20/05/27 01:37:11 0.net
SHE'S - One
URLリンク(www.youtube.com)
199:考える名無しさん
20/05/27 22:48:40 0.net
「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無か二つの極端に片寄っている。
カッチャヤーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものは、
この世間には無というものはない。
またカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、
この世間には有というものはない。
<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、
苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。
ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。
これはひとつの極端である。
また、<すべては無である>という。
これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、
中によって法を説くのである。」
200:考える名無しさん
20/05/28 01:20:42 0.net
「それ故、アルジュナ、立ち上がれ。 戦う決意をして。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。
そうすれば罪悪を得ることはない。」
「自己を克服し寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、
寒暑や苦楽においても、毀誉褒亡貶においても、統一された状態でいる。」
「敵と味方に対して平等であり、また尊厳と軽蔑に対しても平等であり、
寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、」
アルジュナは言った。
「あなたはヨーガが平等の境地であると説いたが、クリシュナよ、
私はその不動の境地を見いだせない。」
聖バガヴァット
「好悪から生ずる相対観の迷妄により、万物は創造の時すでに迷妄に陥る。
しかし、善行の人々の罪悪が尽きる時、彼らは相対観の迷妄を脱し、
強固な信念をもって私を信愛する。」
201:考える名無しさん
20/05/28 01:25:52 0.net
- バガヴァッド・ギーター -
202:考える名無しさん
20/05/28 02:08:17 0.net
クルアーン <第2章雌牛章>
われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、
何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。
不義を働く者となるであろうから。」
ところが悪魔〔シャイターン〕は、2人を躓かせ、かれらが置かれていた
(幸福な)場所から離れさせた。
われは、「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは、互いに敵である。
地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」
と言った。
われは言った。「あなたがたは皆ここから落ちて行け。やがてあなたがたに必ず
われの導きが恵まれよう。
そしてわれの導きに従う者は、恐れもなく憂いもないであろう。
203:考える名無しさん
20/05/28 07:18:11 0.net
わかりました!!!答えは無です!!!!!!
204:考える名無しさん
20/05/28 16:42:28 0.net
エックハルトトール
アダムとイヴについて。
URLリンク(youtu.be)
205:考える名無しさん
20/05/29 03:40:32 0.net
あ、そうだ、最後に書くの忘れてた。
聖書で神が、「私はアルファであり、オメガである。」 っていう言葉があったよね。
アルファとオメガってのは、最初と最後って意味。
「最初」と「最後」が同時に存在するのは・・・・?
そう、それは「今」だよ。
時間的幅を一切持たない、ゼロ秒の今。
この「今」において、何ものも継続するものはない。 個の存在というものがすべて消える。
それは同時に、無限なる一が現れることになる。
お寺の山門にある、仁王像の「阿」と「吽」も同じ。
神社の狛犬の口が開いてるのと、閉じてるのも同じ意味。
あれは完全なる「今(=縁起、無限の一、空)」を表してる
URLリンク(i.imgur.com)
206:考える名無しさん
20/05/29 03:46:16 0.net
クルアーン6章38節
地上の生きとし生けるものも,双翼で飛ぶ鳥も,あなたがたのように共同体の同類でないものはない。
啓典の中には一事でも,われが疎かにしたものはない。
やがてみなかれらの主の御許に召集されるのである。
バガヴァッド・ギーター
「私は世界を滅亡させる巨大なカーラである。
諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。」
207:考える名無しさん
20/05/29 04:03:31 0.net
バガヴァッド・ギーター (聖バガヴァッドは告げる -)
「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、
また万物を自己のうちに見る。
私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、
また、私にとって、彼は失われることがない。
一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、
私のうちにある。
自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切(の生類)において
等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。」
208:考える名無しさん
20/05/29 21:55:40.12 0.net
前に、ネガティブなことに囚われてる人に対して、10円玉の裏も表も10円玉だよ、
裏、表、平等だよ、ってアドバイスしたら、
誰かが、「10円玉に描かれてるのは、平等院鳳凰堂だよ」 って教えてくれた。
見事なシンクロ。
ちなみに、鳳凰という字は、一の鳥と、白の王(百に一足りない)。
つまり「白の王」とは、99のことだ。
アッラーにも99の名前がある。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
99というのは特殊な数字だ。
蘇民将来 99 81
URLリンク(ameblo.jp)
209:考える名無しさん
20/05/29 22:01:46.96 0.net
人の思考(分別)は「表」と「裏」を別の存在として見る。
それぞれに自性(実体)があるわけだ。
しかし、真実は一枚のコインだ。
「表のコイン」 「裏のコイン」というのは、別箇に存在しない。
この分別が止むとき、「一」に帰す。
なぜ、「無」ではなく「空」かっていうと、「完全無」であればこの「一」も消える。
しかし、「表」と「裏」という、「一」の中にある両極が「無」になれば、
その中は「空(カラ)」になる。
空になれば、「一」が現れる。
これが、「無(完全無)」ではなく、「空」という表現が合う理由だ。
210:考える名無しさん
20/05/29 22:16:37.52 0.net
余談だが、
昔、自分のいた職場に、「フランス外人部隊に行く」 っていうやつがいて、
やがてその夢を実現すべく、辞職していったんだけど、その時、フランス外人部隊風の敬礼で見送った。
その時は、ただ夢想してるだけなんだろ、って思ったけど、
あとでフランス外人部隊の日本人兵に関する本が出たとき、
そいつが載ってた。
軍曹まで昇進してたね・・。
211:考える名無しさん
20/05/30 00:57:52 0.net
たとえば、何かを人前で発表するとき、緊張して上手くいかなかったとする。
そうすると大抵の人は、「緊張 = 悪」 「緊張しない = 善」 と分別して、
「緊張しない」方法を目指す。
「人」という字を書いて飲んだり、様々な緊張しないテクニックを本で読んだりして、
緊張しない人間になろうとする・・・
そこでまた発表するときに緊張したりすると、「あ~、また失敗した」 ということになる。
これは完全に二元相対分別に捉われているということになる。
ここでいうと、「中道」とはどういうことであろうか・・?
大切なのは、「緊張する(悪)」、「緊張しない(善)」に関わらず、
「発表する」という「行為」をすることだ。
相対観念はどっちに転んでも構わない・・
緊張して恥をかくかもしれないし、緊張しないで、上手く行くかもしれない・・
しかし、そこに重点を置くのではなく、どっちに転んでも、「行為(ただ発表する)」ということに専心する。
緊張する、しない、より、「発表する」という「行為」が本当の世界(今)なのだ。
緊張する、しない、は、泥の流れ。
行為は、その外にある「ハスの花」。
行為に専心したときは、「中道」にある状態。(=どちらでもよい)
212:考える名無しさん
20/05/30 01:06:55 0.net
たとえばそれを座禅に当てはめると、
大抵の人は、座禅の時に雑念が湧くと、「失敗」ととらえる。
「無念」になれると「成功」。
そこで一生懸命「無念(成功)」を目指そうとする。
しかし、成功と失敗は表裏一体で、成功に捉われてるうちは、
必ず「失敗」という概念が付き添う。
つまり、成功を求めているうちは、失敗から逃れることは出来ない。
「雑念が湧く(失敗)」、「雑念が湧かない(成功)」 という両者に関係なく、
「座」という「行為」をすること・・・。
これが「中道」の「行為」ということになる。 中道の実践、中道の行。
失敗、成功に関わらず、ただ行為に専心していれば、やがてその両極はどちらでもよい・・、
ということになる。
どちらにしても、「行為」には影響を及ぼさなくなる。
ハスの花と泥のように、世界が違ってくる。
213:考える名無しさん
20/05/30 01:16:55 0.net
緊張する、しない、という、両極への捉われを捨てれば、
やがては緊張自体もなくなっていく。
また、たとえ緊張が残ったとしても、それは有用なものに変わっていくだろう。
それは全く、「発表(行為)」においての「悪」ではなくなる。
また、雑念が湧く(失敗)、雑念が湧かない(成功)、という、両極の捉われが無くなれば、
雑念がありながらも統一していく・・・
雑念自体がありのままに映ってくるもので、それに対して心(分別)が少しも動かない・・・
いわゆる、不動心となる。
緊張しない、という結果(成功)を求めたり、雑念が湧かない、という結果(成功)を求めたりすることは、
相対分別に捉われているということになる。
「結果」というのは「時間の幅(思考分別)」の産物だ。
「今」じゃない。
214:考える名無しさん
20/05/30 01:23:36 0.net
緊張するものを、緊張しないようにしよう・・、 というのは、
泥で泥を洗う、ということ。
緊張しようがしまいが、ただ「行為」に専心しよう・・ というのは、
泥をほたっといて、ハスの花(行為)(=今、中道)にシフトするということ。
215:考える名無しさん
20/05/30 01:41:20 0.net
バガヴァッド・ギーター [聖バガヴァッド (クリシュナ) は告げた -]
「あなたの職務は行為そのもにある。 決してその結果にはない。
行為の結果を動機としてはならない。」
「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、
ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。
ヨーガは平等の境地であると言われる。」
「知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、
患いのない境地に達する。」
216:考える名無しさん
20/05/30 02:02:10.27 0.net
『お前の関心は行為にのみあり、決して行為の結果にあってはならない。行為の結果を、おまえの動機としてはいけない。また、
おまえは無行為に執着してはいけない。(2-47) ダナンジャヤ(アルジュナ。「富をかち得た人」の意)よ、実修ヨーガの中にあって、
執着を捨て、成功・不成功に対して心を平等に保ち、行為せよ。平等心こそ実修とよばれる。(2-48) なぜなら、ダナンジャヤよ、
(私欲的)行為は心の実修ブッディ・ヨーガ(結果を期待しない心的態度による行為)よりはるかに劣るから。理性ブッディを拠りどころとせ
よ。結果を(行為の)動機とする者はあわれむべき者である。(2-49) 心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを
捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。(私欲のない)行為に熟達することは、この(心の)実修にある。(2-50) 心の実修を
修めた賢者は、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛を脱して、わずらいのない境地(解脱)に到達する。(2-51)
217:考える名無しさん
20/05/30 21:09:54 0.net
androp - 「Hikari」
URLリンク(www.youtube.com)
218:考える名無しさん
20/06/01 19:30:17 0.net
26 :学術 :2019/12/02(月) 20:06:45.09 0
ユニクロのような新経済体質はアジアより高くヨーロッパより高い質の良さ面白さだ。
27 :学術 :2019/12/02(月) 20:12:23.53 0
ユニクロのランジェリー下着デザイナー雇うよ。
28 :学術 :2019/12/02(月) 20:17:23.12 0
エロニクロ ユニクロは今からバラエティーに富んだ高級下着メーカーだ。