19/03/29 19:05:13.19 0.net
hazuma
ぼくは「いつまでも子供であるぼくら」の肯定のために哲学を展開してきたつもりはありませんでした。
もしそう読まれていたとしたらそれはぼくの能力不足ゆえの誤解であり、深く反省します。
そのうえで改めてぼくの哲学はそういうものではないことを明言したうえで、ゲンロンを前に進めたいと思います。
そうです。ぼくの読者であれば「家族の哲学」やら「親として生きろ」やらが、
最近になって突然言われてきた言説ではなく、
10年前のQFからずっと断続的に言われてきたことを知っているはずです。
ただ、ぼくも面倒なのでそこを強調してこなかった…
哲学的にも実践的にも、いまこの国で大事なのは「家族であること」や「親になること」の脱構築だと思います。
いまよりももっと自由な家族のかたち、もっと自由な親のかたちを考えること。
これは生物学的な家族や親に限らない。家族や親と言う言葉を否定するところからは、その思考はでてきません。
人間はどうしようもなく大人になるし、親になるし、家族をつくる。
繰り返すけど、ここで家族や親は生物学的意味に限らない、先輩後輩、作者と読者なんでもいい。
人間はどうしようもなく共同体のなかにいる。その「どうしようもなさ」を拒否して、
永遠に子供だひとりだといっていても、前には進めない。
こんなふうにいうとこんどは哲学は前に進むものなのかとかいう問いかけがくると思うけど、
さきほども記したとおり、ぼくはもうそういう問いには関わらない。
前に進みたくなければ、前に進まなくてもいい。ぼくは前に進むし、前に進むために哲学をやる。それだけ。
おそらくこれは、世間的にはじつにあたりまえの話です。
ところがこのあたりまえが、いまの哲学や思想の世界では通用しなくなっている。
そうなった背景に複雑な歴史があるのは知っているけれど、ぼくはそれはもはや袋小路だと感じている。
だからゲンロンでは別の哲学を展開するのです。
ぼくは、社会のなかで、まともに生きているひとのために、
その「まとも」をより柔らかいものに変えるために、哲学をやる。その原点をあらためて確認しました。
今後ともよろしくおねがいいたします。
2019/03/29