意味の論理構造の哲学at PHILO
意味の論理構造の哲学 - 暇つぶし2ch148:塩なめくじ
22/03/22 08:38:02.85 bYzaK0W50.net
統語論と意味論の切り分けについてよく示す具体的な文例がある。
Colorless green ideas sleep furiously.
という文は、「非文」ではない文、すなわち名詞や動詞がおかしな所にあったりはしない、統語論的には問題ない文であり(詳細は対象の記事を参照のこと)、実際にたとえば Big furious bears ran quickly.[1] という文は普通に意味をとれるだろう。それに対し問題の文は「色の無い緑」「緑のアイディア」「アイディアが眠る」「猛り眠る」など、どれもまともに意味のあるように意味をとるのは難しいわけだが、この違いがどこにあるのか、といったようなことを議論するのは(統語論ではなく)意味論の側ということになる。
意味は、大きく次の二種類に分類されることが多い。第一に、記号が対象や状況に対して持つ関係。 第二に、記号がほかの記号(特に概念と言われる心的記号)に対して持つ関係。前者は指示的意味(reference)、後者は内包的意味(sense)などと言う。
これら二種類の意味に加え、意味論は伝統的に、真理条件、項構造、主題役割、談話分析などを研究してきた。これら全てと統語論を結ぶことも意味論の課題である。
URLリンク(ja.m.wikipedia.org)(%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6)

149:考える名無しさん
22/03/22 09:01:44.92 0.net
>>72
>生きているということはとりもなおさず、自らが「食うか食われるか」
の状況に置かれているということである。<
>>75
>生きているということは、みづから(身づ柄/自ら)の身体があるという
ことだが、「みづから(身づ柄/自ら)の身体は、つねにすでに、そこに
実現された意味の具体化として在る。」<
ここでとても面白いのは、生きているという現実そのもの、自らが
「食うか食われるか」の状況に置かれていることであるにもかかわらず、
つまり、食うことの方向性を確かなものとしなければ、自らが生きて
ゆくことができないにもかかわらず、生命は、多細胞生物において
明らかなとおり、現に複合的な生命体として具現化していることだ。
このことが示しているのは、生命体はつねに「食うか食われるか」の
状況に置かれていながらも、世代を超えて生き延びながらも、食う
ことの一方向性を確実にしてきたわけではないことを示している。
食うことの意味が、自らの身体の具体性を実現するようにその
「方向性」/《le sens》を定めることと同義でありながら、生命体
の身体そのものが「食うか食われるか」の関係の「方向性」/《le sens》
の複合性として機能し、成立し、繰り返されている。したがって、
このことから、既に指摘した次のことが明白となる。
>>79
>生きることにおいて、全体としてあらかじめ定められた、「食うことと
食われること」の保たれるべき理想的な均衡などというものは存在せず、
存在し得ない<

150:考える名無しさん
22/03/22 09:09:10.65 0.net
ここまで考察をすすめてようやく、「生きる」ことを表現するのに
ニーチェが用いた、一般に「力への意志」と訳されることが多いが、
その用法からは、日本語の「できることを(しようとすること)」
に対応する"Wille zur Macht"という表現が端的にいかに優れて
いるのかが理解できる。

151:塩なめくじ
22/03/22 09:11:49.56 bYzaK0W50.net
そうなんだ。

152:考える名無しさん
22/03/22 09:12:05.15 0.net
誤:状況に置かれていながらも、世代を超えて生き延びながらも
正:状況に置かれて世代を超えて生き延びながらも

153:考える名無しさん
22/03/22 10:11:27.81 0.net
「『意味のない』ことをする」とは、一般に、それをしても「何ら
『成果』の見込めない行為をする」ことだろう。「意味のないこと」
を「糞(くそ)」、すなわち、自らの身体を具体化するのに役立たない
ために身体に吸収されることなく、身体から「排外」される「排泄物」
とみなすことは、日本語に限らず他の言語においても普通である。
逆に言えば、「意味のある」こととは、それが自分にとって「身/実(み)」
になることを具体化するのに役立つ、すなわち、「つか(使/仕)へる」
ことであることになる。
これに関して哲学的に検討することがとても重要に思へるのが、
『古事記』に記載される「オオゲツヒメ(大気都比売神)」のエピソード
である。というのも、「オオゲツヒメ」は、食べることの方向性の
常識に反して、あたかも排泄物を排外するかのように自らの身体
から「成果」を出すからである。
>又、食物を大気都比売神に乞ひたまひき。爾に大気都比売、
鼻口及尻より、種種の味物を取り出でて、種種作り具へて進る時に、
速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて、穢汚※して奉進ると為ほして、
乃ち其の大宜津比売神を殺したまひき。< 『古事記』

154:考える名無しさん
22/03/22 10:12:15.78 0.net
誤:穢汚※して
正:穢汚して

155:考える名無しさん
22/03/22 11:38:55.80 0.net
>>149
誤:生きているという現実そのもの、
正:生きているという現実そのものが、

156:塩なめくじ
22/03/22 12:36:03.74 bYzaK0W50.net
4.2 命題の意味とは事態の成立不成立の可能性と命題との一致不一致である。
4.461 トートロジーと矛盾は無意味だ
4.4611 しかし、トートロジーと矛盾はナンセンスではない
URLリンク(sets.cocolog-nifty.com)

157:塩なめくじ
22/03/22 12:36:42.89 bYzaK0W50.net
「意味」という言葉の意味はずいぶん混乱しやすい言葉づかいがされているので、注意してみていく必要がある。
ウィトゲンシュタイン以前の、フレーゲにおいては、Sinn(ジン)が「意義」を示す。つまり他の言葉で言い変えて説明するときの「意味」である。そしてBedeutung(ベドイトゥング…呼戯人さんに教えてもらって、読み方を訂正しました。ありがとうございました)が指示対象を示す。つまり、存在するそのものを指示して示すときの「意味」である。「明けの明星」と「宵の明星」のBedeutungは、どちらも金星を指すので、同じものだが。Sinnは違う意味を持つ。SinnとBedeutungの両者は日本語に訳された年代によってどちらもが「意味」とされている時期がそれぞれあるので要注意である。
(略)
Sinnlosは一般的に「無意味」と訳され、その命題が世界の在り方についての情報を持っていない場合を言う。「指示対象に関する情報が無い」ということである。単なる偽は無意味ではないが、矛盾の命題は常に偽であることにため世界のあり方に関する情報をもてないので「無意味」である。さらに、トートロジーも世界の在り方を語っていないという点で「無意味」である。
Unsinnは「ナンセンス」と訳され、その命題が論理形式違反になっている疑似命題であり、対象を指示するような文になっていないような場合を言う。「対象を指示していない」ということである。
「矛盾とトートロジーが無意味であってナンセンスでない」というのは、矛盾もトートロジーも命題として正しい論理形式を示しているが、その命題が真であるか偽であるかが情報として現実世界を語らないものでしかないということである。

158:考える名無しさん
22/03/22 13:32:44.71 0.net
>>153
>故、殺さえたまへる神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、
二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。<
殺された「オオゲツヒメ」の身体は、頭以外は、食いものとなる。
このエピソードは、どのように理解されるべきものとして書かれたのだろうか。
何も特別な前提を置かずに読めば、このエピソードは、食うことの「意味」/
《le sens》は、他者の身体が排出するものを自らの身体に取り込むこと
ではなく、他者の命を断って、その身を食って自分の身体とすることである
ことを表現しているように思える。実際、食うことが他者の身を食うことには
ならず、自らの身体から排出するものが嬰児(みどりご)、つまり、
み(身/実)ど(取)りご(子)のように他者にとってのみ(身/実)となったと
すれば、食うことによって自らの身体の具体化を保つことはできず、
逆に、その命は衰退する一方となり、亡骸となることになるだろう。

159:塩なめくじ
22/03/22 17:35:24.24 bYzaK0W50.net
要素命題を組み合わせたものの集合 ξ は、
要素命題の集合 p (可算無限) の冪集合。
真理関数の集合 N(ξ) は、ξ の冪集合。

160:考える名無しさん
22/03/22 22:22:21.86 0.net
>>158
他者の身体が排出するものを食うのってただのスカトロだしねw

161:考える名無しさん
22/03/22 22:24:46.84 0.net
>>148
だから意味論は机上の空論でしかないので、存在論にとって替わられたんだけど。

162:塩なめくじ
22/03/22 22:55:38.34 bYzaK0W50.net
>>161
机上の空論って?「意味」なんてものは無いってこと?

163:考える名無しさん
22/03/22 23:05:01.84 0.net
意味論を存在論的に考察したのが山内得立

164:塩なめくじ
22/03/23 01:19:21.39 OmiufQk40.net
山内得立は分かったけど机上の空論ってどういうこと?

165:塩なめくじ
22/03/23 01:19:21.80 OmiufQk40.net
山内得立は分かったけど机上の空論ってどういうこと?

166:考える名無しさん
22/03/23 08:05:54.86 0.net
空論は、龍樹じゃなかったのか

167:考える名無しさん
22/03/23 08:07:41.94 0.net
机上だけに空を限定する理論は、どのような理路に依るのか

168:塩なめくじ
22/03/23 08:47:46.66 OmiufQk40.net

無色の緑の考えが猛烈に眠る。
Colorless green ideas sleep furiously.
→ヴィト用語でUnsinn。真偽値が存在しない。

今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている。
→ヴィト用語でSinnlos。恒真なので情報量が0。

現在のフランス王は禿頭である。
The present king of France is bald.
→フレーゲは「現在のフランス王」に外延が無いので真偽不確定とした。
 ラッセルは主部を分解すると「あるxが存在して、xは現在のフランス王である」等と述べられるとして、偽とした。

現在の日本国総理大臣は菅義偉である。
→「現在の日本国総理大臣」は存在するが、単に述部が偽である。
無意味な文のはどれか。(「現在」という言葉を使うと、その語が書かれたor読まれた時期によって真偽が変わるのでややこしい。)

169:考える名無しさん
22/03/23 08:48:37.09 0.net
>>144
それはその点に紫があるだけだろ
赤や青は存在できない

170:考える名無しさん
22/03/23 09:05:42.45 0.net
大きさのない点は存在し得ない
物理的に点が存在するなら、何らかの大きさをその点に認めていることになる
大きさを認めることには時空間がかかわり、
その点は、時空間的に0の量ではあり得ない

171:塩なめくじ
22/03/23 09:06:42.09 OmiufQk40.net
紫を赤いかつ青いと言い換えることを認めると、白は(光の三原色上)あらゆる色を含むことになる。
「赤い」が「白い」を否定しないなら、赤の補色の「緑色である」を否定しているか?
補色はあくまで人間が持つ3種の錐体を基準とした話で、
人間を基準としなければ周波数のなだからな違いがあるだけで、そこに対立軸は立てられない。

172:塩なめくじ
22/03/23 09:12:22.97 UnwSnsGb0.net
これは「色」とは何かという話で、「意味」とは何かという話ではないな。
「赤い」ということに意味があるなら、「青い」であれ、「緑」であれ、
何かしらを否定している言明だということだ。

173:考える名無しさん
22/03/23 10:09:10.05 0.net
否定しているかどうかは別として、何かが「青い」と言われるとき、
それが「草が『青々』と茂っている」場合には、それが色としては、
「緑(みどり)」として認識されるかもしれないし、何かが新芽が
「緑(みどり)」であると認識されることは、その新芽が
「み(身)ど(取)り」として現れたことに付随するメトニミーとして
認識されるかもしれない。意味の働きとはそういうものだろう。

174:考える名無しさん
22/03/23 10:11:49.49 0.net
例えば、この掲示板で「『緑(みどり)』のやつ」と言った場合、無論、それは、
「緑(みどり)」の色として認識されることを示しているかもしれないが、
意味しているのは、「『sage』ていない書込みをしているやつ」という
ことだろう。

175:anonymouse
22/03/23 13:40:35.89 0.net
>>169
そういう考え方もあるか
量子も観測すれば、その位置を量子が占めるわけだから、
他の量子は存在できない
なんとなくだけど、BUMPのカルマの歌詞を思い出した

176:考える名無しさん
22/03/23 14:11:19.59 0.net
>>171
>紫を赤いかつ青いと言い換えることを認めると、
無理だろ。人はそんな認識の仕方をしてない

177:考える名無しさん
22/03/23 14:49:46.65 0.net
現代の日本語で「白(しろ)」と言うと、汚れていない、何色にも
染まっていない、色が着いていない、脱色されているなどの
イメージが想起されるが、古代の日本語の用法では、「白(しろ)」
が想起させるのは、まずなによりも、「光を透過させる性質」で、
英語にするなら"translucent"に相当する。その用法は現代では、
ほとんど忘れられてしまっているものの、慣用句としては残っている。
例えば、「白々(しらじら)しい嘘を言う」という表現は、
「見え透いた嘘を言う」と言い換えることができ、この「白々しい」
という表現は、英語で"You're so tranparent"と言う場合の
"transparent"に対応するような用法である考えられる。

178:塩なめくじ
22/03/23 15:49:06.90 OmiufQk40.net
アンミカの有名な諺で「白って200色あんねん」というように、
紫にも無数の色がある。
藤納戸、ききょう色、紺藍、藤色、藤紫、青紫、菫色、鳩羽色、しょうぶ色、
江戸紫、紫、古代紫、なす紺、紫紺、あやめ色、牡丹(ぼたん)色、赤紫。
もし紫が赤でも青でもないなら、同様にして、紫は赤紫でも青紫でもなく、
藤紫でも古代紫でもない、ということになる。
色即是空

179:anonymouse
22/03/23 16:04:45.62 0.net
個我、梵我、無我ってあるけど、
それぞれが存在のあり方の極致を言っているだけで、
悟りでも開かない限り、存在というものは、
それらの側面をもって、存在しているという程度の話ひ過ぎない
しかしながら、紫は固有の色であると絶対視するのは個我に属すし、
紫とはそもそも、青と赤の複合であると普遍的に捉えるのは梵我的、
色即是空はよくわからんが、そうだというのなら無我だろう
他にも、自我とか真我とか独我とかいろいろあるけど、
存在の仕方というのは難しいな

180:塩なめくじ
22/03/23 16:21:20.54 OmiufQk40.net
すごいとっ散らかってるな。こうしてとっ散らかってるのも色(しき)を語ってるから。

181:考える名無しさん
22/03/23 16:22:39.77 0.net
盗撮乙

182:ハチくま
22/03/23 16:24:04.85 0.net
波平の知的生産労働という名の自演オナニー劇場がこちらです🥺

183:anonymouse
22/03/23 16:27:25.68 0.net
例えば3という数字が、
三角形だとか、三角関数とかに結びつけられて、
3には3しかない固有の性質だとかいうと、個我
3はそもそも奇数で、3はすべての奇数と同じ性質を持っている、というと梵我、
数とはそもそも0を起点にした相対的な値でしかないというと無我みたいな
つまり、個我、梵我、無我の
個、梵、無というのは、
絶対性、普遍性、空性のことをいっている

184:anonymouse
22/03/23 16:27:58.45 0.net
塩なめくじって波平なの

185:考える名無しさん
22/03/23 16:31:11.85 0.net
まるで自分は違うみたいな

186:anonymouse
22/03/23 16:32:29.38 0.net
×三角形だとか、三角関数とかに結びつけられて、
3には3しかない固有の性質だとかいうと、個我
◯三角形だとか、三角関数とかに結びつけられて、
3は3にしかない固有の性質を持っているとかいうと、個我
もっと言えば、3は3以外にない、
3は3という固有の数である、みたいな、伝わるだろうか
紫が200色あって、そのうちの固有の色だみたいな
200色の話が出てこの話をしているんだけど、

187:ハチくま
22/03/23 16:33:25.45 0.net
エルデンしないの?爺さん🥺

188:考える名無しさん
22/03/23 16:42:06.10 0.net
>>185
何が同じだw?

189:考える名無しさん
22/03/23 21:11:44.13 0.net
意味の構造を哲学しよう

190:考える名無しさん
22/03/24 08:32:16.09 0.net
言葉を明確に定義しながら使うことが、言葉を都合よく処理しようとする、
つまり、勝手な動きをしないようにその息を止めようとすることである
とするなら、詩的な言語の用法とは、言葉を上手く捕まえて生簀に飼って
おこうとすることだろう。

191:青争岡市水青水区
22/03/25 10:29:41.90 0.net
>青(あお) は 藍(あゐ)より出(い)でて藍(あゐ)より青(あお)し
日本語の「あお(青)」が本来、表現していたのは、「青淵(あをぶち)」と
いう表現にも見られるとおり、「沈(しず)み込むような深さ」ではないだろうか。
URLリンク(kotobank.jp)青は藍より出でて藍より青し-422146
(「荀子‐勧学」の「学不レ可二以已一、取二之於藍一、而青二於藍一、
冰水為レ之而寒二於水一」から出た語。青色の染料は藍から取るが、
原料の藍よりも青いの意から) 教えを受けた人が教えた人より優れること

192:清水/水青水(しみず)
22/03/25 16:15:05.97 0.net
>日本語の「あお(青)」が本来、表現していたのは、「青淵(あをぶち)」と
いう表現にも見られるとおり、「沈(しず)み込むような深さ」ではないだろうか。<
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第1巻 52番
>大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の
この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は
背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの
大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや
日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水<

193:考える名無しさん
22/03/25 16:26:47.37 0.net
「青(あお)」は色の分類であるという思い込みが、感性の働きを麻痺させる。

194:考える名無しさん
22/03/26 02:30:20.95 0.net
>>193
???

195:考える名無しさん
22/03/26 08:31:13.67 0.net
草木が「『青々(あおあお)』と茂る」とは、本来、「『鬱蒼(うっそう)』と茂る」
ことを表現しており、「緑鮮やかに」ということではない。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
「『青々(あおあお)』と茂る」の「青(あお)」は、色を分類する表現であると
思い込むから、草木の色なら「緑(みどり)色」であるはずだという判断が働き、
感性を働かせることなく、この「青(あお)」が表現しているのは「緑(みどり)色」
であるという移しかえが自動的/機械的に行われる。しかし、この「青(あお)」が
対応しているのは、「『鬱蒼(うっそう)』と茂る」の「蒼(そう)」の方であり、
「蒼」という漢字が「 艸 + 倉」として構成されていることにも反映されている
とおり、それが本来、イメージさせるのは「沈(しず)み込むような深さ」だろう
と考えられる(例えば、関連する漢字である「滄」および「倉」の用法を参照
してみるとよい)。

196:考える名無しさん
22/03/26 08:48:25.94 0.net
「滄」の部首・画数・読み方・意味 - 漢字辞典 - goo辞書
URLリンク(dictionary.goo.ne.jp) › 漢字辞典
>滄の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア
①あおい。 また、あおうなばら。 うみ。 「滄海」 ②さむい。<
「蒼」は、「鬱蒼(うっそう)」の場合に見られるとおり、草木が
生い茂っている場合に用いられると、その色は「緑(みどり)色」のはずだ
という判断が生じて自動的/機械的にそのように移しかえが行われるが、
「滄」は、「蒼」とイメージを共有する漢字として用いられたはずだが、
「滄海」の場合に見られるとおり、海の様態を形容するものとして
用いられると、その色は「青(あお)色」のはずだという判断が生じて
自動的/機械的にそのように移しかえが行われる。
しかし、「滄」と「蒼」がどのようなイメージを共有するものとして
用いられているのかに注目すると、重要なのは、「空間的な深みに
入り込んでゆく」ようなイメージであることが分かる。

197:考える名無しさん
22/03/26 08:57:37.10 0.net
「倉(くら)」という表現について検索すると、以下のような説明を記載する
サイトがヒットする。
URLリンク(gaus.livedoor.biz)
1123「倉」はなぜ「くら」の意味か?
>古人は「倉は蔵なり。穀物を蔵するなり」と語源を説いている(『釈名』)。
藤堂明保も王力(現代中国の言語学者)も倉と蔵を同源の語としている。
穀物などを貯蔵する所だから倉には「深くしまい込む」というコアイメージがある。<

198:考える名無しさん
22/03/26 09:05:03.60 0.net
「青(あお)森」という地名について考えてみるといい。
樹木の葉は「緑(みどり)色」なのだから、「青(あお)」が「緑(みどり)色」を
意味するのなら、森が「緑(みどり)色」であるのは当たり前のことで、
「森」を「青(あお)森」と呼ぶことは、何らその特徴を表現すること
にはならないだろう。

199:考える名無しさん
22/03/26 13:50:22.24 0.net
URLリンク(www.youtube.com)
Descente dans Le Grand Bleu

200:考える名無しさん
22/03/26 13:56:10.39 0.net
「青木ヶ原樹海」
緑(みどり)色の木という意味ではないだろう。

201:考える名無しさん
22/03/26 16:20:04.89 0.net
言語表現の生成には自然にプラグマティズムが働いている。
言い換えるなら、感性の働きによって捉えられた経験を取り込むように
理性が働いている。しかし、そのようにして生成された言語表現を
「合理的」に解釈しようとするとき、大多数の人は「理性の罠」にはまる。
それは、与えられた理性に合わせるように表現を解釈しようとすること
によるものであり、理性がもともと、感性の働きを「節約する」ように
働くものであることを忘れているのだ。感性の働きを省略すること
ができるように理性を「適用」しようとするなら、それをどこで
どのように「適用」することができるのか、その「勘所」を押さえて
いなければならない。さもなければ、省略された「感性の働き」その
ものが見失われ、合理的であろうとすることが、理性を働かせること
ではなく、感性を無視して、単に理性的であるとされる説明に解釈を
合わせようとすることになる(いわゆる、理屈による「辻褄合わせ」
である)。理性の「適用」は、それが感性の働きを節約しながらでも、
その都度、感性の再活性化させることを怠るなら、形骸化するのである。

202:考える名無しさん
22/03/26 16:23:21.22 0.net
誤:感性の再活性化させる
正:感性を再活性化させる

203:考える名無しさん
22/03/28 08:43:43.39 0.net
>>191青争岡市水青水区2022/03/25(金) 10:29:41.900
>青(あお) は 藍(あゐ)より出(い)でて藍(あゐ)より青(あお)し
うかつにも、検索してヒットする現代の標準の仮名遣いのまま、「青」を
「あお」とひらがな表記してしまったが、古語の仮名遣いでは、「青」は、
「あお」ではなく「あを」であり、上に引用した決まり文句も、
>「あを(wo)はあゐ(wi)よりい(yi)でてあゐ(wi)よ(yo)りあを(wo)し」
という発音の関係において自然にイメージされるはずのものだろう。

204:考える名無しさん
22/03/28 09:24:40.64 0.net
>日本語の「あお(青)」が本来、表現していたのは、「青淵(あをぶち)」と
いう表現にも見られるとおり、「沈(しず)み込むような深さ」ではないだろうか。<
>重要なのは、「空間的な深みに入り込んでゆく」ようなイメージであることが分かる。<
ここで、「奈良」にかかる「枕詞(まくらことば)」として説明される「あをによし」
という表現を考察すると、「あをによし」は、「青丹吉」と漢字で表記されるので、
一般に「青丹(あをに)よ(良)し」と解釈され、岩波古語辞典にも「美しい青土を
産する意が原義」と記載されている。しかし、「あをによし」は、「安乎尓与之」
とも表記され、この場合に「あを」に当てられている漢字は、「安乎(あを)」であり、
「乎(を)」の表記は、「を」が呼び声として英語の"want"やフランス語の《vouloir》
に相当するイメージで用いられる場合と共通である。そこで、「安乎(あを)」を
検索語として万葉集を検索してみると、「安乎祢之奈久母」/「我を音し泣くも」/
「あをねしなくも」(第20巻 4437番)という表現がヒットし、「安乎(あを)」という
表記がやはり、そのようなイメージで用いられていることが確かめられる。
さらに、このことを踏まえて、「あを」の表記が「青」であれ、「安乎」であれ、
「あをによし」という表現が用いられている万葉集に歌を検討してみると、
やはり、「あをによし」も、ドイツ語を用いるなら、»sehnsuchtsvoll«、英語
にするなら"to be yearned"に相当するような表現として用いられていることが
分かる。この場合、wiktionaryでドイツ語の"sehnsüchtig"の中国語訳として
示される「渴望的」、「想望的」という表現も、「あをによし」にそれなりに
うまく対応しているように思われる。

205:考える名無しさん
22/03/31 19:39:55.26 0.net
襖(あを)
https:/ja.wikipedia.org/wiki/襖#/media/ファイル:Old_okada_house05_800.jpg

206:心深う、あをみたるやうにて、深き山の
22/03/31 19:51:04.46 0.net
>望月のくまなきを千里のほかまで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、
いと心深う、あをみたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、
うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。<
『徒然草』、「花は盛りに」

207:考える名無しさん
22/03/31 20:56:02.55 0.net
我々は読まされている

208:考える名無しさん
22/04/02 18:56:51.41 0.net
意味の構造を哲学しよう

209:anonymouse
22/04/02 20:14:49.29 0.net
意味→

意味←

210:anonymouse
22/04/02 20:17:02.49 0.net
名詞の意味は右向き矢印(→)
〜の意味というと、左向き矢印(←)

211:anonymouse
22/04/02 20:17:36.97 0.net
英語のasは矢印だって習った気がする

212:anonymouse
22/04/02 20:22:30.04 0.net
意味とは指向性なんじゃない
座標軸が増えていく空間(ヒルベルト空間的な)
のベクトルみたいなもん

213:anonymouse
22/04/02 20:23:05.31 0.net
意味の本質は指さすことなんだよ、きっと

214:null and void
22/04/03 00:33:40.21 0.net
矢印の記号(👉/→)は、インデックス/指標として何かを指し示すように
使はれるわけだが、例えば、日本語における「を」は、まずなによりも、
そこ(発声する身体)に「空虚」があることを「を/wo」という発音を
声にすることによって指し示す行為である。だからこそ、「を(惜)し」
という感覚は、言語の境界を超えてやはり同様に「空虚」を指し示す
行為として表現される。
URLリンク(www.wordreference.com)
vacuum n (sense of emptiness)
(figurado) vácuo sm
(figurado) vazio sm
His wife's death left a vacuum in George's life.
A morte de sua esposa deixou um vácuo na vida de George.

215:塩なめくじ
22/04/03 04:02:48.57 pZ1aKmIe0.net
シニフィアンね。

216:「あを」しのふらむ
22/04/03 08:15:08.34 0.net
>>204考える名無しさん2022/03/28(月) 09:24:40.640
>日本語の「あを(青)」の語源は不明とされているが、「あを」は、
"Middle Chinese: /ʔɑuH/"に近い発音で入って来た「奧(あう)」を
ピジン言語としての「日本語」において「あ・を」として再解釈する
ことによってもたらされた可能性が考えられるように思われる。
URLリンク(ja.wiktionary.org)奥<
なぜそのような可能性が考えられるのかと言えば、それは、日本語
において、「あ」は、「山の『あ』なた」のように指示詞として
不特定に離れた様態を表現するのに用いられるので、「あを」←
「あ」+「を」←「不特定に離れた空虚」という関係性が自然に
推論されるので、「奥(/ʔɑuH/)」を「奥(あを)」と読みかえる
ことは、「奥(あを)」≒「不特定に離れた空虚」としてイメージ
することになるからである。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
原文:波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
訓読:春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも
かな:はるののに くさはむこまの くちやまず あをしのふらむ いへのころはも
URLリンク(manyoshu-japan.com)
冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし
花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず
秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く
そこし恨めし 秋山吾は

217:考える名無しさん
22/04/03 08:27:24.33 0.net
>>216
また、このことから、奈良にかかる枕詞とされる「あをによし(安乎尓与之)」
も、現代語の「あこが(憧)れ」 の語源である「あくが(離)る」を反転した
ようなイメージを想起させる表現であると推察されることになる。

218:考える名無しさん
22/04/03 09:28:01.81 0.net
>>216
ちなみに、私は、リンクを貼った万葉集のサイトをとても便利なもの
として利用させてもらっているが、そこに記載される現代語訳は、
「適切な解釈」を提示することをまったくあてにしていない。
むしろ、そこに提示される現代語訳を「正しい解釈」であるなどと
思うなら、「適切な解釈」をしようとする試みは未然に妨げられる
ことになるだろうと思っている。

219:考える名無しさん
22/04/03 17:37:48.38 0.net
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である。<
言語表現の基礎にあるこのような発声を、それがそのように
使われていると認めざるを得ない場合ですら、言語学は、
それをただちに「擬音語/擬態語」として分類してしまうが、
その分類そのものが、事象を»vorhanden«に捉えることを
優先する偏見を反映している。しかし、この場合、その
事象を素直に»zuhanden«に捉えるなら、「を/wo」という
発音を声にすることによって「空虚」が示されることは、
行為における身体感覚の活用である。

220:考える名無しさん
22/04/03 19:41:22.43 0.net
URLリンク(www.youtube.com)

221:考える名無しさん
22/04/04 08:27:45.93 0.net
言語学に代表される西欧で主流の言語観では、言葉を使うことは、
他の生物とは異なって特別に人に備わった理性の働きによるもの
であり、それゆえ、鳥の鳴き声などにも見られ、言葉を話せる
ようになる前の幼児の発声にも見られる音声の模倣は、「言語
表現を身に付ける前の段階」に属するものであるとされるのだ。
したがって、発話における身体感覚の活用も、それがそのような
ものとして認識される限りにおいて、ただちに「擬音語/擬態語」、
つまり、模倣によるものと分類されて、理性による言語表現に
よりも低い思考の段階に属し、言語の使用において副次的な
ものみなされる。
しかし、この言語観は、根本から誤っている。無論、言語の使用
には理性が強く働いている。だからこそ、人が話す言語がいくら
多種多様で、人々の話す言葉が互いに通じないものであった
としても、それが人々の間で通じる範囲における言葉の用法に
おいては、必ずその文法の記述が、つまり、別の言葉による
メタ言語的な記述なのである。それでも、このことは、理性
による言語の使用が、発声における身体感覚の活用から分離
していることはまったく意味しない。そうではなく、この
場合もやはり、理性は、その都度、感性を働かせることを
「節約する」ように作用しているに過ぎないのだ。

222:考える名無しさん
22/04/04 08:47:59.63 0.net
言語の使用は、言葉として表現するときの発声の身体感覚の活用をその
基礎として、それを理性の働きにより節約して、習慣化することの
積み重ねとして成立している。このため、習慣化した言葉は、それが
使はれるとき、その都度、可能なあらゆる感性の働きを徴用/召喚し
なくても人々の間で安易に通じることになる。その一方で、その
ように合理的に通じるようになった言葉の用法においては、その
言葉による表現がそもそもどのような発声の身体感覚の活用による
ものであったのかを知る感性の働きが忘れ去れ、何を伝えようと
しているのかは、人々の間で表面的にしか伝わらなくなる。
そこで、自らが伝えようとすることが相手にうまく伝わるように
しようとするなら、その際に用いる言語表現は、感性の働きを
再活性化するように発声の身体感覚を活用する必要に迫られるのだ。
したがって、実際の言語表現においては、理性により感性の働き
を節約しようとする方向性の力と、合理化によって働きが
鈍らされてしまった感性の働きを再び呼び覚まそうとする方向性
の力がせめぎ合っているのである。

223:考える名無しさん
22/04/04 09:02:38.26 0.net
物象化された事象の見方では、まず「そら(空)」が存在して、その
「そら(空)」の「いろ(色)」が「あを(青)」であるとされる。
しかし、実際の認識の働きは、その逆である。つまり、
「あを(青)」く≒「不特定に離れた空虚」を感じさせながら、
「明るい」のが「そら(空)」であり、そのような特徴を表すのが
「そらいろ(空色)」とされるのだ。

224:Volare
22/04/04 09:05:02.98 0.net
URLリンク(www.youtube.com)

225:考える名無しさん
22/04/04 10:33:36.19 0.net
誤:別の言葉によるメタ言語的な記述なのである。
正:別の言葉によるメタ言語的な記述が可能なのである。

226:考える名無しさん
22/04/04 11:26:59.28 0.net
身体感覚を活用することの節約は、それが理性の積み重ねとして
成立しているとしても、(自己/)家畜化と表裏一体だろう。

227:考える名無しさん
22/04/05 14:15:51.02 0.net
>>214
ここで注意しなければならないのは、
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である<
と私が指摘するとき、そのようにして指し示される「空虚」は、
あらかじめ「空虚」として物象化されているわけではないということだ。
「を/wo」を発声することによって示されるのは、それを発声する
身体に空虚があるという感覚である。その発声を呼び声として聞いて、
同様に「を/wo」を発声することが、身体に空虚があるという感覚
を確認するこた(応)へとなって呼応関係が成立し、その呼応関係に
よる確認が反転可能な用いられることで初めて、「を/wo」の
発声に対応する身体感覚により、物象化された「空虚」が代表されて
示されることになる。だからこそ、表現の派生の順序としては、
まずは感嘆の「を」が表現として用いられ、それが呼びかけの
「を」とそれにこた(応)へる確認の「を」として利用され、さらに
その呼応関係の成立によって示されることになる物象化された
「空虚」を示す「を」が、「を(惜)し」という表現、すなわち、
「を(≒空虚さ)し(≒~を生じさせる)」として活用されることになる
と考えられるのである。ただし、無論、私は、ここで、身体感覚が
人々に普遍的に共通するものとして用いられているなどということ
を主張しているのではないことにも十分に注意する必要がある。
その点については、単位として用いられる1と円周率πの互いに
割り切れない関係を比喩として用いて既に別の書込みにおいて
説明したので、ここでは繰り返さない。実際、私自身、日本語の
「を」がそのように用いられていると推論する際、まず自分の
身体感覚を根拠にするようなことは一切せず、日本語の「を(惜)し」
とフランス語の《regretter》の比較を手掛かりにその手続きを始めている。

228:考える名無しさん
22/04/05 14:37:12.86 0.net
一部の鳥類は、人の言葉の発声をとてもうまく模倣することが
できるが、その模倣が同時にはっきり示しているのは、それらの
鳥が、人の言葉を学習することに完全に失敗しつづけていること
である。なぜならそれらの鳥は、いくら長い言葉の発声を真似する
ことができても、人の発話のただの一音節さえ呼応関係とそれに
よってもたらされる物象化において使うことができないからだ。

229:考える名無しさん
22/04/05 17:34:52.78 0.net
言語表現にその息吹を取り戻させる再活性化は、云はば、生のリバース
エンジニアリングであり、全体と部分を交互に物象化する合理化プロセスの
逆プロセスなのだ。

230:考える名無しさん
22/04/06 08:39:08.46 0.net
形容することが物象化をもたらす。
「あを(青)」を「あを(青)し」と形容することによって、
それが「あを(青)きもの」の「あを(青)さ」となるように。

231:考える名無しさん
22/04/06 09:27:34.97 0.net
隠喩とは、それがなまめかしく用ひられる限りにおいて、
物象化とは逆のプロセスを発動する反形容である。

232:考える名無しさん
22/04/06 09:59:11.85 0.net
『枕草子』の言説のスタイルを考えてみるといい。
『枕草子』は、「~もの」としてどのようにか物象化された「もの」の
具体例を、それぞれの具体例の置かれた脈絡とは無関係に列挙していくことにより、
「~もの」とされる「もの」の「~さ」がどのように物象化されているのかを
問ひとして提示している。これは、一見、「~もの」の分類のようでありながら、
それとはちょうど逆の思考を要求する。例えば、「なまめかしきもの」の
具体例が提示されるとき、そこに列挙される「もの」には、生物も無生物も
含まれ、互いに何の関係もない。「なまめかしさ」が「いきいきとした
しなやかさ」であると理解されるとしても、ここで行われているのは、
「生物」という分類によりその具体例を列挙して、「生物」とその具体例
を交互に物象化するようなことではまったくない。むしろ、
「なまめかしきもの」の列挙から、その「なまめかしさ」が問はれ、
「なまめかしさ」から「なまめく」とはどのようなことかが問はれることに
なるのである。

233:塩なめくじ
22/04/06 12:05:34.61 1JKdq7Ut0.net
呼びましたか?

234:考える名無しさん
22/04/06 12:08:21.30 0.net
なめくじという言葉ってやっぱり動詞「舐める」の語幹に由来するのかなあ。

235:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/04/06 12:17:00.15 0.net
新体和歌 歌論 死集。
狂刷らば 憑きのパンダに 良霊が 鳥つく島は ヤマト島哉。

236:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/04/06 12:18:24.43 0.net
沙石集 無住 と重ねるリリーック。

237:死廃神酔天魔法狂廃遊舞鬼神龍騎禅軍呪妖幻術医国文師悪魔召喚居士
22/04/06 12:18:52.94 0.net
にくつかしさ。

238:考える名無しさん
22/04/06 19:46:49.28 0.net
>>191-232
「あを(青)」について書いていて、そういえば『青の美術史』という本が
あったなと思い出して、図書館で借りてきた。以前にも借りたことのある
本だが、そのときは、「知の技法」とかのシリーズで話題になった人物
がどういう研究をしているのか少し関心をもっただけだったので、結局、
ぱらぱらとページめくって見ただけで、読まずに返却してしまった。
今回、借りてきてまだ途中までしか読んでいないが、このスレで日本語の
「あを(青)」という表現について書いてきたこと(例えば、>>216)と
重なるようなことが論じられているので興味深い。それでも、この著書
は、主として美術において色として用いられてきた「青」について
語っており、日本語の「あを(青)」という表現そのものは問題にしていない。
ここで論じてきたように、日本語の「あを(青)」が言葉としてどのような
表現であるのか自体を問題として念頭においておくことは、
「こういう『青』もある」、「ああいう『青』もある」という議論に
より、「青」をさまざまに形容するように導かれる、つまり、対象として
の「青」を分類するというような思考回路にはまる罠を回避するのに
役立つだろう。

239:考える名無しさん
22/04/08 09:48:29.34 0.net
『青の美術史』を読み終(を)へた。
この著作は、美術史において現れた様々な「青」という色(いろ)について
語る体裁をとってはいるが、それでもそこから何らかの結論めいた
ものを導き出すとすればやはり、「青」の「青(あを)さ」を追求すると、
結局のところ、日本語においてその語源として想定することができる
「あを(青)」≒「不特定に離れた空虚」に消える、ということに行(ゆ)き
着くほかないのではないだろうか。
「『青(あを)』の『青(あを)さ』は、消失点としての"null"と広大無辺さと
しての"void"の間に消えゆく(むしろ、古語のとおり、「消ゆ」と表現
されるべきだろう)」、そのように「青(あを)」を発散させる方向で
この著作を読むことは、美術史におけ「青(あを)」の様々な具現化を、
特定の「青色」の分類として収束させる方向で読むことと対比して、
著者の論述の意図に反することになるわけではないだろう。

240:考える名無しさん
22/04/08 10:04:07.32 0.net
>『青(あを)』の『青(あを)さ』は、消失点としての"null"と広大無辺さと
しての"void"の間に消ゆ<
このことは、円周率πという「比率(ration)」をあくまでも追求してゆくなら、
それを数値として表現するための「数値のひと(等)しさ」である"1"、即ち、
「単位」の不在に「単位」が消えゆくほかないこと、つまり、言い換えるなら、
「『単位である1(ひと)の不在』にあくまでも単位が消ゆことが円周率π」
であるのと同様だろう。

241:考える名無しさん
22/04/08 10:50:44.82 0.net
>そして、疑いなく青は、その光と闇とがぎりぎりでせめぎあうその境界
の色なのです。それは「生の彼方」を指示する。しかし、同時に、
「生への回帰」をも指示する。極限の空間において、青は人間の徴なのです。<
これを書いたとき、著者は40代の終わりだったという。これが書かれたとき
からもう30年は過ぎただろう。今、著者が「青(あを)」を再訪するとしたら、
同じような思ひを抱くだろうか。ピカソの青のように「境界の色」に自らが
染まっているような感覚であれ、それが「色(いろ)」として具現化するので
あれば、確かに、それは自らが生の「彼方(あなた)」ではなく
「此方(こなた)」にいることの「徴(しるし)」だろう。
しかし、「青は人間の徴なのです」という表現には、私はニーチェが批判する
意味での「ニヒリズム」を感じざるを得ない。

242:考える名無しさん
22/04/08 10:58:22.60 0.net
URLリンク(www.lyrics.com)
En Valledupar yo canto
Versos de mi inspiración
Si algún día sufro un desengaño
Me voy lejos de esta región
Como pájaro que vuela alegre
Y aunque viaja herido no lo encuentran
Y que en la inmensidad se pierde
Como si lo llevara la pena
Pa´ que cantar el sufrimiento
Cuando el amor sufrir no deja

243:考える名無しさん
22/04/08 11:05:01.01 0.net
人(ひと)は、「生への回帰」を志向する限りにおいて、「生の彼方(あなた)」に
あこがれるとしても、「此方(こなた)」で"mientras tanto"「を」、
"meanwhile"「を」生きている。

244:考える名無しさん
22/04/08 11:13:39.12 0.net
>>240
誤:「比率(ration)」
正:「比率(ratio)」

245:考える名無しさん
22/04/08 11:35:15.05 0.net
>>242
この歌詞を引用したのは、無論、その言語表現が、想定される日本語の
「青(あを)」の語源にも対応するような感覚を、色としての「青」に
対応する表現も、「空(そら)」という物象化された表現も用いることなく、
「あたかもいた(傷)み抱えていないかのように彼方に飛び去って
広大無辺さのなかに消えゆく鳥の姿」として如実に伝へているからで
あるが、"sufrir un desengaño"という表現の語法的な二重性も興味深い。

246:考える名無しさん
22/04/08 11:56:53.52 0.net
スペイン語で"engañar"という動詞は、一般に「騙す」、「欺く」、「惑わす」
などを意味するように用いられる。その名詞形が"engaño"であるが、こちらは
「騙し」、「欺き」、「惑わし」に対応するような用法もあるが、むしろ、
「思い違い」、「勘違い」、「錯覚」などを表現するように用いられることが
多いようである(小学館、『西和中辞典』)。"desengaño"の"des"は、
その逆を示すが、歌詞の"sufrir un desengaño"は、「思ひが叶わずに失恋
する」こととして、日本語の「夢破れる」に対応するような表現ではないか
と思う。だが、日本語でも、「夢破れる」ことは、そもそも最初から、
必ずしも現実可能な夢を抱いていたかどうかとは無関係であるように、
"desengaño"は、「幻滅」、「失望」を意味するだけでなく、「〘複数形
で〙(苦い経験から得た)教訓」、「悟り」、「迷いから覚めること」を
意味するようにも用いられるとされる(小学館、『西和中辞典』)。

247:考える名無しさん
22/04/08 12:02:59.84 0.net
>「青は人間の徴なのです」という表現には、私はニーチェが批判する
意味での「ニヒリズム」を感じざるを得ない。
私がそのように感じるのは、「青は人間の徴なのです」という表現に、
「夢破れる」ことについて"desengaño"が伝へるような二重性の
自覚の可能性を感じられないからだろう。

248:考える名無しさん
22/04/08 12:40:47.34 0.net
事実誤認の訂正
>>242
誤:もう30年は過ぎただろう
正:四半世紀近くは過ぎただろう

249:考える名無しさん
22/04/08 13:10:11.07 0.net
>青は人間の徴なのです
「青(あを)」が指示しているのは、むしろ、それがどのような事象であれ、
「できる」ことの背景としていつでもつねにそこに「な(無/亡)い」もの
としてそこに「あ(在)る」「そら(空/虚)」ではないのか。

250:考える名無しさん
22/04/08 13:14:10.51 0.net
底なし

251:考える名無しさん
22/04/08 13:32:30.80 0.net
感想文の根拠は観念である

252:考える名無しさん
22/04/08 14:27:05.96 0.net
レス番号間違えていた
>>241
誤:もう30年は過ぎただろう
正:四半世紀近くは過ぎただろう

253:考える名無しさん
22/04/09 15:09:32 0.net
>>147
>折角、面白い非標準の形の問ひを示してあげたのに
どれのこと?

254:Out of the Blue
22/04/09 19:32:11.03 0.net
>>249
青天の霹靂

255:考える名無しさん
22/04/09 20:11:51.71 0.net
>>216
理路はまったく別だが、人はやはり同じような発想をするものだね。
検索していて、新たに発見した。
URLリンク(baba72885.exblog.jp)
>谷川健一は沖縄にある「奥武(おう)」に注目し、「奥武」は「青(あお・おう)」であり、
死者の埋葬地に由来する地名であるとした。<

256:考える名無しさん
22/04/10 12:09:49 0.net
Wikipediaによると、
「阿武隈(あぶくま)川」の「あぶくま」は、
>『延喜式』には「安福麻」、『吾妻鏡』には「遇隅」とあるため、
古くは「あふくま」と呼ばれていたが、中世以降になると逢隈川、青熊川、
大熊川、合曲川などの用字が見え、「おおくま」と呼ばれるようになっていた。<
とのこと。

私には、この「あふくま」も、もとは「奥/青(あを)隈」であった可能性が
考えられるのではないかと思える。むろ、「あをくま」が「あふくま」に
変化することは不自然だが、「奥/青(あを)隈」の発音が不吉なので、
「あふくま(安福麻)」と変えて呼んだ可能性は、「葦(あし)」→「葦(よし)」
の関係を考えると、あり得ないことではない。

257:考える名無しさん
22/04/10 12:10:48 0.net
誤:むろ、
正:無論

258:考える名無しさん
22/04/11 10:32:17 0.net
>>219考える名無しさん2022/04/03(日) 17:37:48.380
>日本語における「を」は、まずなによりも、そこ(発声する身体)に
「空虚」があることを「を/wo」という発音を声にすることによって
指し示す行為である。<

私は、これまで、日本語において再帰表現を形成するのに用いられる
「~ふ」が、「~」によって表現される作用/動作/様態を「ひっくり返す」
メタ言語的な指示として用いられることから、それがちょうど数式、
x^-1=1/xにおける指数の"-1"のような役割をするように使はれている
と指摘してきた。同様に数学を隠喩として用いるなら、日本語における
「を」は、それが感覚として空虚を示すことにおいて、日本語の表現を
組織化するうえで、数学におけるオイラーの等式、e^iπ=-1のように
中核的な役割を果たしている。したがって、実際の発音において「を」
は「お」と区別がつかないのだから、「お」にまとめて日本語を
「合理化」しようなどというのは、数学の表現において必要なのは
プラスとマイナスの区別だけで、e^iπ=-1における"e^iπ="は不要である
とするような暴挙だろう。ある正の整数が存在するとき、それが
どのような整数であれ、その存在には、e^2iπ=1が隠れているように、
何かの事象がそこにあるとき、それはつねにすでに「を」の呼応関係
(を・を)として成立している。だからこそ、そこにあるものが失われ
ゆくとき、その存在を「を(惜)しむ」感覚、すなわち、「~を」という
感慨を生じるのだろう。

259:考える名無しさん
22/04/12 09:17:10 0.net
ここでおもしろい実験をしてみよう。日本語において「こ」、「そ」、「あ」の
ように指示詞としても用いられる、不特定に離れている様態を表現する「あ」を
動作に用いると、「ある」となる。この「あ(在/或)る」は、英語にするなら、
"be around"を表現するものと解釈できるが、「~ふ」を用いて再帰的に「あふ」
と表現すると、英語の"encounter"、"meet"、"match"に対応するような動作を
表すようになり、「不特定に離れている様態」が「~ふ」によって
「ひっくり返される」ことが分かる。特定されるように離れている様態を
表現する「そ」についても、「そ(反)る」(≒"deviate")と「そ(沿)ふ」
(≒"go along")の関係をみれば、「~ふ」が「ひっくり返す」ことの指示として
働いていることが確かめられる。 ここまでは、既に以前から繰り返し説明して
きたことである。

260:考える名無しさん
22/04/12 09:46:58 0.net
ここで実験してみようというのは、「を」についてである。それを
「実験」と呼ぶのは、日本語において「を」の発音が、その発声によって
「空虚」を指し示す行為であるなどという指摘は、私以外に他の誰も
していないように思われるからだ。この認識は、私の無知によるもの
である可能性はあるが、それは別にどうでもいい。要するに、ここで
踏まえておくべきことは、そのような前提そのものが、広く一般に
正しいものとして受け入れられている理解ではないということである。

261:考える名無しさん
22/04/12 10:11:38.19 0.net
さらに、「~ふ」が再帰表現を形成するという考えそのものが、国語学、
言語学、日本語学のいずれにおいても明示的に否認されており、これも
一般に受け入れられているものではない、私の解釈に独特のものである
ことにも留意する必要がある。
さて、これらのことを踏まえたうえで、「を」の再帰表現について考えて
みよう。それは「を(終)ふ」についてである。「を(終)ふ」は、「~ふ」
という形式の動詞なのだから、「~ふ」が再帰表現を形成するとするなら、
当然、「を(終)ふ」も再帰表現として解釈されるはずである。しかし、
「あ(在/或)る」と「あ(合/会/遭)ふ」や「そ(反)る」と「そ(沿)ふ」の
場合とは異なり、「を(居)る」にしても、「を(折)る」にしても、
その「を」をどのように「ひっくり返して」みたところで、「を(終)ふ」
が導き出されるようには思へない。実際、「を(居)る」や「を(折)る」に
用いられる「を」は、「空虚」を指し示しているのではなく、「ゐ(圍/威)」
の作用がもたらす効果に対応するものだろうと私には思える。

262:考える名無しさん
22/04/12 10:35:59.77 0.net
では、「を(終)ふ」は、それでもやはり形式上は(私の独特の解釈によれば)
再帰表現を形成しているはずであり、「~ふ」によって「を」によって表さ
れる作用/動作/様態を「ひっくり返す」ことの指示に従うはずなのだから、
「を」を発声する行為によって指し示される「空虚」を「ひっくり返す」
表現なのだろうか。しかし、そもそも、「空虚」の指し示しを「ひっくり返す」
などということが「意味を成す」のだろうか。
>>258で、数学記号を喩えに用いて、「~ふ」を指数関数において指数と
して用いられる場合の"-1"に、また「を」が「空虚」を指し示すことを、
オイラーの等式である"e^iπ=-1"になぞら(擬)へたことを思い起こそう。
だが、ここで、ご都合主義的な数学記号の濫用により、似非数学的に
「を」によって指し示される空虚を"-1"と見なし、「~ふ」を指数の
"-1"と見なして、"(-1)^-1"を考えてみたところで、"(-1)^-1=1/-1=-1"
であり、結果としてもたらされるのが"-1"であるならば、"-1"=「空虚」
ということになり、この関係性は、呼びかけの「を」に対する応への
「を」の関係の隠喩としては役に立ちそうな気もするが、「を(終)ふ」
という表現の解釈を導き出すのには役立たないだろう。

263:考える名無しさん
22/04/12 11:00:04.09 0.net
しかし、言語表現の解釈は、数学操作ではない。ある意味では説明に便利な
似非数学の利用も、それを数学操作によって導き出される形式に解釈を
縛り付けようとするなら、数学操作との整合性を優先するご都合主義の
辻褄合わせとなって、むしろ、解釈の手枷、足枷としかならない。
「を(終)ふ」の解釈を、似非数学操作の問題としてではなく、「『を』を
発声する行為によって指し示される『空虚』を『ひっくり返す』」ことは
可能か、という問ひとして見るなら、「それは直ちに可能だろう」と
私は応へることができる。なぜなら、言語表現において「空虚」とは、
「完全な欠落」なのだから、それを「ひっくり返す」ことによって
もたらされるのは、"(-1)^-1=1/-1=-1"ではなく、 「満腔」≒
"fullness of the entirety"だからである。ところが、古語における
「を(終)ふ」という表現の用法を見ると、直ちに、それが"to complete"
や"to accomplish"に対応するような意味でつか(使/仕)はれていることを
確かめることができる。さらに、漢字としての「終」そのものも、
「終日」という表現み見られるように、英語の"entire"に相当するように
用いられる。ここで、英語の"complete"の語源的な説明を参照すると、
以下のとおりである。
URLリンク(www.etymonline.com)
complete (v.)
late 14c., "make complete, bring to an end, supply what is lacking;
fulfill, accomplish," from complete (adj.) and probably in part from
Latin completus. Related: Completed; completing.
つまりは、英語の語源説明と対応させてみても、「を(終)ふ」は、
「を」によって指し示される「空虚」/"what is lacking"を「ひっくり返す」
ように働いていることになる。

264:考える名無しさん
22/04/12 11:05:34.32 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3500番
>牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 祢乎遠敝奈久尓
>紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに
>むらさきは ねをかもをふる ひとのこの うらがなしけを ねををへなくに

265:mission complete
22/04/12 11:18:58.74 0.net
説明を(終)はりw

266:考える名無しさん
22/04/12 14:47:01.87 0.net
意味を追求すると、どこかで必ず破綻し、意味づけすることが出来なくなる
袋小路だ

267:考える名無しさん
22/04/12 16:05:03.87 0.net
意味付け自体に意義を求めていると本質は見失われるからね

268:考える名無しさん
22/04/13 13:42:29 0.net
片桐はいり

269:考える名無しさん
22/04/13 13:44:26 0.net
背理法?

270:考える名無しさん
22/04/13 16:14:50.00 0.net
意味なんてやめよう

271:考える名無しさん
22/04/13 17:06:41.11 0.net
言語表現の解釈は、数学操作ではないが、表現の関係性を説明するのに
数学の隠喩はとても便利だ。「を」の発声が「空虚」を指し示すことを、
オイラーの等式である"e^iπ=-1"になぞら(擬)へるとするなら、
「酒の友」である「さかな(肴/魚)」として現代の日本語にその名残りを
とどめる一人称/二人称として反転可能な「な(己/汝)」の関係性は、
虚数、すなわち、i=(-1)^(1/2)に喩えることができる。なぜなら、
「な(己/汝)」の関係性は、君/僕の関係とは異なり、「空虚」を指し示す
呼びかけの「を」に対して、その「空虚」を確認する応への「を」に
よって呼応関係を成立させることで、それが反転可能なものであると
しても、君(主)が(従)僕を「を(治)す」ような主従関係を確立する
ものではないからだ。そうではなく、「な」は、それが己を指すように
用いられるにせよ、相手を指すように用いられるにせよ、互いが
よ(依/撚)り合ふことで「を(緒)」となるものとする、「己/汝」を
「かたいと(片糸)」に見立てて相補性を求める呼びかけだからである。
したがって、「を」を英語の"want"やフランス語の《vouloir》に
対応するものとするなら、「な(己/汝)」の心は、呼びかける相手の
「な(己/汝)」の心がそれによ(依/撚)り合ふことがないなら、
「を(緒)」になることすらなく、フランス語を用いるなら、
《velléité》に留まるからである。と同時に、互いによ(依/撚)り合ふ
ことがかな(叶)ふなら、それは互いに対する「いとを(糸惜)しさ」
となる(「糸惜(いとを)し」という表現が、一般には、より古い
文献に残る「いとほし」の発音からの変化であると解釈されるに
してもである)。このことは、「な」の関係性をi=(-1)^(1/2)に
なぞら(擬)へるなら、「な(己/汝)・な(己/汝)」=i^2=-1=「を(緒)」
となる関係として見ることができるだろう。

272:考える名無しさん
22/04/13 17:13:30.56 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第11巻 2791番
>原文 片絲用 貫有玉之 緒乎弱 乱哉為南 人之可知
>訓読 片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく

273:考える名無しさん
22/04/13 17:27:25.62 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第20巻 4418番
>原文 和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛
>訓読 我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも

274:考える名無しさん
22/04/13 17:48:25.10 0.net
>>271
「な(己/汝)」における互いによ(依/撚)り合ふ関係性は、反転可能な君(主)と
(従)僕の(すなわち、二人称と一人称の)共依存の関係性ではなく、云はば、
虚数人称の相補性である。

275:考える名無しさん
22/04/14 08:15:45.93 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第20巻 4332番
>原文 麻須良男能 由伎等里於比弖 伊田弖伊氣<婆> 和可礼乎乎之美 奈氣伎家牟都麻
>訓読 大夫の靫取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻
>かな ますらをの ゆきとりおひて いでていけば わかれををしみ なげきけむつま
「すら」、「を(wo)」、「ゆ(yu)き」、「い(yi)で」、「わ(wa)か(離)れ」、
「を・を(惜)しみ/をを(雄々)し」、この歌で用いられる発声が互いに
どのような関係性において表現のイメージを想起させるのかに注目するので
なければ、この歌が詠んでいるのは、ただ単に「任務で出てゆく夫との別れを
妻が嘆いた」というだけのことになってしまい、なぜそれが巧みな歌として
選ばれているのかまったく不明となってしまうだろう。

276:考える名無しさん
22/04/14 08:25:45.02 0.net
>言語表現の解釈は、数学操作ではないが、表現の関係性を説明するのに
数学の隠喩はとても便利だ。<
言語表現に数式による計算を当てはめるて解釈を導き出すような似非数学が
無効であるにもかかわらず、言語表現を似非数学を用いて考えることは、
依然として有効である。その理由そのものをしっかりと言語化して考えて
みることが大切だろう。でなければ、「そんなものは数学ではない」という
数学側からの、また「言語表現は数式ではない」という国語側からの、不毛
で的外れな批判が繰り返されるだけだ。似非数学モデルが有効な理由には、
言語表現の生成における理性と感性(の節約)の関係がかかわっている。

277:考える名無しさん
22/04/14 08:35:44.92 0.net
な(萎)え、なやみ、なほ、なほり、わかれ、ををしなどが互いにどのような
関係にあると考えることができるのかについて、また後で書き込むことにする。

278:考える名無しさん
22/04/14 08:37:49.15 0.net
誤:当てはめるて
正:当てはめて

279:考える名無しさん
22/04/14 10:00:40.36 0.net
>265mission complete2022/04/12(火) 11:18:58.740
>説明を(終)はりw
時代、社会、言語の違いにもかかわらず、
この歌で詠まれている「事し終(をは)らば」は、"mission complete"そのものだろう。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第20巻 4331番
>事し終らば つつまはず 帰り来ませと

280:考える名無しさん
22/04/14 10:12:05.19 0.net
>>277
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第14巻 3533番
原文 比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
訓読 人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
かな ひとのこの かなしけしだは はますどり あなゆむこまの をしけくもなし
例えば、この歌に詠まれているイメージを適切に解釈するためには、「なゆむ」と
「をし」がどのような関係にあるのかを考えることが欠かせないはずである。

281:考える名無しさん
22/04/14 10:25:26 0.net
>>279
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第20巻 4331番
>我伎氣遠 麻知可母戀牟 波之伎都麻良波
>ながきけを まちかもこひむ はしきつまらは

この歌においても、「を」の呼応関係によってもたらされる主従関係と
「な」が想起させる相補性の関係の対比をはっきりと見てとることができるだろう。

282:考える名無しさん
22/04/14 10:29:17 0.net
誤:我伎氣遠
正:奈我伎氣遠

283:考える名無しさん
22/04/14 14:05:49.80 0.net
>>276
人の話す言語の表現が、弁別される限られた発音から構成される発話に
よって意図を伝へるものである以上、当然、そこには感性の働きを
節約しようとする理性が強く働いている。仮に限りない多種多様な
表現ごとに別々の発音が割り当てられて、その都度、それらの発音
を弁別できなければ、その表現により伝はるはずの意図が不明と
なってしまうのであれば、人々は言葉を使ふとき感性をつねに
最大限に働かせていることを要求されることになってしまうだろう。
理性は、その都度に働かせられることになる感性を節約しようとして、
表現の意図を知るのに弁別されるべき発音を「数量的」にまとめて
しまうのだから、その働き自体が「数学的」であるということができる。
無論、そのことは、理性が、言語表現を数量として認識して、
数式によって処理しているというようなことを意味しているわけではない。
それでも、例えば、私が説明したとおり、日本語の「を(終)ふ」という
表現が、「を」の発音が、その弁別性において「空虚」を指し示す
ように用いられているという認識と、「~ふ」が「~」を「ひっくり返す」
ことを伝へる指示として用いられているという認識を組み合わせること
により、「空虚」が示されることから「満腔」がもたらされることを
表現するように「を」の使い方を反転させていると考えるなら、
これは、弁別される必要のある発音の大きな節約となり、この
「ひっくり返す」操作は、それを数式として表現することが
似非数学にしかならないとしても、極めて「数学的」であると言う
ことができるだろう。

284:考える名無しさん
22/04/14 20:15:39.06 0.net
日本語の「~ふ」は、その「ひっくり返す」という指示が多様に解釈
されることから、フランス語の《retourner》という動詞の用法に
対応させて考えてみることができる。例えば、手袋を「ひっくり返す」
/《retourner》という指示が、手袋を「裏返しにする」ことを意味する
ように。

285:考える名無しさん
22/04/14 20:31:34.60 0.net
>>271
>互いによ(依/撚)り合ふことがかな(叶)ふなら、それは互いに対する
「いとを(糸惜)しさ」となる(「糸惜(いとを)し」という表現が、一般には、
より古い文献に残る「いとほし」の発音からの変化であると解釈されるに
してもである)。<
括弧内に注記を入れたのは、この場合も私の説明が「いとをし」という
表現についての国語学における定説に「違反する」ものだからである。
では、私の説明は、文献的に何の根拠もない勝手な憶測に過ぎないのだろうか。
しかし、私には、そのようには「感じられない」。「感じられない」と
表現したのは、それがまさしく解釈の「感性」の問題であると私には思われる
からだ。例えば、『万葉集ナビ』のサイトで「いとを」をキーワードにして
検索すると次の4つの歌がヒットする。それぞれの「いとを」がどのように
解釈することが妥当であるのか考えてみるといい。

286:考える名無しさん
22/04/14 20:34:29.15 0.net
万葉集 第10巻 1987番
原文 片搓尓 絲S曽吾搓 吾背兒之 花橘乎 将貫跡母日手
訓読 片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて
かな かたよりに いとをぞわがよる わがせこが はなたちばなを ぬかむとおもひて
万葉集 第10巻 1856番
原文 我刺 柳絲乎 吹乱 風尓加妹之 梅乃散覧
訓読 我がかざす柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
かな わがかざす やなぎのいとを ふきみだる かぜにかいもが うめのちるらむ

287:考える名無しさん
22/04/14 20:35:57.83 0.net
万葉集 第7巻 1340番
原文 紫 絲乎曽吾搓 足桧之 山橘乎 将貫跡念而
訓読 紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
かな むらさきの いとをぞわがよる あしひきの やまたちばなを ぬかむとおもひて
万葉集 第7巻 1316番
原文 河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也
訓読 河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや
かな かふちめの てそめのいとを くりかへし かたいとにあれど たえむとおもへや

288:考える名無しさん
22/04/14 20:42:36.40 0.net
それにしても、「絲乎 絡反 片絲」という漢字の表記そのものがとても
興味深くないだろうか。私には、あたかもそれが「DNA二重らせん構造」
を先取りしているかのような印象を受けるw

289:考える名無しさん
22/04/14 20:43:54.23 0.net
誤:印象を受ける
正:印象が生じる

290:考える名無しさん
22/04/15 10:49:08.60 0.net
>>285-287
これらの歌の原文を参照すると、「いとを」という表現における
「いと」は、漢字として「絲」と表記されている。中国語の漢字として
「いと」を表すのにもともと使われた漢字が「絲」であり、現代の
日本語において「いと」に当てられている「糸」は、その簡略化に
過ぎないのだから、当たり前ではないかと思われるかもしれないが、
これらの歌が想起させる関係性をイメージするのに、「『いと』を」の
「いと」が現代漢字の「糸」ではなく、「絲」であることに気づく
ことはとても大切なことである。なぜなら、「『いと』を」の「いと」
が「絲」として表象されていることに気づいて初めて、縒り合はされて
「絲」をな(成)す片側である「かたいと(片絲)」が「糸」として
イメージされることになるからだ。すると、「絲(いと)」が乱れる
ことも、縒り合された「糸・糸」の関係が「『ゆ』るみ」が生じて、
「糸」+「糸」に分かれて、「緒(を)」として互いを「つなぎ留める」
(引きつける力の働きとしては、"-1"に喩えることができる)はず
の「絲(いと)」が容易に「た(絶)へ」しまうことの懸念として
イメージされることになる。ここで、「いと(絲)を」の「を」
がそのような「緒(を)」を想起させるものであることは、
第10巻1987番の「花橘を(乎)」および第7巻1340番の「山橘を(乎)」
が「緒(を)」によって「玉を貫く」イメージを想起させる表現である
ことからも明白である。ちなみに、「山橘」とは、現代では「万両」
と呼ばれる植物のこととされるので、「万両」がどのような姿で
あるか画像検索してみるといい。

291:考える名無しさん
22/04/15 11:14:41.13 0.net
「絲(いと)乎(を)」の「~を」は、既に繰り返し述べてきたとおり、その根本に
おいて「を」の発声によって「空虚」を指し示す行為であり、その指し示しが
感嘆として用いられ、その感嘆が呼びかけの「を」として応用され、呼びかけが
指し示す「空虚/欠如」に気づかされることによって、それに応へる「を」と
なる。したがって、「絲(いと)乎(を)」は、「水を」がそうであるように、
「絲(いと)」が「欠如している」ことの指し示しであり、「な(己/汝)」
(これもすでに以前から繰り返し指摘するとおり、日本語における「な」は、
フランス語の《entrelacer》に対応するように用いられており、「羅」の
発音を変化させた流用であると考えることができる)が「片絲(かたいと)」、
すなわち、縒り合されるべき「糸」である自己または相手を指すように
用いられるとすれば、その場合、「欠如している」は、「絲(いと)」の
全体ではなく、「糸・糸」の状態である。ここで「・」は似非数学的な
喩えとして「かけあはせ」の操作を意図しているが、そのように考える
ことは、似非数学としてだけでなく、言語表現としても適切だろう。
なぜなら、例えば、「綿」の「糸」と「ナイロン」の「糸」を
縒り合せて「絲(いと)」にすることは、「綿」の「糸」と「ナイロン」の
「糸」の性質の足し算としてより、その掛け算として捉えられるだろう
からである。これは、植物の品種/遺伝子のかけ合はせを考える場合でも
同様だろう。

292:考える名無しさん
22/04/15 11:42:38 0.net
第14巻3533番歌
>比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
>人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
>ひとのこの かなしけしだは はますどり あなゆむこまの をしけくもなし

「なゆむ」は、岩波古語辞典では、「なやむ」の上代東国方言であると
されている。そう考えることが妥当であるかどうかは別として(私には、
それを検証する材料が今のところない)、いずれにしても、この「なゆむ」
が「なやむ」や「なえ」や、現代語の「なよなよ」に関連していること
には疑いの余地がないだろう。このことから分かるのは、「な(萎)え」
の発音に実際に反映されるかどうかにかかわらず、「な(萎)え」の
「え」も「ye」としてイメージされていることであり、そう考えるなら
「なゆむ」の「ゆ」は、それを表現するのに「由」という漢字が使われる
ことにも反映されるとおり、やはり、英語の"loosen"に相当するような
作用を伝へていると推測することができる。「な」≒《entrelacement》
が「ゆるむ」ことによって「な(萎)え」が生じると考えることにも
整合性があるだろう。掛け合はされた「絲(いと)」において、
「な」≒《entrelacement》が「ゆるむ」なら、「絲(いと)」の状態が
そこ(損)なはれるのだから、「絲(いと)乎(を)し」さ/「愛をし」さが
生じるだろうが、早く我が子のもとに戻りたいという気持ちと比べれば、
馬の脚がそこ(損)なはれることは「を(惜)し」くもない。

293:考える名無しさん
22/04/15 11:51:40 0.net
「花橘を」と「汝(な)が」に注目して、以下の歌を読んでみるといい。

URLリンク(manyoshu-japan.com)
第13巻 3239番
>近江の海 泊り八十あり 八十島の 島の崎々 あり立てる 花橘を ほつ枝に
もち引き懸け 中つ枝に 斑鳩懸け 下枝に 比米を懸け 汝が母を 取らくを知らに
汝が父を 取らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩と比米と
>あふみのうみ とまりやそあり やそしまの しまのさきざき ありたてる はなたちばなを ほつえに
もちひきかけ なかつえに いかるがかけ しづえに ひめをかけ ながははを とらくをしらに
ながちちを とらくをしらに いそばひをるよ いかるがとひめと

294:考える名無しさん
22/04/15 12:00:43 0.net
URLリンク(ja.wikipedia.org)カリグラム

ギヨーム・アポリネールが『カリグラム』(Calligrammes。1918年出版)
で試みたようなことを、日本語はその形成過程において最初から、
はるかに徹底的にやっている。

295:考える名無しさん
22/04/15 12:07:33 0.net
>「な」の関係性をi=(-1)^(1/2)になぞら(擬)へるなら、
「な(己/汝)・な(己/汝)」=i^2=-1=「を(緒)」となる関係として見ることが
できるだろう。<

このような似非数学をモデルとして用いることも、それを公式として当てはめて
言語表現として解釈しようとするような愚行に陥るのでなければ、それなりに
役に立つことを多少は理解してもらえただろうか。

296:考える名無しさん
22/04/15 14:04:46.54 0.net
ところで、ここでひとつとても奇妙なことに気づく。
それは、上に引用した万葉集 第10巻 1987番において「いとを」に
対応する原文の表記である。私は万葉集ナビの表記をそのまま
貼り付けただけだが「いとを」の原文は「絲S」と表記されている。
無論、「S」というアルファベットは意味をなさない。このサイトの
どこかに注記があるのかもしれないが、なぜ「S」と表記されているのか、
その説明はすぐには見当たらない。そこで、万葉仮名でこの歌の
「絲(いと)S(を)」に対応するものとしてどのような漢字が用いられて
いたのか検索してみると、「絲叨」という表記がヒットする。
つまり、「を」を表すものとして「叨」が使われていたものとされて
いる。ところが、私が便利によく利用されてもらっている万葉仮名一覧
のサイトで「を」の表記を調べても、そのリストに「叨」という漢字は
含まれていない。その一方で、万葉ナビのサイトで「S」をキーワード
にして検索すると、いくつかの歌で「を」に対応する原文箇所が「S」
と表記されているので、確認してはいないが、この「S」は、「叨」
に対応するように当てられているのではないかと推察される。
しかし、本当に不思議に思われるのは、ここからだ。

297:考える名無しさん
22/04/15 14:20:07.94 0.net
>>286-287に引用した他の3つの歌では、「いとを」は、「絲乎」と表記
されており、「~を」の用法の「を」が万葉仮名において「~乎」と表記
されるのは一般的なことであり、「を」を呼び声と見なすなら、「口・乎」
で「呼」という現代の日本語でも普通に使われる漢字になるので、
イメージ的にもうまく合っている。しかし、「叨」は、現代の日本語では
見かけることのまずない漢字であり、検索してみると、
>叨の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア
>①むさぼる。 ②みだりに。 かたじけなくも。 おかげをこうむる。
という説明が最上位でヒットする。
「叨」という漢字の用法の説明であるこれらの記載が、「~を」の用法に
どうもあまりうまく適合するように感じられないとしても、万葉仮名は、
発音を表記するための当て字として用いられるので、それ自体は特に不思議な
ことではない。だが、「叨」をWiktionaryで参照すると、その中国語に
おける想定される中古音は、"Middle Chinese: /tʰɑu/"であり、日本語の
「を」の発音からはかけ離れている。したがって、どのような理由でこの
「叨」という漢字が「~を」に当てられているのか、とても不思議に思える。

298:考える名無しさん
22/04/15 14:35:06.50 0.net
ここで、URLリンク(en.wiktionary.org)
の記載を詳細に参照すると、
>(ideophonic, of a person near death) gasping for breath; breathing heavily
という記載と、
>Alternative form of 饕 (tāo, “to be greedy for”)
という記載があり、これらの説明は、日本語の「を」が英語の"want"や
フランス語の《vouloir》に対応するように用いられるとする私の解釈には、
好都合であるようにも見える。しかし、私にとって好都合であるという理由
だけで、どのようにして「叨」という漢字が日本語の表記に取り込まれたのか
その経緯を推測させるこの漢字の用例の裏付けなしに、そのようなイメージ
で用いられたのだと考えることは、「我田引水」に過ぎないことになるだろう。
というのも、中国語においても「叨」は、英語の"talkative"に対応するような
使われ方をする方が多いようで、英語の"want"やフランス語の《vouloir》に
うまく対応するように用いられと見られるような表現は、見当たらないから
である。

299:考える名無しさん
22/04/15 14:50:10.33 0.net
なにか行き止まりにたどり着いたような感じもするが、そこでただちに私には、
アクロバット的な魅力のある解決策が思い浮かぶ。その手がかりは、やはり、
「叨」という漢字が「饕」の代替としても用いられたというWiktionaryの
記述にも求めることができる。日本語の古語では「統治する」ことは、
「をす」と表現されるが、この「をす」によく当てられる漢字は、
「食(を)す」である。この当て字も、私にはとても奇妙な印象をもたらす。
それは、一方では、「食べなければ生活できないのは確かだが、だから
といって、食べることがそれほどまで直接的に『統治する』ことを
想起させるものだろうか、という思いであり、他方で、「食す」の
「食」は、「を」の発音とは無関係ではないか、という思いである。

300:考える名無しさん
22/04/15 15:08:17.43 0.net
ここで、「~を」に当てられた漢字である「叨」が「饕」の代替として
用いられたという事実を考慮して、「饕」という漢字の構成に注目すると、
「饕」は、呼び声を表現する「号」(号令の「号」である)と「虎」を
組み合わせた「号・虎」が「食」の上に乗ったものとなっていることが
分かる。
URLリンク(en.wiktionary.org)饕#Chinese
URLリンク(en.wiktionary.org)號#Chinese
「食」/"food"を「虎」がその「号」によって「求めるもの」の換喩と
見なすなら、「饕」は、虎がその呼び声によって求めを伝えるイメージを
想起させることになる。したがって、「叨」が「饕」の代替として用いられ
たとしたなら、「食(を)す」という表記も、本当は「饕(を)す」と表記
すべきところを簡略化したものなのではないかという疑念が浮かぶ。

301:考える名無しさん
22/04/15 15:33:17.84 0.net
さて、日本語で「~を」の「を」を表記するのに用いられた「叨」もやはり、
「饕」の代替として用いられたとするなら、その用法にも「虎が餌を求めて
吼える」ような「号・虎」の呼び声のイメージを想起させたと考えることが
できる。ここであることに気づく。それは、「叨」を「①むさぼる」、
「②みだりに」というイメージにではなく、呼び声に関連付けることで
ただちに思ひ浮かぶ「文字通り」のアクロバット的な転換の可能性である。
私がこれまでに、日本語の「を」を説明するのにどのような漢字を当てて
きたか思い出してもらいたい。私は、「梅を『をく』」という表現に
おいても、「統治する」ことを「をす」という表現においても、この
「を」の用法のイメージを伝えるのに都合がよいのは、規範的に
それに当てられることになっている「招(を)く」や「食(を)す」ではなく、
「召(を)く」であり、「召(を)す」であると説明してきた。ここで、
「召」と「叨」を比べて見ると、「叨」は、「召」の縦を横にした
だけであることに気づく。つまりは、統治者が「を(食)す」/
「召喚させる」呼び声には、虎が餌を求めるような呼びとしての
「を/叨/饕」が隠れていることになるだろう。

302:さを(食)しか
22/04/15 15:49:32.46 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
乞食者<詠>二首
>いとこ 汝背の君 居り居りて 物にい行くとは 韓国の 虎といふ神を
生け捕りに 八つ捕り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳<
>老いたる奴 我が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと
申しはやさね 申しはやさね<

303:考える名無しさん
22/04/15 23:43:09.11 0.net
>>296
誤:利用されてもらっている
正:利用させてもらっている

304:考える名無しさん
22/04/16 00:40:31 0.net
「な」と「を」の関係は、次にように考えてみてはどうだろうか。

「な(己/汝)」を指し示すこと自体がそのまま「~を(緒)」/《vouloir》/
"consuming desire"となるわけではない。そうではなく、それぞれが
「片絲(かたいと)」、すなわち、縒り合ふことで「絲(いと)」となる
その片側である「糸」としての「な(己/汝)」を互いに「掛け合はせる」
ことによって強い「つながり」/「結合力」/"bonding"が生じ、それが
「~を(緒)」/《vouloir》/"consuming desire"となる。

例えば、「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」の関係で考えてみると、
そこに「酒(さけ)」があれば、「『肴(さか(酒)・な)』があればいいのにな」
という思ひが生じ、逆に、そこに「肴(さか(酒)・な)」があれば、
「『酒(さけ)』があればいいのにな」という思ひが生じるが、それは
まだそれが実現することに対する願望/《velléités》に過ぎない。
しかし、そこに「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」がともにあると、
それは、「酒(さけ)」と「肴(さか(酒)・な)」の「掛け合はせ」と
なって強い「つながり」/「結合力」/"bonding"が生じ、それが
「~を(緒)」/《vouloir》/"consuming desire"となる。

305:考える名無しさん
22/04/16 00:56:08.26 0.net
>第10巻1987番の「花橘を(乎)」および第7巻1340番の「山橘を(乎)」
が「緒(を)」によって「玉を貫く」イメージを想起させる表現である
ことからも明白である。ちなみに、「山橘」とは、現代では「万両」
と呼ばれる植物のこととされるので<
ところで、「『緒(を)』によって『玉を貫く』イメージを想起させ」て
歌に詠まれる「花橘」や「山橘」の別名が「万両(まんりょう)」である
とされること自体がとてもおもしろいことではないだろうか。
というのも、「両(りょう)」は、「双」と同義字であるとされ、
言うまでもなく、「ともにそろっている」ことを表す字だからである。
URLリンク(www.rinya.maff.go.jp)

306:考える名無しさん
22/04/16 08:25:21.37 0.net
>>301
これは、「『叨』という漢字が『饕』の代替としても用いられた」
というわずかな手がかりと、「饕」という漢字がその構成要素である
「食」において、「統治する」ことを意味する「をす」という表現に
当てられた「食す」と共通しているという事実により、私にはこの
ような連想が生じたというだけのことに過ぎない。では、このような
自分の感性を頼りにした勝手な連想による「憶測」を巡らせることは、
合理的な根拠を欠いているので、全くの無駄なのだろうか。
私は、そのようには「感じ」ない。というのも、そのように私が
勝手に感性を働かせて連想を展開したことが「無駄」であったかどうか
は、その連想によってもたらされた結果を検証する作業に取り組むまで
ははっきりしないからだ。そして、この場合については、私が長々と
憶測を巡らせたことは、検索してみると、そう無駄というわけでも
なかったようである。「饕」を「をす」と併せて検索してみると、
その結果としては何もヒットしなかったが、その代わり、古辞書
には、「饕」の訓読みとして「ヲシム」があったという事実が見出される。
URLリンク(kotobank.jp)饕(漢字)-2789511
[古辞書の訓]
〔名義抄〕饕 ムサボル 〔字鏡集〕饕・叨 カムガフ・タダス・ムサボル
・カタジケナシ・ムセブ・ミダリガハシ・クラフ・ミダル・ヲシム

307:考える名無しさん
22/04/16 08:34:27 0.net
逆方向で考えてみるといい。「饕」という漢字は、現代の日本語の用法では、
まず見かけることがない。偶々、「饕」に関して「古辞書の訓」にそれが
「ヲシム」とも読まれたというこの記述に出会ったとしても、私には、
その孤立した事実をどのように自分に役立てることができるのかさっぱり
分からないことになり、私の関心を引くことすらないだろう。この事実が
私にとても興味深いものに感じられるのは、私が憶測を働かせて、連想に
より表現解釈のネットワークを展開してきた結果としてである。

308:考える名無しさん
22/04/16 09:06:20.06 0.net
これを他人から見たらどうなるだろうか。私が提示している連想の
「合理的な根拠」は、万葉仮名として①「~を」に「叨」が当てられて
いる事例がある、②漢字として「叨」は、「饕」の代替として用いられた
事例がある。③古辞書には、「饕/叨」の訓のひとつに「ヲシム」という
記載が見られる。たったこれだけのことである。「合理的な根拠」に
則って文を解釈するという姿勢からは、私が展開したような言語表現の
解釈は生じようがないだろう。したがって、私の提示するような解釈
は、「根拠がない、またはまったく不足しているので意味がない」
という「合理的な判断」に基づいて全面的に切り捨てることが正当化
されることになり、実際、大多数の人々は、そのような「合理的な判断」
に従う「禁欲的」な態度を「正しい」ものとして自他に「強制する」の
である。しかし、そのような「合理的な判断」によってあらかじめ
切り捨てられることになるのは、「私個人の感性の働き」に過ぎない
のだろうか。「私個人の感性の働き」を切り捨てることによって、
言語表現の生成にもともと働いていたはずの「共通の感性の働き」
を知る可能性を探るという探求心そのものが切り捨てられることに
なってはいないだろうか。

309:考える名無しさん
22/04/16 09:13:30.97 0.net
可能性の探求は、多大な時間と労力を要するが、「合理的な根拠」に基づく
ものとされる「禁欲的な正しい態度」を示すことは、瞬時の「拒絶」で済む。
本当に「安易な姿勢」をとっているのは、どちらの側だろう。

310:考える名無しさん
22/04/16 10:27:08.47 0.net
「物象化」とはなんだろうか。
それは、まず何らかの「もの(物)」が存在し、その「もの(物)」に
特有の性質があることで、その「もの(物)」が何であるのかが
特定されるという事象の捉え方だろう。
例えば、和歌などの日本の古典の解釈を読むと、「を(緒)」が
典型的に物象化されて説明されている。そのような解釈では、
「を(緒)」が頻繁に表象として用いられる理由をうまく説明する
ことができず、物象化された「を(緒)」が、「短かった」り、
「た(絶)へ」たり、「乱れ」たりする性質を有し、「貫き通す」
のに用ひられ、「留める」のに使はれたりする「もの(物)」と
見なされている。しかし、日本の古典の言語表現がなぜそこまで
「を(緒)」に執着しているのかということについては、説明が
つかないままである。しかし、古典の専門家によるそのような
解釈は、まさしく物象化による「感性の麻痺」を示す事例に
他ならないのではないか。無論、和歌において「を(緒)」は、
「つなぎとめる物(もの)」として物象化されて「応用」されている。
だからこそ、解釈において問はれるべきは、その物象化された
「を(緒)」の性質などではなく、どのような感性の働きが
「を(緒)」として物象化されて表象されているかである。
貫き通して、つなぎ留め、身に引き寄せる「結合力を働かせる」
ことが「を(緒)」として物象化されて応用されているのであり、
その逆ではない。だから、「短い物(もの)」、「絶へる(もの)」、
「乱れる(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているだと
するような解釈は、物象化を優先する逆立ちである。

311:考える名無しさん
22/04/16 10:33:12.84 0.net
誤:「絶へる(もの)」、「乱れる(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているだ
正:「絶へる物(もの)」、「乱れる物(もの)」の象徴として「を(緒)」と表現しているのだ

312:ご都合主義とはなにか
22/04/16 15:29:29.81 0.net
なかなかおもしろいことに気づいたので、書き込んでおく。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第9巻1809番
>仰天 S於良妣
>天仰ぎ 叫びおらび
>あめあふぎ さけびおらび
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
>仰天 叨於良妣
>叨於良妣 昆地で、叨は口+刂の当字
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集第2巻 199番
>敵見有 虎可S吼登
>虎か吼ゆると
>とらかほゆると
第2巻199番の歌で「虎可S吼登」において、「S」に置き換えられて
いる文字もやはり、「口+刂」のように見える文字のようである。
しかし、第9巻1809番の場合とは異なり、読みにおいてはその不明の文字
は完全に無視されている。「口+刂」を「叫」という文字の代わりとして
「さけ(叫)ぶ」と読むことはできるが、虎が「さけ(叫)ぶ」とするのは
明らかに不適合で、そのような読みは不都合だからだろう。

313:考える名無しさん
22/04/16 15:37:41 0.net
不明な、または標準の漢字として表示されない万葉集に現れる文字については、
これに関連して、別のおもしろいことに気づいたので、後で書き込むことにする。
それは「ウグイス」の「ウ」であるとともに、「梅(ウメ)」の「ウ」とされる
「ウ」の発声についてである。

314:考える名無しさん
22/04/16 15:44:38 0.net
URLリンク(manyoshu-japan.com)
万葉集 第5巻 837番
>原文:波流能努尓 奈久夜s隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曽能尓 s米何波奈佐久
>訓読:春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く
>かな:はるののに なくやうぐひす なつけむと わがへのそのに うめがはなさく

315:考える名無しさん
22/04/16 16:51:23.33 0.net
>>312
私は自分の業績を評価してもらうために誰かに遠慮して、歯に衣を着せた
ような物言いをしなければならない立場にはないので、私の思ふところを
はっきりと書いておくことにしよう。「叨は口+刂の当字」としている
のは、実際に文献には「口+刂」のようにしか見えない文字で表記されて
いるのだから、「事実には違いない」が、考え方としては完全に倒錯である。
「『口刂』としてしか識別できないものとして書き写されている文字が
『叨』の当て字」であると考える方が妥当である。なぜなら、「口刂」
という文字は、古い文献に現れる文字を書き写す目的以外で未だかつて
通用する文字として存在したことがないからだ。なおかつ、「刂」そのもの
が、「利」の場合を見ると確認できるとおり、「刀」を簡略化した表記で
あるとされているのである。
URLリンク(en.wiktionary.org)
したがって、「叨」の写し間違い、または簡略化であると考えられる
「口刂」という文字を、「叫」という漢字として解釈することは、
「倒錯×ご都合主義による捏造」という操作をしていることになる。
そのような操作が実際の文献の解釈において破綻する、第2巻199番の
歌で「虎可『叨/口刂』吼登」の読みにおいて「叨/口刂」を無視する
ことしかできないことにも明確に表れているだろう。

316:考える名無しさん
22/04/16 16:53:35.33 0.net
誤:破綻する、
正:破綻することは、

317:考える名無しさん
22/04/16 22:21:13.63 0.net
>>315
ロリだろ?

318:考える名無しさん
22/04/17 01:24:28.39 0.net
>>313
いろいろしつこく繰り返し説明した後で、似たようなことを論述として
組み立てるのが少し面倒な気分になっているので、いつもながら私の
連想に基づいた連想による結論だけ簡潔に書き込むことにする。
引用したサイトの万葉集 第5巻837番歌で「s隅比須」(うぐいす)、
「s米」(うめ)と表記される、原文で「s」に置き換えられている
「う」の発音に対応すると考えられる漢字は、いずれも「汙」である。
ところで、なぜ「梅に鶯(うめにうぐいす)」なのかについては、
実際に梅の花にウグイスが来ることはほとんどないので、メジロの
間違いだろうとか、漢詩を真似たに過ぎないとか、いろいろ説が
あるようだが、これは、「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」の
発音が共通のイメージを想起させるものとして捉えられているため
である。「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」に共通で当てられる
漢字には、「汙」、「于」、「宇」があることが検索するとすぐに
分かるが、これらに共通する「于」は、漢字として「乎」と同義字
であるとされる。「うぐいす」と「うめ」で異なる漢字が当てられて、
「うめ」の「う」には「烏」が当てられている事例が見られるが、
そのような場合でもその「う」の発音は、「うぐいす」の「う」と
密接に関連したイメージを想起させる発声として用いられていると
考えられる。

319:考える名無しさん
22/04/17 01:37:25.22 0.net
>「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」の発音が共通のイメージを
想起させるものとして捉えられているためである。<
では、その共通のイメージとはどのようなものだろうか。「汙」は、
漢字としては、現代の日本語の「汚」の変形であると考えられている
ので、この「う」の発音がそのようなイメージを想起させるものでは
ないことは明白である。この場合の「汙(う)」が想起させるイメージ
を最も簡単に説明するには、日本語も中国語も離れて、英語を利用する
のが手っ取り早い。それは、英語の"woo"という動詞である。
URLリンク(www.merriam-webster.com)
つまりは、「『う』め」と「『う』ぐいす」の「う」で共通する
ものとしてイメージされているのは、"to seduce"とメタ言語的に
記述することができるような、相手を誘惑しようとする声なのである。

320:考える名無しさん
22/04/17 01:41:14.33 0.net
それは、「う」に用いられている漢字がまったく異なるものの、次の
歌における「『う』ばひ」と「『う』め」の「う」を重ねた用法から
も確かめることができる。
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第5巻 850番
原文 由吉能伊呂遠 有<婆>比弖佐家流 有米能波奈 伊麻<左>加利奈利 弥牟必登母我聞
訓読 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
かな ゆきのいろを うばひてさける うめのはな いまさかりなり みむひともがも

321:考える名無しさん
22/04/17 02:06:49.80 0.net
さらに、第17巻 3907番の「 花<咲>乎々理」、第13巻 3266番の
「花咲乎呼里」、第10巻 2228番の「開乃乎再入緒」、第8巻 1421番の
「開乃乎為<里>尓」、第6巻 1053番の「花咲乎呼里」、第6巻 1050番歌の
「花開乎呼理」、そしてさらには、
URLリンク(manyoshu-japan.com)
第6巻 1012番歌
>原文 春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬<之 鳴>吾嶋曽 不息通為
>訓読 春さればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ
>かな はるされば ををりにををり うぐひすの なくわがしまぞ やまずかよはせ
における「乎呼理」などが想起させるイメージについて考えてみるといい。
これらはすべて「ををり」と読まれることにされて、「枝が重みで撓んでいる
様子」をイメージさせるものと解釈されているが、最後の「乎呼理」は、
どうみてもウグイスの鳴き声だろう。そもそも、実が沢山つくなら枝が撓む
ことは理解できるが、花が咲いてなぜ枝が撓むのか説明がつくのだろうか。
また、「ををり」と読まれるとされている表現が、仮にそのように発音され
たとしても、それがなぜ「枝が撓む」ことを表現することになるのか。
花が沢山咲くことで折れそうになった草木を見たことがあるだろうか。
私には、「乎呼理」は、その字面からも推測されるとおり、「誘惑の声」
だろうと思われる。「花」が声を出すのは不合理だから、そのような
解釈は成立し得ないと考える人々は、「春の野山」の誘いに呼ばれる
ような感性を持ち合わせてはいないのだろう。

322:考える名無しさん
22/04/17 02:12:01.07 0.net
お花畑

323:考える名無しさん
22/04/17 08:16:50.22 0.net
さて、「さきほこる」というのは、現代の日本語でも慣用表現として
よく使われるが、これは花々が自らを「誇(ほこ)る」ように咲くことを
主要な意味として生成された表現だろうか。
URLリンク(kotobank.jp)咲誇る-509421
咲誇る(読み)サキホコル
デジタル大辞泉「咲誇る」の解説
さき‐ほこ・る【咲(き)誇る】
[動ラ五(四)]今を盛りと美しく咲く。「色とりどりのバラが―・る」

324:考える名無しさん
22/04/17 09:44:43.91 0.net
「于」と「乎」が漢字の用法において同義字とされるだけでなく、
万葉仮名において「乎」と「烏」はともに「を」を表記するのにも
用いられ、中国語の想定される中古音において、「乎」は、
"Middle Chinese: /ɦuo/"とされるのに対し、「烏」は、
"Middle Chinese: /ʔuo/"とされて、互いにとても近い発音として
用いられている。それだけでなく、日本におけるその漢字の用法に
おいても、「う」("wu"としてイメージした方がいいだろう)の
発音において、フランス語の《ou》/「どこに?」に相当するような
イメージで「場所的な不在」に対する感慨を表現するように
用いられている事例が見られる。
URLリンク(kotobank.jp)烏有-441691
烏有(読み)うゆう
〘名〙 (「烏(いずくんぞ)有らんや」の意) 何もないこと。皆無。また、架空

325:考える名無しさん
22/04/17 10:20:11.64 0.net
私の臆断を書き記しておこう。
「乎々理」、「乎呼里」、「乎再入」、「乎為<里>」などと様々に
表記され、「ををり」(wo・wo・ri)と読まれたとされる「乎呼里」
(ここでは、代表する表記として勝手に選択させてもらった)は、
確かに万葉仮名の表記どおりに「乎/を」を繰り返せば、
「ををり」(wo・wo・ri)となり、「乎/を」の反復・継続を表現する
ことになるが、「乎再入」における「再入」という不思議な表記法に
反映されていることが疑われるように、再帰表現としても意識され、
「(咲き)をほり」(wo・ho・ri)のように発声されたのではないか。
私には、このように想定される「(咲き)をほり」(wo・ho・ri)は、
同時に「(咲き)にほひ」という表現も想起される(こちらはやはり
私の臆断によれば、二重の再帰表現として生成されている)。
というのも、そのように想定するなら、「をほり」(wo・ho・ri)
は、「を(招/召)き」の再帰表現となるだけでなく、「を(招/召)き」
が使われなくなって、「(咲き)をほり」が表現として意味不明に
なると、発音の類似から「(咲き)ほこり」への転換が容易に生じ得る
と考えられるからである。

326:考える名無しさん
22/04/17 10:27:17.63 0.net
誤:「(咲き)にほひ」という表現も想起される
正:「(咲き)にほひ」という表現も想起させる
誤:(こちらはやはり私の臆断によれば、二重の再帰表現として生成されている)
こちらは性急すぎたので取り下げておく。

327:考える名無しさん
22/04/17 10:47:12.36 0.net
>春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く
>はるののに なくやうぐひす なつけむと わがへのそのに うめがはなさく
私が、この「うぐいす」の「う」と「うめ」の「う」に共通して感じる
作用のイメージを英語で記述するなら、"inducing to draw near"という
ことになるだろう。

328:考える名無しさん
22/04/17 13:59:37.82 0.net
>>320
第5巻 850番
>原文 由吉能伊呂遠 有<婆>比弖佐家流 有米能波奈
>訓読 雪の色を奪ひて咲ける梅の花
この歌において重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」の
用法から、私にはすぐに連想される関連する推測がある。それは、
意味不明とされながらも頻用される「枕詞」とされる「ぬばばまの」に
ついてである。私には、「ぬばたまの」は、「魂を自ずと抜け出させる」
ことを意味するように用いられのだろうと思える。なぜ、そのように
推測されるのか説明しよう。

329:考える名無しさん
22/04/17 14:03:38.37 0.net
URLリンク(kotobank.jp)射干玉の-594269
ぬばたま‐の【射干玉の】
>枕 ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した語にかかる。
中古以降は「むばたまの」という形で使われることが多い。
>[語誌](1)「万葉」では仮名書き例のほか、「烏玉」「黒玉」「野干玉」
「夜干玉」といった表記が見られる。
>むばたま‐の【射干玉の】
枕 「ぬばたまの」の変化したもの。中古の初・中期の形。のち「うばたまの」
ともなるが、表記の上では後世まで引き継がれる。→ぬばたまの・うばたまの。

330:考える名無しさん
22/04/17 14:12:07.12 0.net
>この歌において重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」の
用法から、私にはすぐに連想される<
なぜすぐに「ぬばたまの」が連想されるかというと、「ぬばたまの」は、
「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように変化したと
考えられているからである。上記に
>重ねられる「うば(奪)ひ」と「うめ(梅)」の「う」
と説明し、上の歌の例ではたしかにそれは「う(有)」の発音とされるが、
「うば(奪)ふ」にはその変形の発音として「むば(奪)ふ」があり、
「うめ(梅)」が「むめ(梅)」と呼ばれたこともよく知られている。
>「ぬばたまの」→「むばたまの」→「うばたまの」のように変化した
という一般に流通する説明においては、単に意味不明のまま発音だけが
変化していったものと想定されているが、言語表現は、それが用いられる限り、
何らかの解釈を伴うことの方が普通である。「ぬばたまの」の本来の
言葉の意味が見失われたとしても、それが表現するイメージはその後も
ある程度、引き継がれたはずであり、「ぬばたま」の「(玉)たま」が「魂(たま)」
と結び付けられないはずはないのだから、解釈を要するのはは、「ぬば」、
「むば」、「うば」だけであることになる。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch