自己とは「知覚の束」にすぎないat PHILO
自己とは「知覚の束」にすぎない - 暇つぶし2ch2:考える名無しさん
21/08/31 14:02:51.80 0.net
それはアレか?人は様々な人格が複雑に組み合わさったものであるって事?
情報が足りなすぎる。

3:学術@死廃狂鬼神舞幻妖呪魔術軍師悪魔召喚居士
21/08/31 15:00:29.30 0.net
知覚の束より遠くの花束。

4:考える名無しさん
21/08/31 15:26:02.11 0.net
自我とは、想像を絶する速さでたがいに継起し、絶え間のない変化と動きのただなかにある、たがいに異なる、知覚の束あるいは集まりである
デイビッド・ヒューム「人性論」

5:考える名無しさん
21/08/31 15:27:18.97 0.net
知覚の束 ヒューム
ヒュームの経験論の本質をなす言葉。客観的実在としての自我を否定し、自我の存在は習慣に基づく単なる主観的な「感じ」であることを表現した。
観念の外に実在する物体の存在を否定したバークリーの思想を推し進め、そのバークリーが実体と認めた精神や自我もまた次々に継起する知覚の集合にすぎないとした。
人はある物体を知覚する経験を繰り返すと、その物体についての主観的な印象を誤って客観化してしまう。
繰り返し様々な観念が現れると、その担い手として実体的な精神を想定してしまう。
また、因果法則も客観的な原理ではなく、ふたつの観念の習慣的な経験から生まれる主観的な印象であると説いた。

6:考える名無しさん
21/08/31 15:32:22.90 0.net
ユングもなんか似たようなことを
言っていたような

7:考える名無しさん
21/08/31 15:41:36.65 0.net
古代インド哲学にも似た話がある

8:考える名無しさん
21/08/31 15:42:53.82 0.net
自分の意識というのは、連続していない。パラパラマンガみたいなもんだってことだな
メチャクチャ速いから、連続しているように思える。アニメーションと同じだ

9:学術@死廃狂鬼神舞幻妖呪魔術軍師悪魔召喚居士
21/08/31 15:46:52.34 0.net
花が咲いて枯れるような。

10:考える名無しさん
21/08/31 15:47:33.16 0.net
不束者ですね

11:考える名無しさん
21/08/31 15:59:13.04 0.net
私は自らが身のほどをわきま(弁)へないふつつかもの(不束者)であることを
知っている。普通の人は、人が何をどのようにわきま(弁)へているのかを
暗黙に察知して、自らをそれに従はせようとする。私があ(敢)へてそのよう
にわきま(弁)へることを無視するのは、人が何をどのようにわきま(弁)へて
いるのか/いないのかを、暗黙にではなく、明示的に言語化して知りたいと
感じているからだ。

12:考える名無しさん
21/08/31 16:01:50.66 0.net
人はすぐに束になろうとする。

13:藁人形の呪ひ
21/08/31 16:05:25.57 0.net
茹でた大豆をその束のなかに仕込んでやったら、発酵して納豆ができるだろうか

14:考える名無しさん
21/08/31 18:50:31.28 0.net
第三者的に考察すれば自己とは知覚の束に過ぎなくても、人間のコミュニケーションは、人が相手にも自分にも人格なるものがある、と考えているからこそ成り立つ。
人格など錯覚、幻想に過ぎない、と言うのは自由だが、その錯覚、幻想があるから社会が成り立っている。
この意味で人格なるものは、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」式の単なる錯覚とは大いに趣を異にしている。

15:考える名無しさん
21/08/31 20:03:45.72 0.net
人はすぐに束になるが、それでもその束のなかで自らを我として
わきま(弁)へてしまうのです。

16:考える名無しさん
21/08/31 20:12:45.06 0.net
>>14
コミュニケーションが如何なる場合においても必然的に成り立つと言えるか

17:考える名無しさん
21/09/01 00:34:06.76 0.net
>>16
人間同士でも、言語が違えばなかなか難しいです
他言語を話す人種のことを(長い歴史の中では)人間は敵対視してきました
「自分とは違う言語を話すだけで、基本的な人間の成り立ちとしては同一のものである」
という理解は今でこそ一般的であると言えますが、そこに至るまでには数多くの戦争がありましたし、
今でも戦争は起きています
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
【意味】
幽霊の正体見たり枯れ尾花とは、恐怖心や疑いの気持ちがあると、何でもないものまで恐ろしいものに見えることのたとえ。
また、恐ろしいと思っていたものも、正体を知ると何でもなくなるということのたとえ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざの意味を知ると、
人間がなぜ戦争を繰り返すのかわかるような気がします
人間が人間を知る頃には寿命を迎え、新しく誕生した人間はよく人間を知らないわけです
アフガニスタンで米国人がしてきたことは、ある人間にとって良いことであり、ある人間とっては良くないことであったと思います
中には米国人に親を殺されたタリバンやイスラム教徒の子どももきっといたでしょう
そういった人が
「自分とは違う言語を話すだけで、基本的な人間の成り立ちとしては米国人も同一のものである」
という理解に至るまでにはどれだけ米国人の血が必要になるのでしょうか

> コミュニケーションが如何なる場合においても必然的に成り立つと言えるか
恐怖心や疑いの気持ちがあると、何でもないものまで恐ろしいものに見えたり、感じたりします
そういった環境に置かれた人間は「コミュニケーションが如何なる場合においても必然的に成り立つ」とはいえないと思います

18:禰宜(ネギ)坊主
21/09/01 09:38:39.56 0.net
人が藁束であるなら、詩情はそのふところで醸成する納豆である。

19:考える名無しさん
21/09/01 10:07:40.94 0.net
知覚はそれぞれがバラバラ

20:考える名無しさん
21/09/01 11:54:34.97 0.net
では、知覚のファシズム(結束主義)ですね

21:17
21/09/02 22:59:24.02 0.net
自分に対して「あなたは○○にすぎない」と決めつけられること、
そのことに関してはあまり良い思いをする人はほとんどいないでしょう
ところが他人に対して「あなたは○○にすぎない」と決めつけられる立場になることは悪くないと思ってしまいます
「自己とは知覚の束にすぎない」
偉大な哲学者の言葉です
しかし個人的な意見としては、「自己(意識)」とはかなり特殊な成り立ちで生まれたものであろうと思っています
知覚の束が自己になるにしても、あらゆる客観的実在と他者の意識を知覚・反映した末のものです
中でも言語を知覚する、ということは人間らしい自己に目覚めるには必要なことだと思います
>>14さんの言葉をかりるのなら、
「人格など錯覚、幻想に過ぎない、と言うのは自由だが、その錯覚、幻想があるから“自己”が成り立っている」と言えます

しかし他人に対する人格の認識としては、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」式の錯覚をしてしまいがちです
たとえば以下の事件の記事では、
硫酸事件:花森容疑者、妄想性パーソナリティ障害・統合失調症の可能性…些細な言動に恨み抱く
URLリンク(nordot.app)
――
だが、世の中には、客観的には悪意のない些細な言葉や態度のように見えても、その中に自分をけなしたり、
馬鹿にしたりする意味が込められていると感じる人が一定の割合で存在する。
こういう人は、自分の性格や評判に対して他人にはわからないような微妙な仕方で攻撃されていると思い込んで、怒ることもある。
しかも、自分が軽蔑されたり、侮辱されたりして傷つけられたと1度でも感じると、決して許さず、その恨みをずっと抱き続ける。
――
「妄想性パーソナリティ障害」の人は、他人が悪意を持って自分を迫害してくるように感じる傾向が強いため、
危険が差し迫っているという不合理な恐怖を抱きやすい。
そのうえ、屈辱や侮辱を受けたと本人が思い込んでいる過去の体験を繰り返し思い返しては憤慨するので、
年月を経ても燃えたぎるような怒りと恨みがまったく衰えない。むしろ増幅される。
その結果、他人に対する激しい憎悪と復讐願望が醸成されるが、「やられたのだから、やり返してもいい」と自らの復讐を正当化しがちである。
――
…という記述があります
そして幽霊の正体見たり枯れ尾花とは、
「恐怖心や疑いの気持ちがあると、何でもないものまで恐ろしいものに見えることのたとえ。
また、恐ろしいと思っていたものも、正体を知ると何でもなくなるということのたとえ。」という意味です
他人の人格が枯れたススキと違うのは、当人にとって(対象者が生きている限り)あらゆる可能性が残ってしまうから、といえるでしょう
相手を信用することができない限り、あらゆる疑念が残り続けます
人間の意識(人格)と客観的実在(枯れたススキ)の違い…
人格は変動可能、とは言えるでしょう
「おまえは枯れたススキにすぎない」と言われてそのままでいたいと思う人間は少ないと思います

22:anonymouse
21/09/03 10:23:36.90 0.net
知覚の束がほつれていったのが統失なので、
束であることそのものに意味があって
意識とは知覚の束にすぎない
↑へぇ〜(意識は一本一本の知覚の集合にすぎないんだ)じゃなくて、
知覚が束となり情報が統合された結果として、ということ自体に、
意識とか精神の本質があると思われ、
つまり、9,1,4,8というバラバラの数字に意味はなくても、
1984とすると、意味が生まれる、とかそういう類の話

23:17
21/09/03 20:06:33.81 0.net
>>22
わたしが思う自己とは、
ジグソーパズルが埋まっていない最後の1ピースの形、というイメージです
自分の姿かたちを知りたければ自分以外のピースを埋める必要があるということです
そういったあらゆる知覚は自己が確立する以前から無意識(本能)的に始動しているのだろう、と思っています
まわりのピースが知覚によって埋まる頃、客観不可能な空白の部分が自意識になる、という考え方です
また、自己という1ピースは存在しないとも思っています
そういうイメージです

このイメージは自己とは知覚の束である、ということと矛盾はしないとわたしは思います

24:anonymouse
21/09/03 21:18:06.17 0.net
つむぐいと、つむがれるいと
ほつれるいと、ほつれゆくいと

25:anonymouse
21/09/03 21:25:39.98 0.net
ぐんじょうのそらのそこ
写真機が映したネガフィルムは
おやすみよるのみえないさかさまみかづき
笑って僕に手を振った

26:考える名無しさん
21/09/03 22:02:55.55 0.net
古代インドの仏教にも、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)という、似た思想がある

27:考える名無しさん
21/09/03 22:03:47.51 0.net
お釈迦様は、我の代わりに、実際在るものは、五蘊(ごうん)でありそれが仮和合している(仮に結び付いている)と説いた。
五蘊とは、
色…肉体
受…感受作用
想…表象作用
行…意思作用
識…認識作用
を表す。それらが、その時一瞬一瞬に、仮に(一時的に)和合して生まれては消えている。それが仮の自分を作っているとおっしゃった。
常に五蘊は変化し、消えては生まれを繰り返している。
ただ人間は大雑把で、五蘊の細かい変化を無視する傾向があり、変わらない我(自分)が存在すると錯覚するということだ。

28:考える名無しさん
21/09/03 22:05:28.97 0.net
仏教は、あらゆるものの存在を刹那滅という考え方でとらえる。
あらゆるものは、無数の基本的要素が縁起によって因果関係を結び、存在を構成する。
ただし、その存在は一瞬間だけである。瞬間的に生起して消滅する。
そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また生起し消滅する、そしてそれが連続すると考えるのである。
われわれには持続して存在していると見えるものは、このような瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものなのである。この考え方を、刹那滅という。

29:考える名無しさん
21/09/03 22:07:43.65 0.net
仏教では、自分という実体が存在することを認めない
それはパラパラマンガのように、本当は連続していない。でも、ものすごい速さでパラパラしてるので、アニメーションのように連続して見える
だが、本当は自分などどこにも存在せず、錯覚の産物にすぎない

30:考える名無しさん
21/09/03 22:09:08.08 0.net
こうして見ると、ヒュームの「知覚の束」説は、古代インド思想とよく似ているように見える
でも、似ているように見えるだけで、言いたいことは大きく異なる

31:考える名無しさん
21/09/03 22:17:21.07 0.net
仏教思想の「刹那滅」は、「自分だと思っているものは本当の自分ではなく、偽我にすぎない。偽我から脱却し、真我に目覚めよ」という教え
これに対してヒュームのは、そんなアリガタイ教えではない
デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と唱えた。あらゆるものを疑うことはできる。世界が存在することすら疑える。
でも、その疑ってる自分が存在すること。それだけは疑えないでしょうが・・・と、デカルトは主張した
ヒュームは、それ異議を唱えた。
「自分が存在することだけは疑えないというけど、そんなことないですぜ。自分が存在するのだって、十分に疑わしいですわ」

32:17
21/09/04 00:27:14.35 0.net
>>31
しかしわたしたちはヒュームという哲学者が存在した、という事になっている世界にいます
本屋に行けば彼の著作があり、ネットで調べれば彼に関する記述があり、
イギリスに行けば彼の墓も存在するでしょう
このスレも彼が存在した痕跡に影響されて立てられたものです
デイビッド・ヒューム本人以外、この世の誰もが彼が存在していたことを疑っている人はいません
第三者からすれば、彼が亡くなり、この世に存在しなくなって200年以上たっているにもかかわらず、
彼が存在しなかったことにできた人は存在しなかったわけです
そういった事実は、わたしにとってとても興味深いことだと思っています

33:考える名無しさん
21/12/18 00:43:18.63 0.net
ヒュームの哲学は大事だよ

34:考える名無しさん
21/12/18 14:03:28.86 0.net
何がどのように束ねるのか
知覚のファシズム


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