しかし、そうであるとすれば、
その感覚が、歴史的は、そもそも「身分制度」と結び付いていること
も思い起こす必要があるだろう。
524:考える名無しさん
22/05/09 10:35:53.47 0.net
誤:歴史的は、
正:歴史的には、
525:考える名無しさん
22/05/09 11:47:29.60 0.net
『千載和歌集』序文
>やまと御言の歌は、ちはやぶる神世よりはじまりて、
楢の葉の名にをふ宮にひろまれり。<
楢の葉の「名に『を』ふ」と表記されている。
Wikipediaの「千載和歌集」の項目より。
>『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は、平安時代末期に編纂された
勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に
撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。<
これほど重要な和歌集の序文で歌の由来について説明する表現において
うかつに表記を間違え、しかも、ずっとそれが間違ったまま後世に
伝へ継がれるものだろうか。
526:考える名無しさん
22/05/09 13:01:05.30 0.net
於菟の尾をつかむことができていい気になっている愚か者
527:朔日/つひたち
22/05/09 15:02:43.26 0.net
>>509
>朔日(ついたち)も、[...]「つ(尽)く」の再帰表現から
形成されたとみられる「終(つひ)」や「つひ(費)え」に結びつけて
「つひ(終)・た(立/発/絶)ち」として解釈することも可能だろう。<
以下も前出のフェルナンド・ペソアの著作からの引用である。
>Mas o fim do mundo, desde que o mundo se consumou
dando-lhe a volta, é o mesmo Entepfuhl de onde se partiu.
Na realidade, o fim do mundo, como o princípio, é o nosso
conceito do mundo.<
ここで、Mas o fim do mundo, desde que o mundo
"se consumou"(≒「つひ(費)え」る) dando-lhe a volta, é o mesmo
Entepfuhl de onde se partiu(≒「た(立/発/絶)つ」)であることに注目しよう。
528:考える名無しさん
22/05/09 15:18:29.16 0.net
他の誰もまったく気にしない、どうでもいいと思っているように見える
ことに、そのような他人からすれば、「異様に」私が拘っているのは、
確かに私の「個人的な性格のせい」であるかもしれないが、その結果と
して、定説とは大きく異なる言語表現の解釈の可能性が示されてしまう
ことは、別に私の「性格が歪んでいるせい」ではない。
それに、本当にそのようなことに誰も拘っていないのなら、「うさぎ」
のわらべ歌の「なに"を"見てはねる」という元の歌詞から、なぜわざわざ
「を」が消し去られることになったのだろう。
529:考える名無しさん
22/05/09 16:06:32 0.net
>>528
なるほろ感覚。関心の側面が違うのに、相手に合わせることが、そもそもオーダーミスなのかも。時にTPOに過剰に合わせて楽しむのやろ。
そもそも「会話」は思い込みで成り立ってる。
530:考える名無しさん
22/05/10 13:20:38 0.net
こんなところにも歌に詠まれた日本語の古語の言語表現を解釈するための
ヒントが隠れている。
保美町(ほびちょう)は、愛知県田原市の地名。
旧渥美町中央部に位置する。東は福江町、南は小塩津町、
北は中山町に接する。
現行字 大原(おおはら)
明治15年当時 大原(をほはら)
531:考える名無しさん
22/05/10 13:31:11 0.net
むかし、二条の后の、まだ春宮の御息所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、
近衛府にさぶらひける翁、人々の禄たまはるついでに、御車よりたまはりて、
よみて奉りける。
大原や小塩の山も今日こそは神代のこともおもひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし。
伊勢物語絵巻七六段