20/05/23 00:06:32 0.net
仏教と関係ないだろうが暇人
126:考える名無しさん
20/05/23 00:07:23 0.net
また、像に表わして崇拝したり、聖者を崇めたりすることも禁止されている。
これはスンニ派ではそうだよね。
シーア派では、よくアリーの肖像画が描かれてるけど。
ムハンマドの肖像画はいろいろ調べてみると、顔の前に白い布がかけられてるものが多い。
ようは、「崇拝の対象を作ってはいけない」、ということだよね。
アラーでさえ、カアバ神殿のブラックボックスだけで、
姿形の対象物がない。
127:考える名無しさん
20/05/23 00:08:58 0.net
これだからな… >>125
「縁起」の話をするんだよ、バカが・・。
自分本位の邪魔をするな暇人。
128:考える名無しさん
20/05/23 00:11:19 0.net
よし、この話はチャチャが入ったので、封印しよう
129:考える名無しさん
20/05/23 00:19:58.79 0.net
親鸞の話では、いくつかの興味深い話があるね。
疫病か水害で被害を受けた村を通りかかったとき、親鸞はお経を何全部も唱えることを決意し、
住民たちのために唱えはじめた・・・
しかし、そのあと親鸞はどうしたか・・・?
ここはキーポイントなんだよ。
それから、晩年に病気になって、かなり高い熱が出てうなされているとき、
頭にお経が浮かんできた。
この時親鸞はこのことをどう思ったのか・・・。
ここも共通のキーポイント。
それから、親鸞は法然に、弟子たちが「行」の座につくか、「信」の座につくか提案した。
この有名な話も、うまく理屈が説明できる人がいない。
なぜなら、「他力」の真の意味がわからないから。
さて、親鸞はどちらの座についたか?
そしてそれはなぜか?
130:考える名無しさん
20/05/23 00:23:50.30 0.net
念仏の話は座禅とリンクさせて話すこともできるし、
本質的には全く同じ。
真の他力 = 中道 ともいえる。
131:考える名無しさん
20/05/23 00:29:47.84 0.net
統合失調症レベルの馬鹿だな。
132:考える名無しさん
20/05/23 00:30:24.54 0.net
枝葉の話を聞いて深い洞察もなく、自分の浅はかな考えでそれを決めつけ、
人をバカにしてくるやつがいる・・・
こういうヤツがいつも価値のある話をぶち壊す。
洞察力が乏しいのはいい。
ただ黙ってりゃいいから。
だけど、洞察力が乏しいのに、自分がすべてを理解したと思って
人を叩きにくるやつがいる。
こういうヤツが登場すると、いよいよスレが終わる。
とくに、こういう批判ではなくて、ただの罵声のようなヤツが現れたらいよいよ終わり >>125
もう答えは書く必要はないだろう。
こういうヤツに見せるのはもったいない。
ヒントだけ書くからあとは自分で考えろ。
一生かかっても理解するのは無理だろうけどな
133:考える名無しさん
20/05/23 00:35:20.18 0.net
まさに、本来はもうとっくにスレを捨ててる予定だったが、
こういうヤツが必ず現れるから、実験的にわざと続けてた
やっぱり出てきたね >>131
これは必ず毎回同じパターン。
これは哲学板にかかわらず、どこの板にもいる。
ただ意味のないレスで荒らすってのは、まだ荒らしとしてはいい方。
ところが、わざわざ廃れたスレにやってきて、粘着してレス叩きをし始める・・・
こういうヤツが一番人間としてたちが悪い。
本物の悪性新生物だよ。
134:考える名無しさん
20/05/23 00:40:39.08 0.net
だけど、ここまではまだ持った方。
前の方で結構、叩くようなレスになってたから。
そういうのがいつ逆上してくるかもわからない。
で、逆上してきたわけだ。 >>131
ここから粘着性に切り替わったか。 >>118
135:考える名無しさん
20/05/23 00:43:36.73 0.net
さて、悪質なキチガイは置いといて、話をつづけるとするか。
136:考える名無しさん
20/05/23 00:46:50 0.net
人に向かって統合失調症というやつが
本物の池沼
137:考える名無しさん
20/05/23 00:51:24 0.net
アラーがなぜ唯一なのか・・。
なぜ、崇拝の対象物を作らせなかったのか・・。
138:考える名無しさん
20/05/23 01:33:20 0.net
クルアーンを読むと、アラーは宇宙のあらゆるものを創造した創造神として描かれているが、
同時に、宇宙そのものであることも示唆されている。
「東も西も、アッラーの有であり、あなたがたがどこに向いても、
アッラーの御前にある。」
「夜と昼とに住む凡てのものは、かれの有である。」
「言ってやるがいい、天と地にある凡てのものは、誰の有であるのか。
『アラーの有である。彼は慈悲をご自分の勤となされる。審判の日には、必ずあなた方を招集されよう。』」
139:考える名無しさん
20/05/23 01:35:18 0.net
アラーとは、あまねく広がる無限の宇宙そのものであって、すべてのものを包含する
『1なるもの』
140:考える名無しさん
20/05/23 01:46:53 0.net
もともと、ムハンマドが啓示を受けた最初のころは、
祈りの方角などなかった。
ところが、どうしても祈りの対象を求めるため、
神が祈りの方角を作った。
つまり、神が唯一で無限の宇宙ならば、どこを向いてもアラーの胸の内なのだけど、
あまりにも祈りの対象を求めるために、仮に、方角を作ったということ。
つまり、姿かたちを示した祈りの対象だけでなく、方角さえも本来は
神の対象として限定されないもの。
祈りの方角は、当初はエルサレムだったが、のちにユダヤ人と分離し、
メッカに変更されてる。
「人々の中の愚かな者は言うであろう。 『どうしてかられ(ムスリム)は守っていた方向
(キブラ)を変えたのか。』
言ってやるがいい、『東も西もアラーの有である。かれは御心にかなう者を、
正しい道に導かれる。』」
141:考える名無しさん
20/05/23 01:47:19 0.net
おまえのチラシの裏じゃないんだよ、この板は。
おまえの知識の確認のための自習室じゃないんだよ。
スレッドごと消してこい。
142:考える名無しさん
20/05/23 01:49:33 0.net
お前の私物でもないわボケ
すっこんどけ
143:考える名無しさん
20/05/23 01:54:22 0.net
もしも、対象として、アラーの神を置くならば・・・、
「民衆」と「神」は別のものになるよね。
民衆が対象としての神を仰ぎ見るということは、
民衆と神の「分離」を表す。
「無限の1」じゃなくなっちゃう。
だから、神を対象物などにしては絶対にならず、ブラックボックスで対象を隠した。
あのブラックボックスの中は、言うなれば、無限の宇宙につながってる。
そのように見れれば正解だ。
144:考える名無しさん
20/05/23 02:00:49.44 0.net
「分離」のことをイスラム教では「シルク」という。
反対に、「1に統一したもの」を、「タウヒード」という。
この「タウヒード」というのは非常に需要だ。
これが「ワンネス」のことであり、仏教の「縁起」そのものである。
145:考える名無しさん
20/05/23 02:10:25.45 0.net
たとえばクルアーンでも、縁起をイメージさせるような句がいくつかある。
「天と地にある凡てのものは、かれに属する。
万有は、真心を込めて彼に服従する。」
「あなたは見ないのか、天にある凡てのものが、アッラーにサジダするのを。
また地にある凡てのものも、太陽も月も、群星も山々も、木々も獣類も、
また人間の多くの者がサジダするのを見ないのか。」
(サジダというのは、完全に敬服、服従する祈りの姿勢といったもの。)
これは何かというと、ようは、「この世界の縁起の姿を見ないのか・・?」
と、言ってるようなもの。
146:考える名無しさん
20/05/23 02:25:30 0.net
クルアーンには「中道」を示唆・・、暗示させるような詩もある。
「礼拝の折には、声高に唱えてはならない。また低く唱えてもいけない。
その中間の道をとれ。」
「各礼拝を、とくに中間の礼拝を謹厳に守れ、敬虔にアラーの御前に立て。」
「また(財貨を)使う際に浪費しない者、また吝嗇でもなく、よくその中間を保つもの。」
これは単に生活や祈りについて言っているのではなく、暗喩的に「中道」が示されているような感じだ。
147:考える名無しさん
20/05/23 02:53:16.46 0.net
このスレ荒らしてるやつは嫉妬の塊だな
プライドだけが高い能無し
148:考える名無しさん
20/05/23 02:59:17.69 0.net
>>35
149:考える名無しさん
20/05/23 04:32:20 0.net
URLリンク(i.imgur.com)
150:考える名無しさん
20/05/23 06:29:38 0.net
>>144
タウヒードってのは、「神は唯一である」、つまり、「アッラーの他に神は無い」っていう意味なんじゃないのかな?
151:考える名無しさん
20/05/23 06:30:57 0.net
>>139
それはイスラム教ではなくて、新プラトン主義の哲学思想なんじゃないかな?
152:考える名無しさん
20/05/23 06:35:21 0.net
ただし、イスラム神学では、宗教と新プラトン主義が融合した
スーフィズムにおいては一体化した
153:考える名無しさん
20/05/23 11:33:07 0.net
>>150
ウィキによると、
・タウヒードという言葉は、アラビア語の動詞ワハダ (waḥada) の第2型であり、〈一に化す〉、〈一に帰す〉を意味するワッハダ (waḥḥada) という
動詞から派生した動名詞である。その原義は、〈一化〉、〈帰一〉を意味する
・アッラーは、創造の前から存在した。過去、未来というものをもたず、また、前後左右上下といった概念にはそぐわない。
というのも、アッラーは全だからである。
154:考える名無しさん
20/05/23 12:15:27.47 0.net
WIKIの書き込みなど信用しているようではww
ww
ww
アッラーアッラーうるさいんだよ
155:考える名無しさん
20/05/23 14:09:40.73 0.net
>>154
お前は黙ってろ
ここはお前の来るところじゃない
156:考える名無しさん
20/05/23 14:19:00.59 0.net
>>154
典型的なバカだな
157:考える名無しさん
20/05/23 14:59:59.95 0.net
サティ
158:考える名無しさん
20/05/23 23:37:49.28 0.net
>>154
これはwikiだけじゃなくて、いろんな方向から洞察できるんだよ。
たとえば、イスラムにとってはハチミツは重要なものだが、それはクルアーンに
教えとして示されてるから。
{蜂蜜章}
またあなたの主は、蜜蜂に啓示した。「丘や樹木の上に作った屋根の中に巣を営み、
(地上の)各種の果実を吸い、あなたの主の道に、障碍なく(従順に)働きなさい。」
それらは、腹の中から種々異った色合いの飲料を出し、それには人間を癒すものがある。
本当にこの中には、反省する者への一つの印がある。」
種々様々なものから混ざり合って、様々なものが働きかけて、一つのハチミツという素晴らしい
食べ物が出来上がっている。
こういうのも宗教の本質を掴んでれば、「縁起」の暗喩だということが想像つくよね。
そこからwikiだのなんだの、いろんな解説と照らし合わせればいい。
最初に引用物の受け売りやってるやつは、最後まで整合性を保てない。
引用物はあくまで主たる洞察の参考にすぎない。
洞察が本質をついていれば、あらゆる引用物が一致してくるんだよ。
159:考える名無しさん
20/05/23 23:41:44.18 0.net
「また家畜にもあなたがたへの教訓がある。われはその腹の中の雑物と血液の間から、
あなたがたに飲料を与える。
(その)乳は飲む者にとり、清らかであり(喉に)快適である
またナツメヤシやブドウの果実を実らせて、あなたがたはそれから強い飲物や、
良い食料を得る。
本当にその中には、理解ある民への一つの印がある。」
この「理解ある民への一つの印」ってのが、この世界が
縁起によって成り立ってる・・ ってことだよ。
160:考える名無しさん
20/05/23 23:59:39.46 0.net
チュージュマン、ラディカル・ガール、
なつかしいな。。。
161:考える名無しさん
20/05/24 00:28:29 0.net
地獄も共通してるからな。
だいたい、クルアーンに描かれてる地獄って、
火の地獄なんだよ
これは仏教とも共通してる。
火が描かれてる地獄絵図が多い。
仏教のボイルドウォーター
URLリンク(i.imgur.com)
イスラム教のボイルドウォーター
URLリンク(i.imgur.com)
仏教 ベロで吊り下げられる
URLリンク(i.imgur.com)
イスラム ベロで吊り下げられる
URLリンク(i.imgur.com)
この驚くべき一致。
162:考える名無しさん
20/05/24 22:55:51.20 0.net
では、ヴリトラハンの話をしよう。
インドラがヴリトラという蛇の怪物を倒す話があるんだけど・・・
だいたいが、「ヘビ」というのは「エゴ」の象徴になってる。
スサノオの物語で、ヤマタノオロチを倒すというのも、
エゴを克服するという物語。
大きく見ると、人間は一度、神の世界からエゴに下降し、その後ふたたび、エゴを克服して
天の世界を地の世界に実現する・・・ という過程を通る。
神話はそういうのを物語にするのが多い。
163:考える名無しさん
20/05/24 22:59:27.73 0.net
アダムとイヴの話も、最初は「分別」などなかったが、知恵の木の実を食べて、、
途端に「分別」が働いて、自分たちの裸の体を葉っぱで隠した。
このとき知恵の木の実を食べるようにそそのかしたのも、
ヘビだ。
164:考える名無しさん
20/05/24 23:11:16 0.net
インドラはヴリトラを倒そうとしたが、その力があまりにも強大だっため、
ヴィシュヌに助けを求めた。
ヴィシュヌの仲介によって、偽りの和平を結んだ
そこでヴリトラは、いくつかの条件を獲得した。
「昼でも夜でも倒せない」
「湿ったものでも乾いたものでも倒せない」
「柔らかい武器(木)でも、硬い武器(石)でも倒せない」
「短距離の武器(剣)でも長距離の武器(弓)でも倒せない」
「大地でも海でも倒せない。」
日本語の説明を見ると、だいたいが昼夜と湿ったもの、乾いたもの、しかないが、
英語のサイトだとたくさん出てくる。
そこでは予想どおり、対極的なものが出てくるわけだ。
いっけん、相対的な両極でも倒せないわけだから、
無敵に見えるよね。
っていうか、ほとんど無敵だろう。
165:考える名無しさん
20/05/24 23:13:00 0.net
さて、何で倒したか・・・
ここまで読んできた人は、もうお分かりだろう。
166:考える名無しさん
20/05/24 23:24:31.64 0.net
インドラがヴリトラを倒した話は何種類かあるようで、ヴァジュラ(金剛杵)で倒したというものや、
湿ったものと乾いたものの中間・・ 泡で倒したとか、
武器に違いがある。
昼でも夜でもない黄昏時に、・・ってところは共通してる。
「君の名は」の、かわたれ時でも同じだろう。
(解説: 「かたわれどき」は、「昼でも夜でもない薄暗い時間帯」を意味します。)
英語のサイトだと、海でも大地でもない、海岸線で・・・ とかも出てくる。
167:考える名無しさん
20/05/24 23:25:53.85 0.net
つまり、何で倒したかっていうと、「中道」で倒したわけだ。
168:考える名無しさん
20/05/24 23:27:58.68 0.net
「エゴ」は「分別」だ。
「エゴ」を「分別」で克服しようとしても、それは
血で血を洗うがごとし、
泥で泥を洗うがごとし。
唯一倒せるのは、「中道」だ。
169:考える名無しさん
20/05/24 23:34:35 0.net
おそらく、「泡」で倒したというのは、後世のつじつま合わせの
創作のような気がする。
海でも大地でもないから海岸線だ・・・ というのも、それは中道を知らない単純な発想だ。
あくまでも、右でも左でもないもの、ところ、上でも下でもないもの、ところ、
という風に、中間物を示してはならない。
なぜなら、中間物というのは、両極から想定されるものだからだ。(両極に依存するもの)
中間物は中庸と同じようなもので、いうなれば、両極の要素二つを兼ね備えてる。
なおさら倒すことが出来ない。
170:考える名無しさん
20/05/24 23:39:34 0.net
ヴァジュラで倒すということは、つまり、
ヴァジュラ = 中道 ということになる。
密教の金剛杵はおそらくそういう意味だろう。
思考分別(エゴ)を打ち砕くのは、中道という武器。
171:考える名無しさん
20/05/25 12:00:55 0.net
歴史学者やら、評論家やら似非宗教家が導くのは
自分が創作した設定と物語、なぜなら自分でそういう風に理解してしまった真実だからだ
↑の発言のように「つまり」そういう風に説明したいという願望→真実→自分が中心→事実
と昇華した妄想にすぎない。
「なぜなら」と説明したのも
>後世のつじつま合わせの創作
そのものである、そもそも観察し得られた情報で掴み得ないものであって
特定し現代常識で説明しえるものではない。
物事を常に簡略化=合理化することを学校で教わった結果として、
単純化することが正しいという思考に陥る、掴み得ないものを掴みえるものに
再定義してしまう。君が定義した夜空の星は、金色に塗装した作り物のオブジェ
でしかない。
偶像崇拝でしか物を説明できないのは真理である、事としてあるそれは捉えられない
ものであって、説明すれば嘘になる性質になる。
曖昧に抽象的に単語ひとつでしか説明しえない神に家族やら天界の生活やら
神が怒るとか慈悲をとか都合がよすぎる、信者の妄想である。(信者の真実、心理)
172:考える名無しさん
20/05/25 14:35:32 0.net
17-110
言ってやるがいい。「アッラーに祈れ。慈悲深い御方に祈りなさい。
どの御名でかれに祈ろうとも、最も美しい御名は、凡てかれに属する。」
礼拝の折には、声高に唱えてはならない。また(余り)低く唱えてもいけない。
その中間の道をとれ。
173:考える名無しさん
20/05/25 21:44:48 0.net
座禅も念仏も「中道」を目指していることに変わりはない。
まず、押さえておかなければならないのは、人間には思考・分別という
カルマ的な流れと、「今にある」という流れの二種類があるということ。
「今にある」というのは「縁起」のことであり、過去・未来がなく、今しかない、
というもの。
肝心なのは、この二つの流れに接点がないということ。
「今にある」ということを、「思考分別の流れ」によって
影響を及ぼすことが出来ない。
まったく関係ないということ。
これを仏教では、泥の池に咲くハスの花で表現されている。
ハスの花は池の泥で一切汚れることがない。
世界がまったく違うということ。
174:考える名無しさん
20/05/25 21:55:32 0.net
「今にある」というのは、ただ来るもの、来る状態を、ありのままに
通過させるということを意味する。
来るもの、来る状態に対して、一切の価値判断、思考分別が働かない・・・
働くスキがないほど、今と一致しているということ。
なので、これは「中道」ということになる。
マイナスにもプラスにも、少しも価値判断が働かない・・・
ただ来るものにありのままでいる・・
よく仏教で「不動心」というが、真実の「不動心」というのはこのことだ。
たとえて言うなら、怒りが起こったらなら、怒りはそのままで一切の価値判断が
動かないということ。
不安が起こったら、不安ありのままで、一切の価値判断、分別が起こらないということ。
ようは「不動心」とは、「ありのまま」ということだ。
また、「不動心」とは「中道」ということ。
175:考える名無しさん
20/05/25 22:06:35 0.net
さて、座禅であるが・・・
座禅をしていると、さまざまな雑念が湧いてくる・・・
あるいは、足が痛くなってくるかもしれない。
あるいは、今起こってる雑念を何とかしようと頑張るかもしれない。
こういうのは、思考・分別ということで、カルマ的な流れだ。
中にある限り出続ける。
だから、これをどうこうしようとふんばたって、どうにもならない。
また、どうこうしようというそのものが、思考分別そのものであって、
泥で泥を洗うようなことになってしまう。
一向に泥は落ちない。
泥の流れはそのままに、「今にある」流れに乗り換えなくてはいけない。
大切なのは、「泥の流れそのまま」 ということ。
176:考える名無しさん
20/05/25 22:18:34 0.net
極端にいうと、
泥が100あろうが、1000あろうが、ハスの花には関係ないということ。
ここを普通の人は間違えて、1000を100に、100を10にと、
最終的にゼロにして、ハスの花にたどり着こうとする・・・
たとえ10万の泥が100になったって、泥は泥だ。
そしてまた泥はカルマの油田から湧き出してくる。
泥を相手にせず、ハスの花にシフトするのが、「座禅」と「念仏」だ。
また、そのほかの方法もあるかもしれない。
177:考える名無しさん
20/05/25 22:44:01 0.net
今苦難に喘いでいる人にとって、「何一つ変える必要がない」という言葉は、
とても心強い言葉になるだろう。
不安や恐れも、そのままでいいのだ。
何一つ変えなくていいというのが極まれば、それは完全なありのままだ。
完全なお任せ・・・
これは親鸞のいう「信」と同じだ。
完全なる「信」さえあれば、完全なるお任せ状態となる。
完全なるお任せ = 完全なるありのまま だ。
これは = 中道 になる。
178:考える名無しさん
20/05/25 22:45:36 0.net
今苦難に喘いでいる人は、「中道」という武器を手に入れるべきだ。
179:考える名無しさん
20/05/25 23:06:58 0.net
ハスの花というのは「今にある」という流れ。
泥の池というのは、「思考分別」、「時間の幅」という流れ。
ハスの花の流れに切り替えるには、ハスの花に触れ続けなければならない。
それには、「今にある」という型を作ってしまえばいいということになる。
「今にある」とは、今にあろうとすることじゃない。
思念を凝らして集中することじゃない。
「今にある」状態は、人間の思考分別は及ばない。
なので、まず、「今にある」という型を作ること。
泥の流れの外に、その型を置くこと。
人のできることは、型を置くことだけで、
型になろうとすることじゃない。
その「今にある」という型・・・
それが、「座」であり、「作法」であり、「念仏」だ。
180:考える名無しさん
20/05/25 23:27:12 0.net
「今にある」という型さえ置けば、たとえ座禅中に雑念が湧こうとも、
足の痛さに囚われようと、最後は必ず「今にある(座)」に戻ってくる。
それはちょうど逆三角錐の帽子にビー玉を投げ入れ、左に行こうが右に行こうが、
最終的には真ん中に落ち着くのと同じだ。
また、たとえ雑念に囚われたままだったとしても、「今にタッチしている」というもう一つの流れは、
確実に裏に存在する。
早急な成果・結果を求めてはダメで、成果・結果というのは、
思考の望む、時間の幅の産物だ。
雑念が出てイライラしたとしても、それは泥の流れで、
ハスの花は一切影響を受けない。
ハスの花の流れが表にあろうが、裏にあろうが、「今にある(ハスの花)」に
タッチしているという点では平等だ。
イライラしたから失敗だ、集中したから成功だ、ということではない。
問題は、「今にある」にタッチしているかどうかだ。
泥が1000だろうが、1だろうが、それは泥の流れで、ハスの花にはまったく関係ない。
ハスの花においては平等だ。
修証一如。
181:考える名無しさん
20/05/26 20:51:48 0.net
親鸞が疫病か災害に襲われて、苦しんでいる村を通りかかったとき、その村人たちのために、
お経を何千部も読誦するという、願をかけた。
ようは、村人たちの苦しみを、少しでも和らげたかったわけだ。
仏の力・・ 読経の力を使って・・。
ところが親鸞は、途中でお経を読むのをやめ、
黙ってその村を立ち去った・・・
182:考える名無しさん
20/05/26 21:25:58 0.net
阿弥陀様に全てをお任せしている・・・
自分を完全に投げ入れている、100%の「信」を持っているはずの自分が
なぜこの期に及んで、どうこうしようという思いが起きてしまうのか・・。
通常は、一般の人からすると、神仏頼みというのは「他力」のことで、
自分の力で何とかしようとすることを、「自力」、ということになる。
なので、親鸞が村人を救おうと、仏や読経の力に頼ろうとしたことは、
通常では「他力」ということになる。
ところが、本当の「他力」とは、そういうことじゃないんだよね。
「分別」働かせて、何とかしよう・・・ というのが「自力」。
すべてをお任せして、自分の分別でどうこうしようと思わない。
すべての価値判断、分別も、全部、阿弥陀様に投げ入れてしまう・・・
それが本当の意味での「他力」。
183:考える名無しさん
20/05/26 21:27:13.86 0.net
つまり、ここでも、 真の他力 = 中道 ということになる。
184:考える名無しさん
20/05/26 21:37:19.17 0.net
病気になっても、不安が起きても、恐怖があっても、たとえ不幸が起きたとしても、
すべて阿弥陀様にお任せする・・・ 完全他力。
病気や不幸、不安や恐怖があっても、価値判断して
どうこう(自力)しようとしない。
それをうち任せる場所・・・
それが「念仏」。
泥の流れの外に、「念仏」という型を置く。
泥はいくらでも流れてもいい。
不安も恐怖もそのままに、「念仏」にうち任せればいい。
185:考える名無しさん
20/05/26 21:44:33 0.net
道元禅師の「只管打座」、 只行う・・・ というのも、
「他力」とまったく同じ。
自分の価値判断でどうこうしようとしない。
座禅中に雑念が出ても、そこに価値判断を加えてどうこうしようとしない。
「ただ行う」、ということ。
「ただ」とは、「価値判断しない」ということ。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、
ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、
生死をはなれ、仏となる。」
「生死をはなれ、仏となる」 というのは、
「両極の価値判断をはなれ、中道となる」 ということと同じ。
186:考える名無しさん
20/05/26 22:11:19.12 0.net
>>185
例えば、自分の大切に思う人間が生死を彷徨ってるのに、献血をしない事も中道と呼べるのだろうか?
それも本当に信と呼べるのだろうか?
187:考える名無しさん
20/05/26 22:12:42.15 0.net
昔、あるニュース番組で、交通事故で障害を負った青年を取材する・・ という
特集をやっていたが、
その青年は、昔はイケメンで、活動的な青年だった。
しかし、事故後は、脳を損傷したため、しゃべりかたが障碍者独特の
舌が回らないようなしゃべり方になり、四肢の動きも悪くなっていた。
昔の面影はなく、障碍者独特の容姿に変貌していた。
普通の人だったら、絶望する状態だ。
だけど、その人の顔は光り輝くような素晴らしい笑顔だった。
ボランティアの学生が支援に来ていたが、青年が支援されているのか、
学生たちが慕って集まってるのか、わからないほどだった。
ここでアナウンサーが絶妙な質問をする。
「(事故前の)昔に戻れるとしたら、戻りたいですか・・?」
青年は輝くような笑顔でこう言った。
「いいえ、戻りたくないです。 今が一番いいです。」
188:考える名無しさん
20/05/26 22:14:58.77 0.net
>>187
それは絶対に戻れないとわかってるからという可能性はないだろうか?本当に戻れるかを選べる状況でもその少年は同じ答えになるのだろうか
189:考える名無しさん
20/05/26 22:16:37.67 0.net
それはその質問自体が間違っているのではないでしょうか?何故なら絶対に戻れないのだから
190:考える名無しさん
20/05/26 22:17:20.06 0.net
>>186
献血が必要とされるなら、献血する運びとなるでしょう。
自然にそうなっていく。
親鸞とて、病気になれば薬も飲んだだろうし、日常生活の必要上のことは
やっていたでしょう。
だけど、もし薬がなければ、それはそれで囚われることはない。
完全なお任せだから、どっちに転んでもOK。
大切な人に献血する運びとなれば、それはそれでOK。
でも、もし、献血できなかったとしても、それも阿弥陀様のお計らい。
ありがたや、ありがたや、ということになる。
妙好人とはそういう人たちのことだよね。
全ての価値判断を超えてる。
191:考える名無しさん
20/05/26 22:20:37.78 0.net
>>188
>>189
たとえば、自分が事故にあって車が壊れたとする・・。
このとき、「もし事故前に戻れるとしたら、戻りたい・・?」 って質問されたら、
「そりゃ戻りたいさ」と、「今」を後悔するでしょ。
それはガンになっても同じ。
「ガンになる前に戻りたいですか?」
「当たり前だろ!」 ってなるでしょ、だれでも。
ようは、「今」を後悔するってこと。
192:考える名無しさん
20/05/26 22:20:56.56 0.net
>>190
生きる為に必要とされる場面でも宗教のルールで出来ないなんて馬鹿げた事が現実にあるんですが?
ありがたやありがたやとなる人も居ればならない人もいる
完璧な物など世の中には無いのです
193:考える名無しさん
20/05/26 22:22:20.80 0.net
>>191
それはポジティブに考えるしか生きる方法が無いからであって、そちらを自ら選択しているのでは無いってことです
194:考える名無しさん
20/05/26 22:27:02.18 0.net
>>192
生きるために必要なのに、宗教上は出来ない・・ ってのは、中道じゃないです。
それは「思考分別」で宗教を考えてる人にはあるかもしれない。
おもにカルト的な宗教。
それが生きるために必要で、自然の理に合致しているならば、
自然にそういう風になっていく。
ただ、生きるために必要だからといって、お任せではなく、自力でああしよう、こうしようともがいてる場合は、
失敗が多いでしょ。
すべてをお任せして、自然にうち任せた方が、
自然にうまくいくことが多い。
「自然法爾」
すべては自然が取り計らってくれる。
100%うち任せれば、思考分別を挟まなくても、すべてが完璧に行われる。
その行いは、人間の思考分別から出た行動では不可能。
よく、スポーツで、ゾーンに入った、という言葉があるでしょ。
思考分別を超えたプレーになると、超越的なファインプレーが発現する・・。
195:考える名無しさん
20/05/26 22:30:16.88 0.net
>>193
「今を後悔する」ってのは、ポジティブじゃないでしょ。
ネガティブなんだよ。
試験に落ちた。
もう一度、試験を受ける前に戻りたい・・・
ってのは、ポジティブじゃなくて、ネガティブです。
なぜなら、「今」を受け入れられないから。
196:考える名無しさん
20/05/27 01:17:23 0.net
>>193
あー、わかった。
つまり、健康で元気なころよりも、事故で障害を負って不自由になった「今」の方を選択するのは、
理解できない・・
それは自ら好んで選択しているというよりも、もうこれから先、このままでいくしかないから、
過去のことは忘れて、これからのことを生きよう・・・
だから、(過去に戻るという非現実な話に浸るのではなく、今ある状態で生きることを選択しよう・・・)
ということだね?
あなたの言いたいのは。
それはそうじゃないです。
番組の中でその青年は、「今」の方が素晴らしいというニュアンスで、
「今がいいです。」と言ってました。
あなたはおそらく信じられないと思いますが、「障害/健康」に関係なく、「ホームレス/大富豪」に関係なく、
「今が一番幸せ」という世界があるんです。
それはそのどちらの両極も超えているから。
両極に影響を受けない。
依存していないです。
197:考える名無しさん
20/05/27 01:19:03 0.net
>>193
一般的に、普通の人の幸せとは、何かに依存してますよね・・?
お金だったり、容姿だったり、若さ、健康だったり、能力だったり、
何かに依存して幸せが成り立っている。
だから、それを失うと不幸になります。
ところが中道というのは、両極に依存しません。
この幸せは、たとえば、100億円持っていようが、0円だろうが、
関係なくそこに在ります。
100億円あれば幸せだ・・・ というのは、本当の幸せじゃない。
だから、中道という幸せの境地は、いくらお金を積んでも代えがたい、幸せの境地ということになります。
そしてその道は、万人に開かれている。
仏教的に言えば、両極というのはあくまで思考の作り出した幻想です。
100億あって幸せ・・ というのと、0円で不幸・・ というのは、
幻想ということになる。
100億円の幸、0円の不幸、それらの幸不幸が無くなったところに
本当の幸せがある・・・
それが中道ということです。
198:考える名無しさん
20/05/27 01:37:11 0.net
SHE'S - One
URLリンク(www.youtube.com)
199:考える名無しさん
20/05/27 22:48:40 0.net
「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無か二つの極端に片寄っている。
カッチャヤーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものは、
この世間には無というものはない。
またカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、
この世間には有というものはない。
<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、
苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。
ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。
これはひとつの極端である。
また、<すべては無である>という。
これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、
中によって法を説くのである。」
200:考える名無しさん
20/05/28 01:20:42 0.net
「それ故、アルジュナ、立ち上がれ。 戦う決意をして。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。
そうすれば罪悪を得ることはない。」
「自己を克服し寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、
寒暑や苦楽においても、毀誉褒亡貶においても、統一された状態でいる。」
「敵と味方に対して平等であり、また尊厳と軽蔑に対しても平等であり、
寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、」
アルジュナは言った。
「あなたはヨーガが平等の境地であると説いたが、クリシュナよ、
私はその不動の境地を見いだせない。」
聖バガヴァット
「好悪から生ずる相対観の迷妄により、万物は創造の時すでに迷妄に陥る。
しかし、善行の人々の罪悪が尽きる時、彼らは相対観の迷妄を脱し、
強固な信念をもって私を信愛する。」
201:考える名無しさん
20/05/28 01:25:52 0.net
- バガヴァッド・ギーター -
202:考える名無しさん
20/05/28 02:08:17 0.net
クルアーン <第2章雌牛章>
われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、
何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。
不義を働く者となるであろうから。」
ところが悪魔〔シャイターン〕は、2人を躓かせ、かれらが置かれていた
(幸福な)場所から離れさせた。
われは、「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは、互いに敵である。
地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」
と言った。
われは言った。「あなたがたは皆ここから落ちて行け。やがてあなたがたに必ず
われの導きが恵まれよう。
そしてわれの導きに従う者は、恐れもなく憂いもないであろう。
203:考える名無しさん
20/05/28 07:18:11 0.net
わかりました!!!答えは無です!!!!!!
204:考える名無しさん
20/05/28 16:42:28 0.net
エックハルトトール
アダムとイヴについて。
URLリンク(youtu.be)
205:考える名無しさん
20/05/29 03:40:32 0.net
あ、そうだ、最後に書くの忘れてた。
聖書で神が、「私はアルファであり、オメガである。」 っていう言葉があったよね。
アルファとオメガってのは、最初と最後って意味。
「最初」と「最後」が同時に存在するのは・・・・?
そう、それは「今」だよ。
時間的幅を一切持たない、ゼロ秒の今。
この「今」において、何ものも継続するものはない。 個の存在というものがすべて消える。
それは同時に、無限なる一が現れることになる。
お寺の山門にある、仁王像の「阿」と「吽」も同じ。
神社の狛犬の口が開いてるのと、閉じてるのも同じ意味。
あれは完全なる「今(=縁起、無限の一、空)」を表してる
URLリンク(i.imgur.com)
206:考える名無しさん
20/05/29 03:46:16 0.net
クルアーン6章38節
地上の生きとし生けるものも,双翼で飛ぶ鳥も,あなたがたのように共同体の同類でないものはない。
啓典の中には一事でも,われが疎かにしたものはない。
やがてみなかれらの主の御許に召集されるのである。
バガヴァッド・ギーター
「私は世界を滅亡させる巨大なカーラである。
諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。」
207:考える名無しさん
20/05/29 04:03:31 0.net
バガヴァッド・ギーター (聖バガヴァッドは告げる -)
「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、
また万物を自己のうちに見る。
私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、
また、私にとって、彼は失われることがない。
一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、
私のうちにある。
自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切(の生類)において
等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。」
208:考える名無しさん
20/05/29 21:55:40.12 0.net
前に、ネガティブなことに囚われてる人に対して、10円玉の裏も表も10円玉だよ、
裏、表、平等だよ、ってアドバイスしたら、
誰かが、「10円玉に描かれてるのは、平等院鳳凰堂だよ」 って教えてくれた。
見事なシンクロ。
ちなみに、鳳凰という字は、一の鳥と、白の王(百に一足りない)。
つまり「白の王」とは、99のことだ。
アッラーにも99の名前がある。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
99というのは特殊な数字だ。
蘇民将来 99 81
URLリンク(ameblo.jp)
209:考える名無しさん
20/05/29 22:01:46.96 0.net
人の思考(分別)は「表」と「裏」を別の存在として見る。
それぞれに自性(実体)があるわけだ。
しかし、真実は一枚のコインだ。
「表のコイン」 「裏のコイン」というのは、別箇に存在しない。
この分別が止むとき、「一」に帰す。
なぜ、「無」ではなく「空」かっていうと、「完全無」であればこの「一」も消える。
しかし、「表」と「裏」という、「一」の中にある両極が「無」になれば、
その中は「空(カラ)」になる。
空になれば、「一」が現れる。
これが、「無(完全無)」ではなく、「空」という表現が合う理由だ。
210:考える名無しさん
20/05/29 22:16:37.52 0.net
余談だが、
昔、自分のいた職場に、「フランス外人部隊に行く」 っていうやつがいて、
やがてその夢を実現すべく、辞職していったんだけど、その時、フランス外人部隊風の敬礼で見送った。
その時は、ただ夢想してるだけなんだろ、って思ったけど、
あとでフランス外人部隊の日本人兵に関する本が出たとき、
そいつが載ってた。
軍曹まで昇進してたね・・。
211:考える名無しさん
20/05/30 00:57:52 0.net
たとえば、何かを人前で発表するとき、緊張して上手くいかなかったとする。
そうすると大抵の人は、「緊張 = 悪」 「緊張しない = 善」 と分別して、
「緊張しない」方法を目指す。
「人」という字を書いて飲んだり、様々な緊張しないテクニックを本で読んだりして、
緊張しない人間になろうとする・・・
そこでまた発表するときに緊張したりすると、「あ~、また失敗した」 ということになる。
これは完全に二元相対分別に捉われているということになる。
ここでいうと、「中道」とはどういうことであろうか・・?
大切なのは、「緊張する(悪)」、「緊張しない(善)」に関わらず、
「発表する」という「行為」をすることだ。
相対観念はどっちに転んでも構わない・・
緊張して恥をかくかもしれないし、緊張しないで、上手く行くかもしれない・・
しかし、そこに重点を置くのではなく、どっちに転んでも、「行為(ただ発表する)」ということに専心する。
緊張する、しない、より、「発表する」という「行為」が本当の世界(今)なのだ。
緊張する、しない、は、泥の流れ。
行為は、その外にある「ハスの花」。
行為に専心したときは、「中道」にある状態。(=どちらでもよい)
212:考える名無しさん
20/05/30 01:06:55 0.net
たとえばそれを座禅に当てはめると、
大抵の人は、座禅の時に雑念が湧くと、「失敗」ととらえる。
「無念」になれると「成功」。
そこで一生懸命「無念(成功)」を目指そうとする。
しかし、成功と失敗は表裏一体で、成功に捉われてるうちは、
必ず「失敗」という概念が付き添う。
つまり、成功を求めているうちは、失敗から逃れることは出来ない。
「雑念が湧く(失敗)」、「雑念が湧かない(成功)」 という両者に関係なく、
「座」という「行為」をすること・・・。
これが「中道」の「行為」ということになる。 中道の実践、中道の行。
失敗、成功に関わらず、ただ行為に専心していれば、やがてその両極はどちらでもよい・・、
ということになる。
どちらにしても、「行為」には影響を及ぼさなくなる。
ハスの花と泥のように、世界が違ってくる。
213:考える名無しさん
20/05/30 01:16:55 0.net
緊張する、しない、という、両極への捉われを捨てれば、
やがては緊張自体もなくなっていく。
また、たとえ緊張が残ったとしても、それは有用なものに変わっていくだろう。
それは全く、「発表(行為)」においての「悪」ではなくなる。
また、雑念が湧く(失敗)、雑念が湧かない(成功)、という、両極の捉われが無くなれば、
雑念がありながらも統一していく・・・
雑念自体がありのままに映ってくるもので、それに対して心(分別)が少しも動かない・・・
いわゆる、不動心となる。
緊張しない、という結果(成功)を求めたり、雑念が湧かない、という結果(成功)を求めたりすることは、
相対分別に捉われているということになる。
「結果」というのは「時間の幅(思考分別)」の産物だ。
「今」じゃない。
214:考える名無しさん
20/05/30 01:23:36 0.net
緊張するものを、緊張しないようにしよう・・、 というのは、
泥で泥を洗う、ということ。
緊張しようがしまいが、ただ「行為」に専心しよう・・ というのは、
泥をほたっといて、ハスの花(行為)(=今、中道)にシフトするということ。
215:考える名無しさん
20/05/30 01:41:20 0.net
バガヴァッド・ギーター [聖バガヴァッド (クリシュナ) は告げた -]
「あなたの職務は行為そのもにある。 決してその結果にはない。
行為の結果を動機としてはならない。」
「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、
ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。
ヨーガは平等の境地であると言われる。」
「知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、
患いのない境地に達する。」
216:考える名無しさん
20/05/30 02:02:10.27 0.net
『お前の関心は行為にのみあり、決して行為の結果にあってはならない。行為の結果を、おまえの動機としてはいけない。また、
おまえは無行為に執着してはいけない。(2-47) ダナンジャヤ(アルジュナ。「富をかち得た人」の意)よ、実修ヨーガの中にあって、
執着を捨て、成功・不成功に対して心を平等に保ち、行為せよ。平等心こそ実修とよばれる。(2-48) なぜなら、ダナンジャヤよ、
(私欲的)行為は心の実修ブッディ・ヨーガ(結果を期待しない心的態度による行為)よりはるかに劣るから。理性ブッディを拠りどころとせ
よ。結果を(行為の)動機とする者はあわれむべき者である。(2-49) 心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを
捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。(私欲のない)行為に熟達することは、この(心の)実修にある。(2-50) 心の実修を
修めた賢者は、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛を脱して、わずらいのない境地(解脱)に到達する。(2-51)
217:考える名無しさん
20/05/30 21:09:54 0.net
androp - 「Hikari」
URLリンク(www.youtube.com)
218:考える名無しさん
20/06/01 19:30:17 0.net
26 :学術 :2019/12/02(月) 20:06:45.09 0
ユニクロのような新経済体質はアジアより高くヨーロッパより高い質の良さ面白さだ。
27 :学術 :2019/12/02(月) 20:12:23.53 0
ユニクロのランジェリー下着デザイナー雇うよ。
28 :学術 :2019/12/02(月) 20:17:23.12 0
エロニクロ ユニクロは今からバラエティーに富んだ高級下着メーカーだ。