意味の論理構造の哲学at PHILO
意味の論理構造の哲学 - 暇つぶし2ch200:考える名無しさん
22/03/26 13:56:10.39 0.net
「青木ヶ原樹海」
緑(みどり)色の木という意味ではないだろう。

201:考える名無しさん
22/03/26 16:20:04.89 0.net
言語表現の生成には自然にプラグマティズムが働いている。
言い換えるなら、感性の働きによって捉えられた経験を取り込むように
理性が働いている。しかし、そのようにして生成された言語表現を
「合理的」に解釈しようとするとき、大多数の人は「理性の罠」にはまる。
それは、与えられた理性に合わせるように表現を解釈しようとすること
によるものであり、理性がもともと、感性の働きを「節約する」ように
働くものであることを忘れているのだ。感性の働きを省略すること
ができるように理性を「適用」しようとするなら、それをどこで
どのように「適用」することができるのか、その「勘所」を押さえて
いなければならない。さもなければ、省略された「感性の働き」その
ものが見失われ、合理的であろうとすることが、理性を働かせること
ではなく、感性を無視して、単に理性的であるとされる説明に解釈を
合わせようとすることになる(いわゆる、理屈による「辻褄合わせ」
である)。理性の「適用」は、それが感性の働きを節約しながらでも、
その都度、感性の再活性化させることを怠るなら、形骸化するのである。

202:考える名無しさん
22/03/26 16:23:21.22 0.net
誤:感性の再活性化させる
正:感性を再活性化させる

203:考える名無しさん
22/03/28 08:43:43.39 0.net
>>191青争岡市水青水区2022/03/25(金) 10:29:41.900
>青(あお) は 藍(あゐ)より出(い)でて藍(あゐ)より青(あお)し
うかつにも、検索してヒットする現代の標準の仮名遣いのまま、「青」を
「あお」とひらがな表記してしまったが、古語の仮名遣いでは、「青」は、
「あお」ではなく「あを」であり、上に引用した決まり文句も、
>「あを(wo)はあゐ(wi)よりい(yi)でてあゐ(wi)よ(yo)りあを(wo)し」
という発音の関係において自然にイメージされるはずのものだろう。

204:考える名無しさん
22/03/28 09:24:40.64 0.net
>日本語の「あお(青)」が本来、表現していたのは、「青淵(あをぶち)」と
いう表現にも見られるとおり、「沈(しず)み込むような深さ」ではないだろうか。<
>重要なのは、「空間的な深みに入り込んでゆく」ようなイメージであることが分かる。<
ここで、「奈良」にかかる「枕詞(まくらことば)」として説明される「あをによし」
という表現を考察すると、「あをによし」は、「青丹吉」と漢字で表記されるので、
一般に「青丹(あをに)よ(良)し」と解釈され、岩波古語辞典にも「美しい青土を
産する意が原義」と記載されている。しかし、「あをによし」は、「安乎尓与之」
とも表記され、この場合に「あを」に当てられている漢字は、「安乎(あを)」であり、
「乎(を)」の表記は、「を」が呼び声として英語の"want"やフランス語の《vouloir》
に相当するイメージで用いられる場合と共通である。そこで、「安乎(あを)」を
検索語として万葉集を検索してみると、「安乎祢之奈久母」/「我を音し泣くも」/
「あをねしなくも」(第20巻 4437番)という表現がヒットし、「安乎(あを)」という
表記がやはり、そのようなイメージで用いられていることが確かめられる。
さらに、このことを踏まえて、「あを」の表記が「青」であれ、「安乎」であれ、
「あをによし」という表現が用いられている万葉集に歌を検討してみると、
やはり、「あをによし」も、ドイツ語を用いるなら、»sehnsuchtsvoll«、英語
にするなら"to be yearned"に相当するような表現として用いられていることが
分かる。この場合、wiktionaryでドイツ語の"sehnsüchtig"の中国語訳として
示される「渴望的」、「想望的」という表現も、「あをによし」にそれなりに
うまく対応しているように思われる。

205:考える名無しさん
22/03/31 19:39:55.26 0.net
襖(あを)
https:/ja.wikipedia.org/wiki/襖#/media/ファイル:Old_okada_house05_800.jpg

206:心深う、あをみたるやうにて、深き山の
22/03/31 19:51:04.46 0.net
>望月のくまなきを千里のほかまで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、
いと心深う、あをみたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、
うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。<
『徒然草』、「花は盛りに」

207:考える名無しさん
22/03/31 20:56:02.55 0.net
我々は読まされている

208:考える名無しさん
22/04/02 18:56:51.41 0.net
意味の構造を哲学しよう

209:anonymouse
22/04/02 20:14:49.29 0.net
意味→

意味←

210:anonymouse
22/04/02 20:17:02.49 0.net
名詞の意味は右向き矢印(→)
〜の意味というと、左向き矢印(←)

211:anonymouse
22/04/02 20:17:36.97 0.net
英語のasは矢印だって習った気がする

212:anonymouse
22/04/02 20:22:30.04 0.net
意味とは指向性なんじゃない
座標軸が増えていく空間(ヒルベルト空間的な)
のベクトルみたいなもん

213:anonymouse
22/04/02 20:23:05.31 0.net
意味の本質は指さすことなんだよ、きっと

214:null and void
22/04/03 00:33:40.21 0.net
矢印の記号(👉/→)は、インデックス/指標として何かを指し示すように
使はれるわけだが、例えば、日本語における「を」は、まずなによりも、
そこ(発声する身体)に「空虚」があることを「を/wo」という発音を
声にすることによって指し示す行為である。だからこそ、「を(惜)し」
という感覚は、言語の境界を超えてやはり同様に「空虚」を指し示す
行為として表現される。
URLリンク(www.wordreference.com)
vacuum n (sense of emptiness)
(figurado) vácuo sm
(figurado) vazio sm
His wife's death left a vacuum in George's life.
A morte de sua esposa deixou um vácuo na vida de George.

215:塩なめくじ
22/04/03 04:02:48.57 pZ1aKmIe0.net
シニフィアンね。

216:「あを」しのふらむ
22/04/03 08:15:08.34 0.net
>>204考える名無しさん2022/03/28(月) 09:24:40.640
>日本語の「あを(青)」の語源は不明とされているが、「あを」は、
"Middle Chinese: /ʔɑuH/"に近い発音で入って来た「奧(あう)」を
ピジン言語としての「日本語」において「あ・を」として再解釈する
ことによってもたらされた可能性が考えられるように思われる。
URLリンク(ja.wiktionary.org)奥<
なぜそのような可能性が考えられるのかと言えば、それは、日本語
において、「あ」は、「山の『あ』なた」のように指示詞として
不特定に離れた様態を表現するのに用いられるので、「あを」←
「あ」+「を」←「不特定に離れた空虚」という関係性が自然に
推論されるので、「奥(/ʔɑuH/)」を「奥(あを)」と読みかえる
ことは、「奥(あを)」≒「不特定に離れた空虚」としてイメージ
することになるからである。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
原文:波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
訓読:春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも
かな:はるののに くさはむこまの くちやまず あをしのふらむ いへのころはも
URLリンク(manyoshu-japan.com)
冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし
花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず
秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く
そこし恨めし 秋山吾は

217:考える名無しさん
22/04/03 08:27:24.33 0.net
>>216
また、このことから、奈良にかかる枕詞とされる「あをによし(安乎尓与之)」
も、現代語の「あこが(憧)れ」 の語源である「あくが(離)る」を反転した
ようなイメージを想起させる表現であると推察されることになる。

218:考える名無しさん
22/04/03 09:28:01.81 0.net
>>216
ちなみに、私は、リンクを貼った万葉集のサイトをとても便利なもの
として利用させてもらっているが、そこに記載される現代語訳は、
「適切な解釈」を提示することをまったくあてにしていない。
むしろ、そこに提示される現代語訳を「正しい解釈」であるなどと
思うなら、「適切な解釈」をしようとする試みは未然に妨げられる
ことになるだろうと思っている。

219:考える名無しさん
22/04/03 17:37:48.38 0.net
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である。<
言語表現の基礎にあるこのような発声を、それがそのように
使われていると認めざるを得ない場合ですら、言語学は、
それをただちに「擬音語/擬態語」として分類してしまうが、
その分類そのものが、事象を»vorhanden«に捉えることを
優先する偏見を反映している。しかし、この場合、その
事象を素直に»zuhanden«に捉えるなら、「を/wo」という
発音を声にすることによって「空虚」が示されることは、
行為における身体感覚の活用である。

220:考える名無しさん
22/04/03 19:41:22.43 0.net
URLリンク(www.youtube.com)

221:考える名無しさん
22/04/04 08:27:45.93 0.net
言語学に代表される西欧で主流の言語観では、言葉を使うことは、
他の生物とは異なって特別に人に備わった理性の働きによるもの
であり、それゆえ、鳥の鳴き声などにも見られ、言葉を話せる
ようになる前の幼児の発声にも見られる音声の模倣は、「言語
表現を身に付ける前の段階」に属するものであるとされるのだ。
したがって、発話における身体感覚の活用も、それがそのような
ものとして認識される限りにおいて、ただちに「擬音語/擬態語」、
つまり、模倣によるものと分類されて、理性による言語表現に
よりも低い思考の段階に属し、言語の使用において副次的な
ものみなされる。
しかし、この言語観は、根本から誤っている。無論、言語の使用
には理性が強く働いている。だからこそ、人が話す言語がいくら
多種多様で、人々の話す言葉が互いに通じないものであった
としても、それが人々の間で通じる範囲における言葉の用法に
おいては、必ずその文法の記述が、つまり、別の言葉による
メタ言語的な記述なのである。それでも、このことは、理性
による言語の使用が、発声における身体感覚の活用から分離
していることはまったく意味しない。そうではなく、この
場合もやはり、理性は、その都度、感性を働かせることを
「節約する」ように作用しているに過ぎないのだ。

222:考える名無しさん
22/04/04 08:47:59.63 0.net
言語の使用は、言葉として表現するときの発声の身体感覚の活用をその
基礎として、それを理性の働きにより節約して、習慣化することの
積み重ねとして成立している。このため、習慣化した言葉は、それが
使はれるとき、その都度、可能なあらゆる感性の働きを徴用/召喚し
なくても人々の間で安易に通じることになる。その一方で、その
ように合理的に通じるようになった言葉の用法においては、その
言葉による表現がそもそもどのような発声の身体感覚の活用による
ものであったのかを知る感性の働きが忘れ去れ、何を伝えようと
しているのかは、人々の間で表面的にしか伝わらなくなる。
そこで、自らが伝えようとすることが相手にうまく伝わるように
しようとするなら、その際に用いる言語表現は、感性の働きを
再活性化するように発声の身体感覚を活用する必要に迫られるのだ。
したがって、実際の言語表現においては、理性により感性の働き
を節約しようとする方向性の力と、合理化によって働きが
鈍らされてしまった感性の働きを再び呼び覚まそうとする方向性
の力がせめぎ合っているのである。

223:考える名無しさん
22/04/04 09:02:38.26 0.net
物象化された事象の見方では、まず「そら(空)」が存在して、その
「そら(空)」の「いろ(色)」が「あを(青)」であるとされる。
しかし、実際の認識の働きは、その逆である。つまり、
「あを(青)」く≒「不特定に離れた空虚」を感じさせながら、
「明るい」のが「そら(空)」であり、そのような特徴を表すのが
「そらいろ(空色)」とされるのだ。

224:Volare
22/04/04 09:05:02.98 0.net
URLリンク(www.youtube.com)

225:考える名無しさん
22/04/04 10:33:36.19 0.net
誤:別の言葉によるメタ言語的な記述なのである。
正:別の言葉によるメタ言語的な記述が可能なのである。

226:考える名無しさん
22/04/04 11:26:59.28 0.net
身体感覚を活用することの節約は、それが理性の積み重ねとして
成立しているとしても、(自己/)家畜化と表裏一体だろう。

227:考える名無しさん
22/04/05 14:15:51.02 0.net
>>214
ここで注意しなければならないのは、
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である<
と私が指摘するとき、そのようにして指し示される「空虚」は、
あらかじめ「空虚」として物象化されているわけではないということだ。
「を/wo」を発声することによって示されるのは、それを発声する
身体に空虚があるという感覚である。その発声を呼び声として聞いて、
同様に「を/wo」を発声することが、身体に空虚があるという感覚
を確認するこた(応)へとなって呼応関係が成立し、その呼応関係に
よる確認が反転可能な用いられることで初めて、「を/wo」の
発声に対応する身体感覚により、物象化された「空虚」が代表されて
示されることになる。だからこそ、表現の派生の順序としては、
まずは感嘆の「を」が表現として用いられ、それが呼びかけの
「を」とそれにこた(応)へる確認の「を」として利用され、さらに
その呼応関係の成立によって示されることになる物象化された
「空虚」を示す「を」が、「を(惜)し」という表現、すなわち、
「を(≒空虚さ)し(≒~を生じさせる)」として活用されることになる
と考えられるのである。ただし、無論、私は、ここで、身体感覚が
人々に普遍的に共通するものとして用いられているなどということ
を主張しているのではないことにも十分に注意する必要がある。
その点については、単位として用いられる1と円周率πの互いに
割り切れない関係を比喩として用いて既に別の書込みにおいて
説明したので、ここでは繰り返さない。実際、私自身、日本語の
「を」がそのように用いられていると推論する際、まず自分の
身体感覚を根拠にするようなことは一切せず、日本語の「を(惜)し」
とフランス語の《regretter》の比較を手掛かりにその手続きを始めている。

228:考える名無しさん
22/04/05 14:37:12.86 0.net
一部の鳥類は、人の言葉の発声をとてもうまく模倣することが
できるが、その模倣が同時にはっきり示しているのは、それらの
鳥が、人の言葉を学習することに完全に失敗しつづけていること
である。なぜならそれらの鳥は、いくら長い言葉の発声を真似する
ことができても、人の発話のただの一音節さえ呼応関係とそれに
よってもたらされる物象化において使うことができないからだ。

229:考える名無しさん
22/04/05 17:34:52.78 0.net
言語表現にその息吹を取り戻させる再活性化は、云はば、生のリバース
エンジニアリングであり、全体と部分を交互に物象化する合理化プロセスの
逆プロセスなのだ。

230:考える名無しさん
22/04/06 08:39:08.46 0.net
形容することが物象化をもたらす。
「あを(青)」を「あを(青)し」と形容することによって、
それが「あを(青)きもの」の「あを(青)さ」となるように。

231:考える名無しさん
22/04/06 09:27:34.97 0.net
隠喩とは、それがなまめかしく用ひられる限りにおいて、
物象化とは逆のプロセスを発動する反形容である。

232:考える名無しさん
22/04/06 09:59:11.85 0.net
『枕草子』の言説のスタイルを考えてみるといい。
『枕草子』は、「~もの」としてどのようにか物象化された「もの」の
具体例を、それぞれの具体例の置かれた脈絡とは無関係に列挙していくことにより、
「~もの」とされる「もの」の「~さ」がどのように物象化されているのかを
問ひとして提示している。これは、一見、「~もの」の分類のようでありながら、
それとはちょうど逆の思考を要求する。例えば、「なまめかしきもの」の
具体例が提示されるとき、そこに列挙される「もの」には、生物も無生物も
含まれ、互いに何の関係もない。「なまめかしさ」が「いきいきとした
しなやかさ」であると理解されるとしても、ここで行われているのは、
「生物」という分類によりその具体例を列挙して、「生物」とその具体例
を交互に物象化するようなことではまったくない。むしろ、
「なまめかしきもの」の列挙から、その「なまめかしさ」が問はれ、
「なまめかしさ」から「なまめく」とはどのようなことかが問はれることに
なるのである。

233:塩なめくじ
22/04/06 12:05:34.61 1JKdq7Ut0.net
呼びましたか?

234:考える名無しさん
22/04/06 12:08:21.30 0.net
なめくじという言葉ってやっぱり動詞「舐める」の語幹に由来するのかなあ。

235:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/04/06 12:17:00.15 0.net
新体和歌 歌論 死集。
狂刷らば 憑きのパンダに 良霊が 鳥つく島は ヤマト島哉。

236:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/04/06 12:18:24.43 0.net
沙石集 無住 と重ねるリリーック。

237:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/04/06 12:18:52.94 0.net
にくつかしさ。

238:考える名無しさん
22/04/06 19:46:49.28 0.net
>>191-232
「あを(青)」について書いていて、そういえば『青の美術史』という本が
あったなと思い出して、図書館で借りてきた。以前にも借りたことのある
本だが、そのときは、「知の技法」とかのシリーズで話題になった人物
がどういう研究をしているのか少し関心をもっただけだったので、結局、
ぱらぱらとページめくって見ただけで、読まずに返却してしまった。
今回、借りてきてまだ途中までしか読んでいないが、このスレで日本語の
「あを(青)」という表現について書いてきたこと(例えば、>>216)と
重なるようなことが論じられているので興味深い。それでも、この著書
は、主として美術において色として用いられてきた「青」について
語っており、日本語の「あを(青)」という表現そのものは問題にしていない。
ここで論じてきたように、日本語の「あを(青)」が言葉としてどのような
表現であるのか自体を問題として念頭においておくことは、
「こういう『青』もある」、「ああいう『青』もある」という議論に
より、「青」をさまざまに形容するように導かれる、つまり、対象として
の「青」を分類するというような思考回路にはまる罠を回避するのに
役立つだろう。

239:考える名無しさん
22/04/08 09:48:29.34 0.net
『青の美術史』を読み終(を)へた。
この著作は、美術史において現れた様々な「青」という色(いろ)について
語る体裁をとってはいるが、それでもそこから何らかの結論めいた
ものを導き出すとすればやはり、「青」の「青(あを)さ」を追求すると、
結局のところ、日本語においてその語源として想定することができる
「あを(青)」≒「不特定に離れた空虚」に消える、ということに行(ゆ)き
着くほかないのではないだろうか。
「『青(あを)』の『青(あを)さ』は、消失点としての"null"と広大無辺さと
しての"void"の間に消えゆく(むしろ、古語のとおり、「消ゆ」と表現
されるべきだろう)」、そのように「青(あを)」を発散させる方向で
この著作を読むことは、美術史におけ「青(あを)」の様々な具現化を、
特定の「青色」の分類として収束させる方向で読むことと対比して、
著者の論述の意図に反することになるわけではないだろう。

240:考える名無しさん
22/04/08 10:04:07.32 0.net
>『青(あを)』の『青(あを)さ』は、消失点としての"null"と広大無辺さと
しての"void"の間に消ゆ<
このことは、円周率πという「比率(ration)」をあくまでも追求してゆくなら、
それを数値として表現するための「数値のひと(等)しさ」である"1"、即ち、
「単位」の不在に「単位」が消えゆくほかないこと、つまり、言い換えるなら、
「『単位である1(ひと)の不在』にあくまでも単位が消ゆことが円周率π」
であるのと同様だろう。

241:考える名無しさん
22/04/08 10:50:44.82 0.net
>そして、疑いなく青は、その光と闇とがぎりぎりでせめぎあうその境界
の色なのです。それは「生の彼方」を指示する。しかし、同時に、
「生への回帰」をも指示する。極限の空間において、青は人間の徴なのです。<
これを書いたとき、著者は40代の終わりだったという。これが書かれたとき
からもう30年は過ぎただろう。今、著者が「青(あを)」を再訪するとしたら、
同じような思ひを抱くだろうか。ピカソの青のように「境界の色」に自らが
染まっているような感覚であれ、それが「色(いろ)」として具現化するので
あれば、確かに、それは自らが生の「彼方(あなた)」ではなく
「此方(こなた)」にいることの「徴(しるし)」だろう。
しかし、「青は人間の徴なのです」という表現には、私はニーチェが批判する
意味での「ニヒリズム」を感じざるを得ない。

242:考える名無しさん
22/04/08 10:58:22.60 0.net
URLリンク(www.lyrics.com)
En Valledupar yo canto
Versos de mi inspiración
Si algún día sufro un desengaño
Me voy lejos de esta región
Como pájaro que vuela alegre
Y aunque viaja herido no lo encuentran
Y que en la inmensidad se pierde
Como si lo llevara la pena
Pa´ que cantar el sufrimiento
Cuando el amor sufrir no deja

243:考える名無しさん
22/04/08 11:05:01.01 0.net
人(ひと)は、「生への回帰」を志向する限りにおいて、「生の彼方(あなた)」に
あこがれるとしても、「此方(こなた)」で"mientras tanto"「を」、
"meanwhile"「を」生きている。

244:考える名無しさん
22/04/08 11:13:39.12 0.net
>>240
誤:「比率(ration)」
正:「比率(ratio)」

245:考える名無しさん
22/04/08 11:35:15.05 0.net
>>242
この歌詞を引用したのは、無論、その言語表現が、想定される日本語の
「青(あを)」の語源にも対応するような感覚を、色としての「青」に
対応する表現も、「空(そら)」という物象化された表現も用いることなく、
「あたかもいた(傷)み抱えていないかのように彼方に飛び去って
広大無辺さのなかに消えゆく鳥の姿」として如実に伝へているからで
あるが、"sufrir un desengaño"という表現の語法的な二重性も興味深い。

246:考える名無しさん
22/04/08 11:56:53.52 0.net
スペイン語で"engañar"という動詞は、一般に「騙す」、「欺く」、「惑わす」
などを意味するように用いられる。その名詞形が"engaño"であるが、こちらは
「騙し」、「欺き」、「惑わし」に対応するような用法もあるが、むしろ、
「思い違い」、「勘違い」、「錯覚」などを表現するように用いられることが
多いようである(小学館、『西和中辞典』)。"desengaño"の"des"は、
その逆を示すが、歌詞の"sufrir un desengaño"は、「思ひが叶わずに失恋
する」こととして、日本語の「夢破れる」に対応するような表現ではないか
と思う。だが、日本語でも、「夢破れる」ことは、そもそも最初から、
必ずしも現実可能な夢を抱いていたかどうかとは無関係であるように、
"desengaño"は、「幻滅」、「失望」を意味するだけでなく、「〘複数形
で〙(苦い経験から得た)教訓」、「悟り」、「迷いから覚めること」を
意味するようにも用いられるとされる(小学館、『西和中辞典』)。

247:考える名無しさん
22/04/08 12:02:59.84 0.net
>「青は人間の徴なのです」という表現には、私はニーチェが批判する
意味での「ニヒリズム」を感じざるを得ない。
私がそのように感じるのは、「青は人間の徴なのです」という表現に、
「夢破れる」ことについて"desengaño"が伝へるような二重性の
自覚の可能性を感じられないからだろう。

248:考える名無しさん
22/04/08 12:40:47.34 0.net
事実誤認の訂正
>>242
誤:もう30年は過ぎただろう
正:四半世紀近くは過ぎただろう

249:考える名無しさん
22/04/08 13:10:11.07 0.net
>青は人間の徴なのです
「青(あを)」が指示しているのは、むしろ、それがどのような事象であれ、
「できる」ことの背景としていつでもつねにそこに「な(無/亡)い」もの
としてそこに「あ(在)る」「そら(空/虚)」ではないのか。

250:考える名無しさん
22/04/08 13:14:10.51 0.net
底なし

251:考える名無しさん
22/04/08 13:32:30.80 0.net
感想文の根拠は観念である

252:考える名無しさん
22/04/08 14:27:05.96 0.net
レス番号間違えていた
>>241
誤:もう30年は過ぎただろう
正:四半世紀近くは過ぎただろう

253:考える名無しさん
22/04/09 15:09:32 0.net
>>147
>折角、面白い非標準の形の問ひを示してあげたのに
どれのこと?

254:Out of the Blue
22/04/09 19:32:11.03 0.net
>>249
青天の霹靂

255:考える名無しさん
22/04/09 20:11:51.71 0.net
>>216
理路はまったく別だが、人はやはり同じような発想をするものだね。
検索していて、新たに発見した。
URLリンク(baba72885.exblog.jp)
>谷川健一は沖縄にある「奥武(おう)」に注目し、「奥武」は「青(あお・おう)」であり、
死者の埋葬地に由来する地名であるとした。<

256:考える名無しさん
22/04/10 12:09:49 0.net
Wikipediaによると、
「阿武隈(あぶくま)川」の「あぶくま」は、
>『延喜式』には「安福麻」、『吾妻鏡』には「遇隅」とあるため、
古くは「あふくま」と呼ばれていたが、中世以降になると逢隈川、青熊川、
大熊川、合曲川などの用字が見え、「おおくま」と呼ばれるようになっていた。<
とのこと。

私には、この「あふくま」も、もとは「奥/青(あを)隈」であった可能性が
考えられるのではないかと思える。むろ、「あをくま」が「あふくま」に
変化することは不自然だが、「奥/青(あを)隈」の発音が不吉なので、
「あふくま(安福麻)」と変えて呼んだ可能性は、「葦(あし)」→「葦(よし)」
の関係を考えると、あり得ないことではない。

257:考える名無しさん
22/04/10 12:10:48 0.net
誤:むろ、
正:無論

258:考える名無しさん
22/04/11 10:32:17 0.net
>>219考える名無しさん2022/04/03(日) 17:37:48.380
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である。<

私は、これまで、日本語において再帰表現を形成するのに用いられる
「~ふ」が、「~」によって表現される作用/動作/様態を「ひっくり返す」
メタ言語的な指示として用いられることから、それがちょうど数式、
x^-1=1/xにおける指数の"-1"のような役割をするように使はれている
と指摘してきた。同様に数学を隠喩として用いるなら、日本語における
「を」は、それが感覚として空虚を示すことにおいて、日本語の表現を
組織化するうえで、数学におけるオイラーの等式、e^iπ=-1のように
中核的な役割を果たしている。したがって、実際の発音において「を」
は「お」と区別がつかないのだから、「お」にまとめて日本語を
「合理化」しようなどというのは、数学の表現において必要なのは
プラスとマイナスの区別だけで、e^iπ=-1における"e^iπ="は不要である
とするような暴挙だろう。ある正の整数が存在するとき、それが
どのような整数であれ、その存在には、e^2iπ=1が隠れているように、
何かの事象がそこにあるとき、それはつねにすでに「を」の呼応関係
(を・を)として成立している。だからこそ、そこにあるものが失われ
ゆくとき、その存在を「を(惜)しむ」感覚、すなわち、「~を」という
感慨を生じるのだろう。

259:考える名無しさん
22/04/12 09:17:10 0.net
ここでおもしろい実験をしてみよう。日本語において「こ」、「そ」、「あ」の
ように指示詞としても用いられる、不特定に離れている様態を表現する「あ」を
動作に用いると、「ある」となる。この「あ(在/或)る」は、英語にするなら、
"be around"を表現するものと解釈できるが、「~ふ」を用いて再帰的に「あふ」
と表現すると、英語の"encounter"、"meet"、"match"に対応するような動作を
表すようになり、「不特定に離れている様態」が「~ふ」によって
「ひっくり返される」ことが分かる。特定されるように離れている様態を
表現する「そ」についても、「そ(反)る」(≒"deviate")と「そ(沿)ふ」
(≒"go along")の関係をみれば、「~ふ」が「ひっくり返す」ことの指示として
働いていることが確かめられる。 ここまでは、既に以前から繰り返し説明して
きたことである。

260:考える名無しさん
22/04/12 09:46:58 0.net
ここで実験してみようというのは、「を」についてである。それを
「実験」と呼ぶのは、日本語において「を」の発音が、その発声によって
「空虚」を指し示す行為であるなどという指摘は、私以外に他の誰も
していないように思われるからだ。この認識は、私の無知によるもの
である可能性はあるが、それは別にどうでもいい。要するに、ここで
踏まえておくべきことは、そのような前提そのものが、広く一般に
正しいものとして受け入れられている理解ではないということである。

261:考える名無しさん
22/04/12 10:11:38.19 0.net
さらに、「~ふ」が再帰表現を形成するという考えそのものが、国語学、
言語学、日本語学のいずれにおいても明示的に否認されており、これも
一般に受け入れられているものではない、私の解釈に独特のものである
ことにも留意する必要がある。
さて、これらのことを踏まえたうえで、「を」の再帰表現について考えて
みよう。それは「を(終)ふ」についてである。「を(終)ふ」は、「~ふ」
という形式の動詞なのだから、「~ふ」が再帰表現を形成するとするなら、
当然、「を(終)ふ」も再帰表現として解釈されるはずである。しかし、
「あ(在/或)る」と「あ(合/会/遭)ふ」や「そ(反)る」と「そ(沿)ふ」の
場合とは異なり、「を(居)る」にしても、「を(折)る」にしても、
その「を」をどのように「ひっくり返して」みたところで、「を(終)ふ」
が導き出されるようには思へない。実際、「を(居)る」や「を(折)る」に
用いられる「を」は、「空虚」を指し示しているのではなく、「ゐ(圍/威)」
の作用がもたらす効果に対応するものだろうと私には思える。

262:考える名無しさん
22/04/12 10:35:59.77 0.net
では、「を(終)ふ」は、それでもやはり形式上は(私の独特の解釈によれば)
再帰表現を形成しているはずであり、「~ふ」によって「を」によって表さ
れる作用/動作/様態を「ひっくり返す」ことの指示に従うはずなのだから、
「を」を発声する行為によって指し示される「空虚」を「ひっくり返す」
表現なのだろうか。しかし、そもそも、「空虚」の指し示しを「ひっくり返す」
などということが「意味を成す」のだろうか。
>>258で、数学記号を喩えに用いて、「~ふ」を指数関数において指数と
して用いられる場合の"-1"に、また「を」が「空虚」を指し示すことを、
オイラーの等式である"e^iπ=-1"になぞら(擬)へたことを思い起こそう。
だが、ここで、ご都合主義的な数学記号の濫用により、似非数学的に
「を」によって指し示される空虚を"-1"と見なし、「~ふ」を指数の
"-1"と見なして、"(-1)^-1"を考えてみたところで、"(-1)^-1=1/-1=-1"
であり、結果としてもたらされるのが"-1"であるならば、"-1"=「空虚」
ということになり、この関係性は、呼びかけの「を」に対する応への
「を」の関係の隠喩としては役に立ちそうな気もするが、「を(終)ふ」
という表現の解釈を導き出すのには役立たないだろう。

263:考える名無しさん
22/04/12 11:00:04.09 0.net
しかし、言語表現の解釈は、数学操作ではない。ある意味では説明に便利な
似非数学の利用も、それを数学操作によって導き出される形式に解釈を
縛り付けようとするなら、数学操作との整合性を優先するご都合主義の
辻褄合わせとなって、むしろ、解釈の手枷、足枷としかならない。
「を(終)ふ」の解釈を、似非数学操作の問題としてではなく、「『を』を
発声する行為によって指し示される『空虚』を『ひっくり返す』」ことは
可能か、という問ひとして見るなら、「それは直ちに可能だろう」と
私は応へることができる。なぜなら、言語表現において「空虚」とは、
「完全な欠落」なのだから、それを「ひっくり返す」ことによって
もたらされるのは、"(-1)^-1=1/-1=-1"ではなく、 「満腔」≒
"fullness of the entirety"だからである。ところが、古語における
「を(終)ふ」という表現の用法を見ると、直ちに、それが"to complete"
や"to accomplish"に対応するような意味でつか(使/仕)はれていることを
確かめることができる。さらに、漢字としての「終」そのものも、
「終日」という表現み見られるように、英語の"entire"に相当するように
用いられる。ここで、英語の"complete"の語源的な説明を参照すると、
以下のとおりである。
URLリンク(www.etymonline.com)
complete (v.)
late 14c., "make complete, bring to an end, supply what is lacking;
fulfill, accomplish," from complete (adj.) and probably in part from
Latin completus. Related: Completed; completing.
つまりは、英語の語源説明と対応させてみても、「を(終)ふ」は、
「を」によって指し示される「空虚」/"what is lacking"を「ひっくり返す」
ように働いていることになる。

264:考える名無しさん
22/04/12 11:05:34.32 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3500番
>牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 祢乎遠敝奈久尓
>紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに
>むらさきは ねをかもをふる ひとのこの うらがなしけを ねををへなくに

265:mission complete
22/04/12 11:18:58.74 0.net
説明を(終)はりw

266:考える名無しさん
22/04/12 14:47:01.87 0.net
意味を追求すると、どこかで必ず破綻し、意味づけすることが出来なくなる
袋小路だ

267:考える名無しさん
22/04/12 16:05:03.87 0.net
意味付け自体に意義を求めていると本質は見失われるからね

268:考える名無しさん
22/04/13 13:42:29 0.net
片桐はいり

269:考える名無しさん
22/04/13 13:44:26 0.net
背理法?

270:考える名無しさん
22/04/13 16:14:50.00 0.net
意味なんてやめよう

271:考える名無しさん
22/04/13 17:06:41.11 0.net
言語表現の解釈は、数学操作ではないが、表現の関係性を説明するのに
数学の隠喩はとても便利だ。「を」の発声が「空虚」を指し示すことを、
オイラーの等式である"e^iπ=-1"になぞら(擬)へるとするなら、
「酒の友」である「さかな(肴/魚)」として現代の日本語にその名残りを
とどめる一人称/二人称として反転可能な「な(己/汝)」の関係性は、
虚数、すなわち、i=(-1)^(1/2)に喩えることができる。なぜなら、
「な(己/汝)」の関係性は、君/僕の関係とは異なり、「空虚」を指し示す
呼びかけの「を」に対して、その「空虚」を確認する応への「を」に
よって呼応関係を成立させることで、それが反転可能なものであると
しても、君(主)が(従)僕を「を(治)す」ような主従関係を確立する
ものではないからだ。そうではなく、「な」は、それが己を指すように
用いられるにせよ、相手を指すように用いられるにせよ、互いが
よ(依/撚)り合ふことで「を(緒)」となるものとする、「己/汝」を
「かたいと(片糸)」に見立てて相補性を求める呼びかけだからである。
したがって、「を」を英語の"want"やフランス語の《vouloir》に
対応するものとするなら、「な(己/汝)」の心は、呼びかける相手の
「な(己/汝)」の心がそれによ(依/撚)り合ふことがないなら、
「を(緒)」になることすらなく、フランス語を用いるなら、
《velléité》に留まるからである。と同時に、互いによ(依/撚)り合ふ
ことがかな(叶)ふなら、それは互いに対する「いとを(糸惜)しさ」
となる(「糸惜(いとを)し」という表現が、一般には、より古い
文献に残る「いとほし」の発音からの変化であると解釈されるに
してもである)。このことは、「な」の関係性をi=(-1)^(1/2)に
なぞら(擬)へるなら、「な(己/汝)・な(己/汝)」=i^2=-1=「を(緒)」
となる関係として見ることができるだろう。

272:考える名無しさん
22/04/13 17:13:30.56 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第11巻 2791番
>原文 片絲用 貫有玉之 緒乎弱 乱哉為南 人之可知
>訓読 片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく

273:考える名無しさん
22/04/13 17:27:25.62 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第20巻 4418番
>原文 和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛
>訓読 我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも

274:考える名無しさん
22/04/13 17:48:25.10 0.net
>>271
「な(己/汝)」における互いによ(依/撚)り合ふ関係性は、反転可能な君(主)と
(従)僕の(すなわち、二人称と一人称の)共依存の関係性ではなく、云はば、
虚数人称の相補性である。

275:考える名無しさん
22/04/14 08:15:45.93 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第20巻 4332番
>原文 麻須良男能 由伎等里於比弖 伊田弖伊氣<婆> 和可礼乎乎之美 奈氣伎家牟都麻
>訓読 大夫の靫取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻
>かな ますらをの ゆきとりおひて いでていけば わかれををしみ なげきけむつま
「すら」、「を(wo)」、「ゆ(yu)き」、「い(yi)で」、「わ(wa)か(離)れ」、
「を・を(惜)しみ/をを(雄々)し」、この歌で用いられる発声が互いに
どのような関係性において表現のイメージを想起させるのかに注目するので
なければ、この歌が詠んでいるのは、ただ単に「任務で出てゆく夫との別れを
妻が嘆いた」というだけのことになってしまい、なぜそれが巧みな歌として
選ばれているのかまったく不明となってしまうだろう。

276:考える名無しさん
22/04/14 08:25:45.02 0.net
>言語表現の解釈は、数学操作ではないが、表現の関係性を説明するのに
数学の隠喩はとても便利だ。<
言語表現に数式による計算を当てはめるて解釈を導き出すような似非数学が
無効であるにもかかわらず、言語表現を似非数学を用いて考えることは、
依然として有効である。その理由そのものをしっかりと言語化して考えて
みることが大切だろう。でなければ、「そんなものは数学ではない」という
数学側からの、また「言語表現は数式ではない」という国語側からの、不毛
で的外れな批判が繰り返されるだけだ。似非数学モデルが有効な理由には、
言語表現の生成における理性と感性(の節約)の関係がかかわっている。

277:考える名無しさん
22/04/14 08:35:44.92 0.net
な(萎)え、なやみ、なほ、なほり、わかれ、ををしなどが互いにどのような
関係にあると考えることができるのかについて、また後で書き込むことにする。

278:考える名無しさん
22/04/14 08:37:49.15 0.net
誤:当てはめるて
正:当てはめて

279:考える名無しさん
22/04/14 10:00:40.36 0.net
>265mission complete2022/04/12(火) 11:18:58.740
>説明を(終)はりw
時代、社会、言語の違いにもかかわらず、
この歌で詠まれている「事し終(をは)らば」は、"mission complete"そのものだろう。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第20巻 4331番
>事し終らば つつまはず 帰り来ませと

280:考える名無しさん
22/04/14 10:12:05.19 0.net
>>277
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3533番
原文 比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
訓読 人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
かな ひとのこの かなしけしだは はますどり あなゆむこまの をしけくもなし
例えば、この歌に詠まれているイメージを適切に解釈するためには、「なゆむ」と
「をし」がどのような関係にあるのかを考えることが欠かせないはずである。

281:考える名無しさん
22/04/14 10:25:26 0.net
>>279
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第20巻 4331番
>我伎氣遠 麻知可母戀牟 波之伎都麻良波
>ながきけを まちかもこひむ はしきつまらは

この歌においても、「を」の呼応関係によってもたらされる主従関係と
「な」が想起させる相補性の関係の対比をはっきりと見てとることができるだろう。

282:考える名無しさん
22/04/14 10:29:17 0.net
誤:我伎氣遠
正:奈我伎氣遠

283:考える名無しさん
22/04/14 14:05:49.80 0.net
>>276
人の話す言語の表現が、弁別される限られた発音から構成される発話に
よって意図を伝へるものである以上、当然、そこには感性の働きを
節約しようとする理性が強く働いている。仮に限りない多種多様な
表現ごとに別々の発音が割り当てられて、その都度、それらの発音
を弁別できなければ、その表現により伝はるはずの意図が不明と
なってしまうのであれば、人々は言葉を使ふとき感性をつねに
最大限に働かせていることを要求されることになってしまうだろう。
理性は、その都度に働かせられることになる感性を節約しようとして、
表現の意図を知るのに弁別されるべき発音を「数量的」にまとめて
しまうのだから、その働き自体が「数学的」であるということができる。
無論、そのことは、理性が、言語表現を数量として認識して、
数式によって処理しているというようなことを意味しているわけではない。
それでも、例えば、私が説明したとおり、日本語の「を(終)ふ」という
表現が、「を」の発音が、その弁別性において「空虚」を指し示す
ように用いられているという認識と、「~ふ」が「~」を「ひっくり返す」
ことを伝へる指示として用いられているという認識を組み合わせること
により、「空虚」が示されることから「満腔」がもたらされることを
表現するように「を」の使い方を反転させていると考えるなら、
これは、弁別される必要のある発音の大きな節約となり、この
「ひっくり返す」操作は、それを数式として表現することが
似非数学にしかならないとしても、極めて「数学的」であると言う
ことができるだろう。

284:考える名無しさん
22/04/14 20:15:39.06 0.net
日本語の「~ふ」は、その「ひっくり返す」という指示が多様に解釈
されることから、フランス語の《retourner》という動詞の用法に
対応させて考えてみることができる。例えば、手袋を「ひっくり返す」
/《retourner》という指示が、手袋を「裏返しにする」ことを意味する
ように。

285:考える名無しさん
22/04/14 20:31:34.60 0.net
>>271
>互いによ(依/撚)り合ふことがかな(叶)ふなら、それは互いに対する
「いとを(糸惜)しさ」となる(「糸惜(いとを)し」という表現が、一般には、
より古い文献に残る「いとほし」の発音からの変化であると解釈されるに
してもである)。<
括弧内に注記を入れたのは、この場合も私の説明が「いとをし」という
表現についての国語学における定説に「違反する」ものだからである。
では、私の説明は、文献的に何の根拠もない勝手な憶測に過ぎないのだろうか。
しかし、私には、そのようには「感じられない」。「感じられない」と
表現したのは、それがまさしく解釈の「感性」の問題であると私には思われる
からだ。例えば、『万葉集ナビ』のサイトで「いとを」をキーワードにして
検索すると次の4つの歌がヒットする。それぞれの「いとを」がどのように
解釈することが妥当であるのか考えてみるといい。

286:考える名無しさん
22/04/14 20:34:29.15 0.net
万葉集 第10巻 1987番
原文 片搓尓 絲S曽吾搓 吾背兒之 花橘乎 将貫跡母日手
訓読 片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて
かな かたよりに いとをぞわがよる わがせこが はなたちばなを ぬかむとおもひて
万葉集 第10巻 1856番
原文 我刺 柳絲乎 吹乱 風尓加妹之 梅乃散覧
訓読 我がかざす柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
かな わがかざす やなぎのいとを ふきみだる かぜにかいもが うめのちるらむ

287:考える名無しさん
22/04/14 20:35:57.83 0.net
万葉集 第7巻 1340番
原文 紫 絲乎曽吾搓 足桧之 山橘乎 将貫跡念而
訓読 紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
かな むらさきの いとをぞわがよる あしひきの やまたちばなを ぬかむとおもひて
万葉集 第7巻 1316番
原文 河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也
訓読 河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや
かな かふちめの てそめのいとを くりかへし かたいとにあれど たえむとおもへや

288:考える名無しさん
22/04/14 20:42:36.40 0.net
それにしても、「絲乎 絡反 片絲」という漢字の表記そのものがとても
興味深くないだろうか。私には、あたかもそれが「DNA二重らせん構造」
を先取りしているかのような印象を受けるw

289:考える名無しさん
22/04/14 20:43:54.23 0.net
誤:印象を受ける
正:印象が生じる

290:考える名無しさん
22/04/15 10:49:08.60 0.net
>>285-287
これらの歌の原文を参照すると、「いとを」という表現における
「いと」は、漢字として「絲」と表記されている。中国語の漢字として
「いと」を表すのにもともと使われた漢字が「絲」であり、現代の
日本語において「いと」に当てられている「糸」は、その簡略化に
過ぎないのだから、当たり前ではないかと思われるかもしれないが、
これらの歌が想起させる関係性をイメージするのに、「『いと』を」の
「いと」が現代漢字の「糸」ではなく、「絲」であることに気づく
ことはとても大切なことである。なぜなら、「『いと』を」の「いと」
が「絲」として表象されていることに気づいて初めて、縒り合はされて
「絲」をな(成)す片側である「かたいと(片絲)」が「糸」として
イメージされることになるからだ。すると、「絲(いと)」が乱れる
ことも、縒り合された「糸・糸」の関係が「『ゆ』るみ」が生じて、
「糸」+「糸」に分かれて、「緒(を)」として互いを「つなぎ留める」
(引きつける力の働きとしては、"-1"に喩えることができる)はず
の「絲(いと)」が容易に「た(絶)へ」しまうことの懸念として
イメージされることになる。ここで、「いと(絲)を」の「を」
がそのような「緒(を)」を想起させるものであることは、
第10巻1987番の「花橘を(乎)」および第7巻1340番の「山橘を(乎)」
が「緒(を)」によって「玉を貫く」イメージを想起させる表現である
ことからも明白である。ちなみに、「山橘」とは、現代では「万両」
と呼ばれる植物のこととされるので、「万両」がどのような姿で
あるか画像検索してみるといい。

291:考える名無しさん
22/04/15 11:14:41.13 0.net
「絲(いと)乎(を)」の「~を」は、既に繰り返し述べてきたとおり、その根本に
おいて「を」の発声によって「空虚」を指し示す行為であり、その指し示しが
感嘆として用いられ、その感嘆が呼びかけの「を」として応用され、呼びかけが
指し示す「空虚/欠如」に気づかされることによって、それに応へる「を」と
なる。したがって、「絲(いと)乎(を)」は、「水を」がそうであるように、
「絲(いと)」が「欠如している」ことの指し示しであり、「な(己/汝)」
(これもすでに以前から繰り返し指摘するとおり、日本語における「な」は、
フランス語の《entrelacer》に対応するように用いられており、「羅」の
発音を変化させた流用であると考えることができる)が「片絲(かたいと)」、
すなわち、縒り合されるべき「糸」である自己または相手を指すように
用いられるとすれば、その場合、「欠如している」は、「絲(いと)」の
全体ではなく、「糸・糸」の状態である。ここで「・」は似非数学的な
喩えとして「かけあはせ」の操作を意図しているが、そのように考える
ことは、似非数学としてだけでなく、言語表現としても適切だろう。
なぜなら、例えば、「綿」の「糸」と「ナイロン」の「糸」を
縒り合せて「絲(いと)」にすることは、「綿」の「糸」と「ナイロン」の
「糸」の性質の足し算としてより、その掛け算として捉えられるだろう
からである。これは、植物の品種/遺伝子のかけ合はせを考える場合でも
同様だろう。

292:考える名無しさん
22/04/15 11:42:38 0.net
第14巻3533番歌
>比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
>人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
>ひとのこの かなしけしだは はますどり あなゆむこまの をしけくもなし

「なゆむ」は、岩波古語辞典では、「なやむ」の上代東国方言であると
されている。そう考えることが妥当であるかどうかは別として(私には、
それを検証する材料が今のところない)、いずれにしても、この「なゆむ」
が「なやむ」や「なえ」や、現代語の「なよなよ」に関連していること
には疑いの余地がないだろう。このことから分かるのは、「な(萎)え」
の発音に実際に反映されるかどうかにかかわらず、「な(萎)え」の
「え」も「ye」としてイメージされていることであり、そう考えるなら
「なゆむ」の「ゆ」は、それを表現するのに「由」という漢字が使われる
ことにも反映されるとおり、やはり、英語の"loosen"に相当するような
作用を伝へていると推測することができる。「な」≒《entrelacement》
が「ゆるむ」ことによって「な(萎)え」が生じると考えることにも
整合性があるだろう。掛け合はされた「絲(いと)」において、
「な」≒《entrelacement》が「ゆるむ」なら、「絲(いと)」の状態が
そこ(損)なはれるのだから、「絲(いと)乎(を)し」さ/「愛をし」さが
生じるだろうが、早く我が子のもとに戻りたいという気持ちと比べれば、
馬の脚がそこ(損)なはれることは「を(惜)し」くもない。

293:考える名無しさん
22/04/15 11:51:40 0.net
「花橘を」と「汝(な)が」に注目して、以下の歌を読んでみるといい。

URLリンク(manyoshu-japan.com)
第13巻 3239番
>近江の海 泊り八十あり 八十島の 島の崎々 あり立てる 花橘を ほつ枝に
もち引き懸け 中つ枝に 斑鳩懸け 下枝に 比米を懸け 汝が母を 取らくを知らに
汝が父を 取らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩と比米と
>あふみのうみ とまりやそあり やそしまの しまのさきざき ありたてる はなたちばなを ほつえに
もちひきかけ なかつえに いかるがかけ しづえに ひめをかけ ながははを とらくをしらに
ながちちを とらくをしらに いそばひをるよ いかるがとひめと

294:考える名無しさん
22/04/15 12:00:43 0.net
URLリンク(ja.wikipedia.org)カリグラム

ギヨーム・アポリネールが『カリグラム』(Calligrammes。1918年出版)
で試みたようなことを、日本語はその形成過程において最初から、
はるかに徹底的にやっている。

295:考える名無しさん
22/04/15 12:07:33 0.net
>「な」の関係性をi=(-1)^(1/2)になぞら(擬)へるなら、
「な(己/汝)・な(己/汝)」=i^2=-1=「を(緒)」となる関係として見ることが
できるだろう。<

このような似非数学をモデルとして用いることも、それを公式として当てはめて
言語表現として解釈しようとするような愚行に陥るのでなければ、それなりに
役に立つことを多少は理解してもらえただろうか。

296:考える名無しさん
22/04/15 14:04:46.54 0.net
ところで、ここでひとつとても奇妙なことに気づく。
それは、上に引用した万葉集 第10巻 1987番において「いとを」に
対応する原文の表記である。私は万葉集ナビの表記をそのまま
貼り付けただけだが「いとを」の原文は「絲S」と表記されている。
無論、「S」というアルファベットは意味をなさない。このサイトの
どこかに注記があるのかもしれないが、なぜ「S」と表記されているのか、
その説明はすぐには見当たらない。そこで、万葉仮名でこの歌の
「絲(いと)S(を)」に対応するものとしてどのような漢字が用いられて
いたのか検索してみると、「絲叨」という表記がヒットする。
つまり、「を」を表すものとして「叨」が使われていたものとされて
いる。ところが、私が便利によく利用されてもらっている万葉仮名一覧
のサイトで「を」の表記を調べても、そのリストに「叨」という漢字は
含まれていない。その一方で、万葉ナビのサイトで「S」をキーワード
にして検索すると、いくつかの歌で「を」に対応する原文箇所が「S」
と表記されているので、確認してはいないが、この「S」は、「叨」
に対応するように当てられているのではないかと推察される。
しかし、本当に不思議に思われるのは、ここからだ。

297:考える名無しさん
22/04/15 14:20:07.94 0.net
>>286-287に引用した他の3つの歌では、「いとを」は、「絲乎」と表記
されており、「~を」の用法の「を」が万葉仮名において「~乎」と表記
されるのは一般的なことであり、「を」を呼び声と見なすなら、「口・乎」
で「呼」という現代の日本語でも普通に使われる漢字になるので、
イメージ的にもうまく合っている。しかし、「叨」は、現代の日本語では
見かけることのまずない漢字であり、検索してみると、
>叨の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア
>①むさぼる。 ②みだりに。 かたじけなくも。 おかげをこうむる。
という説明が最上位でヒットする。
「叨」という漢字の用法の説明であるこれらの記載が、「~を」の用法に
どうもあまりうまく適合するように感じられないとしても、万葉仮名は、
発音を表記するための当て字として用いられるので、それ自体は特に不思議な
ことではない。だが、「叨」をWiktionaryで参照すると、その中国語に
おける想定される中古音は、"Middle Chinese: /tʰɑu/"であり、日本語の
「を」の発音からはかけ離れている。したがって、どのような理由でこの
「叨」という漢字が「~を」に当てられているのか、とても不思議に思える。

298:考える名無しさん
22/04/15 14:35:06.50 0.net
ここで、URLリンク(en.wiktionary.org)
の記載を詳細に参照すると、
>(ideophonic, of a person near death) gasping for breath; breathing heavily
という記載と、
>Alternative form of 饕 (tāo, “to be greedy for”)
という記載があり、これらの説明は、日本語の「を」が英語の"want"や
フランス語の《vouloir》に対応するように用いられるとする私の解釈には、
好都合であるようにも見える。しかし、私にとって好都合であるという理由
だけで、どのようにして「叨」という漢字が日本語の表記に取り込まれたのか
その経緯を推測させるこの漢字の用例の裏付けなしに、そのようなイメージ
で用いられたのだと考えることは、「我田引水」に過ぎないことになるだろう。
というのも、中国語においても「叨」は、英語の"talkative"に対応するような
使われ方をする方が多いようで、英語の"want"やフランス語の《vouloir》に
うまく対応するように用いられと見られるような表現は、見当たらないから
である。

299:考える名無しさん
22/04/15 14:50:10.33 0.net
なにか行き止まりにたどり着いたような感じもするが、そこでただちに私には、
アクロバット的な魅力のある解決策が思い浮かぶ。その手がかりは、やはり、
「叨」という漢字が「饕」の代替としても用いられたというWiktionaryの
記述にも求めることができる。日本語の古語では「統治する」ことは、
「をす」と表現されるが、この「をす」によく当てられる漢字は、
「食(を)す」である。この当て字も、私にはとても奇妙な印象をもたらす。
それは、一方では、「食べなければ生活できないのは確かだが、だから
といって、食べることがそれほどまで直接的に『統治する』ことを
想起させるものだろうか、という思いであり、他方で、「食す」の
「食」は、「を」の発音とは無関係ではないか、という思いである。

300:考える名無しさん
22/04/15 15:08:17.43 0.net
ここで、「~を」に当てられた漢字である「叨」が「饕」の代替として
用いられたという事実を考慮して、「饕」という漢字の構成に注目すると、
「饕」は、呼び声を表現する「号」(号令の「号」である)と「虎」を
組み合わせた「号・虎」が「食」の上に乗ったものとなっていることが
分かる。
URLリンク(en.wiktionary.org)饕#Chinese
URLリンク(en.wiktionary.org)號#Chinese
「食」/"food"を「虎」がその「号」によって「求めるもの」の換喩と
見なすなら、「饕」は、虎がその呼び声によって求めを伝えるイメージを
想起させることになる。したがって、「叨」が「饕」の代替として用いられ
たとしたなら、「食(を)す」という表記も、本当は「饕(を)す」と表記
すべきところを簡略化したものなのではないかという疑念が浮かぶ。

301:考える名無しさん
22/04/15 15:33:17.84 0.net
さて、日本語で「~を」の「を」を表記するのに用いられた「叨」もやはり、
「饕」の代替として用いられたとするなら、その用法にも「虎が餌を求めて
吼える」ような「号・虎」の呼び声のイメージを想起させたと考えることが
できる。ここであることに気づく。それは、「叨」を「①むさぼる」、
「②みだりに」というイメージにではなく、呼び声に関連付けることで
ただちに思ひ浮かぶ「文字通り」のアクロバット的な転換の可能性である。
私がこれまでに、日本語の「を」を説明するのにどのような漢字を当てて
きたか思い出してもらいたい。私は、「梅を『をく』」という表現に
おいても、「統治する」ことを「をす」という表現においても、この
「を」の用法のイメージを伝えるのに都合がよいのは、規範的に
それに当てられることになっている「招(を)く」や「食(を)す」ではなく、
「召(を)く」であり、「召(を)す」であると説明してきた。ここで、
「召」と「叨」を比べて見ると、「叨」は、「召」の縦を横にした
だけであることに気づく。つまりは、統治者が「を(食)す」/
「召喚させる」呼び声には、虎が餌を求めるような呼びとしての
「を/叨/饕」が隠れていることになるだろう。

302:さを(食)しか
22/04/15 15:49:32.46 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
乞食者<詠>二首
>いとこ 汝背の君 居り居りて 物にい行くとは 韓国の 虎といふ神を
生け捕りに 八つ捕り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳<
>老いたる奴 我が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと
申しはやさね 申しはやさね<

303:考える名無しさん
22/04/15 23:43:09.11 0.net
>>296
誤:利用されてもらっている
正:利用させてもらっている

304:考える名無しさん
22/04/16 00:40:31 0.net
「な」と「を」の関係は、次にように考えてみてはどうだろうか。

「な(己/汝)」を指し示すこと自体がそのまま「~を(緒)」/《vouloir》/
"consuming desire"となるわけではない。そうではなく、それぞれが
「片絲(かたいと)」、すなわち、縒り合ふことで「絲(いと)」となる
その片側である「糸」としての「な(己/汝)」を互いに「掛け合はせる」
ことによって強い「つながり」/「結合力」/"bonding"が生じ、それが
「~を(緒)」/《vouloir》/"consuming desire"となる。

例えば、「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」の関係で考えてみると、
そこに「酒(さけ)」があれば、「『肴(さか(酒)・な)』があればいいのにな」
という思ひが生じ、逆に、そこに「肴(さか(酒)・な)」があれば、
「『酒(さけ)』があればいいのにな」という思ひが生じるが、それは
まだそれが実現することに対する願望/《velléités》に過ぎない。
しかし、そこに「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」がともにあると、
それは、「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」の「掛け合はせ」と
なって強い「つながり」/「結合力」/"bonding"が生じ、それが
「~を(緒)」/《vouloir》/"consuming desire"となる。

305:考える名無しさん
22/04/16 00:56:08.26 0.net
>第10巻1987番の「花橘を(乎)」および第7巻1340番の「山橘を(乎)」
が「緒(を)」によって「玉を貫く」イメージを想起させる表現である
ことからも明白である。ちなみに、「山橘」とは、現代では「万両」
と呼ばれる植物のこととされるので<
ところで、「『緒(を)』によって『玉を貫く』イメージを想起させ」て
歌に詠まれる「花橘」や「山橘」の別名が「万両(まんりょう)」である
とされること自体がとてもおもしろいことではないだろうか。
というのも、「両(りょう)」は、「双」と同義字であるとされ、
言うまでもなく、「ともにそろっている」ことを表す字だからである。
URLリンク(www.rinya.maff.go.jp)

306:考える名無しさん
22/04/16 08:25:21.37 0.net
>>301
これは、「『叨』という漢字が『饕』の代替としても用いられた」
というわずかな手がかりと、「饕」という漢字がその構成要素である
「食」において、「統治する」ことを意味する「をす」という表現に
当てられた「食す」と共通しているという事実により、私にはこの
ような連想が生じたというだけのことに過ぎない。では、このような
自分の感性を頼りにした勝手な連想による「憶測」を巡らせることは、
合理的な根拠を欠いているので、全くの無駄なのだろうか。
私は、そのようには「感じ」ない。というのも、そのように私が
勝手に感性を働かせて連想を展開したことが「無駄」であったかどうか
は、その連想によってもたらされた結果を検証する作業に取り組むまで
ははっきりしないからだ。そして、この場合については、私が長々と
憶測を巡らせたことは、検索してみると、そう無駄というわけでも
なかったようである。「饕」を「をす」と併せて検索してみると、
その結果としては何もヒットしなかったが、その代わり、古辞書
には、「饕」の訓読みとして「ヲシム」があったという事実が見出される。
URLリンク(kotobank.jp)饕(漢字)-2789511
[古辞書の訓]
〔名義抄〕饕 ムサボル 〔字鏡集〕饕・叨 カムガフ・タダス・ムサボル
・カタジケナシ・ムセブ・ミダリガハシ・クラフ・ミダル・ヲシム

307:考える名無しさん
22/04/16 08:34:27 0.net
逆方向で考えてみるといい。「饕」という漢字は、現代の日本語の用法では、
まず見かけることがない。偶々、「饕」に関して「古辞書の訓」にそれが
「ヲシム」とも読まれたというこの記述に出会ったとしても、私には、
その孤立した事実をどのように自分に役立てることができるのかさっぱり
分からないことになり、私の関心を引くことすらないだろう。この事実が
私にとても興味深いものに感じられるのは、私が憶測を働かせて、連想に
より表現解釈のネットワークを展開してきた結果としてである。

308:考える名無しさん
22/04/16 09:06:20.06 0.net
これを他人から見たらどうなるだろうか。私が提示している連想の
「合理的な根拠」は、万葉仮名として①「~を」に「叨」が当てられて
いる事例がある、②漢字として「叨」は、「饕」の代替として用いられた
事例がある。③古辞書には、「饕/叨」の訓のひとつに「ヲシム」という
記載が見られる。たったこれだけのことである。「合理的な根拠」に
則って文を解釈するという姿勢からは、私が展開したような言語表現の
解釈は生じようがないだろう。したがって、私の提示するような解釈
は、「根拠がない、またはまったく不足しているので意味がない」
という「合理的な判断」に基づいて全面的に切り捨てることが正当化
されることになり、実際、大多数の人々は、そのような「合理的な判断」
に従う「禁欲的」な態度を「正しい」ものとして自他に「強制する」の
である。しかし、そのような「合理的な判断」によってあらかじめ
切り捨てられることになるのは、「私個人の感性の働き」に過ぎない
のだろうか。「私個人の感性の働き」を切り捨てることによって、
言語表現の生成にもともと働いていたはずの「共通の感性の働き」
を知る可能性を探るという探求心そのものが切り捨てられることに
なってはいないだろうか。

309:考える名無しさん
22/04/16 09:13:30.97 0.net
可能性の探求は、多大な時間と労力を要するが、「合理的な根拠」に基づく
ものとされる「禁欲的な正しい態度」を示すことは、瞬時の「拒絶」で済む。
本当に「安易な姿勢」をとっているのは、どちらの側だろう。

310:考える名無しさん
22/04/16 10:27:08.47 0.net
「物象化」とはなんだろうか。
それは、まず何らかの「もの(物)」が存在し、その「もの(物)」に
特有の性質があることで、その「もの(物)」が何であるのかが
特定されるという事象の捉え方だろう。
例えば、和歌などの日本の古典の解釈を読むと、「を(緒)」が
典型的に物象化されて説明されている。そのような解釈では、
「を(緒)」が頻繁に表象として用いられる理由をうまく説明する
ことができず、物象化された「を(緒)」が、「短かった」り、
「た(絶)へ」たり、「乱れ」たりする性質を有し、「貫き通す」
のに用ひられ、「留める」のに使はれたりする「もの(物)」と
見なされている。しかし、日本の古典の言語表現がなぜそこまで
「を(緒)」に執着しているのかということについては、説明が
つかないままである。しかし、古典の専門家によるそのような
解釈は、まさしく物象化による「感性の麻痺」を示す事例に
他ならないのではないか。無論、和歌において「を(緒)」は、
「つなぎとめる物(もの)」として物象化されて「応用」されている。
だからこそ、解釈において問はれるべきは、その物象化された
「を(緒)」の性質などではなく、どのような感性の働きが
「を(緒)」として物象化されて表象されているかである。
貫き通して、つなぎ留め、身に引き寄せる「結合力を働かせる」
ことが「を(緒)」として物象化されて応用されているのであり、
その逆ではない。だから、「短い物(もの)」、「絶へる(もの)」、
「乱れる(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているだと
するような解釈は、物象化を優先する逆立ちである。

311:考える名無しさん
22/04/16 10:33:12.84 0.net
誤:「絶へる(もの)」、「乱れる(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているだ
正:「絶へる物(もの)」、「乱れる物(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているのだ

312:ご都合主義とはなにか
22/04/16 15:29:29.81 0.net
なかなかおもしろいことに気づいたので、書き込んでおく。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第9巻1809番
>仰天 S於良妣
>天仰ぎ 叫びおらび
>あめあふぎ さけびおらび
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
>仰天 叨於良妣
>叨於良妣 昆地で、叨は口+刂の当字
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集第2巻 199番
>敵見有 虎可S吼登
>虎か吼ゆると
>とらかほゆると
第2巻199番の歌で「虎可S吼登」において、「S」に置き換えられて
いる文字もやはり、「口+刂」のように見える文字のようである。
しかし、第9巻1809番の場合とは異なり、読みにおいてはその不明の文字
は完全に無視されている。「口+刂」を「叫」という文字の代わりとして
「さけ(叫)ぶ」と読むことはできるが、虎が「さけ(叫)ぶ」とするのは
明らかに不適合で、そのような読みは不都合だからだろう。

313:考える名無しさん
22/04/16 15:37:41 0.net
不明な、または標準の漢字として表示されない万葉集に現れる文字については、
これに関連して、別のおもしろいことに気づいたので、後で書き込むことにする。
それは「ウグイス」の「ウ」であるとともに、「梅(ウメ)」の「ウ」とされる
「ウ」の発声についてである。

314:考える名無しさん
22/04/16 15:44:38 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第5巻 837番
>原文:波流能努尓 奈久夜s隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曽能尓 s米何波奈佐久
>訓読:春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く
>かな:はるののに なくやうぐひす なつけむと わがへのそのに うめがはなさく

315:考える名無しさん
22/04/16 16:51:23.33 0.net
>>312
私は自分の業績を評価してもらうために誰かに遠慮して、歯に衣を着せた
ような物言いをしなければならない立場にはないので、私の思ふところを
はっきりと書いておくことにしよう。「叨は口+刂の当字」としている
のは、実際に文献には「口+刂」のようにしか見えない文字で表記されて
いるのだから、「事実には違いない」が、考え方としては完全に倒錯である。
「『口刂』としてしか識別できないものとして書き写されている文字が
『叨』の当て字」であると考える方が妥当である。なぜなら、「口刂」
という文字は、古い文献に現れる文字を書き写す目的以外で未だかつて
通用する文字として存在したことがないからだ。なおかつ、「刂」そのもの
が、「利」の場合を見ると確認できるとおり、「刀」を簡略化した表記で
あるとされているのである。
URLリンク(en.wiktionary.org)
したがって、「叨」の写し間違い、または簡略化であると考えられる
「口刂」という文字を、「叫」という漢字として解釈することは、
「倒錯×ご都合主義による捏造」という操作をしていることになる。
そのような操作が実際の文献の解釈において破綻する、第2巻199番の
歌で「虎可『叨/口刂』吼登」の読みにおいて「叨/口刂」を無視する
ことしかできないことにも明確に表れているだろう。

316:考える名無しさん
22/04/16 16:53:35.33 0.net
誤:破綻する、
正:破綻することは、

317:考える名無しさん
22/04/16 22:21:13.63 0.net
>>315
ロリだろ?

318:考える名無しさん
22/04/17 01:24:28.39 0.net
>>313
いろいろしつこく繰り返し説明した後で、似たようなことを論述として
組み立てるのが少し面倒な気分になっているので、いつもながら私の
連想に基づいた連想による結論だけ簡潔に書き込むことにする。
引用したサイトの万葉集 第5巻837番歌で「s隅比須」(うぐいす)、
「s米」(うめ)と表記される、原文で「s」に置き換えられている
「う」の発音に対応すると考えられる漢字は、いずれも「汙」である。
ところで、なぜ「梅に鶯(うめにうぐいす)」なのかについては、
実際に梅の花にウグイスが来ることはほとんどないので、メジロの
間違いだろうとか、漢詩を真似たに過ぎないとか、いろいろ説が
あるようだが、これは、「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」の
発音が共通のイメージを想起させるものとして捉えられているため
である。「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」に共通で当てられる
漢字には、「汙」、「于」、「宇」があることが検索するとすぐに
分かるが、これらに共通する「于」は、漢字として「乎」と同義字
であるとされる。「うぐいす」と「うめ」で異なる漢字が当てられて、
「うめ」の「う」には「烏」が当てられている事例が見られるが、
そのような場合でもその「う」の発音は、「うぐいす」の「う」と
密接に関連したイメージを想起させる発声として用いられていると
考えられる。

319:考える名無しさん
22/04/17 01:37:25.22 0.net
>「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」の発音が共通のイメージを
想起させるものとして捉えられているためである。<
では、その共通のイメージとはどのようなものだろうか。「汙」は、
漢字としては、現代の日本語の「汚」の変形であると考えられている
ので、この「う」の発音がそのようなイメージを想起させるものでは
ないことは明白である。この場合の「汙(う)」が想起させるイメージ
を最も簡単に説明するには、日本語も中国語も離れて、英語を利用する
のが手っ取り早い。それは、英語の"woo"という動詞である。
URLリンク(www.merriam-webster.com)
つまりは、「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」で共通する
ものとしてイメージされているのは、"to seduce"とメタ言語的に
記述することができるような、相手を誘惑しようとする声なのである。

320:考える名無しさん
22/04/17 01:41:14.33 0.net
それは、「う」に用いられている漢字がまったく異なるものの、次の
歌における「『う』ばひ」と「『う』め」の「う」を重ねた用法から
も確かめることができる。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第5巻 850番
原文 由吉能伊呂遠 有<婆>比弖佐家流 有米能波奈 伊麻<左>加利奈利 弥牟必登母我聞
訓読 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
かな ゆきのいろを うばひてさける うめのはな いまさかりなり みむひともがも

321:考える名無しさん
22/04/17 02:06:49.80 0.net
さらに、第17巻 3907番の「 花<咲>乎々理」、第13巻 3266番の
「花咲乎呼里」、第10巻 2228番の「開乃乎再入緒」、第8巻 1421番の
「開乃乎為<里>尓」、第6巻 1053番の「花咲乎呼里」、第6巻 1050番歌の
「花開乎呼理」、そしてさらには、
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第6巻 1012番歌
>原文 春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬<之 鳴>吾嶋曽 不息通為
>訓読 春さればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ
>かな はるされば ををりにををり うぐひすの なくわがしまぞ やまずかよはせ
における「乎呼理」などが想起させるイメージについて考えてみるといい。
これらはすべて「ををり」と読まれることにされて、「枝が重みで撓んでいる
様子」をイメージさせるものと解釈されているが、最後の「乎呼理」は、
どうみてもウグイスの鳴き声だろう。そもそも、実が沢山つくなら枝が撓む
ことは理解できるが、花が咲いてなぜ枝が撓むのか説明がつくのだろうか。
また、「ををり」と読まれるとされている表現が、仮にそのように発音され
たとしても、それがなぜ「枝が撓む」ことを表現することになるのか。
花が沢山咲くことで折れそうになった草木を見たことがあるだろうか。
私には、「乎呼理」は、その字面からも推測されるとおり、「誘惑の声」
だろうと思われる。「花」が声を出すのは不合理だから、そのような
解釈は成立し得ないと考える人々は、「春の野山」の誘いに呼ばれる
ような感性を持ち合わせてはいないのだろう。

322:考える名無しさん
22/04/17 02:12:01.07 0.net
お花畑

323:考える名無しさん
22/04/17 08:16:50.22 0.net
さて、「さきほこる」というのは、現代の日本語でも慣用表現として
よく使われるが、これは花々が自らを「誇(ほこ)る」ように咲くことを
主要な意味として生成された表現だろうか。
URLリンク(kotobank.jp)咲誇る-509421
咲誇る(読み)サキホコル
デジタル大辞泉「咲誇る」の解説
さき‐ほこ・る【咲(き)誇る】
[動ラ五(四)]今を盛りと美しく咲く。「色とりどりのバラが―・る」

324:考える名無しさん
22/04/17 09:44:43.91 0.net
「于」と「乎」が漢字の用法において同義字とされるだけでなく、
万葉仮名において「乎」と「烏」はともに「を」を表記するのにも
用いられ、中国語の想定される中古音において、「乎」は、
"Middle Chinese: /ɦuo/"とされるのに対し、「烏」は、
"Middle Chinese: /ʔuo/"とされて、互いにとても近い発音として
用いられている。それだけでなく、日本におけるその漢字の用法に
おいても、「う」("wu"としてイメージした方がいいだろう)の
発音において、フランス語の《ou》/「どこに?」に相当するような
イメージで「場所的な不在」に対する感慨を表現するように
用いられている事例が見られる。
URLリンク(kotobank.jp)烏有-441691
烏有(読み)うゆう
〘名〙 (「烏(いずくんぞ)有らんや」の意) 何もないこと。皆無。また、架空

325:考える名無しさん
22/04/17 10:20:11.64 0.net
私の臆断を書き記しておこう。
「乎々理」、「乎呼里」、「乎再入」、「乎為<里>」などと様々に
表記され、「ををり」(wo・wo・ri)と読まれたとされる「乎呼里」
(ここでは、代表する表記として勝手に選択させてもらった)は、
確かに万葉仮名の表記どおりに「乎/を」を繰り返せば、
「ををり」(wo・wo・ri)となり、「乎/を」の反復・継続を表現する
ことになるが、「乎再入」における「再入」という不思議な表記法に
反映されていることが疑われるように、再帰表現としても意識され、
「(咲き)をほり」(wo・ho・ri)のように発声されたのではないか。
私には、このように想定される「(咲き)をほり」(wo・ho・ri)は、
同時に「(咲き)にほひ」という表現も想起される(こちらはやはり
私の臆断によれば、二重の再帰表現として生成されている)。
というのも、そのように想定するなら、「をほり」(wo・ho・ri)
は、「を(招/召)き」の再帰表現となるだけでなく、「を(招/召)き」
が使われなくなって、「(咲き)をほり」が表現として意味不明に
なると、発音の類似から「(咲き)ほこり」への転換が容易に生じ得る
と考えられるからである。

326:考える名無しさん
22/04/17 10:27:17.63 0.net
誤:「(咲き)にほひ」という表現も想起される
正:「(咲き)にほひ」という表現も想起させる
誤:(こちらはやはり私の臆断によれば、二重の再帰表現として生成されている)
こちらは性急すぎたので取り下げておく。

327:考える名無しさん
22/04/17 10:47:12.36 0.net
>春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く
>はるののに なくやうぐひす なつけむと わがへのそのに うめがはなさく
私が、この「うぐいす」の「う」と「うめ」の「う」に共通して感じる
作用のイメージを英語で記述するなら、"inducing to draw near"という
ことになるだろう。

328:考える名無しさん
22/04/17 13:59:37.82 0.net
>>320
第5巻 850番
>原文 由吉能伊呂遠 有<婆>比弖佐家流 有米能波奈
>訓読 雪の色を奪ひて咲ける梅の花
この歌において重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」の
用法から、私にはすぐに連想される関連する推測がある。それは、
意味不明とされながらも頻用される「枕詞」とされる「ぬばばまの」に
ついてである。私には、「ぬばたまの」は、「魂を自ずと抜け出させる」
ことを意味するように用いられのだろうと思える。なぜ、そのように
推測されるのか説明しよう。

329:考える名無しさん
22/04/17 14:03:38.37 0.net
URLリンク(kotobank.jp)射干玉の-594269
ぬばたま‐の【射干玉の】
>枕 ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した語にかかる。
中古以降は「むばたまの」という形で使われることが多い。
>[語誌](1)「万葉」では仮名書き例のほか、「烏玉」「黒玉」「野干玉」
「夜干玉」といった表記が見られる。
>むばたま‐の【射干玉の】
枕 「ぬばたまの」の変化したもの。中古の初・中期の形。のち「うばたまの」
ともなるが、表記の上では後世まで引き継がれる。→ぬばたまの・うばたまの。

330:考える名無しさん
22/04/17 14:12:07.12 0.net
>この歌において重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」の
用法から、私にはすぐに連想される<
なぜすぐに「ぬばたまの」が連想されるかというと、「ぬばたまの」は、
「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように変化したと
考えられているからである。上記に
>重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」
と説明し、上の歌の例ではたしかにそれは「う(有)」の発音とされるが、
「うば(奪)ふ」にはその変形の発音として「むば(奪)ふ」があり、
「うめ(梅)」が「むめ(梅)」と呼ばれたこともよく知られている。
>「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように変化した
という一般に流通する説明においては、単に意味不明のまま発音だけが
変化していったものと想定されているが、言語表現は、それが用いられる限り、
何らかの解釈を伴うことの方が普通である。「ぬばたまの」の本来の
言葉の意味が見失われたとしても、それが表現するイメージはその後も
ある程度、引き継がれたはずであり、「ぬばたま」の「(玉)たま」が「魂(たま)」
と結び付けられないはずはないのだから、解釈を要するのはは、「ぬば」、
「むば」、「うば」だけであることになる。

331:考える名無しさん
22/04/17 14:21:50 0.net
「うば(奪)ふ」にはその変形の発音として「むば(奪)ふ」があることから、
「むば」、「うば」は、自然に、「うば/むば(奪)」を想起させる。
では、「ぬば・たま(魂)」→「うば/むば(奪)・たま(魂)」という解釈は
成立する可能性があるのだろうか。ここで、「ぬばたま」という表現の
漢字の表記には、「射干玉」、「野干玉」、「夜干玉」などがあることが
注目される。というのも、「射干」、「野干」、「夜干」は、「ぬば」
という発音には対応していないからである。そこで、「野干」を
Wikipediaで検索してみると、次のように記載されている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)野干
>野干(やかん)とは漢訳仏典に登場する野獣。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)

>日本の密教においては、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身で
あると解釈され、平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。

332:考える名無しさん
22/04/17 14:26:17 0.net
>野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天
ということなので、さらにリンクをたどって同じくWikipediaで「荼枳尼天」
の項目を参照すると、以下の通り記載されている。

URLリンク(ja.wikipedia.org)荼枳尼天
>平安初期に空海により伝えられた真言密教では、 荼枳尼は胎蔵曼荼羅の
外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼として閻魔天の眷属となっている。

ここで「野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天」は、「奪精鬼」とされているので、
>「ぬば・たま(魂)」→「うば/むば(奪)・たま(魂)」
と解釈した推測は、はっきりと裏付けられたことになるだろう。

333:考える名無しさん
22/04/17 14:29:24 0.net
では、逆に、
>「ぬば・たま(魂)」→「うば/むば(奪)・たま(魂)」
の変化をもたらした元の「ぬば」はどのような表現であったのかを問ふなら、
それは、「ぬ(貫/抜)く」の「ぬ」を利用した再帰表現であり、
「ぬば」≒「自ずとぬ(貫/抜)ける/させる」ことを意味していたのだろうと
私には思える。

334:考える名無しさん
22/04/17 14:35:50 0.net
一般に黒いものにかかると説明される「枕詞」として「ぬばたまの」は、
>「黒」「夜」「夕」「宵」「髪」などにかかる
とされるが、「月」、「夢」などにもかかる。
「月」、「夢」が黒いわけではないので、
>夜にかかわるところから
という理屈付けによって「合理的」な説明が付けられているが、
「ぬばたまの」≒「魂(たま)を自ずとぬ(貫/抜)させる」と解釈する
なら、そのような副次的な説明は不要となるだろう。

335:考える名無しさん
22/04/17 14:44:16.61 0.net
言いたいことを言っておかないと、「はらふくるる心地」するが、
別にそれをいくら書き込んだところで、私にそれ以外の何の利益もあるわけ
ではなく、時間と労力をかなり要して、しかも、不用意なことを書き込んで
しまったり、誤記が多かったりすると、それも気分が悪いので、
それなりのストレスも大きい。すこし自制しよう。

336:考える名無しさん
22/04/18 00:06:35.16 0.net
URLリンク(upload.wikimedia.org)

337:考える名無しさん
22/04/18 00:26:46.31 0.net
URLリンク(ja.wikipedia.org)カーリー#/media/ファイル:Shyama_Shakespeare_Sarani_Arnab_Dutta_2010.JPG
>野干(やかん)とは漢訳仏典に登場する野獣。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)
まあ、ジャッカルのような動物としてイメージされた夜干/野干/射干が、
ジャッカルのいない日本では野狐(ヤコ)のイメージになったということかな。

338:考える名無しさん
22/04/18 11:01:56.60 0.net
万葉集で用いられる多くの「枕詞」とされる表現が、その本来の意味も、
かかり方も不明となっているなかで、「たまくしげ」は、それが「もの(物)」
として何を指すのかはっきりと知られており、それにつづく語句に
どのようにかかるのかも明確に分かっている。それでも、「たまくしげ」
を「玉櫛笥/玉匣」と考えて、そのような物象化から歌の言語表現を
理解しようとすることは、感性の働きを硬直化させて、表現の生成に
働いている感性を適切に解釈することを妨げる。
岩波古語辞典で「たまくし【玉櫛】」の項目を参照すると、以下のように
記載される。
>たまくし【玉櫛】《タマは魂(たま)。神聖なの意》神聖な、大切な櫛。
>たまくし【玉櫛笥】①玉飾りのある櫛笥(くしげ)。転じて、女の持つ
手箱の美称。タマはまた、霊魂を意味し、神仙としての霊性とかかわり
のある箱の意。
このように「たまくしげ」という表現を物象化する方向での理解が示され
た後で、「枕詞」として使われるこの表現が、そのような箱として、
「開け」や「明け」、「奥に思ふ」(大事に思うことから)、「二(ふた)」
(つまり、箱の蓋)にかかることが説明される。
このことは、こちらのサイトに記載される説明においても同様である。
URLリンク(kotobank.jp)玉櫛笥・玉匣-2060491

339:考える名無しさん
22/04/18 11:16:28.77 0.net
最初に断っておくが、私は、「たまくしげ」という表現についてのこれらの
説明が誤っているなどということを指摘したいわけではない。「たまくしげ」
という言葉が詠まれる歌において、この表現が説明されるとおりに「物象化
されて使はれている」ことには疑いの余地がないだろう。しかし、だから
こそ、後に「枕詞」と呼ばれることになった「物象化されて使はれている」
表現は、その多くが死語となり、意味もかかり方も不詳となっていったのである。
したがって、このような表現を「物象化する方向で」解説することは、それに
いくら詳細に、入念に取り組んだところで、表現の生成に働いていたはずの
感性を適切に導き出すのには役に立たないだけでなく、そうしようとする
ことを妨げつづけることにすらなるのである。なぜなら、表現に働いている
感性を知ろうとすること自体が、物象化のプロセスを逆転させることを要請
するからである。

340:考える名無しさん
22/04/18 11:18:02.63 0.net
誤:>たまくし【玉櫛笥】
正:>たまくしげ【玉櫛笥】

341:考える名無しさん
22/04/18 11:56:00.38 0.net
ここで、「物象化のプロセスを逆転させる」という表現により私がどのような
ことを意図しているのかが理解されるなら、もはやそれ以上に説明をつづける
必要すらない。「たまくしげ」を詠み込んだ歌において、それがどのような
感性の働きを表現しているのかを知るには、引用したような物象化する方向での
説明を逆転させるだけで済むからだ。
「たまくしげ」は、「玉櫛笥・玉匣」と表記されるとき、明確に、現代の日本語
にするなら「容器としての箱(はこ)」を指しており、「たまくしげ」の「げ」
の発音にもともとどのような漢字が当てられることになっていたにせよ、
その発音そのものが漢語の反映だろう。
URLリンク(www.chinesewords.org)匤.html
>康熙字典解釋
>【唐韻】丘玉切【集韻】區玉切,音曲。匣也。
「たまくしげ」を「たまくし・げ」と切るなら、その物象化された解釈は、
「神聖な、大切な櫛(くし)」を入れる「箱(はこ)」ということになり、
「たま・くしげ」と切るなら、「玉飾りのある櫛笥(くしげ)/美しい手箱」
ということになる。これを英語で簡単に表現するなら、
"a box for precious hair ornaments"または
"a precious box for hair ornaments"と記述することもできるだろう。
しかし、歌において「たまくしげ」という表現が用いられるときに
中心的に働いている感性は、そのような捉え方では、まったく伝はること
にはならない。むしろ、「たまくしげ」として物象化して表現する手法
そのものが、歌に詠むという行為を介して「心を『ひそかに』相手に
伝へる」、すなわち、「隠しながら見せて伝へる」技法なのだから、
物象化する方向だけで解釈することは、その表現によって「伝へようとする
心」を隠蔽することにしかならない。

342:考える名無しさん
22/04/18 12:22:00 0.net
説明が長くなったので、結論を簡単に述べよう。
それは、「たまくしげ」という表現を英語に変換してみれば簡単に分かることだ。
「たまくしげ」を物象化して捉えて、
"a box for precious hair ornaments"または"a precious box for hair ornaments"
してみても、歌に詠まれた「たまくしげ」の用法に働いている感性はまったく
伝はらない。なぜなら、この表現において本当に大切なのは、
それが"a box"/「箱」であることでも、その"a box"/「箱」が"precious"/
「大切」、「貴重」、または「美しい」ということでも、その"a box"/「箱」が
"hair ornaments"/「櫛」もしくは"valuables"/「貴重なもの」のためのもの
であることでもないからだ。そうではなく、「たまくしげ」が表現している
のは、「たま(魂)」を「くす(≒「秘める」)」(「奇(くす)し」、「くすむ」、
「くすねる」などの「くす」を考えてみるといい)こと、すなわち、
英語にして表現するなら、"keeping souls undercover"であるからである。
"undercover"であるからこそ、「たまくしげ」は、「開け」や「明け」、
「ふた(蓋)」の掛詞としての「二(ふた)」、「奥に思ふ」などにかかって、
その歌を詠む者の「心(こころ)」を伝へることになるのだ。
したがって、和歌に詠まれる「たまくしげ」という表現に働いている
感性を理解しようとするとき、「玉飾りのある櫛笥」をイメージとして
想起するより、Rolling Stonesの"UNDERCOVER OF THE NIGHT"の
"undercover"を思ひ出した方がはるかに役に立つことになるだろう。
URLリンク(www.youtube.com)

343:考える名無しさん
22/04/18 12:52:31.95 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
>玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜<裳>
>玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも
>たまくしげ おほふをやすみ あけていなば きみがなはあれど わがなしをしも
私は、個人として万葉集を所持していないので、このサイトには、その優れた
検索機能も含めて、どれほど助けられていることか知れない。万葉集の歌の
言語表現の解釈について私がここに書き込んでいることも、そのような助け
を借りなければ、ほとんど不可能だろう。それでも、このサイトで提示される
歌の現代語訳には、感性が仮死状態で麻痺しているかのようにまったく
働いていないと感じさせられることが少なくない。例えば、この歌における
「名(な)」は、本当にその現代語訳に示されるような使はれ方をしている
だろうか。「たまくしげ」の用法と併せてこの「な(名)」について考えた
とき、このスレで既に私自身が示した日本語における「な」についての
考え方にも照らして、その現代語の解釈には、強い違和感を覚える。

344:Undercover
22/04/18 14:56:24 0.net
>>342
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第4巻 635番
>草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
>草枕旅には妻は率たれども櫛笥のうちの玉をこそ思へ
>くさまくら たびにはつまは ゐたれども くしげのうちの たまをこそおもへ

345:考える名無しさん
22/04/18 15:09:44 0.net
URLリンク(kotobank.jp)枕詞-135915
枕詞(読み)まくらことば
>主として和歌に用いられる修飾句。通常は一句五音で、一首の主想表現と
直接の意味的関連がなく、被修飾語(被枕詞)だけを修飾する。<

これが一般に通用している「枕詞」とされる表現についての理解である。
「枕詞」とされる「草枕」がどのような表現として用いられているのかについては、
以前に別のスレで長々と説明したので、ここではそれを繰り返すことはしないが、
>>344に引用した歌では、通常は「枕詞」とされる「たまくしげ」が歌として
展開されているだけではなく、それは、枕詞とされる「草枕」との関係において
展開されている。というより、この歌から「草枕」と「たまくしげ」の関係
を除いてしまったら、何も残らないだろう。

346:考える名無しさん
22/04/19 01:12:08.75 0.net
「たまくしげ」の「たまくし」には、「た(手)まくら(枕)」も隠れている。
以下は、しばらく前の私自身の書込みである。
>362考える名無しさん2021/10/04(月) 00:27:54.070
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第12巻 2865番
>玉釼 巻宿妹母 有者許増 夜之長毛 歡有倍吉
>玉釧まき寝る妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しくあるべき
以下、『萬葉集 三 新潮日本古典集成』、p.310の註釈から
>◇玉釧 「まく」の枕詞。玉釧を巻きつける意でかかる。「釧」は腕輪で、
女性の装身具。女性を心に置いて用いた。◇まき寝る 「まく」は枕にする
意。<
「たまくしろ(玉釧)」と「くさまくら(草枕)」の対比は明白だろう。<

347:考える名無しさん
22/04/19 09:40:21.98 0.net
URLリンク(kotobank.jp)烏の濡れ羽色-467457
>水にぬれた烏の羽のように、黒くてつやつやした色。「髪は烏の濡れ羽色」
「烏の濡れ羽色(からすのぬればいろ)」という表現があるが、
これはどう見ても、古語の「ぬばたまの」という表現が一般に
通用しなくなって死語となった後に、それによって伝へられて
いた感覚に近いイメージを「後付けの解釈」により表現し
ようとしたものである。既に述べたとおり、「ぬばたまの」は、
「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように
変化したと考えられている。そのように変化することで、
「『う』ばたまの」の「う」に「烏」の字が当てられることに
なったのだろう。ところで、この「烏(う)」は、「うぐいす(鶯)」
と「うめ(梅)」に関する歌について指摘したとおり、英語に
するなら、"wooing"の作用のイメージを伴っている。また、
それだけでなく、「『ぬ』ばたまの」というより古い表現との
イメージ上の関係も思い起こされたはずで、それが「うば」の
発音に「烏羽」を当てるだけでなく、「ぬ(濡)れ」という通用
する表現によって「ぬ」の発音によって想起されるイメージを
導入することを動機づけたのだろう。さらに、もともと
「ぬばたまの」の「ぬば」に当てられた「夜干/野干/射干」
が死骸を食べるジャッカルのような動物としてイメージされた
ことを、同様に死骸を食べる鳥である「烏」のイメージが
引き継いでいるだろう。いずれにしても、これは、物象化する
方向での解釈であり、「ぬばたまの」が本来、表現しようとして
いたのは、だいぶ以前にも同様のことを書き込んだような気が
するが、英語にするなら、"inducing souls to slip through"と
いうことになるだろう。

348:考える名無しさん
22/04/19 09:49:32.12 0.net
「ぬばたまの」という表現が慣用句となり、それが言葉として何を表現して
いたのかが不詳となった後も、それによって想起されるイメージは、
この慣用句が使われる文脈として引き継がれていったものと考えられる。
URLリンク(kotobank.jp)射干玉-594268
>魂のいでて、とをきかたへもゆき、人にことをもつげ、しらすれば也
名語記(1275)九

349:考える名無しさん
22/04/19 10:18:37.60 0.net
生きた言語表現は、つねにその解釈の可能性において多層的であり、
だからこそ、言葉の実際の使用には、いつでも「ためらひ」が
ともなふのだ。しかし、その「ためらひ」は、表現のあらかじめの
厳密な規定によって排除されるべき悪しき曖昧さなどではなく、
生きた言葉の身体そのものである。「ためらひ」をともなはない
伝達は、そもそも、言葉として表現される必要すらないのだ。
なぜなら、そのような伝達は、機械的な表示で置き換えることが
できるからである。

350:考える名無しさん
22/04/19 11:16:50.08 0.net
>>348
>魂のいでて、とをきかたへもゆき、
>>315で指摘したとおり、この「叫びおらび」という読みには大きな問題が
あるが、この歌において表現されているのが、その言葉そのものとしては
歌の語句に現れない「ぬばたまの」であり、「ぬばたまの」を色に関連付け
るなら、それは「黄泉(よみ)」(「黄」という字が当てられているが、
「よみ/やみ(闇)」は黄色くはない)の奥(をく)行(ゆ)きの深さを表現する
「あを」である。その色(いろ)をイメージするには、>>337に貼り付けた
カーリーの像の色も参考になるだろう(「カーリー」という名前そのもの
は、「黒」を表しているとされるが、日本語で表現するなら、それは、
むしろ、「深い闇の色」と考えた方が適切だろう)。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第9巻 1809番
>いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや
ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば
茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い
天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に
負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら尋め行きければ<

351:考える名無しさん
22/04/19 11:18:13.28 0.net
誤:この「叫びおらび」という
正:以下の歌の「叫びおらび」という

352:考える名無しさん
22/04/19 20:41:04.11 0.net
相手を「な(汝)」として指し示しながら相手に共感を示すことは、
英語をメタ言語として用いるなら"the patronizing we"の生成となる。
このことは、万葉集の歌でもその事例をはっきりと見てとることができる。
なぜそうなるかと言えば、それは、相手を「な(汝)」として指し示す
行為はそのまま、そのように指し示す自らを「な(己)」として指し示す
ことにもなるからである。これは、「さかな(肴)」を「酒(さか)『な』」
と呼ぶことがそのまま、「さけ(酒)」が「さかな(肴)」の「な」となる
ことと同様である。したがって、「な」が相手に呼びかけるのに用い
られているときでも、それを英語の"you"に相当するものとみなすことは
誤りである。なぜなら、"you"と呼びかけることは、そのように呼びかけ
る自らが"you"でないことを前提としているからだ。そのように、相手を
指し示すことが同時に自らを指し示す呼びかけとして、英語の"Yo bro!"
やラテンアメリカのスペイン語の"carnal"があるが、これらは、兄弟関係
や血縁関係に擬せられたものなので、日本語の「な」の場合にように
親密な男女関係を表現する場合には適合しない。

353:考える名無しさん
22/04/19 20:44:47.44 0.net
以下に以前の書込みを引用しておこう。
468考える名無しさん2021/12/08(水) 23:45:37.120
同じく「なあ」に近い感じがするのは、例えば、英語で相手に尋ねるのに
"you"の代わりに"we"を使う疑問文ですね。これは、いわゆる
"The patronizing we"と呼ばれる用法ですね。
URLリンク(en.wikipedia.org)
>The patronizing we is sometimes used in addressing instead of you,
suggesting that the addressee is not alone in their situation,
that "I am with you, we are in this together." <
469考える名無しさん2021/12/09(木) 00:41:57.170
「なあ」と呼びかけられて不快に感じることがあるとすれば、
それはまずなによりも、その呼びかけが"patronizing"であると
感じられることによるものではないだろうか。
473考える名無しさん2021/12/09(木) 07:53:44.670
例えば、自分独りで「それはそうだ・な」と何かについて納得するとき、
「な」によって「己が汝(な)としての我に呼びかけている」という
意味で「己/汝(な)」としての「我々」/"we"が立ち現れると言えるのでは
ないだろうか。

354:考える名無しさん
22/04/19 20:49:52.80 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第10巻 1823番
>朝井代尓 来鳴<杲>鳥 汝谷文 君丹戀八 時不終鳴
>朝ゐでに来鳴く貌鳥汝れだにも君に恋ふれや時終へず鳴く
>あさゐでに きなくかほどり なれだにも きみにこふれや ときをへずなく
>朝、井堤に来て鳴く貌鳥よ。あなたまであの方に恋いこがれて鳴き続けるのね。
この歌で行われているのは、仮想の"the patronizing we"の生成である。
そうであることは、この歌における「な(汝)」の用法を検討して、それを
上に引用した"the patronizing we"の説明と比べれば、すぐに気づくはずである。
>The patronizing we is sometimes used in addressing instead of you,
suggesting that the addressee is not alone in their situation,
that "I am with you, we are in this together." <

355:考える名無しさん
22/04/20 00:13:20.35 0.net
さて、>>334に引用した歌、
URLリンク(manyoshu-japan.com)
>玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも
において、「たまくしげ(玉櫛笥)」は、「覆ふ」と「明けて」の両方に
かかっているが、この場合、「明けて」は、「夜が明けて」を意味して
いるのだから、当然、「玉櫛笥覆ふ」は、まさしく、"undercover of the night"
を意味しているはずである。「夜陰に乗じて女性のところに通い、明け方まだ
暗いうちに人目につかないように去る」のが普通の通い方だろう。では、
リンクを貼ったサイトに提示される現代語訳は、それをどのように解釈して
いるのだろう。私にはそれを読んでもまったく理解不能である。
「夜が明けてからお帰りになりますが」という訳は、「相手の男性に明るく
なるまでもたもたしているから困ると苦情を言っている」と解釈している
のだろうか。それでは、そもそも「たまくしげ」/"undercover of the night"
が意味をなさないだろう。さらに、「君が名はあれど吾が名し惜しも」の
「名(な)」は、無論、「名」であるが、「な(汝/己)」と掛詞にされている
のではないか。「それでは浮き名が立ってしまいます。殿方のあなたは
それでも構わないでしょうが」というのは、どのような理解に基づいている
のだろう。男性側が「浮き名が立っても構わない」と思っているとしたなら、
なぜ、闇に覆われている間に通わなければならないのか、なぜ明け方に
立ち去らなければならないのか、私にはまったく意味不明の解釈である。

356:考える名無しさん
22/04/20 00:26:05.36 0.net
誤:"undercover of the night"
正:"keeping souls undercover of the night"

357:考える名無しさん
22/04/20 04:01:18.79 0.net
このスレ夢遊病者が1人で書き込んでんのか?w

358:考える名無しさん
22/04/20 09:31:57.58 0.net
言語表現は、行為であって、分類対象としての「もの」ではないので、
それを「もの」のように扱うことでは、発話をうまく解釈することはできない。
例えば、>>354に引用した歌の現代語訳は、「な(汝)れ」を単に二人称の
呼称とみなして「あなた」と訳しているが、この訳は適切ではない。
「あなた」という表現にも「な」は利用されているが、日本語の「あなた」
は、英語の"you"やフランス語の《vous》に対応する表現であって、
それによって"the patronizing we"を生成することはできないからである。
この場合の「な(汝)れ」に対応するのは、フランス語で表現するなら、
《mon ami/e》ということになる。相手に《mon ami/e》と呼びかけることを、
「親しみを込めて相手を二人称として指すという行為」と記述することは、
適切とは言えない。なぜなら、相手に《mon ami/e》と呼びかけることは、
相手を指すだけでなく、それと同時にそのように呼びかける自らを相手の
《mon ami/e》として指すことになるからだ。公園でひとりぼっちで
泣いている小さい男の子に「どうしたの『ぼく』」と呼びかけるとき、
その「僕」という呼びかけが"the patronizing we"を生成することになる。
この「僕」を単に二人称の呼称とみなして、「どうしたの『ぼく』」を、
「どうしたの『あなた』」や「どうしたの『きみ』」と言い換えたのでは、
その言語表現としての発話行為を適切に解釈したことにはならないだろう。
しかし、引用した現代語訳は、そのような言い換えである。


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