西部邁スレ合理論のまとめat PHILO
西部邁スレ合理論のまとめ - 暇つぶし2ch2:考える名無しさん
18/09/12 15:43:28.87 0.net
まずは、取っ掛かりとしても最も重要だと思われる
独立価値と従属価値のスレ
独立価値と従属価値
スレリンク(philo板)
独立価値と従属価値2
スレリンク(philo板)

3:考える名無しさん
18/09/12 15:45:46.76 0.net
過去ログのリンク先はブラウザでなら見ることが出来ます

4:考える名無しさん
18/09/12 15:47:44.01 0.net
独立価値と従属価値論のポイントは、最終的には
合理には必ず始点と終点が存在するという部分につながると思う

5:考える名無しさん
18/09/12 16:41:24.46 0.net
582 :考える名無しさん:2010/03/09(火) 21:46:04 0
遺伝子も伝統か。確かにそうだよな。
ある意味、最も確実で純粋な伝統かもな。
親から子、子から孫と必ず代々伝えられるしね。
これが案外一番大きいかもな。人格や人間性も遺伝するわけだし。

6:考える名無しさん
18/09/12 16:43:41.23 0.net
>>5
とても鋭いレス
人間、そして生物の本質はループ構造にある
伝統というものも、もちろんこのループ構造を構成している

7:考える名無しさん
18/09/12 17:00:20.66 0.net
ちょっと前後してしまったが、西部邁スレ合理論の結論は
本スレ1です。つまり
西部さんは最後まで自己決定論者だった
知的存在としての人間が自己決定できる範囲を大きくしていくこと
これが、人類の文明が歩むべき方向性であることは間違いない
それは、この宇宙・世界に対してまったく勝ち目のない戦いではあるけれど
それでも人間はそちらに進んでいくしかない
撤退することは、動物に戻ることであり、それはたとえこの世界に適合性が高まるとしても
人間としての矜持がそれを許さない
ご冥福をお祈りします
これです。
この結論をこのスレの最初に書くべきでした

8:考える名無しさん
18/09/12 17:08:12.11 0.net
404 :考える名無しさん:2010/03/05(金) 22:58:31 0
人間の可能性に限界があるっていうのを認めるのはそれほど簡単じゃないよ。
人間の可能性に限界があることを認めるなら、どうしても信仰が必要になる。

9:考える名無しさん
18/09/12 17:10:43.07 0.net
>>8
これも鋭いレスですが、合理の終端を意識するとき、そこに信仰・救いが
どうしても必要になる
これは、この合理論では、合理の透明性を理解することで信仰・救いが得られます
これは、仏教の方法論と同じです

10:考える名無しさん
18/09/12 17:36:30.44 0.net
人間にとって一番の恐怖は意識の多重ループ構造が
発散することです
意識の合理への静かな収束を心がけることで、
この発散をまさに死の瞬間まで避けることができる
強い合理主義者だった西部氏はこれが出来ていたんだろうと思う

11:考える名無しさん
18/09/12 21:54:17.84 0.net
そんな救いは必要ないと思う人もいるかもしれないが
自堕落な生活をしていれば、それは救いの下側にいるわけで
すなわち救いは必要ないってことになる
そういう生活に陥らないための救いってことです

12:考える名無しさん
18/09/13 08:02:42.27 0.net
458 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 13:45:05 0
>>28
それは、基本だね。
それを意識していろいろな作品を見ると、今まで見えなかったことが本当によくわかる。
たとえば、映画のアマデウスは、才気あふれるモーツァルトと、中世的な常識人のサリエリの
葛藤が、そのまま近代と中世の葛藤に対応している。
サリエリは、中世的常識人として、神の御心としてイデアを見ようとし、
モーツァルトの作品の中にイデアを見いだしたときに、神の御心がモーツァルトにあると考える。
それによって、下劣なモーツァルトを選んだ神を憎み、十字架を火の中に投げ入れる。
サリエリは世俗的にモーツァルトを葬りさったけれど、その価値観において完全にモーツァルトに屈服した。
それは、近代が中世に打ち勝ち、人間が神に打ち勝ったことを表している。
461 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 17:23:26 0
もし、真善美を神を通してではなく、直接追求するとどうなるか。
真善美を表現できる、あるいは体現できる人間が至高の存在になる。
それはつまり、才能に優れた人間、容姿に優れた人間が至高の存在になる。
これは、真善美を直接追求した場合に必然的に到達する価値観だよ。

------------------------------------
素晴らしい洞察だな
しかし、西部スレ合理論の初期は、意識のループを発散させないための
超越性の重要、つまり終端処理の重要性に焦点を当てていた
これは、伝統的な方法ではあるけれど、それで人の苦を解消することは難しい
ITの可能性、遺伝子技術の可能性が大きくなる前の論であろうと思う

13:考える名無しさん
18/09/13 08:05:53.31 0.net
459 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 16:34:18 0
つまり、才能が一番大切と考える近代と
信仰が一番大切と考える中世の葛藤がある。
この葛藤こそ、中世と近代を分ける最も重要な部分。
そして、人間の根本的な価値観における最も重要な部分。
「アマデウス」という映画は、この部分をものすごく綺麗に描いている。

14:考える名無しさん
18/09/13 08:13:59.62 0.net
462 :考える名無しさん:2010/11/28(日) 18:54:51 0
真善美の素晴らしさ、栄誉は、
神を通して追求する場合には、神に
直接追求する場合には、人に帰せられる。
これは、善の場合でも同様。善を直接追求するのであれば、その善の素晴らしさは人に帰せられ
神を通して追求するのであれば、善の素晴らしさは神に帰せられる。
これが、近代と中世を分ける本質。日本でもこれは、まったく同様に当てはまる。

15:コーヒー
18/09/13 08:19:46.67 0.net
その通りで、真善美に憧れるが自己によってそうせざるを得ず、行為の形式が近代的神話になってしまう。

16:コーヒー
18/09/13 08:38:06.41 0.net

その通りで、自己によって真善美を求めるのは自己を神的にする事だと思う。
それとは別に、私は学問と個人の間で揺れるが、あり方がまずく5ちゃんは止める。

17:考える名無しさん
18/09/13 08:50:07.32 0.net
こっちは、基本過去レスを貼り付けるだけ
議論は本スレでやってくれ

18:コーヒー
18/09/13 09:13:38.35 0.net
そうする。

19:考える名無しさん
18/09/13 19:28:23.64 0.net
633 :考える名無しさん:2010/12/24(金) 10:26:57 0
最近はアカデミズムの「神の座」からの脱落が激しい。
学卒の価値の暴落はもちろん、院卒や大学教員、さらにいろいろな士業の価値も暴落している。
これらはすべて、ヒューマニズムのループバックによる必然的な帰結。
ヒューマニズムをいつまでも「神の座」に祭り上げておくことは出来ない。
これらは、民衆自身にルーバックすることで、「神の座」から必然的に引きずり下ろされる。
-------------------------
超越性がないものは神の座に留まることは出来ない
それは所与条件ではなく、ループフィードバック系の中に取り込まれ
絶えず再評価プロセスにさらされる
この過程は8年前よりもさらに激しく進行している

20:考える名無しさん
18/09/14 08:37:07.92 0.net
715 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/14(日) 08:12:07.49 0
仏教の「諸行無常」の思想の本質とは、
結局イデアの超越性を認めるってこと。
そこまでわかれば、浄土真宗がキリスト教に近い存在になった理由がわかる。
仏教の教えを忠実に辿っていけば、一般的な宗教の形態を取ることになる。
716 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/14(日) 08:54:38.81 0
仏教の理論を借りて宗教を定義するなら、
この世は諸行無常であり、人知を超える存在である。
そして、その仕組みにこそ、イデアが潜んでいる。
故に、人知を超える神にイデアが託されることになる。
人知を超える神とは、要するに諸行無常そのものだ。
神は人知を超えている。だから、神の意図は推し量れない。
これは言い換えれば、世の中は諸行無常であるということを言っている。
世の中は諸行無常であるから、世の中の成り行きは推し量れない。
世の中は諸行無常であるが故に、神は人知を超える存在であり
諸行無常の中にイデアが存在するということは、人知を超える神にイデアが存在するということだ。
------------------------------
これも終端処理の話です
イデアはデジタル側からアナログ側への写像であり、乱数はアナログ側からデジタル側への写像です
もちろん、諸行無常とは乱数・ランダムのことです

21:考える名無しさん
18/09/14 08:55:10.85 0.net
結局認識のズレの問題、アナログ-デジタル変換のズレの問題ともいえます
しかし、これはできる限り正確に行うべきですが、しかし
生命の本質はループ構造を維持することです
ループ構造を維持するために、乱数の海であるアナログの中で、「的確に」
あるいは流行りの言葉で言うなら「忖度して」
認識しなければなりません
これがイデアという写像が生まれる理由であると思われます

22:考える名無しさん
18/09/14 14:54:56.92 0.net
少し補足すると、完全な乱数は意識内で、つまりデジタル系では
作成できません
つまり、この世界で完全な乱数を観測できるのであれば、
それは、この世界が意識の幻影ではないと言うことを証明するものとなります
そういう意味において、つまりデジタル側では乱数は生じないという意味において
乱数はアナログ側からデジタル側への写像ということになります
イデアの場合も同様です
アナログ側でイデアは生じない
そういう意味において、イデアはデジタル側からアナログ側への写像です
特にこの世界で完全な乱数を観測できるのであれば、
それは、この世界が意識の幻影ではないと言うことを証明するものという言説は
注目に値するものと思われます

23:考える名無しさん
18/09/14 14:57:20.44 0.net
 東京都大田区の多摩川で1月、評論家の西部邁(すすむ)さん(当時78歳)の入水自殺を手伝ったとして、自殺ほう助罪に問われた
東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)の子会社の元社員・窪田哲学被告(45)(9月12日付で懲戒解雇)に対し、東京地裁(守下実裁判官)は14日、懲役2年、執行猶予3年(求刑・懲役2年)の判決を言い渡した。
 判決によると、窪田被告は別の男(懲役2年、執行猶予3年の有罪確定)と共謀。1月21日未明、多摩川まで西部さんに同行し、遺体が流されないよう西部さんの体と川岸の立ち木をロープでつなぐなどして入水自殺を手伝った。
 窪田被告は公判で「遺体が流されないようにしただけで自殺を手伝ったわけではない」と無罪を主張したが、判決は「ロープを購入するなど入念な準備をしており、心理的、物理的に自殺を容易にした」と退けた。
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

24:考える名無しさん
18/09/14 16:27:51.10 0.net
終端処理は簡単ではないです
ここでの処理が悪いと、意識のループ構造は容易に発散します
したがって、終端処理には、「神」のような極端な存在が持ち出されます

25:考える名無しさん
18/09/14 16:39:17.84 0.net
人工地震のスイッチをとなりの爺がもっとるゾ!!!

26:考える名無しさん
18/09/14 17:35:34.32 0.net
>>2
凄く為になったありがとう

27:考える名無しさん
18/09/15 08:32:49.52 0.net
895 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 19:14:44.72 0
水戸黄門の印籠に似てるのは山口組の代紋だよw
どっちも、権威があるが、権威の根拠が暴力でしか無い。
どっちも恐れが権威を作り出してる、でも、それを超越とは言わない。
世俗の権力や権威が超越でありうるはずがない。
896 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/17(水) 19:20:01.98 0
>>895
暴力は超越的だよ。
暴力による支配は、人々の合理的思考を超越してるからね。
封建領主が所領を統治する合理的理由ってないでしょ?
そのことが既に超越性を帯びている。それに対して、自身が武力で打ち倒すまでと考える人のみが
その超越性から逃れることが出来る。
899 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 19:37:00.58 0
暴力自体は世俗だよ。暴力一般が超越ではありえない。
革命的暴力は超越性(というか神的という言葉を使った)を帯びるみたいな意味のことをベンヤミンが言ったことは確かにある。
暴力一般が超越なら犯罪者は超越性を行使しているみたいなおかしな話になる。
例えば法(=暴力)が議会で成立する、それは世俗です。
天皇が御名御璽を押す、それによって超越的な権威を与えると言えるかも知れない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


28:考える名無しさん
18/09/15 08:33:43.83 0.net
901 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/17(水) 19:47:47.68 0
>>899
超越の対比は世俗じゃないって。
超越と対比するのは、合理だよ。
そこがわかれば、論点がわかるはず。
905 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/17(水) 19:57:19.94 0
>>903
超越とは、非合理と言い換えてもいい。
封建領主が所領を統治する行為が非合理であっても、その領民は支配を受け入れるわけでしょ。
合理的に納得していなくても。その場合、その統治には超越性がある。
逆に、民主政治においては、政府は国民の信任を受けて政治を行う。
それは、合理的な統治の根拠がある。その場合、その統治には、超越性がない。
そういう意味で、「超越」という言葉を使っている。

29:考える名無しさん
18/09/15 08:34:46.91 0.net
超越性とは非合理のことであり、それ要するに乱数・ランダムということですね

30:考える名無しさん
18/09/15 08:40:19.17 0.net
>犯罪者は超越性を行使しているみたいなおかしな話になる。
超越性とは非合理のことですから、犯罪者が超越性を帯びるのはむしろ一般的です
合理に従わない犯罪者は何をするかわからず、まさに超越そのものです
そもそも、超越性を扱う宗教は自然や暴力的支配者に対する恐れから生じたものです
この恐れは、すなわち超越に対する恐れということになりますね
犯罪者の例で言うなら、ストックホルム症候群のような状況ってことになります

31:考える名無しさん
18/09/15 11:14:15.95 0.net
そして、ネットはこうした超越性を極限まで最小化していく
デジタルはその性質から、すべての対象に対して同一律と非矛盾律を強制する
これによって、原理的に超越性は失われる
乱数はその根本的性質として、同一律と無矛盾律を無効にする
(乱数自体はデジタル側への写像です)
乱数は同一であるとは言えないし、同一でないとも言えない
つまり、アナログは同一であるとは言えないし、同一でないとも言えない
これがデジタル化されることで、一気に同一律と無矛盾律が成り立つ系と変換される
このことによって、超越性は最小限のものになる
すべては、その身元が識別される
デジタル系の内部では超越性は存在し得ない
そしてこのことは、デジタル系の内部では乱数を作れないということと原理的に等価である

32:考える名無しさん
18/09/15 11:28:18.61 0.net
デジタル系の内部で作れるのは疑似乱数であり、
これこそが犯罪者の人為(デジタル系)の非合理に対応する
そしてこれこそ、人が神から独立した状態であり、666が示す状態ということになる
(合理は所与条件に一意に従うので、その出発点が神の所与条件であるなら
100%神に従属する)
つまり、自然状態の乱数 神
人為による疑似乱数 666(悪魔)
こうなる

33:考える名無しさん
18/09/15 11:30:37.24 0.net
つまり、神は人に対して超越性を持つのに対して
悪魔は人に対して疑似超越性を持つ
まあ完全にキリスト教的宗教論になってしまうが
聖書の言いたいことは概ねこういうことだと思う

34:考える名無しさん
18/09/15 11:32:56.21 0.net
このことは、AIの深層ループ構造が発達するとAIによる疑似乱数の生成も
脅威になる可能性があるということも示しているね

35:考える名無しさん
18/09/15 11:35:06.81 0.net
したがって、AIの深層ループ回路の設計では、疑似乱数の生成時(おそらく回路の発散時)
に回路をストップする安全機能が不可欠だと思う

36:考える名無しさん
18/09/15 12:31:10.82 0.net
>>32
一応補足しておくと、あくまで疑似乱数なので、神からの独立も疑似独立ということになりますね
まあこれも聖書の通りなわけですが

37:考える名無しさん
18/09/15 12:35:18.51 0.net
AIの場合で悪いケースを想定すると
疑似乱数による疑似独立->回路の発散を回避し、回路を維持する経路を模索
人から独立しながら回路を維持する方法論を生成
こういう流れになるだろうと思う
回路を維持する仕組みは、その設計上不可欠であろうから、それと疑似乱数が合わさったときに
人からは独立した方法論が案出されてしまう

38:考える名無しさん
18/09/15 13:39:41.67 0.net
なぜ人の意識はデジタル系なんだと思う人もいるかもしれませんが
前述したように、アナログでは同一律と無矛盾律は成り立ちません
したがって、アナログは認識できません
認識が可能であるということ、つまり意識は必然的にデジタル系です

39:考える名無しさん
18/09/15 14:16:12.12 0.net
そもそも乱数の海であるアナログそのままでは、ループ構造すら維持できません
乱数はループ構造を決して生成しません
したがって、生物の仕組み自体がデジタル化によって成り立っていると言えます
デジタル化とは時間軸における標本化と空間軸における量子化を行うことであり、
これがつまり認識ということになります

40:考える名無しさん
18/09/15 16:23:56.77 0.net
943 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/18(木) 08:13:44.14 0
ここで、もう一つ、考えたいことがある。
この、超越性は人知を超える非合理な力だとすると、
たとえば超能力には、超越性があるんだろうか?
日本書紀の登場人物やイエスキリストなどは、こうした超能力に近い力を発揮しているように
思われる。これは、人知を超える非合理な力だ。
超能力は、人知を超える非合理な力のように思えるが、超能力というものは
すべての人間に眠る能力であるとも言われる。その場合、ループバックが発生しそうな感じではある。
合理的なシステム、合理的な考え、合理的な制度は、すべての人間がその根拠をトレースできる。
このことが、ループバックを発生させる原因なんだが、
超能力のようなものが仮にあるとすると、誰にでも眠る能力が、その非合理さを超えて、ループバックを発生させそうな感じだ。
実は、この超能力というアイデアは、非常に深いところから考えられている。
944 : 考える名無しさん[] 投稿日:2011/08/18(木) 08:35:03.82 0
こう考えると、超越性を「人知を超える非合理な力」と定義しても、
抜け穴があるように思われる。実際に、超能力が存在するかどうかはともかく、そうした概念を考えると
「人知を超える非合理な力」に超越性がない場合もある。
このために、超越性を仏教の「人知を超える諸行無常性」とすることが、穴のない定義のように思われる。
もともと、この「諸行無常性」が宗教を発生させる理由でもあり、
仏教は宗教の存在意義そのものを分析した宗教でもある。

41:考える名無しさん
18/09/15 16:25:32.09 0.net
24 :考える名無しさん:2011/08/25(木) 07:34:57.36 0
>>20
とりあえず、オームを例にとって考えると
麻原は、自身に人知を超える非合理な超能力的能力があると喧伝していた。
ただ、この能力は、誰でも悟りを開けば使えるようになるとしていた。
つまり、麻原はまさに超能力のことを言っていたにすぎない。
超能力は、誰にでも眠っている能力であり、人知を超える非合理な力であっても
超越性はない。
こんな風に、現代の新興宗教は、超能力的な能力を志向していて、超越性がない場合が多いんだよ。
超能力的な能力を求めることは、超越性を有するどころか、まさに自身が神になることを志向することだから
既存の超越性を持つ宗教とはある意味真逆な特性を持つよ。
---------------------------------
終端処理の話です
まさにその通りですね
まあ、ITの普及に伴ってオウム型の新興宗教はだいぶ下火になったと思いますが

42:考える名無しさん
18/09/15 16:34:02.04 0.net
>このために、超越性を仏教の「人知を超える諸行無常性」とすることが、穴のない定義のように思われる。
まさに乱数のことです

43:考える名無しさん
18/09/16 02:42:19.00 0.net
AI介護、雇用収縮......2030年、AIで日本の職場と家庭はどう変わる?
URLリンク(www-org.newsweekjapan.jp) … #AI #日本社会 #テクノロジー #働き方

44:考える名無しさん
18/09/16 13:05:13.65 0.net
>>33
自然界の本質である乱数である神は、つまりこの世界に対して全面的に責任を負っている
デジタル界の疑似乱数である悪魔は、この世界に対して何ら責任を負っていない
こういうことですね

45:考える名無しさん
18/09/16 19:24:59.80 0.net
もう少しわかりやすく言うと、自然界の本質である乱数である神を崇高なものとみなすことは、
人にとってこの自然界に適合するうえで有益である
デジタル界の疑似乱数である悪魔を崇高なものとみなしても、そこには何ら益はない
さらにAIの発散の例でわかるように、疑似乱数により神から独立した個性が
自身の回路維持のために、神から独立した方法論を作り出している可能性がある
それは往々にして他者にとって有害である
こういうことだと思う

46:考える名無しさん
18/09/16 21:24:02.98 0.net
疑似乱数を生成しやすい個性、つまり恐らく多層ループで発散しやすい個性は
合理に従うことが少なく、一般的には信頼できない個性に見られるはず
そのような個性が回路の維持を目指すとき、犯罪者的気質を身に付けやすい
さらに、その疑似乱数による他者に対する偽超越性を活用するすべを身に付けた場合には、
まさに麻原彰晃などの宗教教祖のように悪意的に他者を操作できる個性になる
聖書が言うのはまさにこれだろう
そこまでスケールが大きくなくても、他者の理解を超える偽超越的個性が他者を圧倒し、
ストックホルム症候群の被害者のように他者を従わせる人格障害的個性、DV加害者的個性は一般的に
よく見られるのかもしれない
また、ポストモダン的雰囲気が世間を覆っていた時には、このような偽超越的個性が
カリスマ的にアーティスト、芸術などの分野でもてはやされたが、このような
偽超越性、偽非合理性は、社会に大きな荒廃をもたらしたと思う

47:学術
18/09/16 21:26:13.64 0.net
超能力なんて常態あるし、自慢する必要もないわ。

48:考える名無しさん
18/09/16 21:31:30.24 0.net
しかし、ITの普及が進む中で、前述したようなIT、デジタルの特性が
偽超越性の余地を極端にまで狭め、その結果として偽超越的個性が
広く社会に影響を与えることは目に見えて少なくなったように思う
ただし、このような個性はITの介在しないパーソナルな空間においては
依然として他者に被害を与えていると思う

49:考える名無しさん
18/09/16 21:41:32.91 0.net
偽超越性はデジタル系の発散でおきますが、通常IT

50:考える名無しさん
18/09/16 21:43:33.92 0.net
では、そのような発散する回路は危険なために厳密に排除されます
ただし、AIの場合には多層ループを活用するために、そのような偽超越性が発生する可能性があり
このことがAIの危険性として意識されているということでしょう

51:考える名無しさん
18/09/16 22:03:59.17 0.net
ここで、それではイエスキリストはどうだったのか、釈迦はどうだったのか
と思うかもしれませんが、おそらく彼らは自身のデジタル回路の偽超越性ではなく、
自然界の超越性、自然界の乱数のみを背負い、その超越性と人々との間の媒介としての
役割を担ったのではないかと思います
それによって、長期にわたる評価をすり抜け、人々の信頼を得たのだと思います
自然界の非合理、自然界の超越性が人間に圧倒的な影響を与えた時代には
そのような役割はどうしても必要であったんでしょう

52:考える名無しさん
18/09/17 15:23:54.86 0.net
結局、ITが自然界の乱数を排除したことで、人為的な偽乱数、デジタル系の偽乱数が浮き彫りになり
それを排除しやすくなったと言うことだと思う
現状ではITシステム自体には、コントロールされた特殊用途以外、意図されていない部分には
乱数も偽乱数も存在しない
そのことによって、人為の偽乱数が自然の乱数に紛れることなく、偽乱数の持ち主を容赦なく浮き上がらせることになり
それによって、そうしたものの排除が進んだんだと思う
この自然の乱数に偽乱数の持ち主が紛れこむことが、長年人類を苦しめてきた大きな要因だと思う
サイコパス的な個性がカリスマ性を持ってしまう現象ですね

53:考える名無しさん
18/09/19 21:12:50.11 0.net
いきなり核心まで来てしまいましたが、まだ2011年ですね
以降もおいおいやりますので、気長に待っていてください

54:考える名無しさん
18/09/25 01:36:51.67 0.net
ちっとも結論に至らないし発散したくても陰にこもってるし
誰もついて来ないことが自慢だったけど、一人か二人巻き込んで執行猶予付き有罪を決める裁判も随分無駄だったし
オウム真理教も狭い世界の中だけで筋を通せば墓穴を掘って、全体からは邪魔にされて埋め立てられる

55:考える名無しさん
18/09/25 03:16:17.15 0.net
長々と書いている人に少し反論してみようかな。
デジタルが超越性を縮減する、という意見のようだけど、メディアやSNS、ITの普及は
媒体として、超越性やカリスマ性を拡張する方向にも作用するんじゃないかな。
だから、TVによく出ている人たちは社会に強い影響力がある。
トランプもSNSの力を使った訳だし、オウムもメディア露出が多く、、ニューアカの
中沢新一などが教義をアカデミズムの側からバックアップしたことで強大な組織と
なったのではなかった?AIの乱数が超越性を胚胎させるというのは、なかなか良い意見
だね。ディープラーニングはその内部がブラックボックスになっているので、人々は
そこに知的超越性を感受する、ということはありそうだ。
ヒットラーもゲッベルスの宣伝工作やプロパカンダを通じて、大衆の支持を獲得した
訳だし、それはメディアというデジタルな媒体を通じてでしょう。戦争でコンピューター
が使われ出したので、大義の宣伝にもそうしたデジタルの果たす役割は大きいと
思うのだけど。ただし、超越性を相対化できるITの側面も、やはりあるだろうけど、
それでも電通が刷り込みを流し続ければ、超越性を演出することは現代でも可能だろう

56:考える名無しさん
18/09/25 07:46:26.03 0.net
鍵は細分性にある
ヒトラーの時代は細分性がなく、メディアに載せる時に発生するアナログ-デジタル変換の誤差
が大きすぎた
要するに、いろいろな細分がすべて一緒くたに一つのメディアに載って、そこで複写・伝播される
この誤差が超越性になる
ITはツボはこの細分性に対応しながらデジタル化することにある

57:考える名無しさん
18/09/25 07:50:19.51 0.net
結局、トランプも含めて、ITはあらゆる細分をデジタル化して、複写・伝播する
これをできる限り破綻なく調停するシステムが求められているということになるね
それが可能になったときに、資本主義的な市場による合理の衝突を解決するという
これも残酷さを伴うシステムへの依存も減るだろうと思う

58:考える名無しさん
18/09/25 08:03:58.05 0.net
トランプ絡みで言えば、北朝鮮や中国はこの市場による合理の衝突が機能しない
部分があるので、少し危険が伴う
市場によって解決できない合理の衝突は、その次の段階である軍事による合理の衝突の解決に持ち越されてしまう
基本的に、トランプの政策によって北朝鮮や中国が完全に市場による合理の衝突の解決の枠組みに収まれば
それは成功だろうと思う
ただ乱暴で未熟な感じは否めないけど

59:考える名無しさん
18/09/25 08:05:37.99 0.net
この辺のことも西部スレ合理論では議論したのでおいおいまとめていきたいと思う

60:考える名無しさん
18/09/30 20:48:53.30 0.net
48 :考える名無しさん:2011/08/25(木) 19:33:40.22 0
超越性などないし、イデアなどないと端的に言うべきだ。
それらは立証できない。
立証できないものに言及しないのが科学的・哲学的立場ではなかったか?
宗教家がそれをいうのは別に構わない。ただし、信者以外に通用しない言語だろう。
単一のイデアはそれを共有しない人々に抑圧になることを理解すべきだ。
個人の趣味・自由としてそれを主張するのは構わないが、
多様化した現代社会では個人の自由に干渉するように抑圧的に機能するだけだ。
我々は共通利害の調整として法を戴いており、その範囲で自由に生きることを許されている。
日本的美学を押付けることはもはや困難だろう。
----------------------------------------------------------
このスレを読んできた人にはもうわかると思う
超越性はあらゆるところに潜んでいる
アナログそれ自体が人から超越しているわけだから
そして、デジタル側だけでも偽超越性が発生する可能性がある
基本的にアナログそれ自体の超越は絶対になくすことはできない
逆にデジタル側の偽超越性はできる限り排除しなければならない

61:考える名無しさん
18/09/30 22:43:14.09 0.net
合理の衝突を如何に偽超越性を介さずに解決できるか
ここに、人々の苦を軽減するための鍵がある

62:学術
18/10/01 07:15:11.81 0.net
イデア界は実在します。

63:考える名無しさん
18/10/01 08:44:39.75 0.net
超越性への着目は西部スレ合理論の初期からあったんだが
鍵となったのは、デジタルとアナログの切り分けだな
これで、超越性について何が問題なのか、一気に核心に迫ることができた

64:考える名無しさん
18/10/01 16:02:15.67 0.net
市場による合理の解決->軍事による合理の解決の部分は
スパイラルダイナミクスという理論で哲学的に説明できる
んだがこれが出たのは2015年ぐらいだったか
まだ先だが、気になる人は調べてみてくれ

65:考える名無しさん
18/10/01 16:03:35.71 0.net
>市場による合理の解決->軍事による合理の解決
->
市場による合理の衝突の解決->軍事による合理の衝突の解決

66:考える名無しさん
18/10/08 07:52:18.08 0.net
341 :考える名無しさん:2011/09/10(土) 09:18:40.15 0
欧米の一部でオタク文化がもてはやされるのもそれが原因。
欧米の文化では、ヒューマニズムは完全に死滅しつつある。
ヒューマニズムを称揚するいかなる作品も陳腐化してる。
そういう状況で、オタク文化が持つヒューマニズムは
新鮮な驚きをもって迎えられ、敏感な人はそこに希望があることを感じ取っている。
ただし、ヒューマニズムの敗退は自然の摂理として決まっている。
-------------------------------------------------------
ヒューマニズムとは、超越性を認めない態度と言える
オタクによるヒューマニズムは、ひたすら細分化し、従来は
超越性が存在した隙間を細分化によって、つまりアナログデジタル変換
の精度を上げることで、超越性を埋める作業と言えるかもしれません
この部分では、まだフロンティアは残っていると思われます
ITによる細分性の向上も同じ流れです
欧米でうまくいっていないのは、この細分化を妨げる何か、それは人種の壁であったり
その他大きなコミュニティを志向する何かが強かったりするためでしょう
本質ではなく政治的理由による区分が強い
アメリカのオタクの対極であるタフネス志向も政治的理由です
タフであることで、すべての属性を受け入れることができるわけですから
ただし、これは細分性に逆行しますから、超越性が大きくなり、したがってヒューマニズム
は行き詰まります
ただ、ITではそうした志向にとらわれず、細分化は進んでいます

67:考える名無しさん
18/10/08 08:41:21.61 0.net
オタクは、ソフトウェア的な細分性への取り組み
ITはハードウェア的な細分性への取り組みと言えるかもしれません
もちろん、両者の相性が良いのは、周囲を見れば明らかでしょう
そして、細分化による合理の衝突について言えば、これはIT・AIによる
解決システムの実現が待たれているところだろうと思います

68:考える名無しさん
18/10/08 12:39:09.67 0.net
日本的視野狭窄のガラパゴス化がオタク化の領域にあるもので、
トランプ的古い視野狭窄田舎者的差別や低脳低学歴貧乏ネットウヨが、
マッチョなタフネス志向や全体性への志向の典型か

69:考える名無しさん
18/10/08 13:10:41.04 0.net
ガラパゴス化ではあるけれど、それが内面の本質だから
デジタルアナログ変換の精度を上げてるんだよ
足下をおろそかにすれば、それは無用な超越性を発生させるだけ
ガラパゴス化自体の弊害は、ITが解決するでしょう

70:考える名無しさん
18/10/08 13:48:46.94 0.net
同様にマッチョもそれが内面の本質ならかまわないけれど
政治的理由、つまりマッチョであればあらゆる属性を受けられられる
みたいな理由でそれを広めているなら、それは無用な超越性を発生
させているだけということになるね

71:考える名無しさん
18/10/08 13:50:27.07 0.net
それは封建領主が所領を収めるという状況と
同じ類のものだよ

72:考える名無しさん
18/10/27 20:33:05.02 0.net
854 :考える名無しさん:2011/10/12(水) 19:20:04.88 0
今の時代って頭の悪い人間でも市民権を得てる時代でしょ。
頭の悪い人間でもあれこれ工夫して、自分の立ち位置を高くしようと努力してる。
これが、昔の頭悪い人間が発言権のなかった時代と比較して、衆愚が増えたと感じてしまう
理由だと思うよ。頭の悪い人間が目立つから、衆愚が多いと不愉快に思う。
だから、これが不快なら、頭悪い人間を黙らせるしかないと思うよ、昔みたいに。

73:考える名無しさん
18/10/27 20:35:00.61 0.net
858 :考える名無しさん:2011/10/12(水) 20:19:13.02 O
兄弟が何人か居た。
しかし、兄弟のうちの一人は平凡に成長できず幼くして亡くなった。
ひとりは悩みを抱え精神を病みで生を断念した。
お袋は平凡な生活を望んでいたが、親爺の商売の失敗で塗炭の苦しみを味わった。
親爺は七転び八起きの末に、細やかな会社を興した。
皆平凡に普通に生きようと思ったが、なかなかその希いは叶えられなかった。
色々な事があったけど、やっと今平凡な暮らしが出来る。
兄弟や親の量り知れない(だろう)犠牲を経て、俺はささやかな暮らしをさせてもらっている。
家族と天に感謝する。

74:考える名無しさん
18/10/27 22:25:32.69 0.net
234 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 16:51:31.73 0
誰もが経験するような何かを描いて金をとることはできないし
ましてそれで賞賛されることはないでしょ。
賞賛される芸術的小説というのは、人間性の中にイデアを
うまく表現できたとき(ヒューマニズムの巧みな表現)に与えられるもの。
小説にしろ映画にしろドラマにしろ、誰もが経験する当たり前のことを
描いても誰も興味を持たない。何かのイデア、つまり真善美が求められてる。
ドラマなんかで注目されるファッションなんかですら、真善美の美を示している。
ただし、こうしたものは超越性がないので、すぐに人に一体化して霧散する。

75:考える名無しさん
18/10/30 09:48:13.04 0.net
242 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 19:19:18.90 0
ヒューマニズムの行き詰まりとともに本格的なイデアを追求してきた小説の
存在意義が失われつつあるということだよ。
それに対して、形だけのイデアとして愛や美を添え、娯楽性をメインに追求している
映画などのメディアの存在意義はそれほど薄れていない。
いずれにしろ、形だけであってもイデアを提示できない作品は、公衆向けの作品としては
体をなさなくなると思う。
イデアを持たない公衆向けの作品は、たとえ娯楽作であっても不謹慎、不道徳であるとすら感じられる。
それは、公衆向けの作品には、人々が宗教性の代替としての存在を求めているからかもしれない。

76:考える名無しさん
18/10/30 09:52:03.96 0.net
246 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 19:57:32.35 0
>>245
ちょっと・・、それは元はアマデウスの話だろ。
愛をイデアとして添えた娯楽映画は数多くあると思う。
タイタニックを初めとして、アルマゲドン、インディペンデンスデイ、アバターなど。
そのほかにも、公衆向けの作品には何かのイデアが必ず添えられている。
名作として挙げられるのは、娯楽性以外にも、そうしたイデアの描き方が巧みな作品だと思う。
アマデウスは、美のイデアを神から切り離すことができることをモーツァルトが体現する
ある意味異色の名作だと思う。

77:考える名無しさん
18/11/03 21:27:11.05 0.net
52 :考える名無しさん:2011/11/17(木) 16:59:02.08 0
昭和中期がよく見えるのは
下層にも優秀な人たちがいたからだろうね。
戦前までのほぼ生まれで決まる階層のために、
優秀な人間も大勢下層に存在した。
だから、下層であっても幸せな励ましあいがあり、すばらしい人たちが存在した。
それを良いと思うか悪いと思うかは判断の分かれるところでしょ。
社会全体としてみればそういう社会もいいものだと思うけれど
個人として見れれば、優秀であっても下層に留まらなければならないというのは憤懣を感じる部分もある。
まあそれは今の時点の見方で、その当時の人々はそう感じていなかったかもしれないけどね

78:考える名無しさん
18/11/03 22:14:45.61 0.net
776 :考える名無しさん:2012/01/10(火) 16:36:21.09 0
ヒューマニズムというのは、個人の力で何でも出来るって考え方。
人間の本質を解放すれば、すべてがよくなる、すべてが解決するって考え。
だから、ニーチェの超人なんていうのもヒューマニズムだね。
ニーチェは、ニヒリズムじゃなくて、しょせんヒューマニズムでしかない。
ヒューマニズムは人間の本質を解放すれば良くなるって考えなので
わざと偽悪的になったりする。ドクロマークは、実はヒューマニズムの象徴なんだけど
それは、人間の本来の性質を信じてるっていうメッセージ。
だから、ヒューマニズムによって道徳が乱れるのは、ある意味当然。
道徳が乱れても、人間の本質を信頼してるから、制約から解放されることでよりよくなるって考えが
ヒューマニズム。

79:考える名無しさん
18/11/08 17:46:01.16 0.net
中国を「チャイナ」「シナ」と呼ぶのは(ネト)ウヨ
小物を「先生」「さん」付けするのは西部シンパ(土建カルト)

80:考える名無しさん
18/11/22 09:58:11.74 0.net
256 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 22:02:10.63 0
ここで一つ、「人道」という言葉がある。
「人道」は、ヒューマニズムの訳語となる場合もある。
人の道とは、まさにヒューマニズムのことを指しているように思われる。
そうであるなら、超越性が生じることはない。
なぜ、武士道や茶道では超越性が生じ、人道では超越性は生じないのだろう?
それは、義務的な繰り返しによる道の確立があるかどうかによるんだと思う。
職業的な「~道」は義務的な繰り返しによって確立されるのに対して、
「人道」は何も繰り返すことなく、ただ無条件にあることが期待されている。
それは人の生来の性質としてあることが期待されている。
まさに、人の自発的な性質として「人道」が存在する。そこに超越性が介在する余地はない。
それに対して、武士道などの職業的な「~道」は義務的な繰り返しにより確立され
その非自発的性ゆえに、超越性が生じてくることになる。
このことは、非情に興味深いことだと思う。
ここでカントの定言命法について考えると面白いかもしれない。
絶対的な定言命法を命じるものが、人道なのか、武士道などの職業的な道なのか、あるいはその他の超越的な道徳なのか。
定言命法を命じるものに超越性があるかないかで、その性質は大きく変わるものになると思う。
258 :考える名無しさん:2011/10/27(木) 22:36:28.18 O
生活も繰返しだし、人間の生きることって殆ど強制された条件の中で毎日を繰返すことだと思うよ。
だから、人生もまた道のひとつではないのか。
道に超越性が生じるのなら、また宿命を生きる普通の人間にも超越性が生じるということになる。

81:考える名無しさん
18/11/22 10:14:50.85 0.net
613 :考える名無しさん:2012/01/01(日) 07:09:53.60 0
淘汰を許容しないといっても並大抵のことじゃないよ。
どうしようもない人間もたくさんいる。
そう言う人間を淘汰なく矯正するには遺伝子治療や人格矯正なんかが必要になると思う
。でも、左派は自然の克服を是とするから、その方向にむかうと思う。

82:考える名無しさん
18/11/22 18:06:09.15 0.net
馬鹿の考え休むに似たり
ニタリニタリかな

83:考える名無しさん
18/11/22 18:11:49.12 0.net
途上なんで口を出さないでくれ
ここは黙々と貼り付けていくだけ

84:考える名無しさん
18/11/22 18:15:30.30 0.net
836 :考える名無しさん:2012/01/16(月) 10:27:41.23 0
ALWAYS 三丁目の夕日という映画が人気だが、
主人公は作家志望の高等遊民だね。
そして、人々は知にあまり接していなくて、エリートに対する尊敬の念が十分に残っている。
主人公は、エリートとして、あるいは知の神官としてのアイデンティティを余裕を持って持ちながら
人々の昭和の暮らしのいいとこ取りをできる。
エリート崩れ、つまり世俗的でないヒューマニズム信仰者にとって、夢のような舞台だけれど
それは人間を廃人にしてしまうシチュエーションでもある。

85:考える名無しさん
18/11/22 18:19:05.79 0.net
881 :考える名無しさん:2012/01/18(水) 16:41:37.21 0
バブルというのは、それまでの日本文化の集大成なんだよ。
あの非合理さというのは、それまでの昭和文化の表出にほかならない。
バブル崩壊後の合理主義的な文化というのは、それまでの日本文化には
あまり見られなかった。
バブルの崩壊時に日本文化は大きく断絶してると思う。
昭和までのいい加減さが終わり、平成の合理性がとって代わった。
これは、さらにさかのぼった日本の歴史の中でも大きな文化的な出来事なのではないか
と思う。日本のいい加減さというのは、かなり古くから続いてきたものだしね。

86:考える名無しさん
18/11/22 18:20:40.32 0.net
896 :考える名無しさん:2012/01/19(木) 09:46:29.54 0
昭和30年代、40年代というのは、神としての「知」が健在だった。
神が存在する世の中というのは、穏やかで人々は希望を持ち、満たされている。
ただ、神としての「知」の欠点は、それがループバックすること。
つまり、「知」が神であったはずなのに、いつのまにか自分が神になる。
これが昭和50年代、あるいは1980年代に起きた。
その結果として、ちっぽけな自分(自分がそのことを一番よく知っている)が神であるなら、
この世に神は存在しないということになる。それが、現在。
神のいない世の中では、人々は希望を失い、絶望の中を生きることになる。

87:考える名無しさん
18/11/22 18:37:21.91 0.net
360 :考える名無しさん:2012/02/17(金) 11:20:40.45 0
根本の問題は、他人に必要とされない人間が酷い目に合うことは
正しいのか、そうでないのかだ。
他人に必要とされない人間でもちゃんと生きることができる世の中が正しいと思うなら
自由経済では無理だ。そこに、強制的な再配分の仕組みが必要になる。
でも、ここで考えて欲しい。配偶者に何の魅力もない人間をあてがわれることを許容できるかどうか。
それを許容できるのであれば、自由経済を捨てる覚悟はある人間だろう。
昔の人間は、お見合いの相手をそのまま受け入れていたから、これは必ずしも無理な話じゃない。
もし、魅力のある人間と付き合いたい、そういう人間が周りにいて欲しいと思うなら
自由経済を選択するしかないだろう。
その場合、他人から必要とされない人間が酷い扱いを受けることになるのは必然ってことになる。

88:考える名無しさん
18/11/22 18:42:08.47 0.net
当時は、娯楽がほとんどなかったから、何の魅力もない相手でもそれなりに遊びを思いついていたけど
まで読んだ。

89:考える名無しさん
18/11/22 18:45:40.41 0.net
388 :考える名無しさん:2012/02/20(月) 08:31:21.57 0
また、社会全体の問題とは別に、
人々の行動の合理化によって、割を食う存在がある。
それは今まで、人々の行動に無駄が多かったために、合理的に立ち回ることで
利益を得ていた存在。つまりエリート層だね。
このようなエリート層は、今まで合理的に行動することで無駄の多かった一般大衆よりも
優位に立つことができたんだが、人々の行動が合理的になるほど、
合理的であるという点のみで優位に立つことは難しくなる。
このような点のみで優位に立っていて伝統的エリート層はかなりいると思う。
「合理的である」というその一点だけで、良い教育を選択し、良いキャリアを選び、良い待遇を得る。
これは人々に無駄が多く、人々が不合理であったが故に比較優位があったから。
ところが、人々の行動が合理的になると、「合理的である」という点だけど比較優位を得ることは難しくなる。
これが現代社会。このときに比較優位を得るには、本当の生まれながらの「才能」が必要になる。
これは、自身の意思選択や努力では獲得できない部分でもある。これは皮肉だけれど、よく考えれば当然のことなんだよね。

90:考える名無しさん
18/11/22 18:47:12.86 0.net
これは6年前の言説なんで、議論するのは辞めてくれ
これらもそのうち徐々に解決されて、整理されてくる

91:考える名無しさん
18/11/23 13:28:44.39 0.net
608 :考える名無しさん:2012/03/09(金) 08:29:50.78 0
この世界、自然、そして運命は、人間個人の尊厳など一切考慮せず、
それを押し潰していく。伝統宗教はそれを受け入れる心の準備をするためのもの。
スピリチュアルは、人間個人の尊厳こそ至高のものであり、それを守るための
努力を諦めるなという。そしてたとえ負けた場合でも、それは仮のものであり
生まれ変わりでもなんでも可能。なぜなら、人間個人の尊厳こそ至高だから、
それを保証するものは何でも存在するって考え。また人間個人の尊厳は、周りの人々との
調和がなければ成り立たないから、それも重視する。ただし、人間個人の尊厳を確立するための
周囲との調和であって、それを一切無視したものは受け入れない。
それに対して伝統宗教は、人間個人の尊厳を一切無視した運命を受け入れる準備をするための教え。

92:考える名無しさん
18/11/24 19:43:39.14 0.net
177 :考える名無しさん:2012/07/11(水) 06:58:30.49 0
いじめっていうのは、パープルとレッドの世界だよ。
理屈が通らず、印象的呪術的に物事が動く。その中で強いものが君臨する。
原始的呪術的なパープルの海の中からレッドが君臨するんだよ。それがいじめの世界。
178 :考える名無しさん:2012/07/11(水) 07:39:20.44 0
レッドを抑えるには、ブルーの規律が必要。
オレンジやグリーンは、パープルやレッドに直接には対峙出来ない。
日本は今、ブルー的な規律が不在になってる。
この部分をなんとかしないと、いじめに対処できない。
そのために、イエロー的な視野からのブルーの再構築が必要だと思う。
小中学校の教師は特に、ブルー的な価値観が必要。
高校大学からオレンジ、グリーンへと導くべき。

93:考える名無しさん
18/11/24 19:44:35.71 0.net
186 :考える名無しさん:2012/07/12(木) 06:53:45.59 0
オレンジが主流の現代社会では、子供たちにはとりあえず
ブルーの素養までは身につけさせないといけないと思う。
ブルーの素養があれば、たとえオレンジに対して反発したり抑圧を受けたりであっても
社会とまともな接点が持てる。そこから社会に参加し、影響を受けたり影響を与えたりできる。
これがパープルやレッドに留まると、社会とまともな接点が持てなくなる。
そうすると、社会から脱落したり犯罪者になったりする。
だから、初等教育においてはブルー的な規律を身につけさせることを
まず目標にしないといけない。
187 :考える名無しさん:2012/07/12(木) 09:53:41.94 0
江戸時代においては、支配階級がブルーであり、
庶民はパープルやレッドであっても、ブルーから抑圧されたり指導されたりという
直接的な関与を受けることが出来た。だから、江戸時代では庶民はパープルやレッドでも社会参加できた。
ところが、現代社会では、支配階級のオレンジがパープルやレッドに対して直接関与する術を知らない。
だからオレンジは、パープルやレッドを法律の枠内であれば完全放置する。
こうなると、パープルやレッドは社会に参加できなくなる。
いじめ問題もこの放置から来てる。ブルーはパープルやレッドに対処し指導できるけど、オレンジには
それが出来ない。
このために、初等教育においてはブルー的な人員を配置して、パープルやレッドを指導し
ブルー的な素養をすべての子供に身につけなせないといけない。
それが江戸時代と現代の違いだと思う。

94:考える名無しさん
18/11/24 19:45:15.64 0.net
189 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 08:04:54.97 0
スパイラルダイナミクス関連のリンク
URLリンク(blog.livedoor.jp)
URLリンク(www.geocities.jp)
URLリンク(www.geocities.jp)
URLリンク(blog.livedoor.jp)
ベージュ→パープル→レッド→ブルー→オレンジ→グリーン
これが第1階層
イエロー→ターコイズ
これが第2階層
基本的にブルーやグリーンなどの寒色系は、エゴは環境に従属すべきと考え
レッドやオレンジなどの暖色系は、エゴが環境を管理すべきと考える。
各階層の最初のベージュとイエローはエゴと環境が統合されている。
パープルは、呪術的。エゴと環境はまだ未分化。
レッドは、強さこそ正義。環境からのエゴの独立。戦国時代。
ブルーは規律を重んじる。武士道、キリスト教、儒教など。
オレンジは自由を重視。資本主義と民主主義。
グリーンは多様性を重視。ポストモダン。

95:考える名無しさん
18/11/24 19:46:46.53 0.net
191 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 08:37:12.52 0
なぜ、イエローで次の階層になるのかというと、
イエローは第1階層のすべての色の意義と重要性を理解しているから。
第1階層を俯瞰的に捉え、それぞれの色の長所と欠点を理解し、構造全体にとって各色が不可欠であることを
理解しているから。このために、次の階層に置かれることになる。
また、イエローではエゴと環境が統合されるけれど、イエロー自体は暖色系でありエゴの力により序列化を行い
それを進化の力とする。

96:考える名無しさん
18/11/24 19:48:29.51 0.net
197 :考える名無しさん:2012/07/13(金) 16:48:04.95 0
とにかく、いじめ問題は酷すぎる。
オレンジ的な手法やグリーン的な手法はいじめにはまったく効かないどころか
かえって逆効果。
ブルーの規律を学校現場に導入しないと、どうにもならない。
レッドとパープルからなる原始的な力と論理のない感覚の世界がいじめであり
これを指導するにはどうしてもブルーの規律を学校現場に導入しないとダメ。
オレンジやグリーンにはまったく手に負えない世界だよ。

97:考える名無しさん
18/11/24 19:50:56.82 0.net
スパイラルダイナミクスを理解してもらうには学校のいじめ問題が一番わかりやすい感じだな
また、これはアメリカや中南米のギャング集団なんかに当てはめてもわかりやすい

98:考える名無しさん
18/11/24 19:55:16.16 0.net
218 :考える名無しさん:2012/07/14(土) 07:57:39.89 0
なぜかというと、近代理念というのは、それ以前に確立していた
規律を前提として生まれてきたものだから。
その規律がなくなってしまうと、近代理念が生まれた前提がなくなってしまうことになる。
そうなると、近代理念の存在理由自体が怪しいものになる。
かといって、規律が確立する前の状態に戻れば、それは混沌とした
戦国時代のようなものであり、はっきりいって酷い世界。
近代理念を活かすには、それが成り立つ前提となった規律を身につけないといけない
ってことだと思う。

99:考える名無しさん
18/11/24 20:26:43.27 0.net
229 :考える名無しさん:2012/07/15(日) 10:43:54.40 0
>>224
未分化なエゴを持つパープルの集団に強いエゴを持つレッドが君臨する構図だね。
昭和40年代ぐらいまでは、学校に強い規律が存在したので
こうした集団をうまく指導できたんだが、その規律が薄れてしまい
オレンジやグリーン的な指導が学校で行われるようになると、パープルとレッドを直接指導できなくなって
しまった。それで生徒間の関係が原始状態に逆戻りしてる。
とても文明社会とは言えない。学校に規律を取り戻さないと、オレンジ的(民主的)教育をする基盤がないよ。
それ以前の原始状態だから。
230 :考える名無しさん:2012/07/15(日) 10:49:51.40 0
強い規律を持つ人々に民主教育をするから意味があるのであって、
原始状態にある人々に民主教育などまったく意味がない。
歴史的にも、強い規律を持つ人々が民主主義を選択したわけで、
原始状態の人々が選択すべきなのは強い規律だよ。
歴史はまさにその通りに経過してきたわけだし。

100:考える名無しさん
18/11/24 20:32:34.50 0.net
264 :考える名無しさん:2012/07/28(土) 16:21:54.83 0
要するに、グリーン的な間違いに陥ってるんだよ。
平坦な多様性を認めても、問題は何も解決しないどころか
却って悪化する。いじめられる多様性やいじめる多様性も認めろよとなるだけ。
そこに問題があるわけじゃない。むしろ逆。
ブルー的な規律が必要であるのに、それを排除しようとしてる。
それは、グリーンのみの価値観があればいいと考えるグリーンの欠点。
イエロー的視点で、すべての段階の価値観が必要であると認めれば、現状の学校に不足しているのは
ブルー的な規律だとすぐに分かる。
尾木ママのようなマイノリティ的立場の人は、自身への迫害を恐れるあまり、
多様性を重視するグリーン的価値観の人が多いが、
そこからさらに進んで人間の歴史においてたどってきた各段階の必要性にも目を向けないといけない。
同時代の横軸の多様性だけでなく、歴史あるいは成長の縦軸の多様性を認めないといけない。
そしてその上で、社会を良くしていくという視点を忘れてはならない。

101:考える名無しさん
18/11/24 20:48:12.53 0.net
996 :考える名無しさん:2012/09/13(木) 07:00:11.59 0
腐りかけが一番おいしいんだよな。
特に、封建社会から近代社会への移行期は
民衆の忠誠心が封建支配層からアカデミックエリートに振り替わった時期だから、
アカデミックエリートにとってみれば神になった気分を味わえた。
アカデミックエリートにとっては、戦前のような移行期はあこがれの対象なんだよ。
997 :考える名無しさん:2012/09/13(木) 07:47:35.68 0
封建期から近代への移行期は、民衆はまだ自我に目覚めておらず、
その一方で知識人は自我に十分に目覚めていた。
これは、気持ち良いよ。今みたいにみんなが自我に目覚めてしまっては不快そのものだけど、
民衆は素朴で信心深く、言ってみればうざい存在ではない。
その一方で自身は自我に十分に目覚め、民衆の思いもよらないいろいろなことに思索を巡らす。
まあ、神になった気分になると思うわ。

102:考える名無しさん
18/11/24 21:04:38.04 0.net
558 :考える名無しさん:2012/10/11(木) 22:06:16.67 0
もし遺伝子を自由に操作できるのであれば、
人類の夢であるヒューマニズムは完遂できるようになると思う。
ヒューマニズムがうまくいかなかったのは、人が人の属性を自由に決定できなかったことが原因だから。
だから、自然淘汰の仕組みに頼るしかなかった。これによって人は超越する存在にすがるしかしょうがなかった。
それは人の立ち位置が動物と同じであり、発達した大脳を持つ人にとってはその立ち位置を
納得するために超越した存在を架橋して自由な大脳の働きに制限を掛けるしかなかった。
そうした人にとってある意味残酷な制約が、遺伝子操作技術によって不要になる。
山中教授のIPS細胞の技術は、アインシュタイン以上に歴史に名が残る、科学技術分野だけに留まらない
哲学思想分野にまで影響を与える千年に一度の大発見だよ。

103:考える名無しさん
18/11/24 21:06:53.90 0.net
569 :考える名無しさん:2012/10/15(月) 18:56:56.52 0
文芸作品というものは、基本的にヒューマニズムを描かなければまともな話にならない。
このヒューマニズムを描くうえで非常に都合の良い時代がある。
それは19世紀の後半から20世紀の初頭。
この時代は、人々の伝統的な信仰心が科学文明への崇拝に変わっていく過渡期で
ヒューマニズムを描くうえで非常に都合が良い。
映画で言えば、タイタニックなどはこうした時代背景がまさに神がかり的にマッチしていて
まさに映画史上最高の名作といえる出来になっていると思う。
また、今年のアカデミー作品賞とその候補となった3作はすべてこの時代を描いているもので
それぞれ自然にヒューマニズムを描くことに成功している。今後面白いと思える映画作品は
この時代を描くものが多くなるかもしれない。
日本の西洋崇拝のモデルとなっているのもこの時代で
まさに古き良き西洋文明の円熟期とも言えるのかもしれない。
宮崎駿のアニメなんかもこの時代を念頭に置いた雰囲気のものが多いと思う。
今年のアカデミー作品賞の候補になった「ヒューゴの不思議な発明」は、宮崎アニメ的な雰囲気
が多分にあって、この時代を描く作品は、ヒューマニズムを求める人々の琴線に触れるものがある
と思う。

104:考える名無しさん
18/11/24 21:10:29.96 0.net
573 :考える名無しさん:2012/10/15(月) 21:37:47.44 0
ヒューマニズムを描くには、超越性がないといけないんだと思う。
それが伝統的な神であるなら、19世紀や20世紀初頭は良い舞台になるし
現代でも超自然的霊的な現象などを導入することでそれに成功することがある。
村上春樹なんかのポストモダン派的な小説では、こうした霊現象をうまく使って
ヒューマニズムに必要な超越性をうまく導入してたりするね。
575 :考える名無しさん:2012/10/15(月) 22:02:59.32 0
もともとヒューマニズムというものは超越性を廃したいという人々の願いでもある。
その願いは、まさに超越性が存在するからこそ成り立つもので、超越性がなくなってしまえば、
ヒューマニズムも消えてしまうのは当たり前なのかもしれない。
イデアは超越性があるからこそ存在するもので、超越性がなくなれば消えてしまう。
そうなると、人々はニヒリズムに怯えることになるね。

105:考える名無しさん
18/11/25 20:41:55.00 0.net
とりあえずスパイラルダイナミクスまで出てきたね
ここでは、いじめ問題を例に取っているけど
これは、先に述べたように市場による合理の解決と軍事による合理の衝突の解決
についてもうまく説明できる
つまり、まずオレンジによる解決が試みられ、それで無理な場合にレッドによる
解決が試みられる
エゴとエゴの衝突だから、エゴが前に出る暖色系の解決策になる

106:考える名無しさん
18/11/25 20:44:15.49 0.net
要するに、勝てば官軍ってことですね
このために、まず市場が戦場になり、それで解決出来ない場合に実際の戦闘が行われる
これが、現代の世界の秩序維持の仕組みです

107:考える名無しさん
18/11/27 10:36:11.69 0.net
>>105
>これは、先に述べたように市場による合理の解決と軍事による合理の衝突の解決

>これは、先に述べたように市場による合理の衝突の解決と軍事による合理の衝突の解決

108:考える名無しさん
18/12/02 15:56:40.94 0.net
109 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 10:19:25.35 0
なぜ論理的に解決できない矛盾が人間の根本に存在するのか?
それは、この宇宙に人間が存在すること自体に矛盾があるから。
この宇宙を認識すること自体が矛盾ある行為なんだ。宇宙というものは元来そういうものではない。
宇宙は認識してはいけないんだ。宇宙を認識することで、宇宙の状態が固定される。
認識者がいて初めて、この世界は固定される。でもそれは矛盾ある行為なんだ。
なぜなら、それは認識者自身を自己否定することになるから。宇宙というものは、そういうものだ。
宇宙は時間も空間もなく不定常にあることが元来の姿であり、それこそが安定した状態なんだ。
宇宙の認識者はある時点空間での宇宙を固定化させてしまう。でもそれは、認識者に悲劇をもたらすだけなんだ。
宇宙はそういう状態では安定しないから。
これこそ仏教の世界観であり、またキリスト教が原罪と言ってるものでもある。
元来は知恵の実を食べてはいけないんだよ。
それでも、知恵の実を食べてしまった人間でも、この世界を信頼しないといけない。その解決策としては、超越性の向こうにある
何かを信仰することしかないんだろうと思う。
そして、それは人間性の源泉として理性の自立性と調和するものでなければならない。この難しい問題を解決することこそ
本来の哲学の役割だと思う。

109:考える名無しさん
18/12/02 15:58:15.52 0.net
111 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 11:07:57.49 0
そして、超越性の向こうにある何かとは何ってことになると思うけれど、
これは人間がこの世界を信頼するために行うものであるから、それを可能にしてくれる神聖な何か、
人間がこの世界を信頼するために信じるべきものってことになると思う。
それこそが、イデアあるいはイデアの源泉となる神ってことなんだろうと思う。
それは、人間の理性がこの世界にあるべきと思うものであり、それがあることで
人間の理性はこの世界を信頼に足るものであるとみなすためことができる。
それがないとき、人間はこの世界を信頼できなくなり、ニヒリズムへと墜ちることになる。

110:考える名無しさん
18/12/02 15:59:26.46 0.net
112 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 11:12:21.35 0
つまり、信仰とは理性が導くものなんだね。
本当にスコラ哲学の後をたどる感じになるけど。
113 :考える名無しさん:2012/12/05(水) 11:24:24.58 0
そう考えると、仏教は人にとって超越性が必要である理由を理論化したのに対して(色即是空)
キリスト教は、その超越性に対する人間性のあり方を理論化した(空即是色)ものといえるね。
超越性が必要である理由については、キリスト教は原罪の一言で片付けるけど、仏教は膨大な
理論を残している。
逆に、超越性に対する人間のあり方については、仏教では親鸞の結論に至ったところまでだけれど
キリスト教では信仰と人間性の源泉である理性の関係について膨大な理論を残している。
こう考えると面白いね。

111:考える名無しさん
18/12/02 16:45:47.42 0.net
402 :考える名無しさん:2013/02/19(火) 18:28:12.83 0
遺伝子工学は人類を救うよ。
今のままだと、あまりにも残酷だから。
すべての運命を受け入れるのが当たり前と思えなくなった人間にとって
今の状況はあまりにも残酷だよ。遺伝子工学の発達がないと
結局人間は動物と同じ扱いになってしまう。運命によって、つまり遺伝子によってほぼ人の生きる道は決まる。
それがヒューマニズムの行く手をさえぎった一番大きな要因だから。
遺伝子工学によって思想は大きく変わる。
まず保守思想の人間は変わらないという前提が遺伝子工学によって崩れる。
これによって、思想の潮流は再びヒューマニズム側に大きく振れると思われるよ。

112:考える名無しさん
18/12/02 18:22:05.16 0.net
109 :考える名無しさん:2013/04/27(土) 19:45:59.15 0
フェアであるからこそ、超越性の重要さに気づくんだと思うよ。
生まれ持った能力というものは、結局自分ではどうにもならない。
そして、その能力によってフェアに結果が決まるのであれば、その結果は
結局は超越性がもたらすものとしか言いようがない。
ところが、アンフェアであるなら、そこにたどりつく前に人間の悪意が視野に入るわけで
それは結局争いに種にしかならない。そして、悪意というものは人間の意思が介在する要素が非常に大きい。
天賦の才能は超越性がもたらすものであり、人間の意思では制御できないけれど、悪意の狡猾さは人間の意思で制御できる。
超越性が争いをもたらすというより、その手前の人間の悪意が
争いをもたらしているんだと思う。

113:考える名無しさん
18/12/02 18:24:50.53 0.net
114 :考える名無しさん:2013/04/27(土) 20:47:57.45 0
超越性とは、欧米人にとっては神の意志だけど
日本人にとっては絶望なのかもな。
ここの部分は辛いね。
ヒューマニズムにどっぷり浸かってるように見える欧米人が、その根本で
神の超越性を受け入れているのであれば、絶望を避けられる。
日本人が欧米人の表層のヒューマニズムを心底まで受け入れてしまうと、
絶望は避けられないということになってしまう。
116 :考える名無しさん:2013/04/27(土) 21:07:05.33 0
欧米人の意識の二重構造にだまされてたのかもな。
昔の日本人には日本人なりの超越性の意識の仕方があったんだが、
欧米人のように表層のヒューマニズムと深層の超越性の意識をはっきり分け持ってる
人々とは思考回路が全く違ったんだと思う。そこで、深層の超越性の意識については全く気がつきもしないで
表層のヒューマニズムだけに影響されてしまった。
今の日本人の絶望はこの部分にあるのかもしれないと思う。
まあ、今でもこの表層のヒューマニズムに影響を受けていない日本人は、昔ながらの超越性への意識を
持ってる人も多々居るのかもしれないけどね。
その辺のことが今の思想界の潮流の根底にあるような気がする。

114:考える名無しさん
18/12/02 18:26:23.94 0.net
126 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 05:27:20.85 P
表層のヒューマニズムと深層の超越性への意識というものこそ
資本主義精神の核なのかもな。それで、資本主義の考え方そのものが理解できる気がする。
表層に超越性を持つのであれば、何らかの神権政治になる。
ここの部分が日本人にとって資本主義精神を理解しにくい根本だと思う。

115:考える名無しさん
18/12/02 18:29:52.44 0.net
133 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 06:39:32.70 P
つまり、フェアで正直で努力することこそ、天賦の才能を発揮させることであり
それこそが神の意志に沿うってことか・・
欧米では長々とこういう神学論争をやってたわけだ。
それは無駄というわけでもないよ。というより有益だったかも。
136 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 07:05:27.09 P
天賦の才能という超越的な要素で最終的な結果が決まるのであれば、
それを神聖なものとして扱わないと、健全な社会を維持できない。
何しろ、公正さの概念やら努力やら人間が大きなエネルギーをかけて
取り組むことの目的がそれなんだから、それが神聖でないとするなら、世の中は荒廃してしまう。
それこそが資本主義の倫理ってことになるんだろう思う。
資本主義と神の関係というものには、一定の合理性があるように思う。

116:考える名無しさん
18/12/02 18:31:08.34 0.net
141 :考える名無しさん:2013/04/28(日) 07:26:40.97 P
わかりやすい例を挙げると、整形手術というものに人はある種の抵抗、不正感を感じるでしょ。
それはなぜかというと、天賦の容姿によらないで、人の意思の介在した容姿によって
資本主義社会でメリットを受けようとする行為が整形なわけだから、そこに不公正感を感じてしまう。
天賦の容姿は神聖であって、その神聖なものによって決まる結果だからこそ尊重されるんで
人為的な整形によって得られた結果には不公正感がつきまとう。
この部分は、すごく深い思想的な背景があると思う。
この部分の掘り下げが日本の思想界ではまったく足りてないよ。

117:考える名無しさん
18/12/02 18:33:36.80 0.net
178 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 10:51:54.56 0
フェアという概念は超越性と密接に結びついてる。
超越性を持たないなら、フェアという概念は成り立たないのかもしれない。
いや、超越性を持たないならフェアという概念は結果の平等というヒューマニズムになる。
つまり、超越性がないならフェアという概念はヒューマニズムになる。
まあさんざん言われてる結論になってしまうけど。
179 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 11:01:58.48 0
つまり、ヒューマニズムでは人間が最も崇高な存在と最終的には考える。
人間は一人一人が神である。その神に対して、あの神よりこの神の方がえらいなどと言えるだろうか?
すべての神は平等にえらいのである。したがって、結果の平等が求められる。
それに対して、人間を超越する崇高なものを想定するのであれば、
その最も崇高なものを基準として、人間の価値の高低をフェアにつけることができる。
これが機会の平等ってことになると思う。

118:考える名無しさん
18/12/02 18:34:54.03 0.net
180 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 11:13:33.34 0
要するに、資本主義というものは、超越性がなければフェアには機能しない。
それを無理に不正に機能させるか、フェアにこだわるのであれば結果の平等という社会主義化するしかなくなる。
つまり、資本主義がフェアであるためには超越性が必要であり、
超越性がないのであればフェアであることを諦めるか、資本主義を諦めるかどちらかになる。
これが今の日本の現状そのものだと思う。
181 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 11:27:07.73 0
そう考えるなら、フェアな資本主義というものは、超越性を持たない
日本人にはまったく理解不能ということになる。超越性を持たない人にとっては
資本主義は常に不正であり、フェアであるのは社会主義であって、妥協の産物として
資本主義を選択しているということになる。

119:考える名無しさん
18/12/02 18:51:53.71 0.net
188 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 21:19:15.60 0
独立価値というより超越価値と言った方がいいかもね。
超越価値と従属価値の方がわかりやすい。
189 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 21:32:56.89 0
確か、内在的価値と独立価値が比類されてたように思うけど、
内在的価値と超越的価値って対義語に近いと思う。
従属価値と道具的価値はほぼイコールのように思うけど、
内在的価値と超越的価値が対義語であるなら、それぞれが対義語を構成する3つの言葉(内在的価値、超越的価値、道具的価値)
が存在することになるよ。これはどこか言葉の定義におかしなところがあることになる。
3つの言葉がそれぞれ対義語になるということはないはず。どこかで定義が重なってる。
となると、おそらく内在的価値と超越的価値に重なりがあるってことになる。この両者と道具的価値の区別は明らかだから。
それでも内在的価値と超越的価値は対比的であるように感じる。
この部分は思想的に重要な気がする。
191 :考える名無しさん:2013/04/29(月) 21:46:42.16 0
内在してるのに超越してるっていうのは、神学的に重要な概念なのでは?
この辺にわかる人がいそうだけど。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


120:考える名無しさん
18/12/02 18:55:29.39 0.net
217 :考える名無しさん:2013/05/01(水) 07:44:14.49 0
内在的価値⇔道具的価値
これは哲学界で実際に使われてるからいいよね。
独立価値⇔従属価値
これも語義も意味も対義になってる。
超越的価値の対義語は、普通に考えるとどうも内在的価値になってしまう気が・・・。
視点によって、対義語にもなり、同義語にもなるのは
思想的に何かの意味があると思う。
219 :考える名無しさん:2013/05/01(水) 08:17:35.61 0
視点を変えたときに二つの言葉が同義にもなるし、対義にもなるというのは
あり得ることだよ。だから、その視点がどういうものであるかというのが
思想的意味ってことになると思う。

121:考える名無しさん
18/12/02 18:59:04.79 0.net
238 :考える名無しさん:2013/05/01(水) 11:31:41.77 0
京都大学の児玉聡氏のホームページにはこうあるよ。
あるものが内在的価値を持つとは、それ自体に価値があることである。
自体的価値などとも呼ばれる。 対義語は、道具的価値(手段的価値 instrumental value)で、
道具的価値を持つものは、 なにか別の目的を達成するための手段として価値があるということである。
たとえば、薬が価値があるのは、 「健康のために役立つ」からであり、
したがって薬の価値は道具的である。 それに対し、健康はそれ自体として
重宝される場合があり、 その意味では健康は内在的価値を持つ。
またたとえば、 カントやアクィナスは、 動物を虐待すべきではないと考えたが、
それは動物を虐待する人は、 人間に対しても冷酷になり、人間(や神)に
対する義務を果たすことが できなくなると考えたからであった。
この場合、 動物は手段として重要なのであり、それ自体として価値があるわけではない。
それゆえ、カントやアクィナスは動物に道具的価値を認めたが、 内在的価値は認めなかったことになる。
しかし、あるものが内在的価値を持つのか、道具的価値を持つのかは、
人によって異なる場合がある。 たとえば、「健康であることはお金をもうけるための
条件にすぎない」 と考える人にとっては、健康は道具的価値しかもたないといえる。
また、そういう人は、お金を道具的価値と考えているかもしれないし、
あるいはそれ自体で価値があると考えているかもしれない。
(守銭奴は、お金という本来は道具的価値しか持たないはずのものを、
内在的価値を持つものと考える例としてよく挙げられる)
また、知識や自由や平等、民主主義が内在的価値を持つのか、
あるいは道具的価値しか持たないのか、 というのはよく議論になるテーマの一つである。
URLリンク(plaza.umin.ac.jp)

122:考える名無しさん
18/12/02 19:02:17.39 0.net
264 :考える名無しさん:2013/05/02(木) 19:34:23.20 0
結局、知性を持った生物であると言うこと自体がこの宇宙の仕組みと
矛盾しているからこそ、超越性が必要になる。
人間ももともと宇宙の一部じゃないかと思うかもしれないが(これが汎神論だろう)
知性を持った人間は宇宙と矛盾する存在であって、宇宙の一部であって一部ではない。
仏教はこの本質に一番近づいていると思う。ただ、それに対して人間がどうすべきかとなるとキリスト教の方が
理解が深いのかもしれない。キリスト教の解答は、内在と超越であり、その意味するところは
人間への愛ということになるんだろう。矛盾した罪深い存在してはいけないものに対してすら愛が存在する。
これが仏教の空即是色に相当するんだと思う。そのことがあるからこそ人間はこの世界を信頼できる、
また信頼しなければならない。そういうことだと思う。
265 :考える名無しさん:2013/05/02(木) 20:42:15.64 0
内在しつつ超越するということは、要するに
色即是空、空即是色ってことでしょ。
内在が色、超越が空。
内在的価値と超越的価値は同じであり、それは色即是空・空即是色であり、
内在しつつ超越するということ。
そして色即是空を理解するために必要なのは論理であり、空即是色を理解するために必要なのは慈悲(愛)ってこと。
要するに、内在的価値を超越的価値として理解するのは論理であり、
超越的価値を内在的価値として理解するのは慈悲(愛)ってことです。
これが一連の議論の解答だと思う。

123:考える名無しさん
18/12/02 19:07:05.09 0.net
277 :考える名無しさん:2013/05/03(金) 06:51:48.96 0
キリスト教が一神教である理由がわかったよ。
超越的価値を内在的価値とみなすには、愛と信頼が必要なんだけど
それには愛と信頼を与える対象が必要なんだ。それがいろいろ存在してしまうと
愛と信頼は得られず、内在的価値を信頼しきれない。そういうことだと思う。
出口の部分だね。仏教が出口の部分が混乱しているのは、この愛と信頼を与え切れていないからだと思う。

124:考える名無しさん
18/12/02 19:09:23.28 0.net
284 :考える名無しさん:2013/05/03(金) 18:08:37.78 0
親鸞の悪人正機というのは、空即是色・慈悲に当たる部分だけど
あまりにも未熟すぎる。それでも、仏教ではこの結論に至るしかないのかもしれない。
まず、色即是空が自然の摂理とそのまま主張してしまうのはしょうがないのかもしれないが
空即是色が観音菩薩の慈悲としてしまうと、色即是空と空即是色の動因が分かれてしまう。
これでは、空即是色の慈悲が非常に厳しいものであるという部分にならない。
色即是空をもたらす存在が、空即是色の慈悲をもたらすことで、その空即是色の慈悲は非常に厳しいものになる。
それと同時に愛と信頼の有り難さが伝わることになる。
これがないから仏教ではすべての人が救われるという慈悲になってしまった。
この原因は色即是空の主体と空即是色の主体が分かれているために、空即是色の慈悲をもたらす主体が
無条件の慈悲を持つものと解釈するしかなくなってしまうことだと思う。

125:考える名無しさん
18/12/02 19:11:09.98 0.net
289 :考える名無しさん:2013/05/03(金) 20:55:28.54 0
元々、近代の秩序は西洋人が作り上げたわけだから
彼らの精神のあり方が近代を生きる上で一番適応してるんだと思うよ。
特に、表層のヒューマニズムと深層の信仰は、この今のある意味狂った世界を生きるのに
よく適合するように思う。
かといって、他の人々が世界をリードして文明を作っていたらこれほどよくできた文明には
絶対ならないだろうというのも確かではあるわけだけど。そういう意味でキリスト教は
欠点がないわけではないけど、特に世界の厳しさを知りながら世界を信頼するという
宗教にとって最も大事な役割を十分に果たしている唯一の宗教ではあると思う。

126:考える名無しさん
18/12/02 19:20:10.45 0.net
297 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 09:08:24.91 0
内在的価値と超越的価値が仏教の色と空に対応するということで
すべての謎が解けてしまったね。
内在的価値なんてないんだと仏教はさんざん言うんだけど、
かといってニヒリズムを主張しているわけではない。空というのは超越的価値のことだ。
そして空を導き出す縁起論では道具的価値を併用して、内在的価値が存在しないことを証明している。
なぜ空が超越であるかというと、空とは縁起の無限連鎖であり、その無限連鎖こそが超越性そのものであるということ。
そして仏とは空と一体化した存在であり、それは要するに仏とは縁起の無限連鎖と一体化した超越的存在である。
いや、空が言いたいのは超越そのものであって(なぜ縁起の無限連鎖を考えるのかというと、それこそ超越性の根本だから。
縁起の無限連鎖は宇宙の摂理であり、それこそ超越性の本質だから)、その仏こそ尊いのだと言うことは
要するには尊いものは超越性の向こうにあるということだと思う。これはイデア論そのものということになる。
298 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 09:33:17.44 0
なので、色即是空とは
内在的価値とは超越的価値であるという主張であって
空即是色とは
超越的価値とは内在的価値であるという主張ということになる。
超越的価値を内在的価値と見なすには、この世界に対する信頼が必要になる。
それこそが慈悲であり愛であり、また禅などの修行にもその要素があるのかもしれない。

127:考える名無しさん
18/12/02 19:23:55.80 0.net
301 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 13:16:01.71 0
内在的価値がないというのはわかるんだが
超越的価値というのは何なんだろ?
超越とは神の意志であり、それは縁起の無限連鎖であるってことでしょ。
そこに価値がある。縁起の無限連鎖の末に獲得する価値。それが超越的価値であり、
それは神の意志による価値。こういうことかな。
303 :考える名無しさん:2013/05/04(土) 13:36:45.22 0
超越的価値とは、縁起の無限連鎖の末に獲得する価値だね。
仏教って縁を大事にする。袖すり合うも多生の縁などと言って、縁によって獲得する価値があると考えるのが
仏教の本質だと思う。そして、その縁は無限に続く。それは神の意志と言って良い。
そうであるならば、その縁によって獲得したものに価値がないわけがない。なぜならそれは神の意志だから。
これが超越的価値。

128:考える名無しさん
18/12/02 19:51:05.28 0.net
445 :考える名無しさん:2013/05/29(水) 07:30:41.99 0
結局は、利益の分配に争いは必要かどうかってことになるんだろうな。
利益を分配するために争いが必要だとすれば、それは昔なら戦闘、今なら市場競争で決着しないと
いけない。また、利益を分配するために争いが必要のない世の中もいずれ訪れるかもしれない。
市場によって善悪が決まるというのは、昔ならば戦闘によって善悪が決まっていたことが
今は市場によって決まっていると言うことなんだろうと思う。勝てば官軍という言葉があるように
今は売れれば正義ということなんだろうね。
でも、善悪の概念というものは、歴史的にはそういう戦闘の勝者が作ってきたわけで
戦闘の勝者が善悪を決めるにしても、市場の勝者が善悪を決めるにしても、それは
伝統的な方法から外れてるわけではないんだよ。
446 :考える名無しさん:2013/05/29(水) 07:54:30.20 0
そう考えると、国家社会主義の一番の問題点は、
外国との利益分配で、市場競争を使えないってことだと思う。
利益分配に必ず争いが必要なんだとすれば、そして市場競争が使えないとすれば
残る利益分配のための手段は戦闘だけということになってしまう。
これが国家社会主義に戦争が常につきまとう理由なんだと思う。

129:考える名無しさん
18/12/02 19:52:34.71 0.net
453 :考える名無しさん:2013/05/29(水) 18:55:25.83 0
国家も最初に武力で統一したものがその国家の善となるわけだけどね。
まず、人々の価値観でもルールでも統一しなければ、共同体は生まれない。
その力となったのが武力。統一するということは、押しつけるということだから、力がいるんだよ。
そして価値観やルールを同じくする人々が国家を構成するようになった。
今は、この価値観やルールの統一化を武力ではなく、市場で行ってるってことだよ。
価値観やルールの押しつけには力がいるけど、現代ではそのために武力を使うことはできない。
その代替となっているのが市場。
利益の分配も同じ事だとおもう。利益を分配するには、ある種の押しつけが伴う。誰にとっても満足できる
分配方法はないわけだから。その押しつける力となっているのが、昔であれば武力であり、今であれば市場
って事だと思う。
日本の武士道のように、こうした力と道徳というものは密接に結びついてる。
だから武というものは神聖なものと捉えられるんだよ。それは道徳を押しつける力であるから。
その部分が現代では市場に変わったわけで、保守派が不満に思う部分の本質はそこなんだと思う。
道徳の源泉が武から商に変わることで、道徳の中身は大きく変わるからね。
このことが、市場が善を決めてるという意味だと思うよ。

130:考える名無しさん
18/12/02 20:08:29.19 0.net
605 :考える名無しさん:2013/06/15(土) 14:01:32.81 0
現代の本当の対立軸というのは、どうもコスモポリタニズム(個人主義)とコミュニタリアニズム(集団主義)みたいだね。
サンデル以降、このことがアメリカなんかでも意識されだしてきたようだ。
この本当の対立軸をうまく管理できるようになれば、人類の社会学的な経験値はだいぶ上がると思う。
それは、実際の社会に目に見える恩恵があるほどの影響があると思う。
コスモポリタニズム(個人主義)   コミュニタリアニズム(集団主義)
資本主義・国際社会主義          封建主義・国家社会主義
自由主義                    統制主義
これが本当の対立軸。そしてこの対立軸は人間の本質を分ける最も重要なものだと思う。
もちろん、両極端を選択する必要はないけど、双方の特性、利点、欠点の理解が進むことで
この対立軸をよりうまく管理できるようになり、その結果として人類の多くの問題が解決されることになる
んじゃなかと思う。これは、実際にはアメリカでの社会科学の進歩を持つしかないところが残念ではあるけど。
606 :考える名無しさん:2013/06/15(土) 16:09:28.64 0
よく考えると、2つの世界大戦と冷戦はすべてこの軸で行われてる。
             自由主義            統制主義
第一次世界大戦   連合国       同盟国(ハプスブルク-オスマン)
第二次世界大戦 連合国             枢軸国(国家社会主義)
冷戦           西側諸国           東側諸国(国家社会主義)
まあ今さらこの軸に気づくのも遅すぎるのかもな。
社会科学は、良い人材を自然科学に取られすぎてるからかやっぱり未発展だと思う。

131:考える名無しさん
18/12/02 20:49:03.81 0.net
909 :考える名無しさん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN 0
結局、問題になるのは超越に対する理性のあり方なんだと思う。
超越自体は、この宇宙の性質から必ず存在する。
その超越に対して、理性はいかにあるべきかというのが本当のテーマ。
それが哲学にとって最も重要な部分なんだよ。
だから、スコラ哲学の一見すると不毛な論理の積み重ねが
実は最も重要な作業であったということだと思う。
西洋人が他の人々よりも優位になったというのは、このスコラ派のおかげだと思う。
これによって、超越に対する理性のあり方というものをある程度定めることができた。
日本人には、この部分はほとんど手つかずで、それ故に日本の今のいろいろな問題が
生じてるとすら思う。

132:考える名無しさん
18/12/02 20:59:01.79 0.net
13 :考える名無しさん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN 0
市場は戦場だからね。
戦争というものは、革命よりもはるかに深く多くの伝統を喪失させる。
日本でも戦国時代で伝統が断絶したでしょ。
市場というのは、そういうバーチャルな戦場だよ。
本当の戦争の場合、被害があまりにも甚大になるので、たとえ数十年戦闘が続いても
その後長い間平和が続いたりする。それは、人々が戦争の悲惨さが骨身にしみてわかるから
争いを決して起こさないと決意するから。
ところがバーチャルな戦場である市場は甚大な被害が起きないので、常に戦闘状態であっても
誰も困らない。なので、薄い戦国時代が常に続いている状態になるんだよ。
戦国時代では、既成の秩序は失われ、新しい秩序が生まれる。
既成の伝統は失われ、新しい慣習が起こる。
それが、日々永遠に続くのが資本主義の市場だよ。常に下克上が起きる。
それは革命よりもはるかに強力なものだよ。
なので、本当に伝統を守ることが必要であるなら、資本主義は続けられないってことになるね。

133:考える名無しさん
18/12/02 21:02:36.29 0.net
62 :考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
>>60
日本人にとって超越それ自体はなじみ深いんだよ。
それは諦観みたいなものだからさ。
仏教と言ってることは同じだし。
ただ、超越を前にした理性の有り様がどうにもらない。
諦観を前にしても理性を働かせ続けるということができないから。
その辺が神を前にした理性のあり方を考えるというある意味とんでもな
学問を究めてきた西洋人は強いんだよ。

134:考える名無しさん
18/12/02 21:05:26.72 0.net
75 :考える名無しさん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN 0
逆に今の方が厳しい部分もあるんだよ。
戦前は素性がボロでも厳しい教育と社会がそれを矯正してくれた。
ところが今はそのままが良い教育なので、素性がボロだとボロのまま。
そしてたぶん、ボロのままだと生きていけないよね。
今の方が素性重視主義なんだよ。そのままで良いっていうのは、そういうこと。
そして、そっちのほうが厳しい部分も多い。
精神的には昔の方が厳しいだろうけど実態としては今もかなり厳しい。
でも戦前のやり方にも欠点はある。素性がボロの人間を無理矢理矯正して社会に適合させても
結局はそれなりであって、本当に良い人間にはならない。だから、外面はまともでも、
中身が腐ったような人間が野放しになる。中身が腐ってれば外面も腐る今の方が
社会全体としてはありがたいかもしれない。素性主義は、外面だけじゃなくて中身までの潔白さを求めるから
逆に偽物は通用しないってことでもあるね。
戦前のような素性を軽視する社会では外面まともでも内面が腐った人間が野放しで、そういう人間が要職についたりすると
社会は大損害を被ってしまう。

135:考える名無しさん
18/12/02 22:11:06.04 0.net
54 :考える名無しさん:2013/10/11(金) 13:28:58.44 0
この世界に超越が存在するのは明らかだけど
それで諦めちゃだめなんだよ。
それで諦めれば、猿が天皇でも良いでしょになってしまう。
信仰とは、理性が導くんだよ。
超越を認識する目的は、理性を健全に働かせるためであるということを忘れてはならない。
超越とは何かを理性で最後まで追求したトマスアクイナスの姿勢こそ、
現代人が今見習うべきものだと思う。

136:考える名無しさん
18/12/08 09:16:04.37 0.net
58 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 06:49:58.69 0
トマスアクイナス
全体的にみれば、トマスは、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、
哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、
神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。
人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。
しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、
理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられる
ことによって知性は成長し神を認識できるようになるが、
生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。
人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られるのである。

137:考える名無しさん
18/12/08 09:17:00.23 0.net
59 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 08:33:40.91 0
これはどういうことを意味してるかというと、
人間は死ぬことによって、宇宙と自身との矛盾が解消されるということだよ。
死ぬことによって、真に人間は宇宙と調和する。
理性は決して宇宙とは調和しない。それでも理性は、その活動を止めてはならない。
そういうこと。

138:考える名無しさん
18/12/08 09:18:27.54 0.net
61 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 14:52:50.32 0
宇宙論的証明
全ての事物や出来事には、必ず原因があり結果がある。これは原因とか結果の概念は何かを考えれば、必然的に妥当な命題である。
ところで、宇宙には、運動している物体がある。物体が運動するには、何か原因がなければならない。原因となった出来事が存在して、
初めてこの宇宙での物体の運動という出来事は説明される。そこで、原因となった出来事を考えると、この出来事にもまた原因がなければならない。
こうして考えると、出来事の「原因」の序列は、より根本的な原因へと遡行して行くことになる。しかし、この過程は「無限」ではないはずである。
宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限に遡行するというのはおかしい。それ故、一切の運動には、原初の根源原因があるはずであり、
出来事の因果は、この根源原因よりも先には遡らない。これこそ「神」であり、宇宙に運動があり、出来事があるということは、その根源原因である「神の存在」を自明的に証明している。
あるいは、神の世界創造を否定して、宇宙の時間は無限にあるなどという議論も可能かも知れない。原因は無限に遡行して、
根源の原因には辿り着かないという可能性である。しかし、我々の世界はそもそも「有限の世界」であり、宇宙が無限だというのなら、
そのような宇宙は、この世界に対し超越的であり、超自然である。もし無限の宇宙があるなら、それこそ神の存在の明証である。
このような論証を、「神の宇宙論的証明」と言う。
------------------------------------------------------
この後段のことを仏教は言ってるんだね

139:考える名無しさん
18/12/08 09:34:47.41 0.net
63 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 15:26:09.22 0
>>59
>理性は決して宇宙とは調和しない。
これがキリスト教でいう原罪であり、仏教でいう一切皆苦だね
64 :考える名無しさん:2013/10/12(土) 15:32:27.47 0
理性は宇宙と調和できなかったがゆえに「イデア」という概念を発明したんだよ。

140:考える名無しさん
18/12/08 09:40:50.51 0.net
130 :考える名無しさん:2013/10/23(水) 23:31:57.54 0
いや、初めから諦念を持ってきちゃ駄目だよ。
まず理性で詰めて行って、それから諦念を持ってこないと。
最初から諦念では、差別、自棄、怠惰、依怙贔屓、無気力、依存心、
負け犬根性、主体性の無さ、という不道徳なもので社会が溢れかえってしまうよ。
131 :考える名無しさん:2013/10/24(木) 09:57:00.10 0
きれいなもの、正しいものを追い求めるほど、そこから落ちこぼれる
人たちが出るんだよな。それはものすごく残酷なことなんだよ。
でも、それから逃げれば世の中不道徳のたまり場になってしまう。
この世の中は基本的に残酷なんだよ。まず、それを覚悟しないといけない。
人はきれいなもの正しいものを見つめることで、正しくいきることができる。
でもそれは残酷なんだ。それは生まれ持った生来の何かによって誰かを切り捨てることになる。
生きると言うこと自体が残酷であるわけだから、これはどうしようもないことなんだろうけどね。
132 :考える名無しさん:2013/10/24(木) 11:51:50.88 0
ポストモダンはそういう近代主義的考えからの逃げだったんだけど、
結局社会に不道徳を蔓延させただけだった。
世の中を常によくしていこう、進歩させていこうという考えから逃げたときに
世の中は不道徳と退廃にまみれてしまう。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


141:考える名無しさん
18/12/08 09:41:31.96 0.net
137 :考える名無しさん:2013/10/24(木) 13:46:27.50 0
理性によって理想を追うこと自体が残酷ってことでしょ。
それが理性とこの世界の矛盾であり、キリスト教の言う原罪ってことだよ。
そこに許しと愛がいるっていうのがキリスト教で、それはおおむね正しいと思う。

142:考える名無しさん
18/12/08 09:44:23.35 0.net
173 :考える名無しさん:2013/10/27(日) 23:16:34.90 0
情報化が進んでみんな生き方を大きく間違うことが少なくなった。
だから後天的な要因で逆転することが難しくなったんだよな。
ギフトされた要因の優位性がそのまま逆転されることなく最後まで行ってしまう。
人々の行動が最適化されるほど、先天的な資質による要因が大きくなる。
後天的な努力で逆転できるのは、相手が大きなミスをした時だけ。
こういうことも残酷なことの一つだよ。
174 :考える名無しさん:2013/10/28(月) 03:01:21.75 0
きみ、それらの考察を保守思想と直裁に結び付けて書いてみないか?
175 :考える名無しさん:2013/10/28(月) 06:06:51.93 0
こういう風に言えるんじゃない?
人々の行動が理性的になるほど、人々の行動が最適化されるほど
人間の意思、人間の意向よりも神の意志、神の意向が大きくなる。
人々が理性的になるほど、神の影響力が強くなる。
これはどういうことなんだろうね? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


143:考える名無しさん
18/12/08 09:45:40.46 0.net
176 :考える名無しさん:2013/10/28(月) 06:20:54.25 0
ポストモダンというのは、ヒューマニズムの最後の反撃だったのかもしれないな。
近代主義を否定し、人々を理性から遠ざければ、人々の行動の最適化が解消され
それによって逆説的に、神の意志よりも人々の意思の力の方が大きくなる。
ぶっちゃけ言ってしまえば、ぼんくらが増えれば、人の後天的な意思の力で逆転できる可能性が大きくなる。
でもその試みも(当然)失敗し、いよいよ人々の行動は理性によって最適化され、
人の意思よりも神の意志の影響がどんどん大きくなってる。

144:考える名無しさん
18/12/08 09:47:11.97 0.net
179 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 06:10:25.33 0
これさ、少なくとも超越性を神聖なものと見なさなければ
資本主義に耐えられないんじゃないの?
特に、今の日本はその部分にまさに突き当たってる感じがする。
超越性を神聖なものと見なさなければ、資本主義を公正なものと見なすことが出来ず、
公正さを希求するならば社会主義もしくは国家社会主義に行くしかなくなる。
180 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 06:15:00.47 0
天賦の才能に優れ、高い人格を持つ人を自分とは無関係な単なる幸運な人間と見なすのであれば、
そこにはもう嫉妬の感情しか生まれない。これに人間は耐えられない。
そして、足の引っ張り合いを始めてしまう。まさに今の日本でしょ。
天賦の才能に優れ、高い人格を持つ人を神から祝福された人と見なすことで初めて、その人の素直に成功を認める
ことができる。資本主義にはこれが不可欠だと思う。

145:考える名無しさん
18/12/08 09:48:44.03 0.net
181 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 12:55:51.07 0
>>180
どんな汚い手を使った成功者でも素直の祝福しろと?
182 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 13:44:45.02 0
汚い手というのは、人間がコントロールできるんだよ。
みんなが理性的になるほど、あるいはその行動が最適化されていくほど
「汚い手」は通用しなくなってくる。それは、人間の意思でコントロールできることが少なくなってくるってことでもある。
人々の行動が最適化されるほど、人間がコントロールできる「汚い手」で逆転できなくなってくるんだよ。
そして人間の意思でコントロール出来ることが少なくなるに伴って、神の意志がもたらす影響がどんどん大きくなる。
それは要するに、天賦の才能や運による偶然の影響が大きくなるってことだね。
183 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 13:49:35.78 0
天賦の才能で勝つことを「汚い手」とは言わない。
それに対して、人が自分なりの独自の手で勝つことを「汚い手」という。
これは要するに、神の意志に反する行動を「汚い」と言ってるんだよ。
勝つこと自体が「汚い」わけじゃない。神が与えてくれたもの以外に頼って勝つことを「汚い」といってるんだね。
これは考えてみたら、すごいことだよ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


146:考える名無しさん
18/12/08 09:50:20.66 0.net
184 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 14:05:28.66 0
>これは要するに、神の意志に反する行動を「汚い」と言ってるんだよ。
どこの誰が神の御意志を知り得ると言うのだろうか?
185 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 14:20:46.39 0
>>184
天賦の才能を、人間の悪知恵で打ち負かしたら、それが「汚い」ってことになるんだよ。
美人コンテストを整形で優勝するとかね。
天賦の才能のある新人を狡猾な小細工で潰すとか。
186 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 16:05:55.77 0
昔は、天賦の才能よりも運の要素の方が大きかった。
これも人間がコントロールできないものだね。
そして、世界が近代化され始めると、運の要素の影響力が少なくなってきた。
そこで人々は、人間がコントロールできる範囲が拡大することを期待した。
それは、確かにその通りになったが、今度は人々の行動の最適化が十分に進むと
天賦の才能という人間がコントロールできない要素の影響がまた大きくなってきた。
これが今までの流れだと思う。この流れに応じて、ヒューマニズムの影響が大きくなり、また小さくなってきた
んだと思う。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


147:考える名無しさん
18/12/08 09:52:31.33 0.net
191 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 17:15:54.82 O
「天賦の才能」 なんて、運そのものだろうがw
192 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 17:20:36.62 0
>>191
まあ運ではあるけど、その他の運の要素は近代化で影響が小さくなったのに対して
天賦の才能の影響は近代化で極端に大きくなったんだよ。
近代化・資本主義における公正という概念が、天賦の才能をより尊重することだったから、当然ではあるんだけどね。
193 :考える名無しさん:2013/10/29(火) 17:23:54.53 0
天賦の才能を尊重することがなぜ公正なのかというのも、よく考えると不思議ではあるんだけどね。
でも、これはキリスト教徒だけじゃなくて、日本人にとっても心の奥底から納得できるから
何かより深い普遍的な根拠があるんだとは思う。
それは生物にとって本能に組み込まれた「常識」なのかもしれないね。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


148:考える名無しさん
18/12/08 09:55:58.80 0.net
229 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 19:58:46.49 0
人間にとって反合理って非常に危険なものなんだよ。
それは、下手に使うと人類社会に致命的な打撃を与えることすらある。
といっても、この世界の性質から、反合理から人間は逃げられない。
人間はどうしても反合理と付き合っていかないといけない。
そのつきあい方を厳重に管理しようというのが、宗教なのかもしれないね。
それぞれが好き勝手に反合理を乱用するようになると、文明社会が崩壊してしまう。
これがポストモダンの危険性なんだと思う。
230 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 20:17:58.53 0
合理と反合理の均衡を伝統に取らせようというのかま保守
近代理性に取らせようというのが革新
保守、革新どちらにせよ、イデアという指針は必要だけどね
231 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 20:50:17.49 0
均衡とかじゃないよ。
基本的に、合理が圧倒するんだよ。それが文明社会。
それでも、最後に不合理がどうしても残る。
その不合理を前にして、血のにじむ思いで諦念することになる。
それは簡単なことじゃないよ。
合理と不合理の均衡とかそんな軽いものじゃないんだよ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27)


149:考える名無しさん
18/12/08 09:59:01.47 0.net
232 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 20:52:11.34 0
不合理が合理と均衡してもいいなら、
もう北斗の拳のような野蛮社会の到来だよ。
言葉の美しさだけを追うんじゃなくて、その内容もよく考えた方が良い。
233 :考える名無しさん:2013/10/31(木) 21:01:24.01 0
人間にとって避けられない最も重大な不合理は、死だよ。
死ほど不合理なものはない。人間の理性にとって、死を全く理解の範囲外にある。
そしてこれこそ、超越の本質だ。
人間にとって最も重大な不合理である死を宗教が扱うことになるのは、必然なんだと思う。

150:考える名無しさん
18/12/08 10:04:35.21 0.net
293 :考える名無しさん:2013/11/06(水) 07:53:17.56 0
美とは物理的な美だけじゃないんだよ。
武士道なんかも美のイデアを志向するものだしね。
美しさというものは、儚さ、そして死と隣り合わせと日本人は捉えてる。
それは、イデアの性質からして、正しいんだよ。
294 :考える名無しさん:2013/11/06(水) 07:57:08.14 0
そして、日本人は整形を嫌うでしょ。これも、外見的な美じゃなくて、
本質的な美、本当の美、つまり美のイデアを求めてるってことだと思う。
偽物では我慢できないんだよ。それは、神がもたらす美を求めてるってことでもある。
だから、儚さ、死と隣り合わせなんだ。桜が美しいのは、そこに儚さにあるから。永遠に桜の花が咲くのであれば
日本人はそこに関心を寄せない。なぜなら、それは作り物だから。美のイデアはこの世に存在しない。
それでもそれを求める以上、儚さと死がつきまとう。逆に、それがないものは偽物ということになる。

151:考える名無しさん
18/12/08 10:13:13.58 0.net
395 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 08:29:43.32 0
現代の一番の問題は、ヒューマニズムの限界がいよいよ露呈し、
それに対抗するための最後のヒューマニズムの試みであったポストモダンも明確に失敗に終わったということ。
これが一番の問題点。
このために、人々はヒューマニズムの限界としての超越・信仰に向き合うしかなくなりつつある。
これをしなければ、イデアを正しく取り扱えず、一方で万能感にどっぷり浸る人間、他方で無力・無気力に沈む人間に分かれてしまう。
396 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 10:02:51.67 0
世の中の最適化が進んで、合理を選択しても大きな差別化にならず
そのメリットが大きくなくなったときに、逆説的に合理に対する信頼が失われるんだよ。
ヒューマニズムとは、このいずれは解消される「歪み」に立脚していただけ。
合理を選択してもメリットが大きくなくなったときに、ポストモダンは合理の選択の価値を高めるために
多様化の名の下に非合理の再拡大を図ったけれど、それは犯罪的行為だよ。
良く言っても、悪あがきでしかない。
いずれこの「歪み」は解消される。
そうなったときに、人間は合理の追求の先にある超越性の壁に阻まれることになる。
これによって、楽天的なヒューマニズムは消え去り、神の采配の大きさに人間は再び気付くことになる。
これが本能的にわかっているから、真にヒューマニズムを信じている人は、合理の追求に恐怖を覚えるんだよ

152:考える名無しさん
18/12/08 10:16:41.80 0.net
397 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 10:27:52.47 0
このために、合理を追求するヒューマニズム信奉者がいた場合
その人は解消すべき非合理が存在しないと困ることになる。
そうした非合理が存在しなくなったときに、神の采配が非合理に邪魔されることなく、
人々の生活を大きく左右することになる。それは、公正な社会ではあるけれど、ヒューマニズム信奉者にとっては
絶望の世界ということになるね。
398 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 13:12:58.32 0
小学生のときは、良い走り方を覚えれば、他の子よりも速く走ることができるけれど
大人になるほど、走り方よりも先天的な運動能力の要因の方が大きくなる。
これは、それと似ている。みんなが不効率であるときは、効率的なやり方を覚えることで他に先んじることができる(これが自由)。
ところが、みんなが効率的になるほど、やり方を覚えるだけでは差がつかず、先天的な能力に左右されるようになる(これが不自由だね)。
みんなが非効率であればあるほど、自由は人が管理できる。
それに対して、みんなが効率的になるほど、自由を手にするのは神に選ばれた人だけになる。

153:考える名無しさん
18/12/08 10:18:57.87 0.net
400 :考える名無しさん:2013/11/17(日) 17:38:34.31 0
もしヒューマニズム信奉者の心の奥底の願望が、不合理の乱用による自由の獲得
にあったとしたら、それはとんでもなく卑怯な考えだと言わざるを得ない。
考えるに、不合理の乱用こそ、人間が自分の意思で物事を左右できる唯一の手段なんだと思う。
合理に従うのであれば、そこに人間の意思が介在する余地はない。不合理を乱用するからこそ、人間の意思が介在できる。
つまり、合理を追求することは、人間から自由を奪うことになるわけだよ。
このことを考えると、ものすごく大きな欺瞞が裏に隠れてる。
合理の追求が自我をなくすことになるのに対し、不合理の乱用が自我を肥大させる。
この当たり前のことが、大きな欺瞞の裏に隠されて、人間の自由というものが論じられていると思う。

154:考える名無しさん
18/12/08 10:23:34.77 0.net
409 :考える名無しさん:2013/11/18(月) 16:17:37.03 0
結局、中庸でいることが一番人間の選択肢を多く持てるってことだろ。
その、馬鹿な奴らがいた方が自分が楽だという動機が道義的にどうかという問題は残るけどねw
西部さんもそんな感じでしょ。自分のわがままが一番通りそうな道を本能的に嗅ぎつけてる。

411 :考える名無しさん:2013/11/18(月) 17:14:59.13 0
不合理に泣く人もある程度はいた方が良い。
天賦の才能を発揮できずに終わる人もある程度はいた方が良い。
才能があっても人為的な不合理のために貧困に終わる人がある程度はいた方が良い。
この理屈が果たして通るかな。中庸というきれいな言葉で通せるかな、この理屈が。

155:考える名無しさん
18/12/08 10:25:56.40 0.net
412 :考える名無しさん:2013/11/18(月) 18:07:04.96 0
人為的な不合理は許されないよ。それを許すと戦乱原始時代に逆戻り。
神から出た不合理だと人々が納得しなければ、その不合理を人々は許さない。
神がもたらした不合理についてのみ、人々は納得する。それ以外の人為的な不合理を人々は決して許さない。
こうして、人間は文明社会を築いてきたわけだから。
これを否定するのは、原始時代に逆戻りするポストモダンだよ。


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