ヘーゲル・スレ Part2at PHILO
ヘーゲル・スレ Part2 - 暇つぶし2ch166:考える名無しさん
22/12/08 10:38:02.13 0.net
>>165
それだと事実上唯物論だよね?

167:考える名無しさん
22/12/08 10:55:45.65 0.net
ヘーゲルは人は経験したものしか認識できないというカントの哲学に忠実だった
だから絶対知の出現は、人間の経験の総体、歴史の終わりにしか出現しないはずである
ヘーゲルは歴史を終わらせた、という非難がそれ以後の思想家に共通の合言葉であった
確かにヘーゲルの時代は、今日に続く近代のパラダイム(近代国家の原理、科学技術、資本主義)
の基本的なものが出そろった時代であった、しかしこの近代の内に含む矛盾が今、噴き出して人類の
存続を脅かしている、その点ではヘーゲルの弁証法は生きている
しかし世界史の動向は国家の力をしてはどうしようもないと、絶対者の世界審判に委ねて
それも人類の運命と傍観するヘーゲルであった
それはあくまで学に忠実であろうとするヘーゲルの姿勢の結果だろう

168:考える名無しさん
22/12/08 11:07:51.61 0.net
>>166
ヘーゲルは唯物論ではなく、真に存在するものは神だけだとする唯神論だろう
我々人間ほか一切の自然物は神によって創造されたもの
創造するとは自分を自然として規定すること、規定することは、スピノザも言うように否定すること
だから一切の創造物は否定性をまとっていて、有限であることを免れない
そういう有限なものは真の存在ではない
ただ人間の精神だけが宗教によって神を見出し、神への精神的高揚によって
また同時に神の人間精神への降下によって相互関係を結ぶ
このことを概念によって理論化したのがヘーゲル哲学

169:考える名無しさん
22/12/08 11:12:28.69 0.net
彼岸、魂の不死にこだわるのは、あまりにも主観的なものに固執しているとヘーゲルは言う
それらは、精神の一つの契機にすぎないとヘーゲルは見る
だからそれらを実践理性の核心にしたカントの哲学は主観的観念論と呼ばれた

170:考える名無しさん
22/12/08 11:12:30.79 0.net
>>168
それは神は人間が作った、というのと同じことだと思うよ?

171:考える名無しさん
22/12/08 11:49:54.41 0.net
>>170
ブルーノバウアー、フォイエルバッハ、マルクスの系譜か

172:考える名無しさん
22/12/08 11:52:57.63 0.net
>>171
その人たちの思考を生み出したのがヘーゲル。
ヘーゲル哲学の胎内に、完全な唯物論が含まれていたということだろう。
まさに、ヘーゲル弁証法そのものだと思うな。

173:考える名無しさん
22/12/08 12:38:55.21 0.net
ヘーゲルは哲学の完成したもの、その後の哲学と称するものは、よって哲学ではない
ヘーゲル哲学の限界は哲学そのものの限界
それを敏感に感じ取ったのがマルクスであり、キルケゴールだったろう
マルクスは社会的客観的世界にそれを感じ、キルケゴールは実存的主観的世界にそれを感じ取った
キルケゴールはヘーゲルが真理という大宮殿を建てたがヘーゲル自身は
掘っ立て小屋で一生を暮らしたと嘆いた
両者ともヘーゲルを哲学の完成と認めたが、哲学に現実を変革する力がないことも知った
哲学という高みから野に降りて現実を変えなければならない
そのための有効な思想を渇望した
マルクスは自然主義とヒューマニズムに立脚し、資本主義批判としての資本論を書いた
それを現実に移し替えたソ連は70年後に崩壊し、中国共産党も鄧小平路線によって
ただの自由のない永遠のプロレタリア独裁国家になった、両者に共通することは、
アメリカに対抗する強国にするために生産至上主義、物質文明至上主義になったことだ
ヘーゲルは人間が神を否定して人間だけになった世界は、逆に人間は自分を見失うと警告した
ニヒリズム、権力主義、快楽主義の蔓延する現代社会は
その手段としてのテクノロジーによって人間そのものの機械化を究極にまで進めるだろう

174:考える名無しさん
22/12/08 13:19:24.40 0.net
>>173
>資本主義批判としての資本論
批判という言葉を分析と理解するならそのとおりだが、思想的な(主義に対する)批判としてとらえるなら、それは錯覚。

175:考える名無しさん
22/12/08 17:55:20.61 0.net
資本論は思想的に中立な書ではなかろう
その時はすでに共産党宣言を出した後なのだから

176:考える名無しさん
22/12/08 17:59:29.39 0.net
>>175
資本論は資本主義経済を分析したので、資本主義に対する好悪は関係がない。

177:考える名無しさん
22/12/09 10:00:50.56 0.net
てす

178:考える名無しさん
22/12/09 10:43:57.77 0.net
今年のノーベル物理学賞を受賞したのが量子コンピューターの開発に貢献した学者
量子の二重の性質(波と粒子)が人間が観察することで一つに決まるという
従来の化学ではあり得ない概念の発見はアインシュタインにまでさかのぼる
しかし悟性が究極的には人間の自己意識に止揚されること
自己意識の究極(不幸な意識)が観察する理性に止揚されることを証明したのはヘーゲル

179:考える名無しさん
22/12/09 10:45:41.39 0.net
訂正:化学→科学

180:考える名無しさん
22/12/09 12:19:46.99 0.net
「人間的認知の特殊性は、反省的諸機能が優勢になっている点にあります。
人間の脳では、内的伝達の軌道が外的伝達の軌道に対して十の七乗対一という
ほとんど考えられないような比で上回っています。
人間の脳は、比類のない自己言及の装置、つまり反省性の装置となりました。」
      (『ヘーゲル哲学研究』13 2007年 P102 )
「自我とはそもそも思惟に他ならない。私が、「私は考える」と言うとき、それは
同語反復なことである。自我は全く単純である。私は考えているのであり、
・・・我々が自我であるという意味では、我々は、我々がいつも考えている、と言えよう。
なぜならば自我とはいつも自分自身との単純な同一性であり、それがすなわち
思惟に他ならないのだから。」
       (『ヘーゲルのギムナジウム論理学』 P12)

181:考える名無しさん
22/12/14 10:22:01.30 0.net
カントとヘーゲルの違いは、その最初の頃の論文の両者の思考方法の違いを見ると分かりやすい
カントは、すでに大学卒論で、対立する両派のどちらにも加担せず、それぞれの立場の正しさを制限と
認めることで対立を発展的に解消する方法をとった
前体系期の『視霊者の夢』においても、形而上学は人間の理性の限界に関する学とし、
二つの相反する説明の間に自ら板挟みになって、身動き取れない状態に自らを追い込んで
カントはそのどちらにも全面的に加担しない、判断停止する思考方法をとった

それに対してヘーゲルは25才で最初に書いた論文「民族宗教とキリスト教」において
・人間的な気持ちの織りなす網の目の中に
・啓蒙は神聖な織物、人間らしい気持ちが織りなす薄織物を見落としてしまっている
・倫理的感情が、その繊細な糸を、この織物全体の中に送り込んで
・人間というものは実に多面的に出来ていて、人間の気持ちの多種多様に編み合わされた織物である
・この美しい糸を編んで上品な織物を編み上げることが民族宗教の仕事
と言うように、人間精神の全体を一つの織物という比喩で表現している
チュービンゲン神学校時代、ヘルダーリンやシェリングらと「ヘン・カイ・パン」(一にして全)を
合言葉にして哲学や宗教について思考を巡らせていたヘーゲルだった
このように、カントもヘーゲルも若くしてすでに体系期の特徴的な思考方法を胚胎している

182:考える名無しさん
22/12/24 06:35:33.45 0.net
愛ー人倫、倫理(男女、親子、家族、国家)
道徳ー社会
良心ー共に知ること(自己、他者、神)
善ー理念
絶対的理念(生命と認識の統一)
一にして全(全体こそ具体的なもの)
学問は体系でなければならない

183:考える名無しさん
22/12/27 03:17:23.72 0.net
現象の世界の中にこそ本質的な神が在るというのは、アリストテレスにも通じる思考だと思う

184:考える名無しさん
22/12/27 03:30:16.44 0.net
あと個人的に思うのは、量子力学のなかではコペンハーゲン解釈よりボーム解釈の方がヘーゲル的におもわれる。それは非主流派なのだが。

185:考える名無しさん
22/12/27 03:33:26.05 0.net
量子力学の波と粒の話になると弁証法の話がたまに見られるが、物理屋から見るとコペンハーゲン解釈のことのように思われる

186:考える名無しさん
23/01/03 06:26:53.11 0.net
カントはキリスト教の本質を山上の垂訓においた
ヘーゲルは三位一体においた


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