ヘーゲル・スレ Part2at PHILO
ヘーゲル・スレ Part2 - 暇つぶし2ch2:考える名無しさん
22/01/29 10:45:20.42 0.net
前スレ
ヘーゲルスレがなくね?
スレリンク(philo板)

3:考える名無しさん
22/01/29 11:10:42.89 0.net
ヘーゲルとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】
URLリンク(colorfl.net)

4:考える名無しさん
22/01/29 11:13:10.30 0.net
誰も来ないから
また自演が大変だ・・

5:考える名無しさん
22/01/29 11:19:02.38 0.net
自演も何も、前スレは5年半かかっている
学問板では普通だろ

6:考える名無しさん
22/01/29 12:11:23.24 0.net
>>5
ワロタ
長い間お疲れさまでした。
ネット時代だしどっかで発表したら?
書きこんできたのがモッタイナイじゃん

7:考える名無しさん
22/01/29 12:12:45.58 0.net
あ、ここも一応ネットだけど
5ちゃんはもう誰も来てないからね
ノシ

8:考える名無しさん
22/01/29 12:12:56.05 0.net
それではパヨクとネトウヨが喜びそうな話題を取り上げましょう。
前スレ
996 ヘーゲルとマルクスといえば、黒田寛一
998 まさに黒田寛一みたいなのがゴミの典型として考えていた

9:考える名無しさん
22/01/29 12:20:38.48 0.net
自分が乱立させたクソスレを一斉に削除されたからといって、5chを恨むのはイカガなものか
それこそ、自業自得というものだ

10:考える名無しさん
22/01/30 12:07:12.17 0.net
理性的であることが自分にとって合理的であるわけではない。
例えば、自分が病気にかかったとして、その病気の治療を望んでいるが、
現在まだ、その治療法が確立されていない場合、それでも何もしないより
ましだと考えて、効果があることが実証されておらず、医薬品として
認可されていない治験薬を、臨床試験の一環として自己責任で投与して
もらうことに合意する場合がある。しかし、臨床試験なのだから、
統計データで効果を確認する必要があり、そのためには比較対象で
治験薬が投与されることも、プラセボだけが投与される場合もある。
そのことは、治験薬の効果が実証されていないのだから、臨床試験の
手続きとしては極めて合理的だ。しかし、本人がそのように研究に
加えてもらうことの動機は、治療効果が期待できるかもしれないと
いう期待によるものであり、プラセボしか投与されないのであれば、
そのために他のまだやはり効果の確認されていない治療法を受けること
は断念して、効果がゼロであることが判明しているプラセボの投与
だけを受けつづけることは、本人にとっては、まったく合理的ではない。
「理性的」に考えれば、治験薬は副作用の危険もあり、効果はあるか
ないか不明であり、それでも、臨床試験としてのプロトコルに同意し
なければ、治験薬を投与してもらう機会さえ得られないのだから、
プラセボしか投与してもらえない可能性があっても、臨床試験の
対象として参加させてもらうことは、「正しい」判断だろう。
それでも、その「正しい」判断は、自分の動機に照らせば、「合理的」
であると言うことはできず、「合理的であるかどうか不明」である。

11:考える名無しさん
22/01/30 12:13:14.69 0.net
そのような「合理的であるかどうか不明」な「正しい」判断をすることが、
「理性」であると説得される場合が、治験薬の場合に限らず、現実の生活
の判断においてはとても多く、それを躊躇したり、「正しくない」判断を
すると、しばしば、「理性的でない」と非難される。無論、説得をしよう
とする方にとっては、相手がそのように「正しい」判断をすることが
完全に「理性的」であるとしても、つまり、その説得に嘘がないとしても、
そのことによって、その「正しい」判断をすることが、相手にとって
「合理的」であるかどうかはやはり、しばしば、まったく「不明」である。

12:考える名無しさん
22/01/30 12:17:06.55 0.net
本人にとって重要なのは、その判断に従ったことによってもたらされる「結果」
であり、もたらされた「結果」が吉であれば、判断は「正しかった」ことになり、
「結果」が凶であれば、判断は「間違っていた」ことになる。

13:考える名無しさん
22/01/30 16:30:14.16 0.net
マルクスはヘーゲルを理解してないだろ
『経済学・哲学草稿』『ドイツイデオロギー』見ても表面をかすってるだけ
キルケゴールにしても同じ
彼らは哲学の完成をヘーゲルにおいて直観したが
哲学の限界も直観したゆえに、マルクスは客観的現実(社会)に
キルケゴールは主観的現実(実存)に定位してそこからヘーゲルを否定した

14:考える名無しさん
22/02/02 08:26:31.97 0.net
人類を歴史上はじめて物質的稀少性から解放した資本主義とその担い手として
自信をつけた市民階級がそれまで支配的だった貴族階級を打倒して
自由と民主主義の近代国家を樹立したが、実際に実現された国家は
資本主義の家畜としての貪欲という人生の目的を与えられた疎外された大衆社会
有限な地球環境の中で無限の欲望を追究するシステムの資本主義の限界が
誰も目にも明らかになっているのにどの国家も解決し得ない
そうこうするうちに人間は欲望する機械(フーコー)
思惟から逃亡した人類(ハイデガー)と人間そのものの根本的変化が起こっている
人間は今や人間ではないものになりつつある
歴史を無視すれば歴史からも無視される
資本主義という洪水は我が魂にまで及びつつある

15:考える名無しさん
22/02/02 08:45:15.76 0.net
資本主義批判としてのみ価値のあるマルクスの系譜(フランクフルト、ハバーマス)も何の力もない
批判と言うのは誰でもできるからだ、真に難しいのは、本質にまで遡って真理を把握する事
そこで出て来る結論は歴史は終わったということだろう

16:考える名無しさん
22/02/04 13:00:21.29 0.net
金子武蔵が『精神の現象学』の解説の末尾でマルクスを最大限持ち上げているのは
いかに当時マルクス主義が学者の良心を侵食していたかの証

17:考える名無しさん
22/02/04 19:02:33.43 0.net
>>16
良心があるから、マルクスに傾倒したんだよ。
いまの人は良心がないから、マルクスを否定することに注力して、保守右翼政権の補完物になってる。

18:考える名無しさん
22/02/04 19:34:07.97 0.net
正直言って、マルクス研究者、マルクス学者の中でも有名な人ほど、
マルクスを若干否定している感じがあるのは気のせいか?

19:考える名無しさん
22/02/04 20:07:39.75 0.net
>>18
気のせいだよ。
ソ連や中国に対する批判と混同してるんだろう。

20:考える名無しさん
22/02/04 20:42:47.70 0.net
となると、廣松渉や佐々木隆治も食わず嫌いせず読んどいたほうがいいのかなあ。
なんか両者共に独自性がありすぎて、
細かいところではマルクスの世界観から外れてそうだと感じるのは、
気のせいだと思いたい。

21:考える名無しさん
22/02/05 13:37:54.24 0.net
ヘーゲルの解説について、例えば彼の弁証法のことであるけれど、ある解説書(タイトルは忘れた)においては「大福」(テーゼ)とそれに対立する「苺」を止揚することによって「苺大福」の概念が作り出されるとしていた。ヘーゲルの言う「止揚する」というのが「足し算する」ではないことは、ヘーゲルがそれを「否定しつつ保存する」として表現したように明らかであろう。
その解説書においては「ある概念をより優れた概念にする」ことを弁証法の肝要にしているように見える。仮にそうであるならば、概念は我々の自然的な「発見」ではなく想像的な「想造」によるものと言えるだろう。自然法則は専ら前者(発見)にあたる一方で社会的価値は後者(想造)にあたるように思われる。
止揚された帰結「苺大福」は、さて、社会的価値として私たち価値の想造者と対応するものではないだろうか。そうでなければ、単に「洗練された概念」として解説書で説明されるような概念は、はじめの概念「大福」とどのように差異があるか(同一があるか)を未だ説明しないだろう。(もしかすると学校教科書の説明の弁証法の図式の再説明かもしれない)
社会的価値はその想造者を通して自らを展開する。洗練された「苺大福」の概念には、例えば「犬」の概念が柴犬や秋田犬といったバリエーションを支えるように、概念とバリエーションの相補性の観点を付け加えるべきではないかと思われた(部分的な読書だから実際には書かれてあるかもしれない。その場合はゴメンナサイ)

22:考える名無しさん
22/02/16 07:13:15.84 0.net
大金持ちの家でない限り、自分の糧は自分で稼がねばならない
そこでどこかのゲゼルシャフトに所属して働くことになるが
集団と言うのは支配者がおり、その支配者の思想・傾向が
その集団の思想・傾向となる
例えば、会社というのは、大小それぞれとも、その支配者・経営者は
金と権力を追求することが人生の目的と見なしている連中で
決して道徳を目的とはせず、ましてや真理追求などとは全く縁遠い俗物である
だから、そういう集団は、自然とそういう連中が集まって社員を構成することになる
そういう中で哲学と仕事の二足わらじで生きて行こうとするのは地獄である
しかしよく世の中を見渡せば、決して金と権力を目的としない集団も少数ある
例えば、特別養護老人ホームとか
そういうところは道徳心がなければ勤まらない
むしろ道徳心を人生の目的とするような人たちの集まりであろう

23:考える名無しさん
22/02/16 07:36:10.76 0.net
哲学と道徳は真理において一致する
ヘーゲル論理学において善の理念は最高の契機(内容)である
その上に絶対的理念というのがあるけれど
それはそれ以前の契機を総合したものとして、それ自身は無内容である
しかし善は、それを知っただけでは善としては未完成である
善は、実行を促し、実行してこそ善となる
即ち善は自己を止揚しなければならない
それがロゴスが自然を創造する理由となる

24:考える名無しさん
22/02/25 00:10:32.02 0.net
簡単にいうと、ヘーゲルは世界(自然)の運動法則(発展法則)を説明した人。
そして人間の意識はこの自然や運動法則を能動的に反映し認識していくことができる
ものであることを指摘。
この場合、人間の意識も世界の運動に合わせて運動・発展していくものであり、
このときの態様やメカニズムを論理(弁証法的論理)として説明した。
客観的実在を認める点では唯物論者であり自然科学的態度の人。
人間が客観的実在や真理を認識できるとした点では不可知論とは一線を画する。

25:考える名無しさん
22/02/25 08:28:29.72 0.net
ヘーゲルは本人も言っているように観念論だよ
ただしスピノザやライプニッツのようなカントによって否定された観念論ではなく
カントを踏まえた観念論
自然の存在は認めはするが、自然は真理とは程遠い存在にすぎないという位置づけ
真理は、感性的、直接的に捉えられるものではなく、概念によって捉えるもの
普通、我々現代人は、科学的思考を学校で教え込まれて来たから
自然の認識や数学的認識が一番確実なものと信じ込んでいるが
それらは、人間の直観や感性的な方法によって存在を把握すること
ヘーゲルは逆に概念こそ存在の真理であるとする
概念こそ存在を生むもの、存在は概念の一契機にすぎないと
だから論理学でも存在は無媒介の直接性として無に等しく
絶対的理念こそ一切の契機を含む具体的な真理であるとしたわけだ

26:考える名無しさん
22/02/25 20:42:45.77 0.net
>>25
ヘーゲル哲学はカントへの批判から始まってる。
>>24に賛成。

27:考える名無しさん
22/03/06 12:44:44.18 0.net
直接性は時間と空間の形式によって把握され、その実在(リアリティ)はあくまでも媒介されたものとして現れる。その点でカントは自体存在を保持していたことをヘーゲルに批判される。

28:考える名無しさん
22/03/07 07:27:37.90 0.net
いやしくも哲学をしようとするなら、現代に対する問題意識を常に念頭に置くべきだろう
ヘーゲルと言う200年前のドイツの哲学を学ぶにあたって
現代の、この日本の精神的状況と対比して、理解しなければ意味がない
現代社会の、国際的にも覆い尽くしている思想は、経験論を基礎にした功利主義だと言っても過言ではない
ベンサム流の最大多数の最大幸福を追求することだろう
しかし功利的利害によって道徳的善悪を置き換えてしまえば、正義の客観的考察が抜け落ちてしまい
ひいては道徳の根拠、宗教も廃れてしまう
それは人間精神の拠り所を無にすること
ヘーゲルはそういう現代の危機的精神的状況に対する、正しい理論を提供する唯一の哲学であろう

29:考える名無しさん
22/04/03 21:16:58.41 0.net
知泉書館の全集てドウヨ?

30:考える名無しさん
22/04/04 20:41:13.33 0.net
>>29
今のところ、政治的には一応無色透明かと。
岩波版全集の注釈のように、大論理学を資本論に直結させる、といったような方向での「色づけ」は見られない。
しかし、ナショナリズム、全体主義を正当化する論理へと誘導していくようなウヨでもない。

31:考える名無しさん
22/04/05 21:27:53.54 0.net
>>30
政治的に無色透明であるということは、現政権の容認。

32:考える名無しさん
22/04/05 22:11:16.47 0.net
こいつ、顔面力で言えば哲学者最強やろ

33:考える名無しさん
22/04/05 22:16:56.85 0.net
>>28
経験論ってそういう風に批判されがちだけど、
合理論と経験論、演繹と帰納は両輪で回らないと哲学というか学問は成り立たないと思う。

34:考える名無しさん
22/04/06 00:04:21.29 0.net
>>29-31
お前ら、話が噛み合ってないんじゃないか?
>>29が言いたかったのは「どウヨ(超右翼)」じゃなくて、「どうよ(どうなのよ)」じゃないのか?
それを>>30が誤解して、「政治的に右翼かどうか」を論じ始め、>>31がそれを追認しているんじゃないのか??

35:考える名無しさん
22/04/06 00:40:29.09 0.net
文脈から見て、「無色透明」とはそれについての否定的本質を言っているように見えるし、それを理解出来ていたら「現政権の容認」なんて言えないでしょうねえ

36:考える名無しさん
22/04/06 00:48:04.46 0.net
特定のどれでもないということはどれでもある、ということになるからある意味で合ってると言えるか

37:考える名無しさん
22/04/07 19:49:15.08 0.net
>>35
「無色透明」な思想も解釈もあり得ないということだね。
人は自分の立場を肯定して生きているから。
このスレではなじみがないだろうが、宇野弘蔵はそれを自覚していた珍しい経済学者。

38:考える名無しさん
22/04/12 08:28:37.75 0.net
唯物論者が、ヘーゲルを踏まえて理論構築をしているというなら
「闇の中の黒い馬」のように精神は見えないと言えば正しかった
ところば弁証法的唯物論者は全体的なものが自分には透見出来ると主張する
イデアリズムの唯物論は間違っている
ノミナリズムの唯物論はイデアリズムの観念論と同等に
哲学史上に一つの地歩を占めることが出来るが
イデアリズムの唯物論の哲学史上に占める地位はない

39:考える名無しさん
22/04/12 10:45:34.18 0.net
>>38
精神もまた、言葉や行動によって表れる。

40:考える名無しさん
22/04/15 22:12:50.60 0.net
>>37
完全に中立であること(「無色透明」)は不可能だけど
それでもそれを目指すのだ、という立場を取ることは可能だと思う

41:考える名無しさん
22/04/15 22:29:20.23 0.net
>>40
そのためには、まず中立とはなにか、ということを考えないといけない。
政治的な立場だけ見ても、右とはなにか左とはなにかということが分かっているわけではない。
右と言っても左と言っても中立と言っても、それぞれの価値観に過ぎないということでもある。
うのが心掛けたのは中立になるということではなく、自分は現状の価値観の中にいるという、自分の価値観の自覚のこと。

42:考える名無しさん
22/04/15 23:58:31.29 0.net
>>41
その自分の価値観の自覚というのも不可能だと思うけどね
まあそれでもそれを目指すという立場を取ることはやはり可能だけど

43:考える名無しさん
22/04/16 09:10:03.99 0.net
>>42
カントもそうだが、ヘーゲル哲学もまた自分の価値観の客観性を確認するためのもの。
哲学というのは支配の学問ではあるが、その支配の客観性(=正当性)を構築するもの。
だから、その中の誤りを見つけ出せば、価値観の客観性に一歩近づく。
たとえばマルクスは、「資本論」でそれを徹底したとも言える。

44:考える名無しさん
22/04/16 10:23:00 0.net
>>43
そうして彼らは皆、哲学をすることで、価値観の客観性から一歩後退するわけだ
完璧な体系の構築というのもまた不可能だからね

45:考える名無しさん
22/04/17 10:20:53.96 0.net
>>44
価値観の客観性というのは、たとえば自分や他人がなぜその価値観を持っているのか、という問いかけからはじまる。
現実と価値観がどう結びついているかということを解明しようとする。
ヘーゲルは、”神”を設定することで、言い換えれば現実は”神”が作ったものという考え方をすべての現実に当てはめて見せて、”神”に近いほど価値が大きいと主張した。
マルクスは、”神”が現実を作っているのではなく、自然と人間が現実を作り、その中で価値観は経済的な立場の要因が基本になると証明して見せた。

46:考える名無しさん
22/04/17 11:54:16.78 0.net
>>45
そんなことはもう言われなくてもわかっているが、それがどうした?
そのことのどこがこちらの主張(その種の探究は不条理である、という主張)への反駁になっているというのだ?

47:考える名無しさん
22/04/17 16:00:44.84 0.net
>>46
>その種の探究は不条理である、という主張
どこが不条理だと思うの?

48:考える名無しさん
22/04/17 21:05:28.09 0.net
>>47
結局、その種の探究というものは、ある価値観を自分の価値観(=自分という現実のあらわれに対応する価値観)だと断定したうえで、その価値観にも現実のすべてのあらわれにも整合的な体系を構築してゆこうとする試みであるわけだ
しかし、その結果として構築される体系は、その体系それ自体や、その体系において自分の価値観だと断定されている価値観が、"真に"現実に即しているものなのかどうかを、どうしても示すことができないと考えられる
というのも、その体系を構築するという行為や、ある価値観を自分の価値観だと断定する行為によって、現実もまた変わりうると考えられるからだ
それにもかかわらず、その体系は、それだけでありとあらゆるものごとを説明できるものとして与えられているがゆえに、そうした変化ないし変化の可能性に関心をもつことができない
したがって、その種の探究は、その目的(=現象の説明体系の構築)を達成することが絶対にできないと考えられる
つまり、現象の説明体系を構築せんとする営み、これを哲学とするならば、哲学は、それ自体が現象を変化させうるがゆえに、必ず失敗すると考えられる
したがって、それをすることは、水に濡れまいとして川に飛び込むようなものであり、まったく不条理だと言える

49:考える名無しさん
22/04/18 08:26:04.33 0.net
はじめから「現実と価値観は結び付いてる」なんて言ってたら、それはただの性善説的な世界観のお話。ヘーゲルの場合はそうではなくて、その無自覚な結び付き性を明らかにして自覚していくんだ。その点で「ヘーゲル哲学における『客観的な価値観』」にはこの結び付き性を考えることが欠かせない

50:考える名無しさん
22/04/18 09:47:56 0.net
>>48
>ある価値観を自分の価値観(=自分という現実のあらわれに対応する価値観)だと断定したうえで

断定もなにも、ある価値観は現実の自分の価値観であるか、現実の他人の価値観であるかのどちらかでしかないよ。
それが、”価値観”という言葉の定義で、なにか抽象的、一般的な”価値観”なるものが存在するわけではない。

>その体系は、それだけでありとあらゆるものごとを説明できるものとして与えられている

体系というのは”ありとあらゆるものごと”を説明しようとするものではなく、言ってみれば”ありとあらゆるものごと”をどう分類するかを切り分けていくもの。
これもまた、”体系”という抽象的、一般的なものがあるわけではない。

>哲学は、それ自体が現象を変化させうる

極微的にその言葉によってなにかが変化するという程度の影響はあるが、哲学自体は思考の組み立てに過ぎないので、それによって現実が変化するものではなく、現実を説明しているだけのもの。
だから「哲学者は世界を解釈してきた。大事なのは世界を変革すること。」ということになる。

51:考える名無しさん
22/04/18 09:49:54 0.net
>>49
>「現実と価値観は結び付いてる」なんて言ってたら、それはただの性善説的な世界観のお話。

現実は性善説的な世界観とも性悪説的な世界観とも関係がない。
ただそこにあるだけのこと。
現実のないところに価値観は生じない。

52:考える名無しさん
22/04/18 13:55:54.25 0.net
>>50
まず、価値観について。
私は別に価値観の実在性を主張してなどいない。
言い換えれば「なにか抽象的、一般的な”価値観”なるものが存在する」なんて言っていない。
ただ、「君が言うように、「ある価値観は現実の自分の価値観であるか、現実の他人の価値観であるかのどちらかでしかない」としても、どの価値観が自分のものでどの価値観が他人のものかを正確に区別することなど、誰にもできない」という主旨のことを私は言っている。
要するに「何が自分の価値観かなんて分からないよね?」と言っているだけ。
次に、体系について。
これについては、君の発言内容が曖昧過ぎて、言いたいことが掴めないので、何とも答え難いのだが…
とりあえず、体系が実在するなどとは私は主張していない(「”体系”という抽象的、一般的なものがある」なんて言っていない)。
また、そもそも君の言う「”ありとあらゆるものごと”を説明しようとするもの」と「”ありとあらゆるものごと”をどう分類するかを切り分けていくもの」の違いがよく分からない(まったく同じものの言い換え表現でしかないと思えてならない)のだが、敢えて両者を異なるものとして考えたとしても、やはりその指摘は私の議論に対する反論になってはいないと思う。
結局、分類がうまくいっているかどうかは、説明がうまくいっているかどうかと同じく、その分類が現実に即しているかどうかで決まると考えられるわけだが、しかしその分類という行為もまた、説明という行為と同様、現実を変えうるのだから。
最後に、哲学について。
「哲学自体は思考の組み立てに過ぎないので、それによって現実が変化するものではなく、現実を説明しているだけのもの」だとする見方は、端的に誤りだと思う。
それは考えるということが現実に埋め込まれた仕方でしかあらわれてこないということを勘定に入れていない。
すなわち思考というものの現象としての側面を完全に無視してしまっているのだ。
哲学者は世界を解釈しつつ、解釈することそれ自体により、世界を変革してもいる。
だからこそ、もし変革をすべきだとしても、したくないならしなくてよいのだ。
ちなみに>>49には概ね同意。

53:考える名無しさん
22/04/18 16:50:47.00 0.net
>>52
>どの価値観が自分のものでどの価値観が他人のものかを正確に区別することなど、誰にもできない
誰にでもできるよw
自分が、この”もの”や”こと”が大切だと思えば、それが自分の価値観。
他人の価値観が侵食しているという精神上の可能性はあることと、自分が個としての自分であることは別のこと。
>「”ありとあらゆるものごと”を説明しようとするもの」と「”ありとあらゆるものごと”をどう分類するかを切り分けていくもの」の違いがよく分からない(まったく同じものの言い換え表現でしかないと思えてならない)
哲学の体系というのは、ある一定の範囲でのことを切り分けて、その範囲の中での連環を説明しようとしていくもの。
ありとあらゆるものを説明することと、ありとあらゆるものを分類すること、というのはそういう意味。
まったくい違う思考の方向だし、説明(言葉)が現実を変えるというのは、いずれにしても極微的な言葉への反応以上のものではない。
>思考というものの現象としての側面を完全に無視してしまっている
それを観念論という。
いくら考えていくら言葉に出しても、目の前のコップは動かない。
言葉を発するときの空気の勢いでコップが動くことがある、という極微的な現象にとどまる。

54:考える名無しさん
22/04/18 17:42:39.12 0.net
>>53
うーん…
どうやら君は私が提示した論点を把握できていない(というかそもそも把握する気がない)みたいだし、私も君の反論の主旨がどうしても読み取れない(返答しようにも今までに書いてきたことと同じ主旨のことしか書きようがない)。
現状では対話が成立していないし、今後もしなさそうなので、ひとまずここで君との議論は中断させていただきたい。
ただ、一つだけ言わせてもらうとすれば、思考というものの現象としての側面を完全に無視する君の考え方は、観念論ではなく、実在論だ。
それもかなり素朴なものだと言わざるをえないな。

55:考える名無しさん
22/04/18 17:54:28.53 0.net
>>54
逆だよw
君があまりにも言葉の遊びが好きだから、それを一つずつ指摘してる。
言葉で遊んでる限り、ゼノンのパラドックスは解けないし、人間は存在しないということにもなる。
もちろん、実在とは素朴なものであるし、観念的実在論など論じるだけ無意味だ。
繰り返すが、いくら君が考えても、目の前のコップは動かない。
ちなみに、ヘーゲルはむしろ素朴実在論だぜ?

56:考える名無しさん
22/04/18 19:31:34.48 0.net
ヘ、ヘーゲルが、素朴実在論者とは、恐れ入った…orz

57:考える名無しさん
22/04/18 19:38:05.02 0.net
ヘーゲルは文体がキツイし仕方ない
というか「素朴実在論」の意味すら知らなさそうなのがちょっとね🤤

58:考える名無しさん
22/04/18 20:47:08.78 0.net
できれば高校生以下
せめて大学生であってほしいが
宇野弘蔵の名前を出してきたとなると…

59:考える名無しさん
22/04/19 08:38:45.61 0.net
>>56
読めばわかるよw

60:考える名無しさん
22/04/19 08:40:14.37 0.net
>>57
実在をそのまま実在として認めるのが素朴実在論。
というか、観念論者がものの実在を認めたくないから、実在を認める思考を勝手に素朴実在論とか呼んでるだけw

61:考える名無しさん
22/04/19 08:40:41.80 0.net
>>58
君は、そこにあるコップが実在しないと思ってるの?

62:考える名無しさん
22/04/19 08:57:55 0.net
ヘーゲルの哲学は、ものの実在を認めなければ成り立たない。
論理はすべて、ものの実在を前提にして進められている。

63:考える名無しさん
22/04/25 09:06:36.54 0.net
ま、まあ、そうね、科学万能主義って面白いわよね
ヘーゲルの哲学がそれだとは思えないけれど

64:考える名無しさん
22/04/25 10:12:13.77 0.net
実はその種の実在論者が科学的という訳ではない。そして同じくヘーゲルが素朴実在論者とも考えられない
URLリンク(i.imgur.com)
それはさておき、ヘーゲルはニュートンの万有引力の法則などを用いて現象と法則の弁証法を展開したね

65:考える名無しさん
22/04/25 13:14:03.98 0.net
>>64
実在というのは見えるものとか見えないものとかとは関係がない。
空想の中にではなく、現実にそこに存在すればそれが実在だ。
重力は見えないが実感することはできる。
重力波なのかどうかは知らないが、そこ(ここ)に実在することは確かだ。
アメリカ人の半数は、進化論を否定し、天動説を信じるとも言われている。
それが素朴実在論ではない観念論だ。

66:考える名無しさん
22/04/25 13:27:54.47 0.net
>>63
ヘーゲルの自然哲学は、まさに科学としての素朴実在論だけど?

67:考える名無しさん
22/04/25 23:37:35.47 0.net
ヘーゲル哲学・自然哲学の内容どころか、「観念論」や「素朴実在論」といった基礎概念の意味も、そしてそれらよりさらに基礎的な「実在」という哲学用語の意味さえも、まったく理解できていない
それにもかかわらず自信満々に語れるところが凄いわね
科学を盲信するのはいいけど、その盲信に哲学者たちを巻き込まないで欲しいわね

68:考える名無しさん
22/04/25 23:45:14.99 0.net
>>67
前にも書いたが、素朴実在論なる理論は観念論者の頭の中で作り上げただけの、”実在”しない理論w
観念論者は自分勝手な”哲学用語”をジャーゴンとして仲間内で使い回して、社会に通用しない自分たちを慰め合ってる。
いい加減に自覚しなさいね。

69:考える名無しさん
22/04/25 23:48:25.09 0.net
>>67
人間が実践的に自然と交渉する場合、自然は直接的で外面的なものそのものであり、人間もまた直接に外面的な、したがって感性的な個体である。
(「エンチクロペディ」自然哲学序論)
こんな文章は暗記してると思うが一応引用しておくね。

70:考える名無しさん
22/04/26 00:02:28.09 0.net
その引用は、ヘーゲルがいうところの、自然に対する「実践的態度」の説明でしかないわね
ヘーゲルはその後の部分で、そういう態度を「感覚的個別性に拘泥するものだ」といって批判したのよ
『エンチクロペディー』から引用したのは偉いけど、その本ちゃんと最後まで読んだの?

71:考える名無しさん
22/04/26 00:05:56 0.net
>>70
前にも書いたが、それがヘーゲルの自然哲学の大前提。
ものの実在を前提として理論を構築していくから”素朴実在論”だと言ってる。
そんなこともわからないのかよw

72:考える名無しさん
22/04/26 00:10:33 0.net
>>70
反論があれば書いといてね。
僕は眠くなったから、また明日。

73:考える名無しさん
22/04/26 01:04:40.11 0.net
案の定、ありがちな勘違いをしているわね…
ヘーゲルの方法は「提示と批判が一体化」したものなのよ
つまり彼はね、哲学的な議論をするときにはいつも、まず彼が批判したい何らかの哲学的立場をいったん前提として提示するの
そしてその次に、「その前提に従って考えを進めてゆくと、どうしても綻びが出てきてしまい、結局はその前提を維持できなくなってしまう」と示すことで、その前提を批判するのよ
いつだってその繰り返しなの

74:考える名無しさん
22/04/26 01:05:02.29 0.net
もちろんこれは『エンチクロペディー』にもいえることだわ
確かにあなたのいうとおり、彼は自然哲学について論じるとき、最初にいったん実在論的な考え方を前提として置いてはいるわ
でもそれはあくまで、後でそれを叩きのめすために、仮にそうしているだけなのよ
したがって、彼が「ものの実在を前提として理論を構築」していっていることは、彼の立場が実在論的であることを、決して意味しはしないのよ
それどころかむしろ、彼の立場は観念論的であるということになるわけね
(実際彼自身も「自分の立場は「絶対的観念論」だ」と言っているわね)
残念だけど、あなたはまだまだ、ヘーゲルを読めるレベルに達していないと思うわ

75:考える名無しさん
22/04/26 07:25:22.57 0.net
「ものの実在を前提として理論を構築していくから”素朴実在論”だ」
この主張自体がものの「実在」に固執拘泥しているように見える。そして「理論」という言葉を用いるならば、またヘーゲルについて言うならば、何かしらの理論が何かしらの実在に受け返されるようにも言わなければヘーゲルの主張の半分未満しか述べられていないように考えられるがどうなんだろうかね

76:考える名無しさん
22/04/26 07:28:28.27 0.net
唯物論と素朴実在論ってどういう関係なんだろう。
「素朴実在論」ってカント的な、人間はモノに関しては現象しか認識できない
というテーゼを受けたものだよな?

77:考える名無しさん
22/04/26 09:08:01.42 0.net
>>74
君はヘーゲル読んでないだろw
解説本を読み散らかして、俗っぽいヘーゲル像を真に受けてるだけだもんね。
僕が引用した部分のあとの数ページだけでもいいから、自分で読んでごらんよ。

78:考える名無しさん
22/04/26 09:10:05.05 0.net
>>75
そこにあるものを有ると認めるのが素朴実在論。
そこにあるものが実在しないと主張するのが観念論。
どこにもないものを存在すると主張するのも観念論。

79:考える名無しさん
22/04/26 09:17:21.43 0.net
>>76
そもそも素朴実在論なる理論は、観念論者の他を貶めたい藁人形論法であって、もともと存在しない。
唯物論という呼び方が適切だが、僕は観念論者に付き合って、”素朴実在論”と言ってあげてる。
カントについていえば、物自体という概念を設定したことが無意味の始まりだが、それを捨てればデカルト的経験論と倫理の融合になるだけとも言えるだろう。
ちなみにハイデガーは、その物自体の正体を追求しようとして空中分解した。

80:考える名無しさん
22/04/26 13:13:29.48 0.net
素朴な思い付きだけど、
カントとヘーゲルを対比するとしたら、
前者が二元論(物と物自体、形式と内容)で、
ヘーゲルが一元論(唯物論、精神駆動、国家主義)という感じ?

81:考える名無しさん
22/04/26 18:15:23 0.net
>>76
関連する存在論的諸概念の定義を整理するとしたら、こんな感じになるかしら

・実在論:現象の実体を実在とする立場
 ・唯物論   :実在論のうち、実在の性質を物質的とする立場
 ・観念実在論 :実在論のうち、実在の性質を観念的とする立場
 ・素朴実在論 :実在論のうち、現象の有様を実在の性質の反映とする立場
・観念論:現象の実体を観念とする立場
 ・絶対的観念論:観念論のうち、観念の性質を実在的とする立場

これに従うとすると、「唯物論ならば素朴実在論である」とは言えるわね
実在の性質を物質的だとみなすなら、"あらぬもの"(*)に対してさえも、それを必然たらしめる何らかの物質的実在があると、考えなければならないわ
そうすると結局、唯物論はどこまでも、「物理的実在で現象を規定する」という考え方だということになる
でもそれは「現象の有様を実在の性質の反映とする」という考え方に他ならないんじゃないかしら?

*悟性的認識は可能だが感性的直観は不可能なもの
 言い換えれば、思い浮かべることはできるのに、目で見ることはできないもの
 (例えば「現在のフランス王」…唯物論はその実在を否定することができないだろう)

82:考える名無しさん
22/04/26 18:16:04 0.net
(続)

まあでもその逆、すなわち「素朴実在論ならば唯物論である」だけど、これは言えなさそうね
素朴実在論は唯物論だけでなく観念実在論とも両立可能なんじゃないかと私は思うわ

そして結局「観念実在論ならば素朴実在論である」(しかしその逆は真ならず)ということにもなる気がするわね

…あ、あと、素朴実在論の概念史ね
そこまでは私も流石によくは分からないわね
ただ、素朴実在論はヒュームに相当分が悪い立場のはずだから、カントが出てくる前から蔑まれていた可能性は十分ありそうだなって思うわ

83:考える名無しさん
22/04/26 18:22:08.18 0.net
>>80
だいたいそれでいいんじゃないの?
唯物論は絶対的観念論に変えた方が良いと思うけど

84:考える名無しさん
22/04/26 22:19:50.25 0.net
>>81
なんだそれ?
自分で自分勝手な定義と分類をして、「これに従うとすると」はないだろw
実在であれば実在としての性質があるに決まってるだろ?
観念論というのは主観的(自分の好み)ということ。
つまり、概念は自由自在に、いかようにも規定できてしまう。
くだらなすぎ。

85:考える名無しさん
22/04/26 22:31:07.53 0.net
マルクスのヘーゲル国法論批判は初っ端から法の哲学の一文が長い引用で、ガッツリ脳味噌使いそうだわ。

86:考える名無しさん
22/04/29 14:10:18 0.net
>>84
別に私は「自分勝手」に概念整理をしたわけではないわ
知ってのとおり、真理論には様々な立場があるわけだけど、できるだけ多くの立場からみて問題ないように定義したつもりよ
だから私は、その概念枠組は、実際の哲学議論における一般的な用いられ方と「対応」しているとも、そのなかの各命題が他の命題と「整合」的であるとも、哲学論文を読み解いていく上で「有用」であるとも、理性的存在者との間で「合意」が成り立ちうるものであるとも、現時点では思っているわ
それでもそれが恣意的な分類の結果だというのなら、どの真理論上の立場からみて、どの点がふさわしくないと思うのか、根拠を挙げて、具体的に説明してほしいわね
もし説明できないなら、あなたも私と同じように、私の概念整理に従って考えたほうがいいと思うわよ

少なくともそのレスでは何の反論にもなっていないわよ
「実在であれば実在としての性質があるに決まっている」と言うけど、そもそもその論点(「実在であれば実在としての性質があるといえるかどうか」)が、私の概念整理が恣意的かどうかどうかとは無関係ね
個人的には「実在を無性質とする実在論があってもいいんじゃない?(西田幾多郎とかそのタイプじゃない?)」とか思いはするけど、少なくとも今回の議論においては、それはどうでもいいことなのよ
あと、「観念論では概念をいかようにも規定できてしまう」という観念論理解は、一般的な観念論理解と明らかに対応していないわ
真理を定義可能とする真理論をもつ観念論は、プラトンとかカントとか、いくらでもあるわよ

何の具体的根拠もなく、自分が気に入らないというだけで、相手の考えを「くだらない」と切り捨てる姿勢こそ、くだらないなと思うわね

87:考える名無しさん
22/04/29 14:11:31 0.net
ちなみに、素朴実在論がとれる真理論は対応説だけど、ヘーゲルの真理論は一般に整合説とされているわね
『岩波哲学・思想事典』の「真理」の項目にはこうあるわ

「カントの悟性認識の立場を批判して理性の立場を主張するヘーゲルは「真なるものは全体である」として整合説への傾斜を強める。ヘーゲルは真理を不変不動のものとせず、否定を媒介にして弁証論的に発展するものと捉える。その発展の運動の整合的全体が真理なのである。彼にとって矛盾は真理の対立概念ではなく、むしろ真理の運動の原動力にほかならない」(野家啓一)

88:考える名無しさん
22/04/29 16:49:41.91 0.net
>>86
>できるだけ多くの立場からみて問題ないように定義したつもり
君は哲学を多数決だとでも思ってるの?w
>どの真理論上の立場
哲学にそんなものはない。
あるのは事実を事実として認める立場と、事実を事実ではないと否定する立場だけ。
それが唯物論と観念論。

89:考える名無しさん
22/04/29 16:52:57.59 0.net
>>86
>そもそもその論点(「実在であれば実在としての性質があるといえるかどうか」)が、私の概念整理が恣意的かどうかどうかとは無関係
なに言ってるの?w
実在であれば実在としての性質がある、ということ以上の概念整理などありえない。
他のいい方はただ言葉ではそう言えるというだけのことで、完全に無意味な概念。

90:考える名無しさん
22/04/29 16:55:49.54 0.net
>>86
>一般的な観念論理解と明らかに対応していない
観念論に一般的な理解などない。
一人一説、つまり、自分勝手に概念を規定し、それを文法的に言葉をつなげることで説明と称しているだけ。
ルールのない言葉でなにを説明しても、事実にも真実にもつながらない。

91:考える名無しさん
22/04/29 16:57:41.94 0.net
>>87
君には哲学事典がお似合いだが、それは事実も真実も示すことはない。
石を食べたら美味しかった、という言葉に個人の趣味以上の観念が含まれていないのと同じこと。

92:考える名無しさん
22/04/29 17:03:43.28 0.net
>>87
前にも指摘したが、君は解説本を頼りに哲学を理解しようとしている。
それでは誰の哲学でも理解するのは無理。
かつては学問の花形ともいわれた哲学が、現在では社会から取り残され、ただバカにされるだけの学問になり下がったのは、言葉さえつながっていればそれが論理だと言い張る哲学専門家たちの愚かさからくることぐらいは知っておいた方がいい。
事実ではなく思考を絶対視していれば、一人一説の思い付きの羅列になるだけなのだ。

93:考える名無しさん
22/04/29 17:22:01.13 0.net
日本語でおk

94:考える名無しさん
22/04/29 17:26:56.97 0.net
>>93
>>88-92 に対して言ってるんなら、日本語が理解できてないのは君ってことになるよ?
でも、僕は親切だから、どこが分からないのかを言ってくれれば、きちんと説明してあげる。

95:考える名無しさん
22/04/29 17:45:18.78 0.net
それを説明してもらえるほどの価値が自分にあると思ってて草

96:考える名無しさん
22/04/29 19:36:13.96 0.net
横から見てたけど、ちょっと疑問に思ったから抜粋して見る。
・「そもそも素朴実在論なる理論は、観念論者の他を貶めたい藁人形論法であって、もともと存在しない。
唯物論という呼び方が適切だが、僕は観念論者に付き合って、”素朴実在論”と言ってあげてる」
・「そこにあるものを有ると認めるのが素朴実在論。
そこにあるものが実在しないと主張するのが観念論。
どこにもないものを存在すると主張するのも観念論」
・「あるのは事実を事実として認める立場と、事実を事実ではないと否定する立場だけ。
それが唯物論と観念論」

これらも全部自分勝手に意味を設定した一人一説(自分勝手に作った造語?)じゃないのかと思われる。いや、そうじゃない、と言える根拠がわからないし、それこそ思いつきの羅列では、という。ゆえに「合意」や「有用性」による意味の分類の方が正しく見える。

97:考える名無しさん
22/04/29 21:07:43.68 0.net
>>96
実在以外のものが存在すると思ってるの?
実在=存在。
それを認めないのが観念論。
それだけのことだよ。

98:考える名無しさん
22/04/29 21:48:43.38 0.net
で?

99:考える名無しさん
22/04/29 21:50:34.31 0.net
>>98
それだけだと言ってるんだけど?
他になにを聞きたいの?

100:考える名無しさん
22/04/29 21:57:54.20 0.net
そう考える理由を述べよ

101:考える名無しさん
22/04/29 22:07:06.44 0.net
>>100
考えるんじゃなくて、存在とは実在のこと。
他に幽霊みたいな存在があるわけないだろ?
だから、幽霊みたいな存在を設定したがる人を観念論だと言って、頭の中で自由自在になんでも作り上げられるものだと言ってる。
ちなみに、たとえば重力波(的なもの)などは、詳細がわかっていないだけで、実在するからねw

102:考える名無しさん
22/04/29 22:15:03.25 0.net
で?
なんで存在は実在なの?

103:考える名無しさん
22/04/29 22:21:48.33 0.net
>>102
言葉の定義。
哲学としての思考は、つねに事実や実在に戻らないとただの空想になってしまう。
それは言葉というものがそれ自体では事実や実在とは無関係に存在しうるからだ。
言葉そのものは、音であったりインクの染みであったりという実在そのものだが、そこから意味を受け取るときには、そうした実在とは無関係に、”意味”だけを受け取ることができる。
言葉は、その”意味”だけを絡み合わせていくこともできる。
だから、事実や実在とは無関係な言葉のつながりが、あらたな”意味”を構成してしまうことがある。
それが観念論だ。
ヘーゲルは、つねに言葉を事実や実在に引き戻していた。
彼にとっては、”神”もまた実在なのだ。

104:考える名無しさん
22/04/29 22:25:20.51 0.net
で?
それがさっきまでの議論とどう関係しているわけ?

105:考える名無しさん
22/04/29 22:27:04.63 0.net
話のそらし方凄いなw

106:考える名無しさん
22/04/29 22:35:35.28 0.net
なぜそういう言葉の定義が適切だと思うのか、その理由を述べよ、と再三言われているのに、未だに何の説明もないわね…

107:考える名無しさん
22/04/29 22:37:20.91 0.net
>>104
え?
どこが関係ないと思うの?

108:考える名無しさん
22/04/29 22:40:26.03 0.net
>>106
定義というのは説明するものではないよw
決めごと。
君は、それすら理解できないの?
実在=存在という定義を否定したければ、違う定義、つまり存在とはこういうものだという定義を示せばいい。

109:考える名無しさん
22/04/29 22:40:55.86 0.net
>>105
どの話がそれてると思うの?

110:考える名無しさん
22/04/29 22:43:16.54 0.net
>>106
実在、という言葉の意味はわかるよね?
存在、という言葉の意味も分かるよね?
その二つには違いがあるから、実在=存在という定義は成り立たないと言いたいなら、どこが違うのかを指摘してね。

111:考える名無しさん
22/04/29 22:45:53.90 0.net
>>108
え、いや、あなた、じゃあなんで、>>84で私の概念整理を「自分勝手」だと批判したの?

112:考える名無しさん
22/04/29 22:48:14.51 0.net
>>111
君が並べたのは定義ではないw
君の分類だ。

113:考える名無しさん
22/04/29 22:49:24.28 0.net
わ、わけがわからないわ…(呆れ)

114:考える名無しさん
22/04/29 22:52:13.50 0.net
>>113
定義と分類の区別がつかないとか、あたま悪すぎだと思う。
君に哲学は無理。
何回も指摘したけど、哲学はまず言葉を整理することから始めないと、つねに現実を失っていくことになる。
「語りえぬものは語ってはならない。」

115:考える名無しさん
22/04/29 22:53:32.24 0.net
?????

116:考える名無しさん
22/04/29 22:55:23.08 0.net
>>115
哲学事典で、ウィトゲンシュタインの項目読んでおいた方がいいよ。

117:考える名無しさん
22/04/29 23:11:56 0.net
ヴィトゲンシュタインはそんなこと言ってないわね…
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とは言ったけど…
というかそれ以前にその章句の意味を大きく間違えてそうね…

118:考える名無しさん
22/04/29 23:12:32 0.net
>>117
君って言語ゲームすら知らないだろw

119:考える名無しさん
22/04/29 23:18:57 0.net
>>117
ごめん、ちょっといじめ過ぎた。
せっかくのGWなのに、不愉快な思いをさせて申し訳なかった。
君が哲学に興味を持つことを邪魔する気はなかったけど、性悪男なんで勘弁。

もう僕は引っ込むから、あとは好きに書き込んで。

120:考える名無しさん
22/04/29 23:29:46.62 0.net
ウィトゲンシュタインは知らないけど、人格攻撃したその次には倫理的当為を持ってきて、いったいどういう精神状態で書き込んでるのかというね。それにウィト前期の話からいきなり後期の話にも飛んでめちゃくちゃ。
正直傍から見てて不快だったから二度と現れないでほしい

121:考える名無しさん
22/04/29 23:31:14.18 0.net
さ、最後まで、まったく意味が分からなかったけど…
えーと、もう書き込まないのね?
好きに書いていいのね?

死ね

122:考える名無しさん
22/04/30 00:37:06.47 0.net
杜玖椀の奴隷になってしまったことを自覚できていないようだね

123:考える名無しさん
22/05/02 22:49:02.44 0.net
ハリセンボンノーマスユビキッタ🐡

124:考える名無しさん
22/05/08 20:46:31 0.net
まずヘーゲルは、「有を絶対者としたのがパルメニデスで、無を絶対者としたのが仏教だ」と解釈した
もちろん実際はパルメニデスにも仏教にも異なる解釈の余地が十分にあるのだが、少なくともヘーゲルはそう解釈した
そしてそのうえで、そのどちらにもつかず、有と無の統一としての”成”を絶対者とした
つまり、実在(不生不滅で不動不変の一なるもの、真にあるもの)でも存在(生成消滅運動変化する多なるもの、単にあるもの)でもなく、その二つを一つにまとめあげてゆく”運動”(物質なしでは考えられない観念)こそが真理なのだと考えた
これこそが絶対的観念論だ
したがってヘーゲルは、実在と存在の同一性を何の正当化もせずに主張することも、自説を素朴実在論だと認めることも、決してないと考えられる

125:考える名無しさん
22/05/08 20:50:18.30 0.net
>>124
むちゃくちゃなまとめ方だなw

126:考える名無しさん
22/05/08 21:04:44.93 0.net
なんだ性悪男くんまだ生きてたのか
もちろん何の根拠もない単なる罵倒にまともに相手をする気はないが
できれば「デカルト的経験論」(>>79)なる抱腹絶倒不可避のワードについてそろそろ解説してくれ(笑)

127:考える名無しさん
22/05/08 21:11:20.17 0.net
>>126
デカルトが経験論以外のなんだと思ってるの?w

128:考える名無しさん
22/05/08 21:58:22.24 0.net
高校の倫理の時間では合理論って言われない?

129:考える名無しさん
22/05/08 22:03:56.08 0.net
>>128
知らないが、高校の倫理になにか意味があるの?

130:考える名無しさん
22/05/08 22:10:57.97 0.net
>>129
大卒かつ哲学科卒が一般的だとは思わないから高校を目安にしてみた。

131:考える名無しさん
22/05/08 22:23:01.70 0.net
>>130
哲学科卒ほど、社会から取り残される人も少ないよね。
日本語が通じないから、会社勤めができない。
自分が真実を追求してるという妄想に浸っているから、根拠なく自分が正しいと思い込んでる。
そこにあえるものをそこにはないと言い張るから、他人は離れて行く。
大学教員になるしか生活の道が無いから、担当教員へのゴマすり術だけは超一流。
大学の掃きだめといわれるのが哲学専攻だったりするのかな?

132:考える名無しさん
22/05/08 22:26:08.77 0.net
>>131
そこまでヤバいところだとはおもってなかった。
俺は哲学科卒でも文学部卒でもないけど、哲学史を自学自習するのは大変だと思う。

133:考える名無しさん
22/05/08 22:28:50.10 0.net
騙す方も騙す方、騙される方も騙される方

134:考える名無しさん
22/05/08 22:32:23.67 0.net
なるほどこれが波平か

135:考える名無しさん
22/05/08 22:35:22.62 0.net
何はともあれ、ヘーゲルを自力で読める人は凄いと思う。

136:考える名無しさん
22/05/08 22:39:15.17 0.net
>>132
哲学というのは支配の学問。
支配者に見捨てられた哲学はただのゴミ。
哲学史はとりあえずヘーゲルがお勧め。

137:考える名無しさん
22/05/09 08:07:13.79 0.net
法学は支配の学問である哲学から分離して新たな支配の学問になったのか。

138:考える名無しさん
22/05/09 08:48:47.99 0.net
そもそも哲学を支配の学問だとする見方が偏狭すぎる。
正義を捏造するための工作に利用されることもあるが、それを解明するのもまた哲学だ。
例えば、アウグスティヌスの哲学は、キリスト教正統教義を確立させ、ローマ=カトリック教会によるヨーロッパ支配に一役買った。
しかし、まさにその哲学に含まれていた、信仰の個人主義的な側面を強調したり、教会さえも世俗的なものと看做したりする考え方は、後の教会批判や宗教改革といった、教会支配に対抗する様々な運動の有力な論拠ともなった。

139:考える名無しさん
22/05/09 09:38:37.52 0.net
また、「支配者に見捨てられた哲学はただのゴミ」とあるが、そうした見方、すなわち歴史の中で否定された過去の哲学を無意味なものと看做す考え方は、明らかに反ヘーゲル的だ。
新しい哲学というものは、過去の哲学における認識の限界を打ち破ることによって初めて生まれるものなのだから、新しい哲学を作るためには過去の哲学を学ばなければならないし、またその過去の哲学を学ぶためにはそのまた過去の哲学を学ばなければならない、したがって諸々の過去の哲学はすべて意味があるのだと、彼は考えた。
これを「弁証法的発展」という。

140:考える名無しさん
22/05/09 09:42:26.32 0.net
「哲学の歴史を見ると、或る体系が他の体系によって、もっと厳密に言えば、より先の体系がより後の体系によって反駁されており、そしてこのことは非常にしばしば誤解されているが、こうした反駁の本当の意味は、右に述べたような関係にあるのである。
 或る哲学が反駁されたと言うと、人々は普通それを抽象的に否定的な意味にのみ理解し、反駁された哲学はもはや全く成立せず、それは片づけられてしまったと考える。
 もしそうであったら、哲学史の研究というものは全く憐むべき仕事と言わなければならないであろう。
 というのは、哲学史を研究すると、歴史上あらわれた哲学体系で反駁されなかったものは一つもないことがわかるからである。
 しかし、あらゆる哲学が反駁されたことを承認しなければならないと同じ程度に、一つの哲学も反駁されなかったし、また反駁されえないと主張しなければならない。
 このことは二つの意味においてそうであって、一つには、哲学の名に値するあらゆる哲学は、理念一般をその内容として持っているという意味でそうであり、もう一つには、どの哲学体系も理念の一つの特殊な契機あるいは段階の表現であるという意味でそうである。
 だから或る哲学を反駁するとは、その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的な契機へひきさげることを意味するにすぎない。
 したがって哲学の歴史は、その本質的な内容からみれば、過ぎ去ったものをではなく、永遠で絶対に現存的なものを取扱うのであり、その成果は人間の精神が犯したさまざまの過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパンテオンに比すべきものである。
 そしてこれらの神々の姿は、弁証法的発展をなして次々とあらわれる理念の諸段階である」(『小論理学』)

141:考える名無しさん
22/05/09 10:06:02.57 0.net
あと、ヘーゲルの哲学史なら『哲学史講義』だろうが、初学者にはおすすめできない。
『精神現象学』とかと比べるとそこまで難解ではないはずだが、如何せん西洋中心史観と進歩史観のバイアスが強すぎる。
個人的には熊野純彦の『西洋哲学史』が初学者には良いと思う。

142:考える名無しさん
22/05/09 10:12:30.53 0.net
熊野さんの西洋哲学史も岩崎さんの西洋哲学史も読みましたが、
全然頭に残ってませんw

143:考える名無しさん
22/05/09 10:41:08.16 0.net
読んだ気もするが、印象にすら残っていない

144:考える名無しさん
22/05/09 11:24:56.58 0.net
熊野訳の精神現象学は序文と序論だけ読んだが長くて内容が濃いせいで閉口した。
本文は読んでいない。
長谷川訳の哲学史講義は170ページ読んだが、こちらも歯ごたえがあった。

145:考える名無しさん
22/05/09 12:18:44.24 0.net
まあ確かに、熊野氏の『西洋哲学史』は、一読しただけで「印象」に残る本かと言われると、かなり微妙だと思う。
読み手に対し、それぞれの哲学者に関するまとまった知識を敢えて与えずに、そういった知識を哲学史として再構成するための見取り図だけを提示するという、入門書としては珍しいスタイルを取っているから。
たぶん「読み手自身で原著にぶつかって考えてほしい」という著者の思いがあるのだろう。
したがって、初学者の中でも、すでに自分なりの哲学的な問題意識を持っていて、それについて自分自身で深く考えてみたいと思えている、やる気満々なタイプの人には、この上なく向いている。
しかし、自分の問いたいことがまだ見つかっていないとか、自分で考える前に知識を蓄えておきたいとか、むしろやる気を起こさせてほしいとか、そういうタイプの初学者には、それほど向いていないのだろう。
さてそうなると、後者のタイプの初学者におすすめできる哲学書はないのか、ということになるが…
残念ながら、私にはすぐには思い浮かばなかった。
永井均の『倫理とは何か』は良いと思うのだが、あれは一応「倫理学」書だからなあ…

146:考える名無しさん
22/05/09 21:38:29.94 0.net
ヘーゲルの文章の難しさの原因は、
文章量のわりに言いたいことが凝縮されているからなのだろうか。

147:考える名無しさん
22/06/17 22:48:41.95 0.net
URLリンク(cdn1.18pfun.com)

148:考える名無しさん
22/06/18 21:23:00.83 0.net
知泉書館のヘーゲル全集の装丁いいよね。
法哲学綱要だけ買おうかな…。

149:考える名無しさん
22/06/18 21:24:39.36 0.net
>>147
なにこれ?
タイトル教えて。

150:考える名無しさん
22/06/25 21:49:27.42 0.net
長谷川訳の法哲学講義は原著のテキストがいわゆる法哲学綱要とはそもそも異なるんだね。

151:考える名無しさん
22/06/25 21:55:29.12 0.net
あ、法哲学要綱か。

152:考える名無しさん
22/06/25 21:56:59.44 0.net
どっちにしても、ヘーゲル自身が書いたわけじゃないんだろ?

153:考える名無しさん
22/06/25 22:03:05.94 0.net
ヘーゲルの講義ノートなんだっけ?

154:考える名無しさん
22/06/25 22:05:02.32 0.net
要綱はそうだったと思う。

155:考える名無しさん
22/06/25 22:07:31.12 0.net
本文はどちらもヘーゲル本人の著作で、
ヘーゲル全集とかの方はホトーとグリースハイムによる補遺が付されている。
長谷川訳のは、補遺がない代わりに講義の実況中継みたいな講義録?が付されている。
だから長谷川訳のほうが読んでてわかりやすいはず。

156:考える名無しさん
22/06/26 10:33:54.50 0.net
>>155
ノートに様々な補足が加えられてるから、ヘーゲル本人の著作であるにしても、ヘーゲル本人が書いたとも言い難い。
ヘーゲルは基本講義録ということになるんじゃないの?

157:考える名無しさん
22/06/27 00:06:56.53 0.net
まあ、そやね。
長谷川訳は原著のテキストが違うので読みやすいと言いたかった。

158:考える名無しさん
22/07/01 22:53:10.62 0.net
ヘーゲル講義録の翻訳状況。
URLリンク(okochi-t.hatenadiary.org)

159:考える名無しさん
22/10/14 07:08:55.79 0.net
最近になって精神現象学がなぜgeistの物語なのかを理解できた気がする。一年間ほど孤独にテキストに向き合ってきたけど、一人だと相当効率悪いね~…

160:考える名無しさん
22/11/10 03:06:08.37 0.net
ヘーゲルならどう思うか考えてる
自己意識が消えるとは
URLリンク(i.imgur.com)

161:考える名無しさん
22/12/06 13:14:57.86 0.net
てす

162:考える名無しさん
22/12/06 13:17:27.76 0.net
>>160
くだらね

163:考える名無しさん
22/12/08 09:47:44.58 0.net
カントと比較すれば分かりやすい
カントはキリスト教の三位一体は認めなかったがヘーゲルはそれこそ啓示の核心だとした
カントは彼岸(物自体)と此岸(現象)の区別に立脚したがヘーゲルは彼岸を信仰の一契機
としてしか認めず、それも啓蒙主義によって止揚されるものとした
よって全体を体系化することで内在性の哲学を確立した(彼岸の否定)
カントはニュートンに影響を受け悟性(形式論理)に執着し、二律背反に立ち止まり
そこから一歩も出なかったが、ヘーゲルは悟性を超えた理性(弁証法、思弁)によって
乗り越えられるものとした
カントは概念を純粋概念としてしか把握しなかったが
ヘーゲルは概念を絶対概念として把握した(真無限)
ヘーゲルは概念こそ存在を生み出すものとして、真の実在性の位置を与えた(絶対的観念論)
カントは実体をスピノザと同じように把握したが、ヘーゲルは実体は自分は動かずに
他者を動かすものに止まらず、自分を分割して規定し(否定し)、その区別の中で
自己同一であり続ける(自分に帰る)、主体的なものとした
ここに実体は主体化されるものとした
その歴史的現象の最大のものが、イエスの受肉、死、復活とされた

164:考える名無しさん
22/12/08 10:10:20.37 0.net
カントは歴史を哲学しなかった
ヘーゲルは歴史哲学と言ってもよいほど歴史を哲学体系のかなめに置いた
カントは人間の認識能力を感性、悟性、理性と区分したのはよいが並列的に置いただけだった
ヘーゲルは、感性、悟性、理性の順に真理に近づくものとして差別した
それは自然より精神をより真理に近いものとしたのと同様だった
カントは論理的には人間は真理に到達できないが実践的(道徳的)にはそれが可能だとした
道徳律(定言命令)に従って行為することがそれであるが、ヘーゲルはそれは抽象的すぎ
具体的な場面にそれを適用することは出来ない、道徳には他の道徳が対立するからと主張した
カントは有限な人間は完成された道徳的人間には一生の内にはなれないからこそ来世で
永遠にそれを目指して努力するために、魂の不死、神の存在、自由意志の存在が絶対的に
要請されるとした
ヘーゲルは現在こそ永遠が成就されているものとした

165:考える名無しさん
22/12/08 10:33:50.57 0.net
カントは希望の哲学であり、現代社会の理想主義を支える思想(国連主義)
ヘーゲルは悟りの哲学であり、哲学的志操を持つ人にとって最大の魅力を持つ哲学であるが
しょせん、普通の人には一生の内にそれを完全に理解する能力がない
ヘーゲルは言う、光に成れない(哲学を理解されない)程度に応じて光を信ぜよ、と
哲学を信ずるとは、キリスト教を信ずるということだ、ただしヘーゲル的なキリスト教
それは神は存在するが、彼岸は無い、魂も肉体の死によって消える
歴史上のキリスト教は人間の表象の上に構築されたものにすぎない
その表象を概念に翻訳したのがヘーゲル哲学体系
神(論理学)が自己否定して自然を創造し、やがて自然の中から人間精神が生れ
人間の歴史の果てに絶対知を見出し、神に帰るという永遠の円環

166:考える名無しさん
22/12/08 10:38:02.13 0.net
>>165
それだと事実上唯物論だよね?

167:考える名無しさん
22/12/08 10:55:45.65 0.net
ヘーゲルは人は経験したものしか認識できないというカントの哲学に忠実だった
だから絶対知の出現は、人間の経験の総体、歴史の終わりにしか出現しないはずである
ヘーゲルは歴史を終わらせた、という非難がそれ以後の思想家に共通の合言葉であった
確かにヘーゲルの時代は、今日に続く近代のパラダイム(近代国家の原理、科学技術、資本主義)
の基本的なものが出そろった時代であった、しかしこの近代の内に含む矛盾が今、噴き出して人類の
存続を脅かしている、その点ではヘーゲルの弁証法は生きている
しかし世界史の動向は国家の力をしてはどうしようもないと、絶対者の世界審判に委ねて
それも人類の運命と傍観するヘーゲルであった
それはあくまで学に忠実であろうとするヘーゲルの姿勢の結果だろう

168:考える名無しさん
22/12/08 11:07:51.61 0.net
>>166
ヘーゲルは唯物論ではなく、真に存在するものは神だけだとする唯神論だろう
我々人間ほか一切の自然物は神によって創造されたもの
創造するとは自分を自然として規定すること、規定することは、スピノザも言うように否定すること
だから一切の創造物は否定性をまとっていて、有限であることを免れない
そういう有限なものは真の存在ではない
ただ人間の精神だけが宗教によって神を見出し、神への精神的高揚によって
また同時に神の人間精神への降下によって相互関係を結ぶ
このことを概念によって理論化したのがヘーゲル哲学

169:考える名無しさん
22/12/08 11:12:28.69 0.net
彼岸、魂の不死にこだわるのは、あまりにも主観的なものに固執しているとヘーゲルは言う
それらは、精神の一つの契機にすぎないとヘーゲルは見る
だからそれらを実践理性の核心にしたカントの哲学は主観的観念論と呼ばれた

170:考える名無しさん
22/12/08 11:12:30.79 0.net
>>168
それは神は人間が作った、というのと同じことだと思うよ?

171:考える名無しさん
22/12/08 11:49:54.41 0.net
>>170
ブルーノバウアー、フォイエルバッハ、マルクスの系譜か

172:考える名無しさん
22/12/08 11:52:57.63 0.net
>>171
その人たちの思考を生み出したのがヘーゲル。
ヘーゲル哲学の胎内に、完全な唯物論が含まれていたということだろう。
まさに、ヘーゲル弁証法そのものだと思うな。

173:考える名無しさん
22/12/08 12:38:55.21 0.net
ヘーゲルは哲学の完成したもの、その後の哲学と称するものは、よって哲学ではない
ヘーゲル哲学の限界は哲学そのものの限界
それを敏感に感じ取ったのがマルクスであり、キルケゴールだったろう
マルクスは社会的客観的世界にそれを感じ、キルケゴールは実存的主観的世界にそれを感じ取った
キルケゴールはヘーゲルが真理という大宮殿を建てたがヘーゲル自身は
掘っ立て小屋で一生を暮らしたと嘆いた
両者ともヘーゲルを哲学の完成と認めたが、哲学に現実を変革する力がないことも知った
哲学という高みから野に降りて現実を変えなければならない
そのための有効な思想を渇望した
マルクスは自然主義とヒューマニズムに立脚し、資本主義批判としての資本論を書いた
それを現実に移し替えたソ連は70年後に崩壊し、中国共産党も鄧小平路線によって
ただの自由のない永遠のプロレタリア独裁国家になった、両者に共通することは、
アメリカに対抗する強国にするために生産至上主義、物質文明至上主義になったことだ
ヘーゲルは人間が神を否定して人間だけになった世界は、逆に人間は自分を見失うと警告した
ニヒリズム、権力主義、快楽主義の蔓延する現代社会は
その手段としてのテクノロジーによって人間そのものの機械化を究極にまで進めるだろう

174:考える名無しさん
22/12/08 13:19:24.40 0.net
>>173
>資本主義批判としての資本論
批判という言葉を分析と理解するならそのとおりだが、思想的な(主義に対する)批判としてとらえるなら、それは錯覚。

175:考える名無しさん
22/12/08 17:55:20.61 0.net
資本論は思想的に中立な書ではなかろう
その時はすでに共産党宣言を出した後なのだから

176:考える名無しさん
22/12/08 17:59:29.39 0.net
>>175
資本論は資本主義経済を分析したので、資本主義に対する好悪は関係がない。

177:考える名無しさん
22/12/09 10:00:50.56 0.net
てす

178:考える名無しさん
22/12/09 10:43:57.77 0.net
今年のノーベル物理学賞を受賞したのが量子コンピューターの開発に貢献した学者
量子の二重の性質(波と粒子)が人間が観察することで一つに決まるという
従来の化学ではあり得ない概念の発見はアインシュタインにまでさかのぼる
しかし悟性が究極的には人間の自己意識に止揚されること
自己意識の究極(不幸な意識)が観察する理性に止揚されることを証明したのはヘーゲル

179:考える名無しさん
22/12/09 10:45:41.39 0.net
訂正:化学→科学

180:考える名無しさん
22/12/09 12:19:46.99 0.net
「人間的認知の特殊性は、反省的諸機能が優勢になっている点にあります。
人間の脳では、内的伝達の軌道が外的伝達の軌道に対して十の七乗対一という
ほとんど考えられないような比で上回っています。
人間の脳は、比類のない自己言及の装置、つまり反省性の装置となりました。」
      (『ヘーゲル哲学研究』13 2007年 P102 )
「自我とはそもそも思惟に他ならない。私が、「私は考える」と言うとき、それは
同語反復なことである。自我は全く単純である。私は考えているのであり、
・・・我々が自我であるという意味では、我々は、我々がいつも考えている、と言えよう。
なぜならば自我とはいつも自分自身との単純な同一性であり、それがすなわち
思惟に他ならないのだから。」
       (『ヘーゲルのギムナジウム論理学』 P12)

181:考える名無しさん
22/12/14 10:22:01.30 0.net
カントとヘーゲルの違いは、その最初の頃の論文の両者の思考方法の違いを見ると分かりやすい
カントは、すでに大学卒論で、対立する両派のどちらにも加担せず、それぞれの立場の正しさを制限と
認めることで対立を発展的に解消する方法をとった
前体系期の『視霊者の夢』においても、形而上学は人間の理性の限界に関する学とし、
二つの相反する説明の間に自ら板挟みになって、身動き取れない状態に自らを追い込んで
カントはそのどちらにも全面的に加担しない、判断停止する思考方法をとった

それに対してヘーゲルは25才で最初に書いた論文「民族宗教とキリスト教」において
・人間的な気持ちの織りなす網の目の中に
・啓蒙は神聖な織物、人間らしい気持ちが織りなす薄織物を見落としてしまっている
・倫理的感情が、その繊細な糸を、この織物全体の中に送り込んで
・人間というものは実に多面的に出来ていて、人間の気持ちの多種多様に編み合わされた織物である
・この美しい糸を編んで上品な織物を編み上げることが民族宗教の仕事
と言うように、人間精神の全体を一つの織物という比喩で表現している
チュービンゲン神学校時代、ヘルダーリンやシェリングらと「ヘン・カイ・パン」(一にして全)を
合言葉にして哲学や宗教について思考を巡らせていたヘーゲルだった
このように、カントもヘーゲルも若くしてすでに体系期の特徴的な思考方法を胚胎している

182:考える名無しさん
22/12/24 06:35:33.45 0.net
愛ー人倫、倫理(男女、親子、家族、国家)
道徳ー社会
良心ー共に知ること(自己、他者、神)
善ー理念
絶対的理念(生命と認識の統一)
一にして全(全体こそ具体的なもの)
学問は体系でなければならない

183:考える名無しさん
22/12/27 03:17:23.72 0.net
現象の世界の中にこそ本質的な神が在るというのは、アリストテレスにも通じる思考だと思う

184:考える名無しさん
22/12/27 03:30:16.44 0.net
あと個人的に思うのは、量子力学のなかではコペンハーゲン解釈よりボーム解釈の方がヘーゲル的におもわれる。それは非主流派なのだが。

185:考える名無しさん
22/12/27 03:33:26.05 0.net
量子力学の波と粒の話になると弁証法の話がたまに見られるが、物理屋から見るとコペンハーゲン解釈のことのように思われる

186:考える名無しさん
23/01/03 06:26:53.11 0.net
カントはキリスト教の本質を山上の垂訓においた
ヘーゲルは三位一体においた


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