ヘーゲル・スレ Part2at PHILO
ヘーゲル・スレ Part2 - 暇つぶし2ch155:考える名無しさん
22/06/25 22:07:31.12 0.net
本文はどちらもヘーゲル本人の著作で、
ヘーゲル全集とかの方はホトーとグリースハイムによる補遺が付されている。
長谷川訳のは、補遺がない代わりに講義の実況中継みたいな講義録?が付されている。
だから長谷川訳のほうが読んでてわかりやすいはず。

156:考える名無しさん
22/06/26 10:33:54.50 0.net
>>155
ノートに様々な補足が加えられてるから、ヘーゲル本人の著作であるにしても、ヘーゲル本人が書いたとも言い難い。
ヘーゲルは基本講義録ということになるんじゃないの?

157:考える名無しさん
22/06/27 00:06:56.53 0.net
まあ、そやね。
長谷川訳は原著のテキストが違うので読みやすいと言いたかった。

158:考える名無しさん
22/07/01 22:53:10.62 0.net
ヘーゲル講義録の翻訳状況。
URLリンク(okochi-t.hatenadiary.org)

159:考える名無しさん
22/10/14 07:08:55.79 0.net
最近になって精神現象学がなぜgeistの物語なのかを理解できた気がする。一年間ほど孤独にテキストに向き合ってきたけど、一人だと相当効率悪いね~…

160:考える名無しさん
22/11/10 03:06:08.37 0.net
ヘーゲルならどう思うか考えてる
自己意識が消えるとは
URLリンク(i.imgur.com)

161:考える名無しさん
22/12/06 13:14:57.86 0.net
てす

162:考える名無しさん
22/12/06 13:17:27.76 0.net
>>160
くだらね

163:考える名無しさん
22/12/08 09:47:44.58 0.net
カントと比較すれば分かりやすい
カントはキリスト教の三位一体は認めなかったがヘーゲルはそれこそ啓示の核心だとした
カントは彼岸(物自体)と此岸(現象)の区別に立脚したがヘーゲルは彼岸を信仰の一契機
としてしか認めず、それも啓蒙主義によって止揚されるものとした
よって全体を体系化することで内在性の哲学を確立した(彼岸の否定)
カントはニュートンに影響を受け悟性(形式論理)に執着し、二律背反に立ち止まり
そこから一歩も出なかったが、ヘーゲルは悟性を超えた理性(弁証法、思弁)によって
乗り越えられるものとした
カントは概念を純粋概念としてしか把握しなかったが
ヘーゲルは概念を絶対概念として把握した(真無限)
ヘーゲルは概念こそ存在を生み出すものとして、真の実在性の位置を与えた(絶対的観念論)
カントは実体をスピノザと同じように把握したが、ヘーゲルは実体は自分は動かずに
他者を動かすものに止まらず、自分を分割して規定し(否定し)、その区別の中で
自己同一であり続ける(自分に帰る)、主体的なものとした
ここに実体は主体化されるものとした
その歴史的現象の最大のものが、イエスの受肉、死、復活とされた

164:考える名無しさん
22/12/08 10:10:20.37 0.net
カントは歴史を哲学しなかった
ヘーゲルは歴史哲学と言ってもよいほど歴史を哲学体系のかなめに置いた
カントは人間の認識能力を感性、悟性、理性と区分したのはよいが並列的に置いただけだった
ヘーゲルは、感性、悟性、理性の順に真理に近づくものとして差別した
それは自然より精神をより真理に近いものとしたのと同様だった
カントは論理的には人間は真理に到達できないが実践的(道徳的)にはそれが可能だとした
道徳律(定言命令)に従って行為することがそれであるが、ヘーゲルはそれは抽象的すぎ
具体的な場面にそれを適用することは出来ない、道徳には他の道徳が対立するからと主張した
カントは有限な人間は完成された道徳的人間には一生の内にはなれないからこそ来世で
永遠にそれを目指して努力するために、魂の不死、神の存在、自由意志の存在が絶対的に
要請されるとした
ヘーゲルは現在こそ永遠が成就されているものとした

165:考える名無しさん
22/12/08 10:33:50.57 0.net
カントは希望の哲学であり、現代社会の理想主義を支える思想(国連主義)
ヘーゲルは悟りの哲学であり、哲学的志操を持つ人にとって最大の魅力を持つ哲学であるが
しょせん、普通の人には一生の内にそれを完全に理解する能力がない
ヘーゲルは言う、光に成れない(哲学を理解されない)程度に応じて光を信ぜよ、と
哲学を信ずるとは、キリスト教を信ずるということだ、ただしヘーゲル的なキリスト教
それは神は存在するが、彼岸は無い、魂も肉体の死によって消える
歴史上のキリスト教は人間の表象の上に構築されたものにすぎない
その表象を概念に翻訳したのがヘーゲル哲学体系
神(論理学)が自己否定して自然を創造し、やがて自然の中から人間精神が生れ
人間の歴史の果てに絶対知を見出し、神に帰るという永遠の円環

166:考える名無しさん
22/12/08 10:38:02.13 0.net
>>165
それだと事実上唯物論だよね?

167:考える名無しさん
22/12/08 10:55:45.65 0.net
ヘーゲルは人は経験したものしか認識できないというカントの哲学に忠実だった
だから絶対知の出現は、人間の経験の総体、歴史の終わりにしか出現しないはずである
ヘーゲルは歴史を終わらせた、という非難がそれ以後の思想家に共通の合言葉であった
確かにヘーゲルの時代は、今日に続く近代のパラダイム(近代国家の原理、科学技術、資本主義)
の基本的なものが出そろった時代であった、しかしこの近代の内に含む矛盾が今、噴き出して人類の
存続を脅かしている、その点ではヘーゲルの弁証法は生きている
しかし世界史の動向は国家の力をしてはどうしようもないと、絶対者の世界審判に委ねて
それも人類の運命と傍観するヘーゲルであった
それはあくまで学に忠実であろうとするヘーゲルの姿勢の結果だろう

168:考える名無しさん
22/12/08 11:07:51.61 0.net
>>166
ヘーゲルは唯物論ではなく、真に存在するものは神だけだとする唯神論だろう
我々人間ほか一切の自然物は神によって創造されたもの
創造するとは自分を自然として規定すること、規定することは、スピノザも言うように否定すること
だから一切の創造物は否定性をまとっていて、有限であることを免れない
そういう有限なものは真の存在ではない
ただ人間の精神だけが宗教によって神を見出し、神への精神的高揚によって
また同時に神の人間精神への降下によって相互関係を結ぶ
このことを概念によって理論化したのがヘーゲル哲学

169:考える名無しさん
22/12/08 11:12:28.69 0.net
彼岸、魂の不死にこだわるのは、あまりにも主観的なものに固執しているとヘーゲルは言う
それらは、精神の一つの契機にすぎないとヘーゲルは見る
だからそれらを実践理性の核心にしたカントの哲学は主観的観念論と呼ばれた

170:考える名無しさん
22/12/08 11:12:30.79 0.net
>>168
それは神は人間が作った、というのと同じことだと思うよ?

171:考える名無しさん
22/12/08 11:49:54.41 0.net
>>170
ブルーノバウアー、フォイエルバッハ、マルクスの系譜か

172:考える名無しさん
22/12/08 11:52:57.63 0.net
>>171
その人たちの思考を生み出したのがヘーゲル。
ヘーゲル哲学の胎内に、完全な唯物論が含まれていたということだろう。
まさに、ヘーゲル弁証法そのものだと思うな。

173:考える名無しさん
22/12/08 12:38:55.21 0.net
ヘーゲルは哲学の完成したもの、その後の哲学と称するものは、よって哲学ではない
ヘーゲル哲学の限界は哲学そのものの限界
それを敏感に感じ取ったのがマルクスであり、キルケゴールだったろう
マルクスは社会的客観的世界にそれを感じ、キルケゴールは実存的主観的世界にそれを感じ取った
キルケゴールはヘーゲルが真理という大宮殿を建てたがヘーゲル自身は
掘っ立て小屋で一生を暮らしたと嘆いた
両者ともヘーゲルを哲学の完成と認めたが、哲学に現実を変革する力がないことも知った
哲学という高みから野に降りて現実を変えなければならない
そのための有効な思想を渇望した
マルクスは自然主義とヒューマニズムに立脚し、資本主義批判としての資本論を書いた
それを現実に移し替えたソ連は70年後に崩壊し、中国共産党も鄧小平路線によって
ただの自由のない永遠のプロレタリア独裁国家になった、両者に共通することは、
アメリカに対抗する強国にするために生産至上主義、物質文明至上主義になったことだ
ヘーゲルは人間が神を否定して人間だけになった世界は、逆に人間は自分を見失うと警告した
ニヒリズム、権力主義、快楽主義の蔓延する現代社会は
その手段としてのテクノロジーによって人間そのものの機械化を究極にまで進めるだろう

174:考える名無しさん
22/12/08 13:19:24.40 0.net
>>173
>資本主義批判としての資本論
批判という言葉を分析と理解するならそのとおりだが、思想的な(主義に対する)批判としてとらえるなら、それは錯覚。

175:考える名無しさん
22/12/08 17:55:20.61 0.net
資本論は思想的に中立な書ではなかろう
その時はすでに共産党宣言を出した後なのだから

176:考える名無しさん
22/12/08 17:59:29.39 0.net
>>175
資本論は資本主義経済を分析したので、資本主義に対する好悪は関係がない。

177:考える名無しさん
22/12/09 10:00:50.56 0.net
てす

178:考える名無しさん
22/12/09 10:43:57.77 0.net
今年のノーベル物理学賞を受賞したのが量子コンピューターの開発に貢献した学者
量子の二重の性質(波と粒子)が人間が観察することで一つに決まるという
従来の化学ではあり得ない概念の発見はアインシュタインにまでさかのぼる
しかし悟性が究極的には人間の自己意識に止揚されること
自己意識の究極(不幸な意識)が観察する理性に止揚されることを証明したのはヘーゲル

179:考える名無しさん
22/12/09 10:45:41.39 0.net
訂正:化学→科学

180:考える名無しさん
22/12/09 12:19:46.99 0.net
「人間的認知の特殊性は、反省的諸機能が優勢になっている点にあります。
人間の脳では、内的伝達の軌道が外的伝達の軌道に対して十の七乗対一という
ほとんど考えられないような比で上回っています。
人間の脳は、比類のない自己言及の装置、つまり反省性の装置となりました。」
      (『ヘーゲル哲学研究』13 2007年 P102 )
「自我とはそもそも思惟に他ならない。私が、「私は考える」と言うとき、それは
同語反復なことである。自我は全く単純である。私は考えているのであり、
・・・我々が自我であるという意味では、我々は、我々がいつも考えている、と言えよう。
なぜならば自我とはいつも自分自身との単純な同一性であり、それがすなわち
思惟に他ならないのだから。」
       (『ヘーゲルのギムナジウム論理学』 P12)

181:考える名無しさん
22/12/14 10:22:01.30 0.net
カントとヘーゲルの違いは、その最初の頃の論文の両者の思考方法の違いを見ると分かりやすい
カントは、すでに大学卒論で、対立する両派のどちらにも加担せず、それぞれの立場の正しさを制限と
認めることで対立を発展的に解消する方法をとった
前体系期の『視霊者の夢』においても、形而上学は人間の理性の限界に関する学とし、
二つの相反する説明の間に自ら板挟みになって、身動き取れない状態に自らを追い込んで
カントはそのどちらにも全面的に加担しない、判断停止する思考方法をとった

それに対してヘーゲルは25才で最初に書いた論文「民族宗教とキリスト教」において
・人間的な気持ちの織りなす網の目の中に
・啓蒙は神聖な織物、人間らしい気持ちが織りなす薄織物を見落としてしまっている
・倫理的感情が、その繊細な糸を、この織物全体の中に送り込んで
・人間というものは実に多面的に出来ていて、人間の気持ちの多種多様に編み合わされた織物である
・この美しい糸を編んで上品な織物を編み上げることが民族宗教の仕事
と言うように、人間精神の全体を一つの織物という比喩で表現している
チュービンゲン神学校時代、ヘルダーリンやシェリングらと「ヘン・カイ・パン」(一にして全)を
合言葉にして哲学や宗教について思考を巡らせていたヘーゲルだった
このように、カントもヘーゲルも若くしてすでに体系期の特徴的な思考方法を胚胎している

182:考える名無しさん
22/12/24 06:35:33.45 0.net
愛ー人倫、倫理(男女、親子、家族、国家)
道徳ー社会
良心ー共に知ること(自己、他者、神)
善ー理念
絶対的理念(生命と認識の統一)
一にして全(全体こそ具体的なもの)
学問は体系でなければならない

183:考える名無しさん
22/12/27 03:17:23.72 0.net
現象の世界の中にこそ本質的な神が在るというのは、アリストテレスにも通じる思考だと思う

184:考える名無しさん
22/12/27 03:30:16.44 0.net
あと個人的に思うのは、量子力学のなかではコペンハーゲン解釈よりボーム解釈の方がヘーゲル的におもわれる。それは非主流派なのだが。

185:考える名無しさん
22/12/27 03:33:26.05 0.net
量子力学の波と粒の話になると弁証法の話がたまに見られるが、物理屋から見るとコペンハーゲン解釈のことのように思われる

186:考える名無しさん
23/01/03 06:26:53.11 0.net
カントはキリスト教の本質を山上の垂訓においた
ヘーゲルは三位一体においた


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