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「あの時代」を経験した女子学生の貴重な手記として、大原紀美子の『時計台は高かった』(三一新書、1969年11月)が実に42回にわたって引用されている。だが、小熊は大原が理学部フロント(準)の一員であることに思い至っていない。セクトに入る必要は認めながら、「しかし大原は、自分が信頼するセクトを選ぶことができず、東大闘争ではノンセクト活動家となる」と書いている。だったら、次のような大原の気持ちをどう理解すればよいのか。
1月14日、「その夜が解放講堂で過ごす最後の夜になるかもしれないと思って、わたしは防衛戦を闘う同志たちのために、午前中いっぱいかかって家でおにぎりとサンドウィッチを大きな紙袋一杯作った。[略]講堂に残らないことが決まっていたので、なおさら、わたしにできることならなんでもやりたい気持ちだった」
1月18日、「催涙ガスに泣きながら荒れ果てた神田の町を走りまわっていた。そうして泣きながら、時計台で闘う彼らとわたしとの間に、決して埋めつくせぬ大きな淵が伸び拡がって行くのを感じずにはいられなかった。あの日、時計台は遠かったのだ」(『時計台は高かった』という書名はここに由来する)
「時計台で闘う彼ら」が全共闘の全員を指すことは当然だが、大原のなかではフロントの同志がとりわけ強く意識されていた。だからこそ、その後、逮捕された同志の救援活動にQ君らとともに必死に駈けずりまわったのだ。この部分は小熊も読んでいたようだ。ところがなぜか、その少しあとに出でくる「3月5日にわたしたちは党派関係の講堂逮捕者の家族関係を招いて、弁護士ともに救対家族会議を開いた」という記述には目がとまらなかったらしい。
いかに「あの時代」を経験していないとはいえ、文献からこれくらいのことが読み取れなくて、どうして「歴史研究」などと言えるのか。
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(この記述から、どうして大原しゃんがフロントのメンバーだったって読み取れるンラジか?