朱子学と陽明学at PHILO
朱子学と陽明学 - 暇つぶし2ch2:考える名無しさん
21/09/09 14:36:25.95 0.net
唐・宋の時代に入り、徐々に士大夫層が社会に進出した。彼らは科挙を通過するべく儒教経典の知識を身に着けた人々であり、特に宋に入ると学術尊重の気風が強まった。
そのような状況下で、仏教・道教への対抗、またはその受容、儒教の中の正統と異端の分別が盛んになり、士大夫の中から新たな思想・学問が生まれてきた。
これが「宋学」であり、その中から朱子学が生まれた。

3:考える名無しさん
21/09/09 14:37:33.50 0.net
後醍醐天皇や楠木正成が熱心に学び、建武の新政における行動理念になった「朱子学」

4:考える名無しさん
21/09/09 14:38:28.33 0.net
朱熹は孔子に代表される古典や宋学に加えて、従来の儒学では考えられていなかった宇宙や世界などの概念を取り込み、儒教の再構築を図りました。
朱子学の基本は、世の中のすべてのものや事柄は「理」と「気」の2つからなるとする「理気二元論」というものです。「理」は万物がこの世に存在する根拠を指し、「気」は万物を構成する物質を指します。
両者はまったく別の存在ですが、お互いに単独では存在することができず、付かず離れずの距離で相互に作用しあう「不離不雑」の関係とされています。
また「気」は常に運動しているもので、運動量の大きな時を「陽」、小さな時を「陰」と呼びました。陰陽の2つの気が凝集して火・土・木・金・水の「五行」となり、その組み合わせによって万物が生み出されるとしたのです。「理」は根本的なもので、これらの「気」の運動に対し秩序を与える存在だと考えられました。
この「理気二元論」から朱熹が導き出したのが、「性即理説」です。「性」は人間の本質で、静かな状態のもの。「性」は「理」であるとしました。
しかしこの「性」が動くことで「情」となり、動きが激しくなってバランスを崩すと「欲」になると考え、「情」は「気」であるとしています。
また「欲」は悪であり、人は絶えず「情」をコントロールし、「性」に戻す努力をする必要があると説いているのです。

5:考える名無しさん
21/09/11 04:20:27.37 0.net
アメリカ独立革命は、ジョン・ロックの思想に基づいて行われた
ロシア革命は、カール・マルクスの思想に基づいて行われた
同じように、建武の新政は朱子学の思想に基づいていた

6:考える名無しさん
21/09/11 04:26:27.87 0.net
朱子学は江戸時代に幕府の官学となった

7:考える名無しさん
21/09/13 06:43:11.69 0.net
後醍醐天皇は、朱子学の理念を日本の政治で実現しようと試みた

8:考える名無しさん
21/09/13 06:44:47.55 0.net
日本では「朱子学」と呼ばれるが、中国では程伊川と朱子の学であるとして「程朱学」と呼ぶ

9:考える名無しさん
21/09/14 11:08:07.09 0.net
朱熹の理学は「格物致知誠意正心修身斉家治国平天下」を柱とする哲学であって
尊王攘夷という儒学以前の管仲が言い出した中華思想とは無関係
理気二元論も物事の法則である理と物事の存在そのものである気の関係性を問う哲学で
性即理は人間の性とは人間という存在の法則である理そのもの
窮理も格物致知を以って人間の理を極めること真理だという主張

10:考える名無しさん
21/09/14 13:24:11.78 0.net
程朱の性即理、陸王の心即理
並び称されている

11:考える名無しさん
21/09/14 13:51:28.71 0.net
性即理と心即理
一般人には、どこが違うのか分からないほど似たような思想
だが、儒者にとっては根本的な路線対立だ

12:考える名無しさん
21/09/14 14:04:15.71 0.net
【質問内容】
人間本来の性を「理」とする性即理と、人の心はもともと「理」を備えているとする心即理の違いが分かりません。
「本来の性」と「心」はどう違うのですか?
進研ゼミからの回答
こんにちは。倫理の学習に頑張っていますね。
ではいただいた質問にお答えします。

13:考える名無しさん
21/09/14 14:04:51.85 0.net
●性即理
朱子(朱子学)は理気ニ元論を唱え、万物は理と気によって成り立つとしました。
そして、朱子は、理はあらゆる事物を成り立たせる根拠であり、従うべき規範であるとしました。
この考えにたって、朱子は人間の心を人間に本来的に備わっている道徳的な本性と、各人がもっている気(情:感情や欲としてあらわれる心の動き)とに分け、本性に心の本体としての理を認めようとしました。
そして、天は理そのものであり、天からあたえられた人間の本性(本質)も理であるとして(性即理)、「人間本来の性」(人間の本性)を理であるととらえたのです。

14:考える名無しさん
21/09/14 14:05:12.41 0.net
●心即理
王陽明(陽明学)は、朱子学が人の心を性と情(気)に分けることは、心を解体することだと批判しました。
そのうえで、王陽明は理を人間の内部に見いだし、生まれながらの心がそのまま理であるとしたのです。つまり、人の心はもともと理を備えている(心即理)ということです。
性即理と心即理の違いは、性即理が心を性と情に分けて性(人間の本性)を理としたのに対し、心即理は、心は一つであるとし、心そのものを理としたことです。また、朱子学が理を天地万物に内在する客観的なものとしてとらえたのに対し、陽明学は理を人間の心のうちに見いだし、主体的な心が理を生みだすとしました。

15:考える名無しさん
21/09/14 14:05:22.46 0.net
また、朱子学の「本来の性」と王陽明の箇所に記載されている「心」の違いについてですが、上述したように、朱子学は「人間本来の性」(人間の本性)は万物を支配する客観的な理で、心の一部(本質)であり、一方、王陽明は生き生きと働く現実の心そのものが理であるとしたものです。

16:考える名無しさん
21/09/14 15:02:08.16 0.net
程朱は二元論、陸王は一元論というのが大きな違い

17:考える名無しさん
21/09/14 15:03:33.88 0.net
程朱は、世界を理と気の二元に分け、人間の精神を性と情の二元に分ける
だが、陸王はワンネス思想
分けることを好まない

18:考える名無しさん
21/09/14 19:15:26.84 0.net
"Phisics" という西洋の学問を導入するにあたり、近代初期の日本人は、「これは朱子学でいう格物窮理のことだな」と考え、「物理学」と訳した
逆にいえば、朱子学の格物窮理というのは、それくらい科学的な思考なんだってことが分かる

19:考える名無しさん
21/09/14 19:16:05.74 0.net
朱子学は明になって官学に指定されたが、思想界の現実の動きは
それの反省ないし批判に傾いた
すなわち、主知主義ないし理想主義の弱点は、理論倒れに終わることである
つまり畳の上の水練と同じで、実効がともなわない
明代になると、理論よりもまず実践が重要視された
明初の朱子学者呉与弼は、弟子とともに田を耕し、貧苦に耐えた
さらにその系譜につらなる学者に、坐禅をまねて静坐をとりいれた陳白沙がいる
読書よりも、直接の心の反省によって行為の実践を志したのだった
このことから、不立文字を唱えて行為を重んずる禅宗への接近がなされた

20:考える名無しさん
21/09/14 19:16:26.16 0.net
そういう全ての物事に対して格物致知を求める朱子学を批判して
理は心にある良知を追求すれば良いと主張したのが王陽明を始めとする心学の提唱者だけど
逆に近代の中国では朱子学にある自然科学の摂理への追求を否定して
道徳論に矮小化させた心学に対する批判が強い

21:考える名無しさん
21/09/14 19:16:48.14 0.net
近代の中国では、張横渠が「唯物論の先駆者」として高く評価された

22:考える名無しさん
21/09/15 07:08:16.30 0.net
南宋の儒、朱熹は、性理の論をもって異民族を下方に見た
「猿となると、形状が人間に似ているので、獣の中では最も利巧で、
言葉が喋れないだけだ。夷狄となると、人間と禽獣の中間にある。
それで結局、気質を変えることが難しいのだ」
禽獣も夷狄も人間(漢族)も、みな天理につながる理を素性として
もっているが、素質となる気に清濁がある。禽獣や夷狄は気が濁っている。
礼教によってこの濁りを晴らさねば、内なる理を澄ますことはできない。
つまり、「気質の性」を変えなければ、キタイやジュルチンやモンゴル等の
夷狄は決して中華の民になれないという。


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